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肯定の肯定 続き 高原さんへ

「肯定の肯定」がジョークであることはもちろんお分かりいただいていると思いますが。
「肯定」というだけの意味なのですが、冒頭にジョークを入れて強調したのです。
 質問です。
 <しかし、議論や民主主義には欠くべからざることであるので、とりあえず、今、自分が語ることの粒度(扱う話題の空間時間範囲、扱う属性。これを言うだけで意識していないことが分かるだろう)を意識し明確にしようと言っている>
 この文章の次の部分の意味がつかめません。
 <これを言うだけで意識していないことが分かるだろう>
 論理としてではなく、単純に日本語としての意味が分からないのです。

 コメント633も印刷しましたが、まだ読めていません。少しずつ、高原ワールドに触れつつあるところで、まだ当分とんちんかんなことを書くかもしれませんが、ご容赦ください。
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668:粒度再再説   高原利生 by 高原利生 on 2017/03/06 at 06:50:14 (コメント編集)

コメント668:「粒度再再説」by 高原利生 on 2017/03/06

 (本ブログの運用者、石崎さんから「噛み合わない議論」と題する次のようなブログが投稿された(2017年03月06日 )。全文を引用する。
 「コメント上で高原・植田両氏の議論が続いているが、はたから見ても噛み合っていない。なぜ噛み合わないかというと議論が抽象的だからである。議論対象が思考方法についてなのだ。思考方法というものは頭の中の問題で、各々別々だろう。むろん共通する部分もあるだろうが、それを見ている角度が違うし、それに与えている序列も違う。したがって名付け方も人それぞれで、言葉の意味するところがまったく違う。そういう場所でいくら議論しても噛み合うはずがない。
 具体的な我々の住むこの世界の、具体的な問題に引き戻してこなければ、議論というものは成り立つまい。
 だが、いま世界は混迷を深めていて、具体的な問題にどう対処すべきかというと戸惑うばかりなのだ。議論しようにもしようのない状況がある。
 おそらく、だから議論が抽象の世界にいってしまう。それはぼくには虚しく思える。
 現実世界との接点を手探りで探っていく、そういうことをぼくは求める。
 どこにも絶対的な解はない。希望の芽をどこにどういう条件付きでどの程度求めるか。そういう手探りなのだ。」

 他人の文に対して、名文であるという評と美文であるという評がある。今までの経験では、「名文」は必ず良い意味で使われ、「美文」は必ず皮肉を込めた特定の悪い意味で、しかも往々「美文癖」という言い方を伴って使われてきた記憶がある。
 昨日(2017年3月18日)情報処理学会全国大会IPSJ2017での20分の発表が終わった。話す内容を考えスライドを作っている間、石崎さんの「噛み合わない議論」2017年03月06日 (月)の批判が気になっていた。
 昔、ある人から、高原の文に対し「お説教は嫌いだ」と言われた。批判は弁証法的否定で対処するのが良い。しかし、石崎さんには失礼だが、とんちんかんな内容の「美文」による「お説教」は好きになれない。古典的な修辞があるわけではないので、狭い意味の「美文」には当てはまらないのかもしれないが、流暢な文で的外れを言われると「美文」を読んでいる感じがする。

 以下、粒度についての論理、コメント626『生きる構造』、コメント633「ポスト資本主義」の前半の順に「現実」に近づくことを追加して述べる。
 また、現実認識、「哲学」「方法」「論理」についての意見の違いがあることを追加して述べる。

 石崎さんは第一に「思考方法は各々別々で、抽象的に論じたら必ず噛み合わない議論になる、現実世界との接点を手探りで探るべきだ」と言われたと理解する。思考についての前提が間違いであると思うが、以下の弁解を述べた上で、本「議論」は終わりにしたいので、本「議論」についての高原からの投稿は今後行わない。
 粒度は論理を成立させる単純かつ根本的な概念で、したがって抽象的に語ることは必要で可能である。植田さんとの対話も、厳密に言うと「議論」ではなく、植田さんの質問に答えただけである。高原が、質問の意味が良く理解できなかったため、粒度をめぐる状況を網羅的に整理して一般的に述べたことになり植田さんに申し訳なかった。

 石崎さんは第二に「いま世界は混迷を深めていて、具体的な問題にどう対処すべきかというと戸惑うばかりなのだ。議論しようにもしようのない状況がある。
 おそらく、だから議論が抽象の世界にいってしまう。それはぼくには虚しく思える。」と言われる。
 
 石崎さんが「いま世界は混迷を深めていて、具体的な問題にどう対処すべきかというと戸惑うばかりなのだ。議論しようにもしようのない状況がある」と言われることに対し、高原は、今の哲学では対処できないと考え、「混迷を極めている世界」の認識と変更のために、新しく哲学を作っている。このことをコメント638:比喩,現象と価値,「補助線」:石崎徹氏ブログ「恩田陸からサルトル、そしてマルクス」についてのコメント   高原利生 by 高原利生 on 2017/01/28 で述べた。
 哲学は、世界観と、弁証法論理(方法)である。この論理が、オブジェクト、粒度、網羅からなる。オブジェクト、粒度、網羅という論理の単位は抽象的なものである。それらを作り上げる段階の論理を「現実」との接点を探りながら作るのは難しいが、現実にどういう問題があるから、粒度、網羅が必要かは、たびたび具体的に説明している。現実との接点を探ることは、オブジェクト、粒度、網羅を使って行われる。

 高原が、オブジェクト、粒度、網羅をもとに、現実世界を論じたものが
 石崎さんの「植田与志雄氏への手紙」 (2016年09月14日)に対する、
高原のコメント633:ポスト資本主義  高原利生 by 高原利生 on 2016/10/31 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment633
(の前半)などであった。
 これは、高原のコメント626『生きる構造』  高原利生 2016/09/21 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626をもとにしている。この633「ポスト資本主義」は左翼の常識と異なる重要な内容である。

 粒度についての論理、コメント626『生きる構造』、コメント633「ポスト資本主義」の前半の順に「現実」に近づく。
 残念ながら、これらも、石崎さんや植田さんに理解されなかった。理解されない根本が、石崎さんのこの第二の態度だったことが分かる。

 これと別だが、石崎さんに文章の不備を度々指摘されながらうまく対処できていないことをお詫びしておく。2017年3月6日19時,22時,7日,10日,19日追記)


 「コメント665:粒度再説」by 高原利生 on 2017/03/02は、
「コメント662:諦め気味 by 植田 与志雄 on 2017/03/01
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment662
への返事でした。

 コメント662で、植田さんが言われたこと。
 「粒度を理解できていない私からみれば
粒度を理解するか、粒度フリーな場を探すしかないと思うのです。
「論理的道筋に従わない思考過程」なら粒度フリーでいけるのかなと思ったのですが、やはり粒度を理解できていない思考は根本的にすべてダメということなのですよね。
粒度は何度読んでも、私にとって「つぶつぶの程度」以上の認識に至らないのです。
だから、粒度はこれを理解できていない思考は根本的にすべてダメと言われるほどの根本概念なのか、が分からないのです。
そこで粒度理解を諦めて粒度フリーな場を探そうとすると、
「粒度が自由な思考を縛る悪者と言われている気がします」
と言われるので、進退窮まりました。」 (植田さん)

 「粒度はこれを理解できていない思考は根本的にすべてダメ」ということは言っていません。ただ、客観的に、粒度「から自由」な思考はありません。

 命題は、演繹Deduction、帰納Induction、仮説設定Abductionに分けられるとすると、帰納は正しいと限らず、演繹は新しい情報をもたらさないので、新しい情報を得る思考は、仮説設定Abductionしかない。粒度の管理思考である根源的網羅思考は、仮説設定Abductionです。仮説設定は、検証を伴います。人類の歴史は、仮説設定と検証だったという文章が石崎さんの反感をかったものでした。

 665を書いた後に読んだコメント664で、植田さんは、次のように書きました。
「高原さんは粒度について2つ述べています。
・粒度のご利益は高原さんがご自分の体験として語られているので間違いないのでしょう。
・これの反転として「粒度の扱いを誤るとすべての思考、議論、などがNG、誤る」との主張。
両者の間には大きな違いがあると思います。
問題は後者です。
私は後者への反証として、思考の全過程で粒度が必須なのかを問うたのです。」

 この高原の言ったことについてのこのまとめはおかしい、「粒度について2つ述べ」たことはありません。まさに、全ての説明は、思考の全過程で客観的に粒度が必須だということを述べているので、665では、簡単に結論を一文で書いただけの反論にとどめました。664の反論は、665でもう済んでいると思ったからです。

 思考、議論に共通の論理は、粒度の定まった粒と粒の関係だと言っている。粒度がそういう運動をもたらすものなのである以上、思考、議論の前提が粒度であるのは明らかです。
 また論理が成立する粒度を見つけることが思考の殆ど全てということも何度か書いています。だから、植田さんが「私は、、、思考の全過程で粒度が必須なのかを問うたのです。」と(今度は、粒度は分かっていると言われたうえで)言われるのは、全く不思議ではあるのです。
 何が足りないから植田さんは「思考の全過程で粒度が必須」であることを理解しないのだろうと思い、粒度に関連するものと、粒度の内部を網羅的に説明し、粒度を使って矛盾を解決する過程の例も説明したのです。

 コメント661で書いている内容を書き直します。

共同観念である(世界観→ 共同観念の価値(観))→ 
個人の(個人の価値(観)→ 潜在意識→ 感情→ 態度→ 粒度決定)→ (方法)→ 個人の(認識像、実現像)→ 個人の(行動)
が正しい。矢印は近似です。
 FIT2016の図が違っていました。共同観念と個人の観念の区別は上の方が正しいと思います。

 高原のもともとの出発がTRIZという「発明的問題解決法」のロシア語表記の思考法で、この一二年取り組んでいるのがゼロベースでの世界構築なので、扱うオブジェクトは、既存の粒度がないのです。その意味では「粒度フリー」のスタートなのです。(言うまでもないと思いますが、これは「客観的に、粒度「から自由」な思考はありません」と前に述べたことに反しません。ゼロベースでの世界構築の場合、既存の粒度はないものとして作り上げることを述べていて、作られる論理が、粒度を無視していることではないからです。以上、念のため)その場合のTHPJ2015で述べた「発明原理」の提案も661で紹介しました。

 「思考、議論に共通の論理は、オブジェクトの粒度の定まった粒と粒の関係」なので、オブジェクトが語なのか、命題なのか、文章なのかで粒度の扱いは変わります。
 最近の石崎さんとの、高原の「コメント657:粒度認識発展の論理学:もう一度石崎さんの質問に答える  高原利生(再送 改) by 高原利生 on 2017/02/13」で終わる議論で、語の粒度の問題と、文章の粒度の二種の問題の区分けに手間取りました。

 特に、粒度が分かるためには、その定義上、オブジェクト、網羅が同時に分かる必要があることなどを述べ、網羅的に全体の中の位置が分かるように説明し、「思考、議論の前提が粒度である」こと、「思考の全過程で粒度がいる」ことが分かるように書きました。網羅的に全体の中の位置が分かることは、粒度管理のための根源的網羅思考の機能の重要な一つです。これはコメント626でしつこく書きました。また、これはコメント633で引用しているFIT2016等で述べていますが、植田さんの対話の中で直接の説明は、し忘れているかもしれません。網羅的に書き直したつもりで、そうしきれてなかったかもしれません。
 665の最後の4項では、矛盾を解くのに「試行錯誤」の末に粒度が分かり同時に認識の矛盾が定式化されることを述べています。後は解の矛盾に変換するだけで、この矛盾の定式化さえ済めば、解は得られたも同じです。(ただし、書いたように、これは一回解を出せば終わりという「小さな問題」についてです。「大きな問題」についての発表があと二週間後、2017年3月18日にあります。)

 それと、何か所か、引用文章へのアクセスを書いているところは、引用文章を読んでいただく必要があると思っているところです。ブログにURLの数の制限があるので、直接引用に至らない書き方で面倒になっていますが。(URLの数の制限を超えると警告文が出て分かるのですが、全体の文字数が21000字くらいの制限を超えると警告なしに勝手に削除されてしまいます。コメント633でエネルギーの未来を書いたのが消えています)

 植田さんの661から高原の返信665の初版を書くまで、アルコール依存症で多分頭が死んでいるせいも、耄碌したせいもあるのでしょうが、まる一日を要しました。その後もブログの作法に反して、多少の時間をかけて何度も書き直しをしているので、植田さんに失礼しているかもしれません。

 失礼ついでに、もう一つ。これらの引用を読まれたうえで、客観的に「全ての思考、議論の前提が粒度である」こと、「思考の全過程で粒度がいる」こと、そうだから主観的意識的に粒度を扱おうという主張が分からないでしょうか。これらの引用を読むのに多少時間はかかります。それでも分からないようならFIT2013と、THPJ2015の三部作をどうかお読みください。
 また、殆どが繰り返しばかりになりました。

 コメント626、コメント633だけでなく、
 637「新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について  高原利生」on 2017/01/19 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment637
 638 比喩,現象と価値,「補助線」:石崎徹氏ブログ「恩田陸からサルトル、そしてマルクス」についてのコメント  高原利生 on 2017/01/28
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-989.html#comment638
もご覧ください。

667:議論がかみ合わない by 植田 与志雄 on 2017/03/04 at 12:46:00 (コメント編集)

高原さんは植田が粒度を理解していないから粒度に関して的外れな疑問を投げてくると考えて、植田の質問や疑問に答えるより、粒度を繰り返しあの手この手で説明してくれていると思います。

高原さんはこう嘆いています。
「単純なこの粒度がなぜ分かって
もらえないかは、自分でもまだよく分かっていません。粒度が今必要なことだと一人で力んでいる状態が十年以上続いています」

分からないのは粒度そのものではないのです。もちろん粒度はイマイチ分からないのですが、
分からないのは「粒度が正しくないとすべての議論、思考がNG」「マルクス主義者は粒度を全く理解せずに誤った議論をしている」とする高原さんの主張なのです。
理解できないのはここです。

高原さんは粒度について2つ述べています。
・粒度のご利益は高原さんがご自分の体験として語られているので間違いないのでしょう。
・これの反転として「粒度の扱いを誤るとすべての思考、議論、などがNG、誤る」との主張。
両者の間には大きな違いがあると思います。
問題は後者です。
私は後者への反証として、思考の全過程で粒度が必須なのかを問うたのです。

高原さんはこうも言ってます。
・マルクスやダーウインは、実質、粒度を自由に使って新しい発見をしました。
・石崎さんは、粒度という言葉を使わなくても、二つの語の比較で粒度を表現していた。
正しい議論では意識されていなくても粒度が正しく使われていた、粒度として抽出され精錬された概念としての理解はされてはいないけれど、正しい議論の中では必ず正しい粒度で対象が扱われている、粒度の扱いが議論や論理の正否を分かつリトマス試験紙となる、という主張に聞こえるのです。

665:粒度再説  高原利生 by 高原利生 on 2017/03/02 at 15:09:52 (コメント編集)

コメント665:粒度再説  高原利生

 コメント662:諦め気味 by 植田 与志雄 on 2017/03/01
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment662
への返事です。
 コメント661:「自由な思考」の粒度:植田さんへの返事   高原利生
の補足でもあります。
 本稿を投稿してみたら新しい植田さんの664が来ていました。思考、議論に共通に粒度が必要です。ほとんどの議論では粒度の間違いが露わになるために、議論を強調しただけです。

 (前のコメント663の(コメント編集)欄 が、なくなっているので、新しく書き直します。コメント編集欄がないので削除もできません)

 一般的に、ある概念とは何かを説明し理解するときに、
 定義、
 それを網羅した分類
の二つあると便利です。
 ある概念を理解するためには、論理的にはこの片方で充分です。つまり、網羅的分類は定義にもなります。網羅にはおおざっぱに言うと物理的網羅と論理的網羅があります。論理的網羅の例は、種類の網羅です。生物学の生命の「横の」分類はこれです。
 FIT2016を書いていて、この他にも網羅があることが分かりました。「価値ー機能ー属性」の系列は「種類の網羅」ではありません。(それともこの「縦の」網羅も「種類の網羅」だろうか?複数の属性の一つが機能として実現される。機能はある価値を実現する。)

 粒度について、この定義と網羅的分類の二つを再説します。併せて、粒度の認識を妨げているのではないかと思う今まで書いてきた内容を二つ述べます。コメント626、コメント633などで述べたことの繰り返しが多いですがご容赦ください。

1.粒度の定義
 レーニンやサルトルが、定義は物事を固定化するので嫌いだという意味のことを言っています。(何十年も前のことで、レーニンがどこでそう言ったか忘れました。探しましたが見つかりません)
 概念が様々な意味で使われている場合、自分の使う定義と,それを網羅した分類の二つを述べるのはやむを得ないことだが必ず必要なことと思います。そして定義を変更する必要があれば、変更すればよく、また変更しなければならない。古い定義になってしまう時は必ず来ます。
 オブジェクトの定義も、2004年の定義以来使ってきたものを、二、三年前に変えました。今は「オブジェクトは、事実から粒度によって切り取られ表現できる情報」です.
 事実とは、把握できる全てのもので、現実の実世界のもの,観念、それらの過去の歴史を含みます。
 網羅される分類結果:「オブジェクトに存在、関係の二種があり、この存在にもの、観念の二種がある」

 粒度の定義を初めて書いたのは、2005年です。
 下記のページの下の方にある「学会等発表・研究ノート・技術ノート」の「論文集: 高原利生論文集: 『差異解消の理論』 (2003-2007): 論文集解題と論文14編 (高原利生)」の中の「オブジェクト再考3-視点と粒度-(情報科学技術フォーラム 2005)」です。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/indexGen-Paper.html#paper0

 今の粒度の定義は、この時より単純化しています。単に、
 粒度は、「ぼやっとした事実から粒度によって具体的なオブジェクトを切り取る」そのような粒度です。
 再帰的だからわかりにくいとすれば、
 「ぼやっとした事実から具体的なオブジェクトを切り取るもの」です。
 目の前に膨大な(実世界と観念、これらの歴史の)事実が広がっている。その中から、今扱う対象である「オブジェクト」を特定しなければならない。特定するのが粒度です。
 粒度の定義を、短い論文でも必ず準備として必ず頭に載せています。
 概念を再定義する場合、従来のものの意味を含むように行っています。オブジェクト、矛盾、価値などもそうです。粒度は、ソフト分野で使われているものを借りました。
 そして粒度の定まった「粒」と「粒」の関係が論理です。習慣上、この「粒」のことを粒度と言ったりします。思考の大半は、意識していようがいまいが、論理の成り立つような粒度を決めることです。

 昔の論文では、オブジェクトの具体的規定が属性だと書いています。今まで、オブジェクトの有効な空間時間は明示的に表現されてこなかった。
 「世界観-価値(観)-態度-感情-粒度」という複雑な相互規定のある大雑把な系列の中で、粒度に相当する語は今までなかったと思います。視線、目線というのは、このうちの態度に相当する語です。視線、目線によって決まるのが粒度です。しかしこれは空間にとらわれすぎます。階層というのが近いかもしれませんが、これも空間、時間にとらわれすぎます。いっそ、論理を成立させる「粒」と「粒」の双方の内容を決めるものが粒度だと言ったら理解されるのでしょうか。(2017年3月3日追記)

 単純なこの粒度がなぜ分かってもらえないかは、自分でもまだよく分かっていません。粒度が今必要なことだと一人で力んでいる状態が十年以上続いています。

 自分が理解できた限りの「なぜ粒度が分かりにくいか」の理由を長々と論文の中で書いたこともあります。
 FIT2013「世界構造の中の方法と粒度についてのノート 」http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-FIT2013/Takahara-FIT2013-150403.html
等です。(この論文で、ひとりでに筆が動き論理が自動的に進んでいく最初の経験をしました)

2.粒度、網羅、オブジェクトの同時認識が必要
 粒度そのものは単純なので定義が分かっても、粒度が「正しい」ためには網羅された中から選ばれることが必要です。網羅は粒度があって可能なので、粒度と網羅は同時決定が必要な矛盾の項です。
 かつ、また上に述べたように、オブジェクトの定義も粒度が出てくるし、粒度の定義にもオブジェクトが出てきます。つまり、粒度、網羅、オブジェクトは、同時決定が必要な矛盾の項です。

 本質的に複数のものの同時認識、同時決定である矛盾そのものが、殆どの人に正しく理解されていないので、これも粒度の理解の妨げになります。この説明はTHPJ2015の三部作などで論じています。

 矛盾(と価値)は、三つの基本概念に次ぐ重要な概念です。
 矛盾の機能にはいくつかありますが、複数のものの同時認識も重要なものです。657:粒度認識発展の論理学:もう一度石崎さんの質問に答える  高原利生(再送 改) by 高原利生 on 2017/02/13
で述べたように、あるものは、それ単独ではよく分かりません。そのものの変化や他と比較などではじめてそのものが分かります。
 石崎さんが、「目的」と「動機」を対比させ「目的」より「動機」が広い、粗い概念ととらえているという意味のことを書かれていた。ここで石崎さんは、粒度という言葉を使わなくても、二つの語の比較で粒度を表現していた。高原は、目的を、動機、潜在意識を規定する、より上位の概念ととらえている。
 
 マルクスやダーウインは、実質、粒度を自由に使って新しい発見をしました。しかし、凡人は粒度を意識した方がいいと思います。
 FIT2013「世界構造の中の方法と粒度についてのノート 」で、ひとりでに筆が動き論理が自動的に進んでいったと書きました。2013年以降、高原の思考は、矛盾と、粒度管理のための根源的網羅思考のおかげで画期的に進みました。と言っても、その内容は、高原のような凡人では、論理の変更、新しい発見は、一日に一つあるかどうかでしたけど。一番の進歩は、解決できない個人の小さな問題も数千年にわたる大きな問題の解決も基本は同じだと分かったことです。その上で、小さな問題と大きな問題の扱いには違いがあります。今までの問題解決法や、発明の方法論は、一回きりの解が出れば解決する小さな問題です。3月の情報処理学会で「大きな問題」の定義をし解決の検討をします。

3.粒度の網羅的内部分類
 (663では、中川教授ホームページの高原論文をそのままコピーしたため読みにくいので、もう一度整理して載せます)

2012年の論文FIT2012の一部。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/TakaharaPapers-2008-2012/TakaharaBiblio-2-130228.htm
にリンクあり。)
3.1 粒度と網羅管理の対象
 粒度、網羅は、時間的空間的範囲と属性に関する。
 粒度は何かが分かるためには、時間的空間的範囲、属性とは何か、その対象は何かが分かる必要がある。

 1) 粒度とは何か
 粒度は扱うものの空間的時間的範囲と選択属性の抽象度、密度はそのきめ細かさである[FIT2005] [TS2007] 。事実、オブジェクト、価値について、思考、議論の粒度を 明示しておくことが重要である。明示されない粒度での 議論は必ず不毛に終わる[FIT2011]。

 時間的空間的範囲、属性のうち、時間的空間的範囲は比較的分かりやすい。これは、例えば、価値についての粒度は、誰のためのどのような時間範囲のどのようなものかということである。

 属性が分かりにくいのは、その粒度特定が、本来は、(後に述べる)価値、機能、属性の連鎖的関連を大局的根源的に判断して行われるからである。例えば、今の行為の目的は、価値を具体化したものになっているだけでなく、価値は無意識の行為の規定要因にもなっている。何かの意味は価値に規定されているように見える。機能は運動、行為の意味である。属性は機能に一対一に対応する客観である。今生きている生命は、長い歴史の中、想像を絶する困難さを生き抜いてきた奇蹟の存在である。生命が究極の 価値を規定する唯一のものである。これから他のより粒度の細かい価値が展開される。

 この階層は、価値→目的→機能→(単なる)意味→属性という(大きな)意味の階層の一部であり次第に意味が薄れていく。それぞれにも、究極の価値→より小さな価値といった階層、目的の階層、機能の階層がある。
 さらに、意図する私の機能と意味→1) 意図しない私の機能と意味→ その可能性の機能、属性→2) 他人の機能と意味→その可能性の機能、属性、という階層と相互規定があり、機能が属性に次第に展開されていく。
 もともとの意図する私の機能と意味から、意図しない私の機能と意味、さらに その可能性の機能と意味、属性、他人の機能と意味から その可能性の機能と意味、属性に展開され、その最大限が属性として定着する。
 人間にとっての属性が意味である。

 一方、究極の価値も日常の属性、意味の歴史を総括して得られるので、上の系列の矢印は逆向きでもある。
 価値←目的←機能←(単なる)意味←属性
 今の私の価値観と属性は相互規定の関係にある。一万年前、数千年前の、価値観、機能、物事の意味、属性は、 現在と異なっている。それらは、今も変化している。 (引用終わり、一部修正したが基本はもとのまま)

4.粒度の具体化の定式化の困難さ
 粒度の具体化の論理を定式化しようとすると、粒度内部の空間、時間、属性の矛盾があるため困難にぶつかります。 
 3で「時間的空間的範囲は比較的分かりやすい。これは、例えば、価値についての粒度は、誰のためのどのような時間範囲のどのようなものかということである。」と書きました。
 価値の時間的空間的範囲が、「誰のためのどのような時間範囲」であるのは、実は、価値のどのような属性のものか、お金が多い方が良いのか、生きがいを得たいのかなどに依存しています。つまり、時間的空間的範囲と属性という粒度内部の要素にも相互規定があるのです。
 したがって、この過程を定式化しようとすると難しいのです。
 THPJ201501、同02でこれを試み、難しいので妥協案を書いています。「学会等発表・研究ノート・技術ノート」の「論文集: 高原利生論文集: 『差異解消の理論』3にあります。前に引いたリンクからたどれます。

 植田さんが661で書かれた比喩はもちろん違っています。違っている理由がここに書いたことで分かると良いのですが。

 なお、2013年以来、論文を書く定型にあえて反し、何が分かっていないか、何が分かりかけているかということを書くようにし、また、事実と価値の両方を変え続けないといけないことを書き続けています。書かれた文章は思考の搾りかすです。

 高原利生ホームページから引用します。
 「12.未完成な「理論」、仮説、前提
 理論、仮説、前提は、必ず未完である。 理論、仮説、前提は完成していると思ってはならない。なるべく、著者が未完だと思っていることが分かるようにしたい。これは未熟な論理であることの言い訳と見分けが付かない気がするが、とにかく、議論は本稿で閉じず未完で終わる。
 分かっていることより分かっていないことのほうが圧倒的に多い。今まで人の書いたことの全体よりも分かっていないことが圧倒的に多い。何が分かっていないかこそ書くべきだと思っているので、整理できてないままの形になるので読みづらいが、なるべくそれを書くようにしている。
 分かっていない状態から分かっている状態へ移行する思考経過もなるべく分かるようにしたい。今考えることは、論理的に網羅されたものの中のどれであるか、それを選ぶ理由は何かが分かるように書くことが必須である。」

 もう一つ、現代に特有の、分かったことを書く欠点があります。何かが分かってしまい、定式化ができてしまうと、それは易々と人工知能になってしまう。(FIT2013「世界構造の中の方法と粒度についてのノート 」に書いたことですが、粒度、網羅、オブジェクトと、これによる矛盾は、コンピュータで実現しやすいのです。逆説のようですが、コンピュータで実現しやすいことは、基本概念でのゼロベースの論理を作ることの目的でもありました。)

 人は人工知能に勝ち続ける必要がある。そのためのキーが、粒度、網羅、オブジェクト、矛盾、粒度を管理する根源的網羅思考の理解、この「何が分かっていないか、何が分かりかけているかということの追究と、事実と価値の両方を変え続けないといけない」ことです。

 「638:比喩,現象と価値,「補助線」:石崎徹氏ブログ「恩田陸からサルトル、そしてマルクス」についてのコメント   高原利生 by 高原利生 on 2017/01/28」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-989.html#comment638の後半で落合陽一さんという筑波大助教でアーティストの問題意識に共感しました。
 人工知能への対応はコメント633『ポスト資本主義』2016/10/31 でも述べました。
 人工知能への対応、ポスト資本主義を作ること、新しいエネルギーの確立の三つが今の課題です。

664:再質問 by 植田 与志雄 on 2017/03/02 at 14:40:16 (コメント編集)

私は思考の全過程で粒度が必須なのかを問うています

上記の高原主張では議論や世界認識での粒度の重要さを述べています。
私も粒度は理解できないけれど、議論や認識を整理して進めるために粒度が役立つことは分かるのです。
そしてここに関しては粒度を悪者扱いしてはいないのです。
論理的道筋に従う思考過程では粒度は必要、は分かるのです。
論理的道筋に従うとは前メールで高原さんが私的したような「演繹」に限らず、相手と問題を共有して議論したり意見交換する場面などを想定しています。
これの逆として「論理的道筋に従わない思考過程では粒度に縛られることはない」と言いたいのです。

相手がいない内面での思考過程、包括的な認識以前の混沌とした思考過程、でも粒度が必須ですかと問うたのです。これに対して高原さんの答えは「論理的道筋に従わない思考過程こそ、議論と同様、しんどいですが粒度が必要です」

でも上記では、議論や世界認識での粒度の重要さを述べていて、私の問うている、相手がいない内面での思考過程、包括的な認識以前の混沌とした思考過程、については言及がありません。

ここを聞きたいのです。

前々から一つ疑問に思っていたのはこのことだけなのです。粒度そのものをなくてもいいもの、などと言いたいわけだはないのです。

663: by 高原利生 on 2017/03/01 at 21:52:24

参考までに過去の発表論文の一部を引用します。

2012年の論文の一部。

FIT2012
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/TakaharaPapers-2008-2012/TakaharaBiblio-2-130228.htm
にリンクあり。)
3.1 粒度と網羅管理の対象 粒度、網羅は、時間的空間的範囲と属性に関する。粒 度は何か分かるためには、時間的空間的範囲、属性とは 何か、その対象は何かが分かる必要がある。
1) 粒度とは何か 粒度は扱うものの空間的時間的範囲と選択属性の抽象 度、密度はそのきめ細かさである[FIT2005] [TS2007] 。事 実、オブジェクト、価値について、思考、議論の粒度を 明示しておくことが重要である。明示されない粒度での 議論は必ず不毛に終わる[FIT2011]。 時間的空間的範囲、属性のうち、時間的空間的範囲は 比較的分かりやすい。これは、例えば、価値についての 粒度は、誰のためのどのような時間範囲のどのようなも のかということである。 属性が分かりにくいのは、その粒度特定は、本来は、 価値、機能、属性の連鎖的関連を大局的根源的に判断して 行われるからである。 今の行為の目的は、価値を具体化したものになってい るだけでなく、価値は無意識の行為の規定要因にもなっ ている。何かの意味は価値に規定されているように見え る。機能は運動、行為の意味である。属性は機能に一対 一に対応する客観である。 今生きている生命は、長い歴史の中、想像を絶する困 難さを生き抜いてきた奇蹟の存在である。生命が究極の 価値を規定する唯一のものである。これから他のより粒 度の細かい価値が展開される[TKHR]。 この階層は、価値→目的→機能→(単なる)意味→属性と いう(大きな)意味の階層の一部であり次第に意味が薄れて いく。それぞれにも、究極の価値→より小さな価値とい った階層、目的の階層、機能の階層がある。さらに、意 図する私の機能と意味→1) 意図しない私の機能と意味→ その可能性の機能、属性→2) 他人の機能と意味→その可 能性の機能、属性、という階層と相互規定があり、機能 が属性に次第に展開されていく。もともとの意図する私 の機能と意味から、意図しない私の機能と意味、さらに その可能性の機能と意味、属性、他人の機能と意味から その可能性の機能と意味、属性に展開され、その最大限 が属性である。人間にとっての属性が意味である。 一方、究極の価値も日常の属性、意味の歴史を総括し て得られるので、上の系列の矢印は逆向きでもある。 価値←目的←機能←(単なる)意味←属性 今の私の価値観と属性は相互規定の関係にある。一万 年前、数千年前の、価値観、機能、物事の意味、属性は、 現在と異なっている。それらは、今も変化している。

(後で編集、追加します)

662:諦め気味 by 植田 与志雄 on 2017/03/01 at 13:09:53 (コメント編集)

高原さんは出来の悪い生徒を相手にしているような気分でいるのではないかなと思っています。
高原さん:
・固定観念を壊す自由を与えるのが粒度と粒度の管理です。
・一見「論理的道筋に従わない思考過程」こそ、議論と同様、しんどいですが粒度が必要。
・連想、類推も、粒度の中の空間、時間、属性を変更することです。
やはりそうなのですね、ここを確認したかったのです。

粒度を理解できていない私からみれば
粒度を理解するか、粒度フリーな場を探すしかないと思うのです。
「論理的道筋に従わない思考過程」なら粒度フリーでいけるのかなと思ったのですが、
やはり粒度を理解できていない思考は根本的にすべてダメということなのですよね。

粒度は何度読んでも、私にとって「つぶつぶの程度」以上の認識に至らないのです。
だから、粒度はこれを理解できていない思考は根本的にすべてダメと言われるほどの根本概念なのか、が分からないのです。

そこで粒度理解を諦めて粒度フリーな場を探そうとすると、
「粒度が自由な思考を縛る悪者と言われている気がします」
と言われるので、進退窮まりました。

相対論を理解しなければこの世界の真の姿はわからないのですよ。
と言われているようですが、この比喩は大体のところ合っていますか。

661:「自由な思考」の粒度:植田さんへの返事   高原利生 by 高原利生 on 2017/02/28 at 23:55:29 (コメント編集)

コメント661:「自由な思考」の粒度:植田さんへの返事   高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment661

 コメント660:疑問と質問 by 植田 与志雄 on 2017/02/27
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment660
に対する答え

 植田さんの「思考の流れを自由にして連合、連関、を追うために、連想、類推、結合によって互いに無関係と思われていたことを結びつける、発見的思考」の方法を追及している「問題解決」や「発明」の方法論はたくさんあります。水平思考とか等価変換法とか。
 TRIZもその一つです。内容はどれも似たようなものです。どの「思考の流れを自由にして連合、連関、を追うために、連想、類推、結合によって互いに無関係と思われていたことを結びつける、発見的思考」の要素は、分割、結合、媒介などです。そしてどの方法もその基本は粒度です。連想、類推も、粒度の中の空間、時間、属性を変更することです。TRIZにも連想、類推の手法はたくさんあります。

 TRIZの方法の分類はFIT2008(下のURLページの下にリンクがあります。高原論文集2の中です)からやっており、その分類をしています。最新の分類はhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteB-151013.html
にあります。TRIZの「40の発明原理」を前提にしているところがあるので分かりにくいかもしれません。粒度と思考方法の関係も書いていますのでご覧ください。
 この中で、主な発明原理の提案をしています。
+: プラス
   ・オブジェクトの追加
   ・分割
   ・既存の二項または分割した二項の運動の生成
×: 究極のプラス(新しい機能と新しい構造)
1. 新しい機能:
   ・転用 「一つの機能を他領域で使用」
   ・汎用性 「一つの属性が複数の機能を実現」
   ・セルフサービス 「それ自体で必要な機能を実現」
2. 新しい構造:
   ・入れ子 「同じか同じ形式の、もの、情報が、もう片方の中に入る」
   ・仲介(媒介、間接化)

 「論理的道筋に従わない思考過程では粒度の縛りから自由にする局面があってもいいのでは」と言われると、粒度が自由な思考を縛る悪者と言われている気がします。「自由」と言う言葉のとらえ方も僕と違いますね。
 「論理的道筋に従う思考過程」というのは演繹を指しているのでしょうか?演繹ではたいした結果は出ません。帰納、仮説設定を有効に行うには固定観念を壊すことが必要で「発明」という仮説設定の難しさは固定観念を壊す難しさです。固定観念を壊す自由を与えるのが粒度と粒度の管理です。

 シカフスという人の「夢想ヒューリスティックスを用いた潜在意識問題解決」
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Sickafus-ICSI2014/Sickafus-ICSI2014-Subconcious-150721.html
の翻訳をお手伝いしました。
 シカフスはその中で「われわれの意識が問題を解くのではなく、潜在意識が解いている」と書いています。
 粒度を意識することは難しい。粒度を意識しようとしていると、半ば問題の粒度が潜在意識化して、独りでに筆が進んで行くことがあります。その最初の成果がFIT2013でした。
 潜在意識に頼らねばならないほど、新しい思考を展開し、思考や議論の中で意見を変えることは難しいか?難しいのではないでしょうか。
 世界観→ 潜在意識→ 感情→ 態度→ 粒度決定、という流れがコメント633の後半でした。  

 要するに、一見「論理的道筋に従わない思考過程」こそ、議論と同様、しんどいですが粒度が必要です。

 コメント638も書き直しているのでご覧ください。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-989.html#comment638

660:疑問と質問 by 植田 与志雄 on 2017/02/27 at 16:23:15 (コメント編集)

植田です。
難しい議論が続いているので入れないでいるのですが、
一つ前々から疑問に思っていることがあるのです。
高原さんはいつも「議論に当たっては粒度を意識して、特定して進めなくてはならない」
と警告しています。
論理的道筋に従う思考過程ではたしかにそうかもしれないとは思うのですが、
そうではない思考過程、思考の流れを自由にして連合、連関、を追うために、連想、類推、結合によって互いに無関係と思われていたことを結びつける、発見的思考もあると思うのです。こんなこと、高原さんにいうのは釈迦に説法と思うのですが。論理的道筋に従わない思考過程では粒度の縛りから自由にする局面があってもいいのではとも思うのですが。
どうなんでしょうか?

657:粒度認識発展の論理学:もう一度石崎さんの質問に答える  高原利生(再送 改) by 高原利生 on 2017/02/13 at 22:27:46 (コメント編集)

コメント657 粒度認識発展の論理学:もう一度石崎さんの質問に答える  高原利生(再送 改)
(うっかり、655を消してしまったので、再送です。前に石崎さんが650などで「分かる」で止めた表現をされていたので、誤解しました。述語が「分かる」でなく「である」「であろう」が変形した「だろう」だった、この「だろう」の推量が我々という主語に合わなかったというミスに、なかなか気づかなかった。失礼しました。(2017年2月14日追記)
 また、前654の石崎さんの質問「要約はこれでいいか?」「この部分で、高原さんの主張したかったことは結局何なのか。」という発言に答え、649で消した内容の続きを書いておきます。2017年2月19,24日 2017年2月19,24日追記は太字

旧コメント655:もう一度石崎さんの質問に答える  高原利生 by 高原利生 on 2017/02/13 at 14:43:25 (コメント編集)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment655 の追加

石崎さんの「肯定の肯定 続き 高原さんへ」
2017年02月07日 (火)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.htmlへのご自身のコメント
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment654
についてのコメントです。

 石崎さんの文。
 「ひとつの主語のあとに動詞が二つぶら下がっているということ、それが一つのセンテンスの中で二度繰り返されています。この場合、読み手は、このそれぞれ二つの動詞の主語はそれぞれ同一なのだろうか、それとも違うのだろうかと判断に迷います。つまり、<理解>と<意識>の主語は当然<我々>だとしても、<分かる>の主語は何なのだろうかと考えるわけです。」

 「ひとつの主語のあとに動詞が二つぶら下がっている」ことはよくあることなので、「それが一つのセンテンスの中で二度繰り返されて」いることが、「二つの動詞の主語がそれぞれ同一だろうか」と判断を迷わせると言われているのでしょうか?これが分かりません。何度繰り返されようが一つの主語なのではないでしょうか。それで前回「分からない」と書きました。

 石崎さんを混乱させたのが、「だろう」なら分かるのです。「だろう」という推量の主語が、形式上「我々」になっていたのは、高原のミスです。「我々」は推量できませんから、推量の主体は自分か、客観的にそう推量できるということです。「だろう」が混乱を招いているのではないかということが今回分かりました。

 前回の繰り返しですが、高原が、石崎さんの長い文章を批判的に要約し、その内容が、粒度の問題だと言いたかったのがもともとの文でした。しかし、粒度は一般に理解されていないので、ついでに、簡単に粒度の説明をしてしまった、それが悪文の「原因」です。

 元気の出ないコメントが二点あります。
 最初は前の繰り返しです。
 もともとの高原文。 
「我々が、粒度を網羅することは不可能に近いことである。
 しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、 とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。
 粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、我々は、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう。」

 しつこいですが、石崎さんが要約の対象にされた文章の主眼は、この前半部分にあります。
 「自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすること」を説明しておきます。
 まず「両者の同一点相違点を明らかにすること」の条件が、「自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置を明らかにすること」であることを述べています。
 「話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置を明らかにすること」は簡略表現で、もっと正確には、あるものについての根源的網羅思考の内容は、そのものの全体の中の粒度(空間的時間的位置)の特定とそのものの内部構造の網羅です。上の高原文はこのうちの前半しか述べていません。
 そのものの全体の中の粒度(空間的時間的位置)の特定を、議論の前で初めて行うことは「定義」と呼ばれます。
(2017年2月24日追記)

 あえて要約しようとすると「議論の場合の粒度の網羅の対象を二つ、そのそれぞれの役割を二つ述べ、それが議論や民主主義に必要であるが、不可能に近い、それでとりあえず対象を自分が言うことの一つに絞り、せめてその粒度の意識をしよう」となります。元の文の三分の二になりましたが、形式を述べただけです。
 石崎さんの要約前半、
「粒度(空間的時間的範囲及び属性)を網羅することは不可能に近い。しかし、議論をする際には、少なくとも扱う対象の粒度を明らかにしたうえで行うべきだというのが私の主張である」
は、間違いではないですが、「粒度」が粗すぎます。

 内容は、ここだけ抜き出すと唐突です。前回の繰り返しですが、もとは500字の石崎さんの文章(石崎さんの文章、2017年2月6日「肯定の肯定」の後半)を引きました。

 「いまは相違点ではなく一致点を探すべきときなのだ。
 とは言いながら、ぼくもやはり違いばかりを気にしている。これはどうしたことだろうと考えてしまう。でもたぶん、こういうことなのだ。
 とりあえず違いは明確にせねばならない。そうしなければどこで一致できるのかもわからない。だが違いを明らかにするのは敵対するためではなく、どこが違うのかを知るためであり、知ってしまえば、そこが違うのだということを共通認識にして、その点を保留にして、そしてそこから先へ進むのである。
 まず、お互いを知る努力がいる。相違点をできるだけ明確に認識し、それを認め合うこと。自分の関心を持っているのはここまでで、ここから先のあなたの領分にはほとんど関心がない、ひるがえって、あなたが関心を持つことのできる領分はどこまでなのか、どこまでならぼくの領分へ入ってこれるのか――それが高原さんのいう粒度なのか、あるいは違うのかもしれないが――我々はどう転んでも根源的に網羅することは不可能なのだから、自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」
 その最後の文の引用に続いた石崎案の対案でした。石崎案と対比して読めば少しは読んでもらえる内容です。そう読んで欲しかった文章でした。

 今の言の一つの粒度の確認さえ絶望的なのに、石崎さんのここの内容、「自分の領域」や「あなたの領域」を知ることは、このままでは、けた外れに絶望的で不可能です。お互いに相手を隅から隅まで知ることが必要ですから。
 そこまで行かずとも、相手の言っている二つのことが、整合的に相手の中で両立していることの認識さえ不可能に近いのではありませんか?それができないと、相手の意見の分からないことは、ごく自然に相手の単純全否定になる。

 ついでに、もう一つ、仮説を述べます。この「相手の言っている二つのことの整合的な両立」が分かって初めて、相手の一つのことも分かる。他のものと両立している「一つ」だということが、相手のその「一つ」をよく認識させる。

 この文の粒度を変えます。現実と価値を二つ追究すると初めて次第に現実や価値が分かるようになる。
 これはまだ粒度を粗くし一般化できる。一つのものだけでは「認識」できない。もう一つ何かがあって、それと比べることで元の一つが「認識」できる。
 この内容を網羅します。認識形式について1.時間的には、変化、運動、存在の順に認識できるようになる。2.空間的には、二つの存在の粒度比較から、一つの存在の粒度認識ができるようになる。
 以上は、科学と粒度の論理学の仮説です。動物の粒度の認識発達の論理学の仮説です。

 ここで石崎さんの言われている全体は、重要な問題提起で、網羅的(時間空間範囲、属性の)粒度は、その基礎です。それで、とりあえず、644の一部を削除しました。
 石崎さんがこういう問題意識を持つ人だと分かったことは、石崎さんの「動機」「心情」の意味を知ったのと並ぶ高原のもう一つの前進でした。
 この内容の深化と具体化は非常に難しいと思います。今の単純否定もよくないが、下手をすると野合になる。しかし、この内容の深化と具体化が、コメント626、633で述べた議論、民主主義の基礎だと思います。思考の基礎でもあると思います。

 ここの石崎さんの関心が、人の意見の把握、認識です。高原は、その基礎が粒度だと述べた。繰り返しで恐縮ですが、粒度は、人の意見の把握、認識の基礎であるだけでなく、認識一般、事実変更、価値の重要な要素です。

 
 二番目です。石崎さんの後半、
 「ではあるのだが、じつは私自身を含めて誰も、粒度という言葉の意味さえ、ほんとうには分かっていないのだ。だから当然上に述べたようなことは誰もできていないのである」
は、せっかく推量で和らげた文がきつい断定になっています。

 高原は、表現は全て仮説で、見直し続ける必要があり、概念の定義さえも時々は見直そうと言っていて、その意味で「ほんとうには分かっていない」、また、自分で定義を書き読むと、意識して考えているか自省もさせられます。しかし、定年退職後40編の論文、ノートを発表していますが、新しく変更した「矛盾」による成果と新しく作った「粒度」概念による成果が大半です。「ほんとうには分かっていない」中で成果は出ています。
 「上に述べたようなことは誰もできていない」のも、正確には、少し違っていて、マルクスやエンゲルス、ダーウインは、粒度の意識、粒度の変更によって、画期的に良い仮説を作ったと思うのです。彼らは「できて」いた。ただ、マルクスやエンゲルスは、粒度も弁証法も、完全に対象化して文章にすることはできなかった。前にも言っていますが、高原の粒度概念は、マルクスとデカルトに依っています。

 以上が、石崎さんの
 「ぼくが書き直した文章では、まだ事実認識を出ていませんね。高原さんの文章にはもう少し主張があったような気がするのですが、書き直すとそれが消えてしまうのです。
 ぼくがどこかで間違えているのか。それとも高原さんが結局言い得ていなかったのか、それともこれでよいのか。この部分で、高原さんの主張したかったことは結局何なのか。」
ということに対する意見です。

 石崎さんが「間違えている」ところも少しあり、高原が「結局言い得ていなかった」ところも多いにあります。「この部分で、高原の主張したかったこと」の補足を、半分繰り返して述べました。

656: by 石崎徹 on 2017/02/13 at 17:29:52 (コメント編集)

 すみません、もう一度だけ書かせてください。これで終わりです。今回は「分かった」という内容なので、特に回答は求めません。
「二度繰り返されていること」は全く問題ではありません。「それぞれ二つの動詞の主語はそれぞれ同一だろうか」つまり「それぞれ」について問うているのです。「理解していない」のも「意識していない」のも「我々」です。しかしそのことを「分かり」「分かるだろう」は誰なのか、それが分からなかったのです。
 今回分かったので、それでよいです。
 ただ一連の文章で理解の困難なのは、論理というよりも、単純に日本語の問題なのです。この文章の場合は、「言っている」「言うだけ」「分かり」「分かるだろう」という四つの単語の理解に苦しみました。つまり一連の文脈の中で、それはいろんな意味に読むことができるのです。
 人は頭の中に考えを持って、それを文章化します。その人にとって文章Xは自分の考えAとイコールです。しかし文章はつねに多義的です。文章Xには、Aという意味もあれば、BもCもDもEもあります。読み手はそれが、AなのかBなのかCなのかDなのかEなのか分かりません。書き手のほうでは、Aしかないと思い込んでいるので、人がなぜ理解してくれないのだろうと不思議がるのです。
 ぼく自身にもしょっちゅうあることです。誤読されて読み返してみると、なるほどそういう意味にも取れるなということに気づきます。そこで書き直します。日本語を書くということはそういうことではないでしょうか。

654: by 石崎徹 on 2017/02/12 at 21:40:19 (コメント編集)

 <粒度(空間的時間的範囲及び属性)を網羅することは不可能に近い。しかし、議論をする際には、少なくとも扱う対象の粒度を明らかにしたうえで行うべきだというのが私の主張である。
 ではあるのだが、じつは私自身を含めて誰も、粒度という言葉の意味さえ、ほんとうには分かっていないのだ。だから当然上に述べたようなことは誰もできていないのである>

 このように言い換えてみました。この文章は高原さんの真意を言い当てているでしょうか。それとも違うでしょうか。

 前段の<主張である>という部分はたぶんあっているのだろうと思います。<言っている>も<言うだけで>も、あまりにも多義的な言葉なので、意味をはっきりさせるために言い換えたほうが良いと思います。いろんな誤解を生む言い方です。

 後段は、ぼくがどこで意味をとれずにいるかということをまだわかってもらえていないようです。
 ひとつの主語のあとに動詞が二つぶら下がっているということ、それが一つのセンテンスの中で二度繰り返されています。この場合、読み手は、このそれぞれ二つの動詞の主語はそれぞれ同一なのだろうか、それとも違うのだろうかと判断に迷います。つまり、<理解>と<意識>の主語は当然<我々>だとしても、<分かる>の主語は何なのだろうかと考えるわけです。
 それはとりわけ語尾が<だろう>となっていることで読み手を混乱させるのです。この<だろう>の意味が分からないのです。これも非常に誤解を生む言い方です。

 しかし今回高原さんが書いている内容から、どうやら、どの動詞の主語も<我々>らしいと仮定してみます。そして<だろう>には別に意味はないのだと考えてみます。それにもとづいて、わかりやすく言い換えてみると、ここに繰り返しますが、以下のようになります。

 <粒度(空間的時間的範囲及び属性)を網羅することは不可能に近い。しかし、議論をする際には、少なくとも扱う対象の粒度を明らかにしたうえで行うべきだというのが私の主張である。
 ではあるのだが、じつは私自身を含めて誰も、粒度という言葉の意味さえ、ほんとうには分かっていないのだ。だから当然上に述べたようなことは誰もできていないのである>

 さてそこで、これがあの部分で高原さんの言いたかったことのすべてだろうか、と考えると、少し違うような気がします。ぼくが書き直した文章では、まだ事実認識を出ていませんね。高原さんの文章にはもう少し主張があったような気がするのですが、書き直すとそれが消えてしまうのです。

 ぼくがどこかで間違えているのか。それとも高原さんが結局言い得ていなかったのか、それともこれでよいのか。この部分で、高原さんの主張したかったことは結局何なのか。

653:「我々が分かる」:石崎さんの質問に答える  高原利生 by 高原利生 on 2017/02/11 at 23:46:49 (コメント編集)

653「我々が分かる」:石崎さんの質問に答える  高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment653

石崎さんの「肯定の肯定 続き 高原さんへ」
2017年02月07日 (火)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.htmlへのご自身のコメント
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment650
についてのコメントです。遅くなりました。

 高原のもともとの書き直した悪文:
 「我々が、粒度を網羅することは不可能に近いことである。
 しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、 とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。
 粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、我々は、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう。」

 石崎さんの質問は、
 『これを次のように言い換えることができますか。
 議論をする際は、扱う対象の「粒度」(空間的時間的範囲及び属性)を明らかにしたうえで行うべきであるというのが私の主張である。
 「だが誰も粒度という言葉の意味さえわかっていないし、わかっていないから当然意識できていない」ということが自覚できていますか。 』
というものです。

 全体の言い換えでなく、要約だという前提で考えます。
1.最初の文。僕は、今までに書いた文章に「言っている」「言う」という言葉は使っていないと思います。ここで「言う」という一般的な表現になったのは、次のような心理ではないかと思います。ここでは前が、「我々」の課題として、可能性と不可能性、(石崎さんが省略されたところでは)ここでの二つの必要な機能、可能性と必要性の矛盾と続き、硬い難しい内容の連続で、解決が難しい。「とりあえず」主語を自分に代えて、今まで、高原が「言ってきた」一般論の紹介をし、無難に柔らかく終わりたかったのだと思います。
 これが「主張する」と言えればいいですね。

 なお、繰り返しになっていますが、一文のカッコに入っていたのを分かりやすく二文に分けてこうなった文章です。

2.先に要約した「言う」に至る面倒な内容は、石崎さんが書いた長い文章の批判的要約なのです。
 その文章は、500字近い次の文章です。
 石崎さんの文章、2017年2月6日「肯定の肯定」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-995.htmlの後半の部分でした。内容をそのまま引用します。
 「いまは相違点ではなく一致点を探すべきときなのだ。
 とは言いながら、ぼくもやはり違いばかりを気にしている。これはどうしたことだろうと考えてしまう。でもたぶん、こういうことなのだ。
 とりあえず違いは明確にせねばならない。そうしなければどこで一致できるのかもわからない。だが違いを明らかにするのは敵対するためではなく、どこが違うのかを知るためであり、知ってしまえば、そこが違うのだということを共通認識にして、その点を保留にして、そしてそこから先へ進むのである。
 まず、お互いを知る努力がいる。相違点をできるだけ明確に認識し、それを認め合うこと。自分の関心を持っているのはここまでで、ここから先のあなたの領分にはほとんど関心がない、ひるがえって、あなたが関心を持つことのできる領分はどこまでなのか、どこまでならぼくの領分へ入ってこれるのか――それが高原さんのいう粒度なのか、あるいは違うのかもしれないが――我々はどう転んでも根源的に網羅することは不可能なのだから、自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。
 これに対する高原のコメントが、644「一体型矛盾と仮説設定についての補足他:石崎さんの二つの記事についてのコメント」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-992.html#comment644でした。

 コメント644の該当部分は次のとおりです。石崎さんがとりあげたのは、太字以外の文章です。
 『石崎さんは2017年2月6日の「肯定の肯定」で、
 「我々はどう転んでも根源的に網羅することは不可能なのだから、自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」と書いている。
 高原は可能なことと不可能なことは分けている。
「根源的に網羅することは不可能」に近いことである。しかし、議論や民主主義には欠くべからざることであるので、とりあえず、今、自分が語ることの粒度(扱う話題の空間時間範囲、扱う属性。これを言うだけで意識していないことが分かるだろう)を意識し明確にしようと言っている。これは「自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」ということに近いが、その基礎になり、より一般的であると思う。

 以上があってもなくても、「高原は、粒度を意識することを主張している」のは、これ自体、間違いではないのです。
 要するに、一番の問題は、高原が、石崎さんの長い文章を批判的に要約し、その内容が、粒度の問題だと言いたかったのがもともとの文でした。しかし、粒度は理解されていないので、ついでに、粒度の説明をしてしまった、それが悪文の「原因」です。(客観的な「原因」「結果」という概念はない。主観が入った「原因」「結果」はあると、前に626か633で説明しました)

 高原は、ブログのルールに反して、後から記事の追加をすることがあるので、石崎さんが読まれた後の追加かもしれません。なお、議論や民主主義と網羅的粒度の関係については、コメント626で項を取って説明しました。

 本コメントの前の高原のコメント499では、説明が終わったと早とちりをして、この部分についての検討を書き始めましたが、消しておきました。

3.今までも「分かる」を使っています。全部思い出して言っているわけではないのですが、「分かる」というのは、自発的に新しく知って受け入れるという意味と、認識するという二つの意味で使ってきたと思います。
 ここでは、単に、自発的に新しく知って受け入れるという意味です。認識するとは、複数の項からなる事実の矛盾を解いて、複数項が両立する解を作ることだと思っています[THPJ201501]。「ユーリカ!」です。認識も受け身の行為ではない。この意味で「我々」が「分かる」のは不可能でしょう。(こんな単純なことではないと気づきました。内容は保留します。2017年2月12日)

 石崎さんの
 『「我々は」のあとに動詞が二つぶら下がっているのです。
 「我々は」=「理解し」+「分かり」
 「我々は」=「意識し」+「分かる」 』
というのは、
 「我々は」(粒度という言葉を)「理解していないこと」が「分かり」
 「我々は」(粒度を)「意識していないこと」が「分かる」 
なので、意味がよく「分かり」ません。

4.今までも時々「我々」と言う主語を使っています。少なくともここでは「我々」は、自分と多くの人であり得る議論の相手です。「我々」を主語にするとあいまいな言い方になります。気を付けないといけない。しかし、本来、主語は全て「我々」であるべきか?

 結論ですが、石崎さんの言い換えは、要約としても違います。
 言いたいことを一篇に言おうとすることが、分かりにくい文章になっていた例です。すみませんでした。
 質問をいただき、誠にありがとうございました。勉強になりました。

650: by 石崎徹 on 2017/02/09 at 16:30:51 (コメント編集)

高原文

 我々が、粒度を網羅することは不可能」に近いことである。
 しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、 とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている
 粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、我々は、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう。

これを次のように言い換えることができますか。

 議論をする際は、扱う対象の「粒度」(空間的時間的範囲及び属性)を明らかにしたうえで行うべきであるというのが私の主張である
 「だが誰も粒度という言葉の意味さえわかっていないし、わかっていないから当然意識できていない」ということが自覚できていますか

1、「と言っている」というのが何通りにも解釈できる不明朗な言葉なのです。これは「それが私の主張です」という意味に解釈してよろしいですか。「ここで言うだけ」も同様の意味と考えてよいですか。
 そうであるならば、ここは繰り返しを避けて、「と言うのが私の主張である」と一本化します。

2、次の文章は二文とも、「我々は」のあとに動詞が二つぶら下がっているのです。
 「我々は」=「理解し」+「分かり」
 「我々は」=「意識し」+「分かる」

 問題はこの「分かる」の意味です。これをどういう意味だと考えてよいのか、判断に迷って上のように解釈してみました。つまり「自覚」を促しているというふうにです。ほかにもいろいろな意味にとれそうなのですが、どうも明確化できないあいまいな言葉です。

 文体には個性があって当然ですが、この1、2の二点はどうも日本語になりきれていない感じがします。主語述語がうまくつながってくれません。

649:粒度と認識  高原利生 by 高原利生 on 2017/02/08 at 23:23:07 (コメント編集)

コメント649
粒度と認識  高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment649
石崎さんの「肯定の肯定 続き 高原さんへ」
2017年02月07日 (火)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.htmlへのご自身のコメント
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment648
についてのコメントです。

前回647の引用前半:
 「我々が、粒度を網羅することは不可能」に近いことである。
しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、
とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。

前半の補足説明:
 三つの文に共通に、「我々」は、二つ目の文前半の「自分」と「相手」です。「両者」も同じです。
 二つ目の文後半の「自分」は「我々」の構成要素である語る「自分」と語る立場に立ったときの「相手」です。もう一度「我々」と繰り返した方が良かったかもしれません。二つ目の文後半は、高原が、自分を含めた「我々」に、粒度を意識しようと言っています。

前回647の引用後半:
粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである高原がこれ(つまり、粒度の定義)ここで言うだけで、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)」

後半の補足説明:
 高原が主語になっている以外の主語は、全て「我々」(自分と相手)です。補うと、つぎのとおり。太字が補ったところです。
粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである高原がこれ(つまり、粒度の定義)ここで言うだけで、我々は、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)」

 「我々」は少なくともここでは、議論する自分と多数の相手の集合です。文全体に共通に、すべての人への提案をしています。
 粒度には、粒のぎざぎざの程度という意味と、ソフト屋さんの使う意味の二種類あるが、そのソフト屋さんの使う意味を、拡張して定義しなおしたのが、高原だというところで、高原が割り込んでいるだけです。

 なお、コメント644での元の文章は、上の文に次の文が続きます。
 「これは「自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」ということに近いが、その基礎になり、より一般的であると思う。」

 この644の最後の文を変更しています。
「これは「自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」ということに近いが、その基礎になり、より一般的であると思う。」

 石崎さんの文章は、2017年2月6日「肯定の肯定」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-995.htmlの最後の部分でした。
 「いまは相違点ではなく一致点を探すべきときなのだ。
 とは言いながら、ぼくもやはり違いばかりを気にしている。これはどうしたことだろうと考えてしまう。でもたぶん、こういうことなのだ。
 とりあえず違いは明確にせねばならない。そうしなければどこで一致できるのかもわからない。だが違いを明らかにするのは敵対するためではなく、どこが違うのかを知るためであり、知ってしまえば、そこが違うのだということを共通認識にして、その点を保留にして、そしてそこから先へ進むのである。
 まず、お互いを知る努力がいる。相違点をできるだけ明確に認識し、それを認め合うこと。自分の関心を持っているのはここまでで、ここから先のあなたの領分にはほとんど関心がない、ひるがえって、あなたが関心を持つことのできる領分はどこまでなのか、どこまでならぼくの領分へ入ってこれるのか――それが高原さんのいう粒度なのか、あるいは違うのかもしれないが――我々はどう転んでも根源的に網羅することは不可能なのだから、自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」
この最後のところです。

 今の言の一つの粒度の確認さえ絶望的なのに、石崎さんのここの内容は、このままでは、さらにけた外れに絶望的で不可能です。お互いに相手を隅から隅まで知ることが必要ですから。
 そこまで行かず、相手の言っている二つのことが、整合的に相手の中で両立していることの認識さえ不可能に近いのではありませんか?それができないと、相手の意見の分からないことは、ごく自然に単純全否定になる。
 ついでに、もう一つ、偉そうに理想論を言います。この「相手の言っている二つのことの整合的な両立」が分かって初めて、相手の一つのことも分かるのではないでしょうか。同様に、現実と理想的価値が二つ分かって(正確には「追究して」ですが)初めて現実が分かる。

 ただ、ここで石崎さんの言われている全体は、重要な問題提起で、網羅的(時間空間範囲、属性の)粒度は、その基礎です。それで、とりあえず、上のように644の一部を削除しました。
 石崎さんがこういう問題意識を持つ人だと分かったことは、石崎さんの「動機」「心情」の意味を知ったのと並ぶ高原のもう一つの前進でした。
 この内容の深化と具体化は非常に難しいと思います。今の単純否定もよくないが、下手をすると野合になります。しかし、この内容の深化と具体化が、コメント626、633で述べた議論、民主主義の基礎だと思います。思考の基礎でもあると思います。

 ここの石崎さんの関心が、人の意見の把握、認識です。高原は、その基礎が粒度だと述べた。繰り返しで恐縮ですが、粒度は、人の意見の把握、認識の基礎であるだけでなく、認識一般、事実変更、価値の基礎です。

648: by 石崎徹 on 2017/02/08 at 16:58:00 (コメント編集)

 つまり主語は「石崎」ではなく、「高原」さんだということですか?
 それにしてもまだわかりません。文章間の因果関係が不明なのです。
 <とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。
(粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)>

 <自分は「粒度」を意識しようとしているのだが、実際には言葉の上だけで、結局その言葉の意味さえ理解できていないということがわかる。だから当然我々は「粒度」を意識していないということもわかるだろう>
 最初の「わかる」は高原さんが自覚しているという意味ですか?
 次の「我々」は誰ですか? 高原さんが自覚することがなぜ「我々」につながってくるのですか? 二つ目の「わかる」の主語は誰ですか?

647: by 高原利生 on 2017/02/08 at 14:55:21 (コメント編集)

石崎さんの「肯定の肯定 続き 高原さんへ」
2017年02月07日 (火)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.htmlへのご自身のコメント
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment646
についてのコメントです。

 分からない点を訊いていただくのが、一番、改善に役立ちます。今までの石崎さんからの指摘は大変役に立っています。

 もともとの文は、次のとおりです。
 「「根源的に網羅することは不可能」に近いことである。しかし、議論や民主主義には欠くべからざることであるので、とりあえず、今、自分が語ることの粒度(扱う話題の空間時間範囲、扱う属性。これを言うだけで意識していないことが分かるだろう)を意識し明確にしようと言っている。」

 主語と目的語を、下線で示して入れます。元の文と二点変えています。
 かっこを外に出しました。ここで「根源的に」という特定が加わるのは間違いでしたので省いています。

 「我々が、粒度を網羅することは不可能」に近いことである。
しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、
とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。

粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである高原がこれ(つまり、粒度の定義)ここで言うだけで、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)」

 かっこは、「その時に言いたいことは全部言う」という悪い癖で、つい使ってしまいます。使うと結果として、論理が途切れて分かりにくくなります。別に文を作ればよかったのです。

 この後書いた原稿が一般論的感想と愚痴になったので、コメント644の後ろに移しました。

646:まだよくわかりません by 石崎徹 on 2017/02/07 at 21:23:36 (コメント編集)

 主語述語がはっきりしていないのです。「云々を石崎が意識していなかったということを石崎が理解する」という意味ですか?

645: by 高原利生 on 2017/02/07 at 18:27:16 (コメント編集)

 すみません。単に、
『粒度が「扱う話題の空間時間範囲、扱う属性」だという注を付けると、「扱う話題の空間時間範囲、扱う属性」など意識していなかったことが分かるだろう』
という意味です。持って回った言い方になりました。

 ジョーク云々ですが、最初は、石崎さんが誤解していると勘違いしていました。そうでないらしいので、元の稿の「誤解している」という表現を消しています。

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