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笹本敦史「落葉を踏んで」(「民主文学」17年2月号)

 戸惑っている。短いものを書いても長いものを書いても、テーマも作品のムードもいつもきちんと統一されていた笹本作品なのに、今回珍しくばらばらの印象を受ける。どういうふうに読むべきなのだろう。
 読者としていちばん興味を引かれるのは、伊達という人物である。1980年、大卒で生協に就職した伊達は3年目には早くも管理職につく。生協が急成長していた時期だった。しかしそれも束の間で、90年代の半ば以降、生協は下降に転ずる。業務の縮小に伴って、伊達は45歳で課長の肩書のまま配達業務に降ろされ、その3年後には退職してしまう。その後、離婚して荒れた生活をしているという噂が流れたのち、消息が途絶えて10年。
 5歳ほど年下の真一という視点人物が、配達の途中公園の近辺で伊達に似たホームレス風の人物を見かける。真一は、その夜勤務が退けてから公園に立ち寄り、同一人物を見つけて声を掛ける。だが、その人物は否定して逃げる。真一は追おうとしたが、足を痛めていて追うことができず見失う。
 そのあとも何ページか小説は続いていくので、読者としては伊達が再度登場して何かを語ってくれるのを期待して読むのだが、肩すかしを食ってしまう。伊達は二度と現れない。
 伊達は生協の栄枯盛衰とちょうど歩調を合わせる象徴的人物に思える。事実伊達の生協での20数年を書きながら、作者はその間の生協の歴史を物語る。
 80年代は生協の栄光の時代だった。その頃真一の上司だった伊達は次のように発言していた。
「資本主義経済はいずれ行き詰まるだろう。だいいち自由競争では環境破壊に歯止めがかからない。でも一方で計画経済ではとんでもない非効率が起きることがわかってきているだろ。そのどちらでもない道を協同組合は作れるんじゃないかと思うんだ」
 いわゆる協同組合主義である。第二次大戦後まもなくの日本で一定の革新的役割を担いながら、結局保守に飲み込まれていった潮流である。それが理想家肌の生協職員の頭に浮かんだのは偶然ではないだろう。東欧市民革命は89年、ソ連の崩壊は91年だが、80年代はすでにソ連型社会主義の行き詰まりが誰の目にも明らかになっていた。第三の道への模索は始まっていた。
 だが結局、生協のつかの間の栄華とそのあとに来た衰退には、資本主義の歴史的経過と密接にかかわるいくつもの偶然的また必然的要素があった。そのことを作者はかなり適切に分析する。この部分は伊達の個人的物語と並んで、読者の関心を招ぶところである。しかし伊達の物語が中断したのと同様、この分析も中途半端だ。もちろんそれは短い作品で語れるようなテーマではない。むしろここで作者はひとつの考え方を読者に提示し、読者の側からの賛否両論を期待しているようにも思える。
 そして、協同組合主義は伊達の思いどおりには資本主義のオルタナティヴとはなりえなかったわけだが、資本主義社会主義の双方に展望が見えないなかで、いまもなお、さまざまに試行されている主義であることも事実だ。(たとえば里山資本主義などの試み、つまり空想的社会主義である)。
 小説自体は、伊達の個人的物語と、それに沿って生協の歴史を物語る部分を間に挟んで、その前段と後段とがある。前段は真一の配達業務を語りながら彼が足を痛めているということをかなりしつこく書く。もちろん配達労働者にとってそれは重要な要因だし、また公園で伊達に似た人物を追いかけることができないことの伏線ともなっているのだが、不必要に長い描写に思える。
 後段になって、中田という新しい人物が出てきて、それまで狂言回し以上ではなかった真一がやっと主人公らしい会話を中田との間で交わすが、でも伊達以上に目立つ個性は出てこない。
 全体として、伊達が目立つだけに、前段と後段とが伊達の物語ときちんとつながらないことが、小説にばらばらの印象を与えてしまう。
 だが、それはたぶん、作者の意図した読み方ではない。後段で下請け労働にも触れているところから見ても、作者が書こうとしたのは生協労働のさまざまな側面だったのだろう。

 付言すると、伊達と生協史のなかでもうひとつ注目したのは、90年代になって伊達が次のように言い始めたという部分だ。
「生協は単なる小売業ではなくなった。これからは組合員の生活すべてを支える事業を展開するようにならなければいけない。特に重要なのは生活文化だ」(このころの伊達は30代だがすでに本部に所属する押しも押されもせぬ管理職の一人であり、経営サイドの人間だ)。
 真一は生活文化という言葉に違和感を持ち、流行に左右されているのではないかと感じてしまう。しかし、そういう要素はあるとしても、伊達の主観としては、それこそ資本主義に代わって人々の暮らしと文化を作り出していくところの協同組合主義なのだ、という気持ちがあったようにも読める。でも、いずれにせよ、現実には発展期の企業が陥りがちの多角経営の罠にはまったに過ぎなかった。そして、それはほとんどの企業にとって終末への前奏曲なのだ。
 こういう経緯への作者の語り口にはたしかな批評性がある。
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コメント
636:さっそくの批評ありがとうございました。 by 笹本敦史 on 2017/01/06 at 19:40:16

ストーリーを淡々と書いたのでどんなふうに読まれるかと思っていました。
丁寧に読んでいただき、ありがとうございました。

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