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「失われた夜のために」について――矢嶋直武氏に答える(その2)

 共産党

 数名の方に読んでもらって、寄せられた疑問は共通している。「帝国史の意味が分からない」ということと、「共産党を辞めた理由がわからない」ということである。
 だが、党とは全く無縁に生きてきた人からは後者の疑問は出なかった。しかし、いずれにせよ少数の方にしか読んでもらえていないので、読者の反応を提示するというほどのことができるわけではない。だから推察なのだが、おそらく党と関係ない一般の人は、読んでも後者の疑問は持たないのではないかという気がしている。
 人生のどこかで党とかかわりを持った人には、党はたぶん特別な存在だ。だが、一般の人にはそれはありふれた小さな団体のひとつにすぎない。自民党のような大きな組織を辞めたって誰も何故辞めたかとは問わないだろうから、ましてちっぽけな共産党を辞める理由に興味を持つ人はいない。一般の人にとって共産党というのは特に関心のある組織ではない。なにかの動機で入党し、なにかの動機で辞めるだろう、という程度だ。その動機の解明がストーリーにとって重要だと思うのは共産党関係者だけではないか。
 矢嶋氏はいみじくも「失恋が理由だろう」と看破している。<「あんたは失恋して逃げ出したんだと思っていたよ」>(8章)と青木が断言したのと同じように。
 9章の圭子との再会と再びの別れで締めくくったこと、このあと10章で主人公の心理になんらかの変化が認められることからすれば、当然これはこの物語にとって中心的なテーマのひとつなのだ。青春にとって失恋は小さな事件ではない。だからそういう解釈でも一向に差支えはない。
 だがもちろんほかの理由もいろいろある。これも矢嶋氏が書いているように、この人物は<どこにいても違和感を持ってしまう人間>なのだ。だから特に党自体が問題になっているわけではない。組織というものへの疑問、主義というものへの不信、そしてその根本にはこの人物の非社会性がある。

「コンビニ人間」

 サルトルの「汚れた手」の20歳の主人公ユゴーは党の新聞編集の仕事を辞めてエドレルの秘書になった理由をエドレルから問われる。実際にはエドレルの暗殺を党から指示されて来たのだが、そのことを隠しつつも本心に触れて答える。

(ユゴー) 規律によってです。
(エドレル) しょっちゅう規律々々というなよ。このことばしか口にしないやつをわしは警戒する。
(ユゴー) 僕には規律が必要なのです。
(エドレル) なぜだね?
(ユゴー) 僕の頭の中には、考えがあんまりたくさんあるんで、そいつを追い払う必要があります。
(エドレル) どんな考えだ?
(ユゴー) 「自分はここでなにをしているのか? 自分が望んでいることを、望むことは、正しいであろうか? 自分は、いま、道化を演じている最中なんじゃないか?」などといった類いです
 (そしていくつかの会話の後、)
(ユゴー) 僕は自分を忘れるために、入党したんです。

 <僕らの原点はベトナム戦争だったんだ>(8章)と主人公自身は学生運動に参加した動機を語っている。それ以外の動機はまったく書いていない。だからたぶん無理だったのだろうが、記述全体に現れる主人公の非社会性からいえば、社会的動機は彼にとってむしろ重要ではなく、このユゴーにおけるような心的動機を推定してほしいというのがぼくの考えだった。

 すなわち、端的に言ってしまえば、彼は村田沙耶香のコンビニ人間なのである。社会の中での自分の位置を見出すことのできない人間だ。この社会で生きる基準となるべきものが彼にはない。そして村田沙耶香の古倉恵子がコンビニマニュアルの獲得によってコンビニのなかで充実した生活を獲得できたように、彼もまた大学で民青と出合ったとき、そこに納得できるマニュアルを見出したのだ。
 だが完全には納得できないのでしばしばそこを離れる。納得できないのはマニュアルの内容ではなく、マニュアルを持つということ自体に対してである。ところが離れてしまうと彼にはもはや生活の基準がない。何もしないでは退屈なのでゲームに走る。ところがゲームというものには習慣性があるのだ。それは中毒症状を来たす。やめたくともやめられなくなってしまう。そしてそれは精神を荒廃させる。彼はもちろんそれを自覚しているので、また民青なり党なりに舞い戻る。そういうことを繰り返してきた人間なのである。
 ヘミングウェイに「兵士の帰郷」という短い作品がある。ヘミングウェイの長編は波乱万丈のストーリーで通俗的な読み方をされてきたが、短編を読めば、長編の真の意味も、映画にできるような内容ではないことがわかる。映画では文学的なものは伝えられない。
 この短編の主人公はヨーロッパで第一次大戦を戦って故郷アメリカの小さな町に帰ってくる。そして何もしない。何もする気になれないのだ。
 <あそこでは為すべきことがあった。自分のその日そのときすることはすべてわかっていた。だがここにはなにもない>
 即ち古倉現象である。戦地には戦地のマニュアルがあった。兵士としてなすべきことははっきりしていた。だが故郷には、平和には、マニュアルがない。
 オウム真理教から救い出された若い人が、しばしばまた舞い戻ってしまうということが指摘されていた。オウム真理教の中には従うべきマニュアルがあった、そこから出てしまうと何もない、どう生きてよいかわからない。
 じつは民青、共産党でもそういう現象が見られた。民青や党を離れた人間が、しばらくすると民青や党のまわりをうろうろし始める。協力者となる人もいるし、反対に妨害を始める人もいる。ひとつのマニュアルに慣れた人間は、そこを離れると何をしてよいのかわからなくなる。何をしてみても虚しく充実感が得られない。

 こういった問題を心理学の問題にしてしまえば、それはハウツーになる。ほかの生きがいを見つけて、ふたたび充実した人生を送りなさい、あなたを満足させられることが必ずどこかにあります、ということになってしまう。
<価値が人間によって作られたことを認めるならば、価値が偶然によって作られることをもまた認めねばならない。それ以上のことはもはや哲学の領域から去り、心理学の領域に移る。そしてそれは僕には関心のないものだ。
 僕はいまからだって、どんな偶然をも自分のものとすることができるだろう。偶然はどこにでも転がっているし、拾うことは難しくない。花びらを拾い集めれば、ちがった美学を再構築することもやさしい。いつかはそれが堅固不抜の塔をかたちづくるかもしれない。それにしても僕は何故花びらを集めねばならないか。まったくのところ僕は動機に欠けているのだ>(5章)
 人生の動機について記述していたはずの主人公は、
 <氏の登場を、いかに動機づけるか、しばしば、僕はそのことで頭を悩ませてきた>
 と一転して歴史フィクションの筋書きとしての動機のほうにはぐらかしてしまう。
 これがこの小説の雰囲気づくりのために、随所でぼくが用いた仕掛けのひとつなのだ。
 つまりここには主人公の記述のごまかしがある。<偶然はどこにでも転がっているし、拾うことは難しくない> これをぼくは主人公の「ええかっこしい」、強がりを含めた物言いとして受け取ってもらいたかった。主人公の記述にはすべて裏がある。
 架空の帝国史はそういう意味で主人公の内面とつながっているので、これをいますぐ削除するのは難しいのだ。

 <二年だ。精確に言えば二年半だ。すると僕はあの頃、そんなに若かったのか。それはまだすべてが可能な年頃といってよかったはずだ。ところが僕は自分をひどく老年だと思いこみ、あの日々をまちがって生きてしまった>(1章)

 この部分に矢嶋氏は大きな疑問を提出した。たしかにここは問題のある個所だ。
1. 二年というのは<そんなに若かったのか>とふりかえるほどの昔でありうるのか?
2. <まちがって生きてしまった><あの日々>とはどの日々を指すのか?

 たしかに成人にとって一年二年は昨日今日のことに過ぎない。まして我々老人には10年20年でさえ昨日今日に思える。だが20代というのは人によっては微妙な年齢である。とっくに大人になっている人もいれば、なりきれていない人もいる。
 ぼくの孫が10歳にもならない頃、自分の少し前のことを振り返って、「むかし……」と言った。ぼくらは思わず笑ったが、ぼくらにとっては昨日のことに過ぎなくても、幼児にとっては少し前でも「むかし」なのだ。15歳の水泳選手がメダルを取ったとき、「いままで生きてきたなかで一番しあわせです」と言った。このときもぼくらは思わず笑った。ぼくらの感覚では15年は「いままで生きてきたなか」には入らない。
 ぼくらの目からは24歳でも26歳でもたいして変わらないように見える。しかしその年齢を生きている人間にとっては必ずしもそうではない。激しい変化を生きている青年にとって、一年はぼくらの10年以上を意味する。26歳が二年前を振り返って、「そうか、あのときはまだ24歳だったのか。ずいぶん若かったのだな」という感想を持つことだってある。おそらくもう二年経てば、「そうか26歳だったのか。若かったな」と思うかもしれない。だが26歳のいまは「すっかり齢をとってしまった」と思いこんでいるかもしれない。
 人生を後悔している若者にとってはなおのことそうだろう。
 その後悔の日々とはいつのことを指すのか?
 まず直接的には、すべてを投げ捨てて旅立った二年半前の夏への後悔がある。しかしおそらくそれだけではない。そこにつながった一年間、即ち<あの輝かしい夏>から配転にあって、<それから、あんたは次第に崩れていったでしょう?>(8章) 大人たちを扱いかねて元職場の若者の組織化を担当しつつも自己の分裂に苦しみ、<「ひどく自己を分裂させてね。会社で一日沈黙していて、寮に帰ると多弁になるんだ」「そう、君は確かにそのことで悩んでいた」(小野)>(1章)いったん離党届を出して撤回はするが、<その時、結局、僕はやめなかった。僕はすべての役を下り、ただ自分のやりたいことだけをやることにした>(4章)5月にはメーデーデモで小平と知り合い、文学サークルを結成する。だが圭子との関係にも複雑な問題が生じ……という一年間は、決して平穏無事な一年間でもなければ、活発に活動して充実していたといえる一年間でもないだろう。そこからさらに遡れば<何ヶ月か活動したら、また半年くらい下宿にこもってしまう>(1章)という大学生活である。さらにその前には、<僕も中学生のころには>(5章)という中学高校時代がある。
 主人公の後悔、<まちがって生きてしまった><あの日々>には、直接の日々の背後に彼の半生全体があるだろう。

 ただ、おそらく30代で書いた元原稿を、齢とってから継ぎ足し、書き足し、序をつけて完成させたときに、いろんな不注意があったように思う。もとは72年のことではなかったし、25歳(矢嶋氏は26歳と書いているが25歳である)のことでもなかった。70年ころのことを想定して書き、主人公の年齢ももう少し若かった。
 ところが序を書いているときに、秋葉原事件などが起き、ぼくのなかで、ひきこもりがドストエフスキーにつながり、さらにリンチ事件につながってしまった。
 元原稿は第6章キリスト教の女が訪ねてきたところで終わっていた。その続きから書き始めたときに、女のセリフの中に浅間山荘事件を入れてしまった。これが72年の2月だが、リンチ事件が明るみに出るのは3月に入ってからである。
 こうして物語全体が二年ほど後ろにずれた。年齢は序のところで<二〇〇九年の秋に、定年を三年延長して年金生活に入ると><橋本の年令はわたしと一緒だから>と書いていたので、2006年に60歳、1946年生まれ、1972年には誕生日前なら25歳という計算になる。
 このことで、主人公の25歳という年齢が物語にしっくりこないところが生まれたようにも思う。

         ☆     ☆     ☆

 以下にかつてひきこもりについて書いた文を転載する。

 「ひきこもり」に関する独り言       2013年3月24日

 ひきこもりが話題になりはじめて、そう何十年にもならないが、昔からひきこもりはあった。現にぼく自身、生まれた時からずっとひきこもり続けているような人間だから、ぼくのなかでは一貫して切実なテーマだった。書けずにきたのは普遍的なテーマとは思えなかったからだ。でもこのごろ、世の中がぼくに追いついてきた感じで、必ずしも特殊な問題ではなくなってきたので、遅ればせながらやっと書く気になった。それが「失われた夜のために」である。(註 この作品の元原稿は古いが中断していた。それを書き足し書き繋ぎして序を付けたのはこの文章を書いたころである)
 だが、ひきこもりの何を書くのか? 動機か? 否、ぼくは動機に関心がない。
 もちろんひきこもりの状況に説得力をもたすためには、動機をほのめかすくらいはせねばならない。でもそれは読者を小説世界に引きずりこむための仕掛けであって、動機自体に意味があるわけではない。なぜなら所詮作りごとだからである。ルポや手記なら、そこに書かれる動機は問題を考える資料となりうるだろう。だが作りごとで作った作りごとの動機に何の意味があるのか。
 それに実際の場合にも動機は単純ではない。複合的である。だから小説世界ではいくつかの要素をあいまいにほのめかすのがせいぜいであって、これを単純化し、固定化してしまうなら、それが社会的動機であれ、あるいは心理的動機であれ、通俗小説となってしまうのを防ぎ得ない。
 推理小説では、殺人動機の説得力如何が作の評価を大きく左右する。「こんなことで殺す人がいるかい?」と思われてしまっては失敗である。説得力のある動機はときに人を感動させさえする。たとえ作りごとであっても、読者はそこに人情の機微を感じるのだ。
 だが現実世界の殺人犯の動機を我々はいったいどの程度に把握できるだろうか。
 日本王裕仁による大量殺人、連合赤軍のリンチ事件、あるいはオーム真理教による殺人にかかわった人々、その社会的背景や、個々人に固有の心理を突き詰めていっても、分かるのはぼんやりとした輪郭だけであろう。
 もちろんこういう現実の事件に関しては、できる限りの資料を駆使して真相に迫るのが望ましい。迫るだけで到達することは不可能だが、それは本人でさえも自らの動機をかくかくしかじかと断定することはできはしないからなのだが、それでもぼんやりとした輪郭はつかめる。そういう作業が必要なのは、そこからなんらかの教訓を引き出し、今後に生かすためだが、その作業が有用なのは、それが現実の事件だからである。
 作りごとの世界にあっては、動機なるものは描かれる状況に読者をいざなうための仕掛けとしての意味しかない。それは特定されればされるほど現実から遠ざかり、通俗化される。
 以上、ぼくが小説において動機を重要視しない理由の要約である。

 では、動機を書かないとすれば、何を書くのか?
 ひきこもりからの立ち上がりか?
 これもまたそれがルポでなくて小説であるなら、全く無意味なことだと思う。
 現実にひきこもりから立ち上がった人々のルポや手記であるなら、それは有用である。その記録がどの程度現実そのものかについて読者は留保条件を付けつつ読まねばならないとしても、それでもそれは課題を考察する資料とはなる。
 しかし作りごとの世界でひきこもりからの立ち上がりを書いてそれがよくできていて人を感動させたとしても、それもまた一つの通俗小説でしかないだろう。要するに感動させるように仕組まれた小説なのだ。
 誤解してほしくないが、ぼくは通俗小説を否定しないし、むしろ小説というものには通俗的要素は必要だと思っているし、ぼくの小説にもそういう要素は取り入れているつもりである。
 ただ、ここで言いたいのは、それが人を感動させるのは物語がうまくできているからで、もちろん、「うまく」というには、社会や人生への洞察があるいは深く、あるいは多少なりとも込められていればこそなのだが、そしてそこから人々はルポや手記と同様の、あるいはそれ以上の教訓を得ることもできようが、それでもそれは作りごとなのだということである。
 それは心理の実験としての意味は持ち得よう。考察にヒントを与えるものとはなりえよう。しかしあくまでも一次資料ではない。一次資料としての価値はルポや手記に劣る。
 言いたいことは、小説がもしノウハウとして書かれるなら、それはそれだけのものであるということだ。
 ではいったいぼくはなにを書こうとするのか?
 ひきこもりの動機でもなく、ひきこもりからの立ち上がりでもないとしたら、ひきこもりについて書くべきほかの何があるというのか。
 それは「ひきこもり」そのものである。
 いかにひきこもり、いかに感じ、いかに考えているか、そのひきこもりの状況そのものをフィクションとして描き出すこと、この作りごとの世界に豊かな現実感を与えること、ひきこもりが決して特殊なことでもなければ、病気でもない、それは普遍的な現象であり、そこには人々が顧みるべき優れたものが多く潜在しているのだということ、ひきこもりは人より劣った生き方なのではなく、それもひとつの正当な人間のありかたなのだということ、ひきこもりのなかには人生のあらゆる問題、あらゆる哲学が含まれているのだ、それは全人類が顧み、省察してみる値打ちのある現象なのだということ、人々はみな自らのうちにそこに書かれた物語との共通項を見出すことができるだろうということ。こういう世界を構築したいというのが、ぼくの野望なのである。
 ぼくが書きたいのはひきこもりの哲学的側面なのだ。ひきこもりを精神病棟から救い出し、それの本来あるべき正当な場所に据え直したいと思っているのだ。
 それがなんの役に立つのかとは訊かないでほしい。ただそうしたいと思うからするのであって、そして人が是非こうしたいと望むことには、だいたいにおいて何らかの普遍性が含まれているものである。だって、人は誰しも時代の子であり、社会の子だから、その望むことや考えることがそんなに大きく時代や社会を離れることはないはずだ。
(ブログに現在掲載中の本作には期待しないでください。あれは失敗作であって、全面的に改稿予定です)
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