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「失われた夜のために」について――矢嶋直武氏に答える(その4)

(付録1)
 太政官制について

 大宝律令による太政官制については、ぼくが書かなくてもいまどきネットでいくらでも調べられるだろうが、ぼくなりの理解で少し書いてみたい。
「奉行」と「大臣」と、いまの我々の感覚では大臣の方が新しく、奉行はいかにも古臭く感じられる。だがじつは奉行のほうがずっと新しい言葉で、大臣の方が古いのだ。もし徳川体制下のままで日本の近代化がなしとげられていたら、奉行という言葉が残ったはずで、大臣という言葉はとっくに死語となっているだろう。
 天皇家が政権に返り咲いた結果、天皇時代の制度が復活した。いまの官僚制度の名称は、大宝律令を受け継いだ、たいへん古い名称である。
 現在の内閣に匹敵するのは台閣である。

太政大臣(0~1名)正従1位
左大臣(1名)   正従2位
右大臣(1名)   正従2位
内大臣(0~1名) 正従2位
大納言(2名)   正 3位
権大納言(0~1名)正 3位
中納言(3名)   従 3位
権中納言(0~1名)従 3位
参議(8名)    正 4位下

 以上が台閣のメンバーである。ただし太政大臣は名誉職に近く、左大臣が実質上の一ノ上としてふるまう。「権」は「ゴン」と読み、「仮の」「臨時の」「員数外の」という意味である。のちには「権」が大勢任じられるようになった。位は目安である。本来はかっちり決まっており、それより下の位ということはないが、だんだんインフレーションが起こって、相当位よりも上の位になることが多くなった。
 見ればわかるとおり、現在の内閣と違って各省の長官を名乗っているわけではない。しかし台閣メンバーとしては名乗ってはいないが、やはり各官庁の長官クラスの集まりなのである。
 いちばん高位に来るのは近衛府である。衛門府、兵衛府はそれに連なる。

左右近衛大将(各1名)従3位
左右近衛中将(各2名)従4位下
左右衛門督 (各1名)同上
左右兵衛督 (各1名)同上

 近衛大将は大臣、大納言、中納言が兼ねることが多い。中将、衛門督、兵衛督は参議相当官だが、参議ではないことも多く、逆に中納言大納言が兼ねることもある。

 省もある。八省ある。

中務省、兵部省、式部省、民部省、治部省、刑部省、大蔵省、宮内省

 長官は卿、次官は大輔だが、中務とそれ以外とで相当位が違う。

中務卿(1名) 正4位上    中務大輔(1名) 正5位上
七省卿(各1名)正4位下    七省大輔(各1名)正5位下

 このうち中務、兵部、式部の卿は親王任官である。親王にも1品、2品、3品、4品、無品とあり、親王宣下されない皇子は王のままであるか、もしくは姓を賜って、臣籍降下する。三省の卿となるのは有力な親王である。民部以下の五省の卿は非参議もいれば、参議も中納言も大納言もいる。非参議というのは参議相当位にありながら参議でない者のこと。

 あとは大宰府と弾正台である。弾正台とは検察庁のこと。

太宰帥(1名)従3位      太宰大弐(1名)従4位下
弾正尹(1名)従3位      弾正大弼(1名)従4位下

 太宰帥と弾正尹とは中納言、大納言が兼ねる。のちには太宰帥は親王任官となった。帥の宮と呼ばれ、名誉職なので大宰府にはいかない。実質的には太宰大弐が長官である。なお太宰権帥は失脚した高官が九州に飛ばされるときの役職名である。太宰大弐、弾正大弼は参議、非参議クラスである。

 さらに書記官房とでもいうべき官僚がいる。弁官である。

左右大弁(各1名)従4位上    左右中弁(各1名)正5位上

左右大弁は参議クラスである。

 そして職と呼ぶ役所(シキと読む)。左右京職、中宮職、修理職、大膳職。

長官は大夫。大膳以外は従4位下、大膳は正5位上。大膳以外は参議候補である。

 いままで述べたのは各官庁の長官からせいぜい次官クラスであり、その下にそれぞれ軍人、役人が連なっている。たとえば近衛府なら少将、将監、将曹など。衛門府、兵衛府なら衛門佐、兵衛佐。書記官房には、少弁、少納言。省には、少輔。職には亮。大宰府、弾正台は、少弐、少弼など。
 さらに寮と呼ばれる官庁がある。これは各省に付属している。すべてで10数寮あり、その長官は頭である。頭の位は寮により、従5位上と下とある。その下には助がいる。たとえば、大蔵省には、主計寮、主税寮がある。カゾエ、チカラと読むが、いまの主計局、主税局である。(現在は財務省所属だが、大宝律令では大蔵省ではなかったかもしれない)。

 そして地方官だ。地方には大国、上国、中国、下国とある。そこにも守、介、掾などがいるが、国の格によって位が違う。大国の守は従5位上、上国の守は従5位下である。
 あとは侍従と蔵人がいる。侍従の定数は8名で、そのうち3名は少納言を兼ねる。位は従5位下である。蔵人所には蔵人の頭がいる。これは2名で、中将と中弁が1名ずつ兼ねる。蔵人と侍従は天皇の座所に最も近く、名家から選ばれ、出世が早い。
 もっとも、蔵人が置かれたのは嵯峨天皇のときで、奈良時代にはなかった。摂政、関白はそのもう少し後である。

 位はこの下、6位、7位、8位とあり、それぞれに正従と上下がある。その下は初位で、大初位上下、小初位上下とある。
 このうち貴族と呼べるのは従5位下まで。その下は貴族ではない。中央にあっては侍従クラス、地方にあっては上国の守クラス(今でいえば県知事)までである。
 従5位下から上のクラスだけで百数十名になる。

 この制度は共産党の組織を連想させる。共産党は政権をとっていても野党であってもその組織は一緒である。
 共産党には位はない。だが太政官制による台閣という制度は、共産党の中央委員会、幹部会、常任幹部会という制度を思い起こさせる。いずれも各部署の責任者の中から選抜しているのだが、そこに上下関係を持ち込んでいる。
 台閣は現在日本の内閣とは明らかに違う。内閣における各大臣は、現実は別にして名目上は平等である。総理大臣だけが上にいる。しかし台閣には階級がある。参議、中納言、大納言、大臣とはっきり分かれている。これは職能によるのではない。彼らの仕事は台閣による名称だけではわからない。兼ねている官名、それが近衛府であるか、何とか省であるか、太宰府であるか、職であるか、によってはじめて何をする人かわかる。内閣は最初から職能分担である。台閣はそうではない。もちろん最高議決機関ではあるのだが、そしてそれぞれ職能を兼ねてはいるのだが、職能を代表してそこにいるのではなく、ヒエラルキーなのである。
 共産党の中央委員会には百人を超える委員がいて、その人数で会議をしても会議として成立するはずがない。幹部会の提案を了承するだけが仕事で、たまに異論が出ると、共産党の組織がいかに民主的かという証拠にされるだけの話である。実質的な討議が可能な人数ではないのである。では何のための組織なのかというと、それは単に党員に順番をつけるため、ヒエラルキーのためなのだ。

 余談はさておき、太政官制の位と官との関係である。位は、低い位からだんだんに上がっていく。位が上がれば官も上がり、官が上がれば位も上がる。相乗関係にある。
 蔭位制度というものがあって、高位者の子弟は最初からある程度高い位から始めることができる。高官の子はだいたい5位から始める。五位は県知事クラスだが、10代の子がいきなり県知事になるわけではない。侍従などから始めるわけである。
「源氏物語」の「雨夜の品定め」を読めば少し事情が分かる。源氏はそのときたぶんまだ10代だが、すでに近衛中将である。これは4位相当官である。その年上の妻の兄だから20代も後半と思うが、左大臣の嫡子が一緒に宿直している。蔵人の頭ではあるが、まだ参議ではなく、ただの頭中将で、源氏の同僚である。左大臣の嫡子としては出世が遅いが、右大臣の娘が天皇の第一皇子を生んでおり、当然皇太子になり、いずれ天皇になる子の外祖父として、右大臣のほうが羽振りがよく、左大臣には勢力がないのだ。しかしこの頭中将もいずれは関白太政大臣まで上がっていく。
 このとき一緒に宿直している役人がもう一人いて、これは何とかの寮の頭である。つまり役所の局長クラス。すでに中年であろう。だが寮の頭は5位で、二人の若い中将よりかなり位は低い。家柄から言えば、ときの天皇の第二皇子である源氏と、左大臣の嫡子とが相手であるから比べものにならない。でもそれがほとんど同僚として雨夜の宿直をし、どんな女がいいかという品定めで退屈を紛らわすのである。
 後年すでに太政大臣となって栄華を極めた源氏は、その嫡子夕霧にはあえて苦労をさせようということで、大学にやり、6位から始めさせる。6位というのは前述したように貴族ではない。夕霧は大いに不満だが、律義な性格で父に従って黙々と務め、やがてこれも太政大臣となる。
 こういう実例があったのかどうか知らないが、ここには紫式部の思想が現れているのだろう。

         ☆     ☆     ☆

(付録2)
 奈良時代と権力について

 世襲制度の下での権力者が必然的に抱える絶対矛盾がある。権力者は自分の子供たち全員に繁栄してほしい。だからなるべく多くをなるべく高い地位につける。さて権力者が死ぬと、その時点でまず争いが起こる。兄弟の中で誰が後を継ぐかだ。これをあらかじめ防止するために皇太子の制度を作る。それでも争いは起こるが、その制度がないよりはましだ。皇太子が即位して新たな権力者となる。
 この新たな権力者にとって最も邪魔になるのが自分の兄弟たちである。彼らは父親から高い地位を与えられている。潜在的な相続権も持っている。権力者にとってはその兄弟こそ、最も警戒すべき敵である。彼らはいつ反旗を翻すかわからない。そうでなくてさえ邪魔な存在だ。
 権力者の子として生まれた人間は、しばしば、自ら権力者となるか、さもなくば権力者によって殺されるかの二者択一を迫られる。生き残るためには殺すしかなくなる。
 もし権力中枢に権力者の一族だけしかいなければ、彼らは互いに争いあった結果自滅してしまうだろう。
 世襲権力がうまく機能するためには、他人が必要なのだ。自らは相続権を持たずに、権力者を支え、権力者をその親族から守ることのできる力を持つ他人が必要なのである。
 ぼくは天皇一族に対する藤原一族をそのような存在としてとらえる。この両者を対立関係でとらえるような言説には常に疑問を感じてきた。
 もちろんたぶんちゃんとした歴史家たちはぼくと同じように考えているのかもしれないが、ちゃんとした本をあまり読んでおらず、耳に入るのは俗説ばかりなので、そういうものへの疑問ばかりが膨らむのである。
 近江朝を暴力で打ち倒して権力を奪いとった天武天皇には大勢の皇子がいて、みな高位高官に昇った。そのまた子供たちももっと大勢いて、それぞれに有力者だった。だが奈良時代の一世紀に足りない間に、その一族はほとんど滅亡してしまう。互いに殺しあったのだ。
 そこで天智系の復活となる。称徳のあとを襲った光仁天皇は、天智天皇の第7皇子志貴皇子の第6子で白壁王といった。目立たない存在だったので警戒心を抱かれずに称徳の姉妹(聖武天皇の皇女)と結婚でき、それから出世を始め、藤原仲麻呂の乱鎮圧に功績があり、大納言になった。だが、皇族が次々殺されていくなかで、自宅にこもりもっぱら酒浸りになって、暗愚を装った。目立てば殺されるのである。こうして生き延びて、62歳で天皇になった。
 長屋王の変にしても、もちろん彼の一族は藤原一族にとって目障りだっただろうが、それを皇親対藤原という図式に持っていこうとするのはまったくの見当外れである。権力争いには個別の事情がある。通俗受けする謀略史観じみた図式化は茶番でしかない。
 最高権力は、支配階級が互いに無益な殺し合いを続けなくてよいように、その支配の組織化のための内在的要求から生まれてくる。しかし生まれると同時にそれは自己疎外する。最高権力が支配階級から離れて一定程度自立する。こうして支配階級と最高権力との間には一定の緊張関係がある。その力関係はケースバイケースである。
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