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高原さんへの暫定的な回答

 今回、植田さんと高原さんとの間で交わされた言葉、それから去年10月頃にご両人の間で交わされた言葉(もちろんその中には高原さんからぼくへの批判も入っているのですが)を読んでの感想を少し書きます。(10月の文章もじつは今回初めて読んだのです。去年は他のことにかかりきりで、この問題をあつかう余裕がありませんでした)。
 最初にお断りしておきますが、ぼくは高原さんの主張の全体像をほとんど理解できておりません。高原さんの使われる特殊な用語の意味がつかめないのと、高原さんの日本語の言いまわしがあいまいに思えて、ぼくの日本語理解能力では、やはり真意がつかめないのです。
 だからここに書くのはぼくが高原さんの文章をこういうふうに受けとっている、という限りでの感想です。

 すべての思想は仮説である(このことは高原さん自身も言っておられたと思うのですが)。それは一時的、局地的、相対的であって、それ以上のものではない。
 したがって「根源的網羅思考」と高原さんが言われているのも、努力目標であってそれ以上のものではない。必要なのは「根源的網羅思考」の努力の結果何が生みだされたのか、思考の果実であって、努力目標を繰り返し力説されても、「ああ、そうですか」と言うしかない。
 <人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである>
 高原さんによると、これが人類の数千年にわたる歴史の現実であり、したがって今後も人類の歩いていく道である、ということになるらしい。
 ぼくがこの言葉を読んでまず感じたのは以下のことである。
 これは人類がこう生きてきたと言っているのか、それともこう生きるべきであると言っているのか、この文章からでは判断できない。
 それに対する高原さんの回答が、いま書いたとおり、「現実であって理想である」ということらしい。
 そう言われてしまうと、これもまた「ああ、そうですか」としか言いようがないのである。必要なのはこの言葉から生まれた果実を書くことであって、この言葉をなんべん書いてもそれはお題目でしかない。
 そもそも<人類>とは何なのか。それは人間なのか、そうでないのか、そうでないとしたら、どう違うのか。
 <人間はどう生きてきたか>という現実を語るとしたら、ぼくにも多少は言いたいことがある。
 <人間は欲望や情念やその他ありとあらゆる心的動機につき動かされて生きてきた>
 その動機は限りなく多様であり、だから我々は幾万の小説を必要とする。人間を要約できるなら小説なんか必要ない。
 だが、もちろんそれらの動機から普遍的なものを探し出していかないことには、我々は前へ進めない。
 だから<人類は>と問うことにも意味はある。しかしその場合にも我々が問うのは人類の<動機>であって、<目的>ではないだろう。
 <人類の目的>と言ってしまえば、目的が達成されれば、もはや人類は存在意義を失う。人類は<目的>を持っているから生きているのではなくて、<動機>を持っているから生きているのである。
 <目的>というのはお役所的、学校教育的、お題目的語感のぷんぷんする言葉である。
 <目的>があって生きるわけではない。<目的>のない人は生きていないのか。そんなことはない。人はまず生きている。これが出発点だ。そして生きている人は多様な動機を持っている。それはさまざまな欲望であり、情念であり、その他もろもろの心的動機である。これを達成するために人は目的を立てる。目的とは欲望達成のための手段である。
 <目的>を重視するのは技術者的発想である。たしかに技術者は目的達成のためにプランを練る。しかしより重要なのは、その目的は何のために立てられたのかと問うことだろう。
 橋を作るという目的のために人は設計図を書く。橋を作るのは人や物を渡らせる目的のための手段である。人や物を渡らせたいと思うのは、やはり何らかの人間的動機がそこにあるからだろう。
 高原さんは最終的には人類の目的を<自己の保存>と<種の保存>というところに持って行く。これに対しても、我々は結局「ああ。そうですか」としか言いようがない。
 高原さんはそれ以外に何を語っているだろうか。
 <利益第一主義に代わる新しい価値観>である。これを探し出すことが重要で、これが見つかれば人類は幸せになれる、と言っているように聞こえる。なんだか宗教じみて聞こえるのだ。
 <価値観が先か制度が先か>という植田さんの問いに<鶏が先か卵が先かと問うことには意味がない><原因結果という考え方は無意味である>と答えている。
 つまり<制度設計をしつつ価値観を変えていく。相互関係にある。これが弁証法である>ということらしい。
 だが、どのような価値観が利益第一主義に代わるのかという回答はいまだ示されないし、どのような制度変更が可能なのかに対しても、<社会主義ではダメだ>というところから一歩も進んでいるわけではない。
 もちろん高原さんの求めているものもおぼろげにはわかるのである。<愛>を力説される。マルクスは交換を前提して語ったが、むしろ交換そのものの発生の方が重要なのだと主張する。略奪から交換への変貌の中に未来の人類へのヒントがあるだろうと。
 この点ではぼくも<ボノボ>の例を挙げた。また、最近朝日新聞に載った例では、赤ちゃんも正義感を持っている、何世代にもわたって社会生活をしてきた人類の遺伝子には正義感も刻まれているのかもしれないという実験結果が報告されている(まだ確証のある話ではありません、念のため)。
 もちろん我々は人間のいろいろな可能性に対して心を開き、楽天的に様々な可能性を探っていくべきだ。だが、<愛>の力説からは、マルクスがフォイエルバッハに対して<愛! またしても愛!>と皮肉を込めて言った言葉が頭をかすめるのだ。
 これに対して植田さんは制度の変更が人間の価値観を変える可能性の方に目を向けている。もちろん植田さんだって相互関係の弁証法を認めないわけではないだろう。その程度のことはとっくに常識だ。要は比重の問題、そしてどちらを研究対象とするかという問題なのだ。
 植田さんが可能性を感じているのは、ITによって経済関係に画期的な変化が生まれてきつつあること、これが新しい制度を生みだし、新しい人間関係を生みだすかもしれないということについてである。これに関する大部のペーパーも去年受けとったが、まだ読めずにいる。読む前の予感としては疑問も生じてきそうだが、ともかくも何らかの具体性を持った探求の予感もある。
 そういう具体性は高原さんの文章からは残念ながら感じられないのである。

 なお高原さんのコメント632で<植田さんが改良しか認めないとあからさまに言われるのには驚きました>と書いているのは誤解です。植田さんの文章のこの部分は石崎説の紹介で、<石崎が改良主義に傾いている、従来の社会主義が説得力を失ったのでそういう考え方が出てくるのも理解できる>と言っているので、必ずしも植田氏の考えとして言っているわけではありません。(631の終わりのほう、「大きな物語としての社会の設計を重視するのか」に書かれているのがそれです。読み返してください。ここは植田さんの意見を言っているのではありません)。

 もう一点。
 632(高原)
 <どこに「一人一人の多様な個を確立し、その個の労働が新しい価値と事実の変更を続けていくこと」を目指した伝統的「マルクス主義」があったでしょうか?>
 ここも誤解です。ここは631(植田)の前項と同じ部分で、<伝統的なマルクス主義が目指していた理念とアプローチ、個の解放とそれを可能にする社会の設計、と同じではないでしょうか>と植田さんが言っているのは、当時のマルクス主義がそういう理想を掲げていたのに現実はまったく違うものになってしまったということなのです。理想を掲げることの危うさについて言っているのです。
 現実に、我々の青年時代にあってさえ、純情なマルクス主義青年の思いはそういうところにあったのです。これは歴史的現実です。

 植田さんが危惧しているのは、高原さんが「理念と制度との相互弁証法だ、卵か鶏かではないのだ、原因結果ではないのだ」と言いながらじつは理念の方に重点が行き過ぎて、どういう社会を作るのか、現実のいまある社会がどういう経過を経てどういう社会に変わっていくことができるのかということへの考察が足りないのではないかということなのです。
 それもおそらく植田さんとしては高原さんへの批判としてよりも、それが高原さんの道、自分の道は違うということなのではないでしょうか。

 そしてぼくの道もまた違います。それぞれに違うので、違うというところで抽象的な言葉ばかりが躍っている感じがします。それがぼくらの現状です。実際には何をどうすればよいのかわからない、道を探しあぐねているというのがぼくらの現状ではないでしょうか。
 それはまたぼくらがすでに年を取りすぎて、新しいことを始めるだけの時間的な予想も、気力的な予想も立てがたいということでもあるのでしょうが。

 もう一点、これは別の問題になりますが、「存在と無」緒論における電気の問題。
 サルトルの名誉のために言っておきますが、サルトルは電気現象をもって物質が物質現象であることを証明しようとしたのでもなければ、結論づけたのでもありません。彼はデカルトからフッサールを通って、その認識論的存在論の中から存在とは究極的に存在現象なのだという結論を導き出し、そして緒論の最後で電気現象をわかりやすい例として挙げたのです。
 ぼくは緒論だけで本文を読んでいないので、そこから彼がどう論を展開したかは知りません。「例やたとえは人を過つ」と高原さんは言われますが、しかし電気現象はただわかりやすいというだけで、すべての物質が基本的に電気と変わりがないことはあきらかでしょう。そしてそれは単に物質がそうであるというだけではなく、すべての存在がそうなのではありませんか。
 もちろんこれについては異論があって当然だと思います。ここではただサルトルについての早まった結論を指摘したかったのです。

 植田さん、高原さん以外の方で、一連の経過に関心を持たれる方がおられましたら、「植田与志雄氏への手紙」で検索してください。そこへ8件のコメントがついています。最初のコメント637が非常に長いのですが、ずっと下へ走っていくと、631、632が出てきます。これが植田高原論争です。
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