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日本共産党について(経済)

8、経済
 これは最も重要な問題であり、最も複雑困難な問題であり、そしてぼくの最も苦手な問題である。
 とりあえず大雑把に述べてみる。とはいえ、この先再述してもそれなりの論にするだけの知識がぼくにはないが、いちばん根本的な問題であるから、繰返し帰ってくることにはなるだろう。
 不破哲三はその著書(「新日本共産党綱領を読む」新日本出版社2004年)の中で、「ゴータ綱領批判」を引き合いに出して、マルクスとレーニンの違いをくどくどと述べている。何が言いたいのかよく分からないのだが、「未来社会の指標は“生産手段を個人が所有するか社会が所有するか”という点にだけあって、ここに分配問題を持ち込むのは正しくない」ということなのだろうか。まあ、たしかにSF的未来についてあれこれ言ってみてもはじまらないのだが、なぜことさら「分配問題」だけを敵視するのかよくわからない。「未来のことは分からない」とだけ言っておけば済むことではないか。分からないのに言おうとしているところにこの文脈の理解しがたさがある。
 共産党にとって社会主義体制は少なくとも当面の問題ではない。いまは「ルールなき資本主義からルールある経済社会」を目指しているはずである。しかしこのスローガンもよく分からないスローガンで、「ルールある資本主義」を目指しているのか、それとも「資本主義以外の経済社会」を目指しているのか、はっきりしない。はっきりしないので「ルールある資本主義」を目指しているのだろうと解釈して話を進める。だがそれは、社会主義の「体制」ではないとしても、なんらかの社会主義的規制を加えられた資本主義ということなのだろう。つまり社会民主主義的資本主義なのだ。
 まだるっこしく述べてきたのは、なぜ未来社会の話が出て来るのかさっぱり分からないので、共産党と未来社会の距離を確認しておきたかったのだ。
 つまり共産党の言う「未来社会」がまさにSF的未来社会であるなら、それについて何を言っても意味がないだろう。ましてマルクスとレーニンの意見がどう違おうが違うまいが、そんなことは学者が研究すればいいことで、我々にも関係なければ、政党にも関係ない。政党は学術団体ではないだろう。
 問題は「未来社会」にとって分配問題が必要か不要かではない。いま現在、いまこの資本主義経済のど真ん中で、「分配問題」は大事なテーマであるかないかということの筈である。
 そして皮肉なことに、不破哲三が未来社会における分配問題を否定したこの瞬間に、分配問題は資本主義経済におけるもっとも重要なテーマとなっている。(遠まわりしたが、これが言いたかった)。
 剰余価値をどう分配するかという問題がある。(以後、学問的には正しくない用語法となるかもしれないが、それはそれで指摘してもらうとして、真意をつかみとってほしい)。
 剰余価値は労働者の労働がその労働力の価値を超えて生みだした価値であり、不払い労働であり、富の源泉であり、そしてまた搾取でもあるのだろうが、ぼくの考えではこの搾取は社会的に必要な搾取である。で、ぼくはここではまだ搾取という言葉は使いたくない。それが経済学用語というよりも道徳用語のように聞こえるからである。
 剰余価値は必要である。もし労働者が自己の労働力を再生産するのに必要なだけ働き、もしくは、生みだした価値のすべてを自己の労働力再生産のために消費してしまうならば、この社会の経済は行き詰まり、破壊されてしまうだろう。
 資本は再投資されねばならない。再投資に必要な資本が常に生みだされねばならない。そうでなければまわらないのは、何も資本主義社会だけの話ではない。どんな経済社会にあってもそうなのである。
 要は剰余価値をどう分配すれば経済が最も効率よくまわるかということなのだ。
(ここで経済学用語法からずれてくるかも知れないが、とりあえず面倒なのでそのままこの言葉を使う)。
 剰余価値を、資本と、賃金と、税金との間でどう分配するのかという問題である。
 少し角度を変える。いま地球上のどこの経済も、国際経済とのからみで論じなければ無意味である。ただいきなりそこに行くと話がいよいよややこしくなるので、まずは国内を切り離して考える。
 不況とは何か。物資が余って人々が飢えることである。これが資本主義のパラドックスだ。物資が余ると人々は飢えるのである。何故そうなるか。需給バランスが崩れるからだ。供給量に対して、需要が少なすぎるから、人々は失業するのである。つまり物資はすでに充足されていてこれ以上必要がないのか?
 実はそこに資本主義経済学の勘違いがあると思う。「需要」とは「必要」ではない。
 需要とは何か。それは必要プラス金である。どんなに必要としていても購買力がなければ需要とはなりえない。
 資本主義工業生産性の目覚ましい進歩は、剰余価値率を飛躍的に増進させ、著しい富の偏在が起こって、一方に失業と貧困を生み、他方で資本の行き場を失わせてしまった。
 だからまず分配が問題となる。もちろん共産党の主張となんら変わらない。
 そしていまから述べる、そこから導き出される結論も、共産党と何ら変わりないのだが、導き方の微妙な違いを生みだす背景認識の違いが、種々の違いとなって現れるかも知れない。
 労働力はいま余っているのか、という角度から見てみたい。確かに生産現場の労働力は余っているだろう。だがサービス現場はどうか。商業的サービスではない。それ以外のサービスである。そこには圧倒的な人手不足がある。すなわち、医療、介護、福祉、教育、保育その他である。どこも人が足りなくて必要を満たすことができない。労働力が必要とされ、かつ労働力が余っているのになぜ充足されないか。必要が需要に転化しないからだ。つまり金がないからだ。なぜ金がないか。国家が予算を組まないからだ。なぜ組まないか。金がないからだ。何故ないか。剰余価値が資本に偏って、税にまわってこないからである。
 ここにも分配の問題がある。
 もし労働力が余っていて人々の必要がすでに満たされているのなら、それはユートピアである。人々は遊んで暮らせばよいのだ。だが必要は満たされていない。需要が足りないだけである。この「必要」と「需要」の区別をつけることができないのが、資本主義経済学の致命的欠陥だと思う。
 ここまでの結論も共産党と一致している。
 ただぼくの印象では、共産党は、この労働力の過剰と不足という問題を、有機的に総合化できていない。ただ個別の問題としてしか提起できていない。彼らは資本主義一般からしか語らない。必要なのはいまこの日本の資本主義をどう分析するかだ。
 経済の構造改革が必要な局面に来ているのだ。資本主義経済学はそれを盛んに強調する。だが、彼らの構造改革は構造改革ではない。構造維持である。
 もはや産業への設備投資が不要となっているのだから、剰余価値を不必要に資本にまわさなくてよいのである。実際資本はだぶだぶにだぶつき、マネーゲームで遊んでいる。これを税収として吸い上げ、福祉その他のサービスにまわさねばならない。
 同時に労働者は、産業労働者からサービス労働者に変わる必要がある。じつはそこにも多くの困難がある。それはまたの機会に述べるとして、経済の構造改革という問題は、まさに左翼こそが提起すべき課題なのだ。
 共産党の選挙ビラを読むと、個別の課題が列挙してある。こんなビラ誰も読まない。国民は経済の構造を知りたがり、構造の行き詰まりの原因を知りたがり、どう構造転換できるかを知りたがっている。いまの国民は共産党が思っているよりもずっと知的レベルが高いのである。
 もちろんぼくが書くような面倒くさい文章も誰も読まない。誰もが興味を引き付けられて、簡単に読めて、納得できるようなビラを作らねばならない。
 その点、民主党の「コンクリートから人へ」は時宜を得たスローガンだった。だがそこにも大きな問題がふたつあった。
 ひとつは「不要不急の公共投資」という言い方である。その意味するところは正しいのだが、これは地元の心を傷つける。地元にとって、不要のものなどない。どんな過疎地だって、新幹線も欲しい、高速道路も欲しい、空港も欲しい。あれば便利に違いない。でもペイしないし、もっと切実に必要なものがあるだろう、という比較の問題なのである。不要なのではない、必要なのだが、そこまではまだ無理だということなのだ。
 第二は、先に触れた労働転換の問題である。永年現場で働いてきた労働者、あるいは彼らを使ってきた業者に、「もうコンクリートはやめたから明日から福祉現場で働け」と言っても無理だ。経過措置が必要なのだ。世の中は徐々にしか変えられない。
 だから「コンクリートから人へ」は中間層はひきつけたが、現場で働く人々には評判が悪かった。しかしともかく分かりやすいスローガンである。分かりやすいが誤解も招いた。分かりやすく誤解を招かないスローガンを見つけ出さねばならない。そのためには熟練したキャッチコピーの専門家が必要だが、同時にまた、経済の現状におけるキーポイントを鋭くえぐりだす論理が必要なのである。
 誰にも読まれない個別問題の列挙とはサヨナラしよう。
 ここまでは国際経済と切り離した話である。言ってみれば非現実的な話だ。実際はそうはいかない。国際競争のただなかで日本人の生活水準をどう維持していくかという問題になる。産業も資本も資産家も、コストと税の安い国へ逃げ出していく。こうして負のスパイラルが始まる。すでに世界資本主義はそこにどっぷり漬かっている。
 だからもしいま与党になったら、難しい問題と直面することになる。すぐに現状を急転換できない。しかしだからと言って現状追認だけでこれを何とか変えようという世論を作っていくことができないなら、人類史は後退を始めるだろう。いまのままではいずれ資本主義は持たない。これを持ちなおさせるためにはどうせねばならないかという提言をやっていかねばならない。
 社会主義とは、ぼくの考えでは資本主義の救世主なのである。社会主義的改革が進むほど資本主義は栄える。社会主義が後退すれば資本主義は行き詰まる。
 まさに大雑把にしか語れなかった。わざわざ読む必要のない常識だけだったかもしれない。しかしとりあえずここが出発点だ。
 それで? 生産手段の社会的所有はどうなるのか。ぼくの考えではそれはSFの話であり、共産党にとってもたぶんそうなのだ。それをはっきり言おうとしないので、マルクスとレーニンの違いなどといういまさら何の意味もない問題をグダグダと書いているのだ。たぶんオールドコミュニストが共産党から離れるのを恐れているのだろう。
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