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「シンゴジラ」から「寒い国から帰ったスパイ」まで

 映画はよくわからない。(ほかのこともだけど)。いままでに見てきた本数が少ないし、監督も俳優も知らない。そのうえ致命的なのは、耳が悪いので、セリフがまともに聴き取れない。洋画は字幕が出るので、まだましなのだ。邦画は字幕が出ないので、いつも肝心のセリフを聴き洩らす。
 だからぼくが書くのはほんの個人的な感想である。
 最近映画館で観たのは、「シンゴジラ」と「後妻業の女」、それと「ミタライの事件簿」である。

「シンゴジラ」
 いままで60歳以上千円で観てきたのに、急に1600円取られた。しばらく来ないうちにえらい値上げしたなと思ったら、値上げしたのは1100円までで、残りの500円は特殊なステージ用だったのだ。
 スピーカーをあちこちにセットして、音が方々から聴こえる。これが大変な困りものだった。セリフがほぼ100%聴き取れない。日系アメリカ人という設定の女性が早口でしゃべりまくるのだが、日本語の部分は絶望的で、かえって英語の単語が部分的に聴こえる。
 でもストーリーは単純なので、セリフが聴こえなくてもわかる。東京で暴れまくるシンゴジラをどんな武器でも殺せないので、アメリカが核爆弾を東京に落として都民もろとも殺してしまおうとする。そうさせないために、シンゴジラを凍らせてしまうウィルスか何かを開発しようとして日本の科学者が一生懸命になる、という話である。
 面白かったのは、日本は所詮アメリカの植民地なのだ、アメリカはいざとなれば日本人を殺すくらい平気なのだ、という観点が強調されていたことで、ここには現実感があった。
 シンゴジラはもちろんCGを使っているのだが、ひところのようないかにもCGというところがなくなってきて控えめな使い方をされている。ぬいぐるみか手描きアニメのような作りもの感があって、そこがかえって好感を持てた。ひところの大げさなCG画面には辟易したのである。
 しかしまったく満足できなかったのは、物語が存在しないからだ。シンゴジラと戦うという舞台設定だけで、そこにおける人間ドラマがない。あとで新聞評が何かを読むと、あえてサイドストーリーを作らなかったと書いてある。
 そういうことだったのか。いままでぼくがこれが本筋と思っていたものはじつはサイドストーリーで、単なる舞台設定と思っていたものこそがメーンストーリーだったというわけだ。
 SFは高校の頃から多少読んでいた。発刊間もなかったと思うのだが、SFマガジンを買ったりしていた。SF的パラドックスにはいつも知的興味をそそられた。でも、ぼくにとってそれは舞台装置、物語の背景だった。そのなかにおける人間ドラマがよくできていてこそ、その背景も生きるという感じで、両者の微妙なまじりあいを愉しんできた。ところがそれはサイドストーリーに過ぎないと言われてしまった。そこでちょっと悩んでいる。
 あとこういう映画を単純に映画として楽しむ分にはいいのだが、こういう映画で人々が軍隊の存在に慣らされ、軍隊は必要だと刷り込まれてしまうとすれば怖いなと思う。現実にはシンゴジラは決して現れないし、宇宙人が攻めてくるということもあり得ない。そういうありえないこと、もしくは確率の低いことを物語として楽しむのはいいのだが、それと現実とを区別する賢さが観客にほしい。

「後妻業の女」
 大竹しのぶが脱ぐのかと期待していたら、彼女は脱がずに、鶴瓶だけが脱いだ。(しょうもな)。ラストで不良息子ともみ合いになって、主人公があっけなく死んでしまって、これで終わったらつまらないぞと思っていたら、見事に生き返った。これから観る人のためにどう生き返るのかは書かずにおくが、見事な生き返り方だった。そして性懲りなく後妻業を続ける。「趣味は読書と星を見ることです」といかにもわざとらしく繰り返すところが効いている。悪が勝利する話だが、暗さがない。からっとしてさわやかである。

 あとはBSで観た映画の感想の中で「ミタライ」にも触れる。

「ミタライの事件簿」「ポアロ」「コロンボ」
 ミステリーを並べたのは、ぼくがミステリーを好きだからだが、ミステリーを映画にする難しさをつくづく感じたからでもある。
 映画はだいたい二時間が限度である。このなかで観客に推理の面白さを味わわせるというのは容易ではない。それこそ結局サイドストーリーのほうに流れてしまう。アクションシーンやお色気や人物描写に比重がいく。SFとミステリーとふたつ並べてメーンストーリーとサイドストーリーという問題を考えてしまうのだ。
 もちろんどんな映画でも小説でも人物描写は基本である。ここがしっかりしていないと面白くない。
 そういうなかで推理の面白さをいちばん堪能させるのは「コロンボ」だと思う。
「コロンボ」は周知のとおりドストエフスキーの「罪と罰」である。観客(読者)ははじめから犯人を知っている。刑事と犯人との対決が面白さの中心となる。そしてじつはコロンボも初めから犯人を知っている。ポルフィーリイが初めからラスコーリニコフの犯罪を知っていたように。だからこそ対決が可能にもなり見ものにもなる。
 その対決が中心なのだが、ではコロンボはどうして犯人を知りえたのかは観客には知らされない。知らされないが、コロンボが気付く瞬間(それはコロンボが画面に登場してすぐなのだが)を観客はじつは目撃しているのだ。それが最後に種明かしされ、そのとき観客は、やはりそうだったのかと思うか、あそこが怪しいと思ったんだよなと思うか、全然気づかなかったと思うか、いずれにせよ、その部分は対決と同じ比重で重要な部分なのだ。
 コロンボ形式は、映画の構造を単純にし、観客の興味を一点に絞るという点で効果的である。観客は犯人を知っていてなお推理の面白さを味わうことができる。これは純粋に推理を楽しむ映画であって、アクションもセックスも必要ない。
 こういう形式をとらずに犯人を秘密のままに進めようとすると、犯人候補を並べる必要から登場人物が増える。誰が犯人かわからないわけだから一人ひとりを対等に描き出さねばならない。謂わば主人公が複数いるようなもので、これは大変な作業になる。
 小説の場合はそれが可能だ。だが二時間の映画では難しい。小説を再現しようとしても、時間制限からあらすじのような映画になってしまう。映画は全く別の方法をとらざるを得ない。

 そういう問題意識をもって観ているのだが、ぼくの観たところ「ミタライ」は失敗作である。この映画は福ミスの島田荘司が原作で、福山ロケで作った映画だから見に行ったのだが、推理の面白さは全然ないし、何を観させようとした映画なのかさっぱりわからない。

「ポアロ」はいくつか観た。
 ポアロを観に来る客は、当然クリスティの原作を読んでいる。こういう場合映画はどういうふうに作ればよいのか。
「ABC」と「開いたトランプ」とでは対照的な作り方をしていた。「ABC」は原作どおり、「トランプ」は、設定は原作通りだが、犯人は別の人物に替えていた。推理のすじみちも変えている。
「ABC」を原作と変えてしまったらファンは怒るだろう。あまりにも有名な作品だし、観に来る客もそれを期待してくる。だが、犯人もトリックも推理もすべてわかっている客は何を期待して観に来るだろう。
 ほかの客の場合は知らない。ぼくの場合は自分が一番気に入っているところを映画がどういうふうに描き出すかに興味がある。「ABC」なら、まず被害者同盟が作られ、その何気ない会話の中から共通点を見いだしていく過程、それと並行して、やがてあぶりだされていく犯人像そのままの人物の登場。この気弱で目立たなくていつもおどおどし、でも義務は果たさなくちゃという律儀な精神の持ち主をクリスティは愛情こめて描いており、映画もこの人物は丁寧に描かねばならない。この人物が生きるかどうかが映画の成功の分かれ目だ。そして最後に謎解きの部分、じつはぼくもその部分が小説でどういう展開だったか思い出せないのだが、ここは客にはっきりそれとわかる鮮やかさが必要だろう。
 だが残念ながらこの映画も成功していない。ごちゃごちゃしたままで終わってしまった感じがする。登場人物の多い作品を二時間で終わらせることの難しさだ。

「トランプ」の犯人は殺人現場の部屋でブリッジをやっていた四人以外にはいないことがはっきりしている。しかも四人とも動機を持っている。ポアロはブリッジの点数表から犯人の心理を読んで真相に到達する。
 ところがこのブリッジというのがぼくらがいつもやるセブンブリッジではない。チエホフの「かもめ」でもブリッジが大事な場面に出てきて、これもどうやら複雑なブリッジらしいが、それと同じかまた別のものかもわからず、結局まったくわからないのだ。巻末の解説にブリッジの解説があるのだがそれを読んでもさっぱりわからない。だからポアロの推理にもついていけず、お手上げだった。
 長い小説だから、点数表だけではページが埋まらない。四人それぞれの動機を確認していく作業がそこに挟まる。その中の一人若く貧しい少女の描き方に魅力があってほとんどそれだけで読んだような感じで、あとは記憶に残っていない。
 この映画では犯人を替えることで観客の興味をつなごうとしたのだろうが、これも鮮やかな印象を残したとは言い難い。誰が犯人であってもかまわないような気がした。

「ホロ―荘」はじつは読んでいない。クリスティはかなり読んだつもりだが、本棚には見当たらない。だから犯人を替えているかどうかはわからない。そのせいだろうか、この映画がいちばんよかった。といっても推理に惹かれたのではないのだ。二人の対照的な女優が出てきて、この二人に参ってしまった。結局何かかにか言っても映画は俳優の良し悪しだろうか。正反対の性格の女性を二人の女優が見事に演じている。

 もともとクリスティは推理で読ませる作家ではない。さして見事な推理というのは彼女の作品にはない。彼女の小説の魅力は登場人物の魅力である。この内気な女流作家は自分とは正反対の活動的な女性をしばしば主役にして読者を引き付ける。
 彼女の小説では世間的評価の高い人間が最後まで高いままということがなく、逆に評価の低い人間が最後まで低いままということもない。彼女は人間を型にはめてしまわない。世間的評価とは別のところで人間を見る。
 そして面白いのは、このアメリカ帰りの、イギリスで孤独な少女時代を過ごした内気な女性の、イギリス人を見る皮肉な目が随所に出てくることである。
 ホロ―荘の女主人は最初からずっとにこやかで、みんなに親切で、少し認知症がかったとぼけたところがあったりする。ラストに近く、彼女はあいかわらずにこやかにポアロに向かい、「事件はもう終わったのです。ポアロさんならお分かりでしょう?」とうながす。だがポアロは「いやそういうわけにはまいらないのです」と返す。その瞬間女主人の表情ががらっと変わる。認知症がかったところも好人物らしいところもすっと消えて、いっぺんに理知的で冷酷な顔になり、「あなたはやっぱり外国人ね」と言い放つ。
 ここは見事だ。イギリス人の表の顔と裏の顔、クリスティはまさにそれを見抜いていたわけだが、イギリス人が映画化して、それが原作にあったかどうか定かではないが、自分たちの国民性の負の部分を正確に描写できたということはこの監督の能力でもあろう。

「寒い国から帰ったスパイ」 原作ジョン・ル・カレ 監督マーティン・リット 主演リチャ-ド・バートン 1965年 パラマウント
 書きたいことが多いので、映画はこれで終わりにする。最近一番気にいった映画である。タイトルは以前から耳にしていた。007ものだろうと思っていた。007世代なのだが、映画をあまり見ない人生だったので、たいして見ていない。でもよく耳にするタイトルなので当然見たことがあると思っていた。
 全然違っていた。同じ時代に作られながら、対照的な作品である。007は完全な娯楽で、ぼくは映画を娯楽として見るから、これも好きなシリーズではあるのだ。
 当作品も基本的には娯楽である。しかしまったくタイプの違う娯楽だ。強烈にリアリスティックで、その点が007とは対照的なのだ。
 イギリスと東ドイツとの情報機関どうしの戦いである。スパイどうしであるから、すべてがだましあいで、すべてが嘘なのだ。主人公もだまされているが、その主人公も観客をだます。信じられるものは何もない。そこで観客はこの映画を何度も見なければならなくなる。一度では理解できないからだ。
 東ドイツに潜り込ませていた西側のスパイが次々と発覚して殺され、最後の一人も検問を抜けようとしたところで殺されてしまう。これで東ドイツには西側のスパイが一人もいなくなった。担当者のリーマスは風采の上がらない中年男だが(ここがジェームズ・ボンドとの決定的な違いである)、ロンドンに呼び戻され、「スパイという仕事は神経をすり減らすだろう。そろそろ内勤に戻ったらどうだ」と上司から言われる。事実上肩たたきだ。リーマスは内勤するくらいなら退職すると言って席を蹴る。失業して職安に通うが安定した職にありつけない。ドイツ語のできるのが売りなのだが、「それならもっとしゃべらなくちゃ」と職員に忠告される。
 なんとか図書館の仕事にありつき、そこでナンという美しい若い女性と知り合う。二人の間に愛が芽生え、ロマンスが始まるのかなと思ったとたんに、リーマスは酔っぱらってドラッグストアで暴力沙汰を犯し、刑務所に入る。出所したリーマスに東側の人間が近寄ってくる。話を聞かせてくれればしかるべき金を払うと言う。リーマスはその男と約束を交わした足で、ある家に向かい、そこでかつての上司と会う。じつは失業も酔っ払いも暴力沙汰もすべてが芝居であり、敵のスパイをおびき寄せる目的がいま成就したのだ。
 こうしてリーマスは東ドイツに行き、東ドイツ情報機関のナンバー2であるフィードラーと会う。フィードラ―はユダヤ人だが、上司であり情報機関のトップであるムントを西のスパイではないかと疑っている。ムントは元ナチで、大戦後東ドイツの情報機関で働くようになった代わり身の早い男である。交流を装って訪れたロンドンで殺人に関与し、外交特権を持たないので逮捕される。ところが釈放されて東ドイツに舞い戻り、トップを務めている。フィードラ―は彼を疑っている。この疑いをたきつけてフィードラ―の手でムントを排除させるのが、イギリス情報部の作戦である。そのためにあらかじめ巧妙に準備されていた偽の資金情報をリーマスがフィードラ―に提供する。西側の資金がムントの手に流れていたという作られた証拠をフィードラ―の手に握らせる。
 フィードラ―の告発によってムントは逮捕され、共産党の査問に掛けられる。当初査問は思い通りに進み、ムントの有罪が立証されたかに見える。だがそこからムント側の弁護人による逆襲が始まる。ムント側はリーマスの動きをすべて把握しており、失業は嘘でリーマスが上司の指示で動いており、その目的はムントをおとしいれることだと看破する。そして切り札を出す。ナンが呼び入れられる。ナンはじつはイギリス共産党員で、党員交流で東ドイツを訪れていたのだ。ナンの預金通帳に大金が振り込まれているという事実が暴露される。リーマスはナンがこの件に関係ないことを相手側に理解させ、ナンを釈放させるために、自分がやったことはすべて芝居だったと白状する。こうして一転してムントは釈放され、フィードラ―が逮捕される。
 ところがその夜、リーマスの監禁されていた部屋の鍵が開いており、見張り人が誰もいない。外にムントが待ち構えており、ナンもいて、車が準備されている。壁を越えて逃げろ、その段取りはできているという。
 ここにきて真相がはっきりする。ムントは実際に西側のスパイだったのであり、それを疑っているフィードラ―を排除してムントの安全を守るための作戦だったのだ。
 リーマスとナンは壁に来て指定された個所をよじ登る。そのときナンは撃たれ、リーマスは早く飛び越えろという声を無視して自ら撃たれて死ぬ。
 すべてが嘘のややこしいストーリーだが、現実に東西の二重スパイというケースは多かったそうだ。それが発覚して死んだスパイも多いという。
 この嘘だらけの物語の中で、嘘をつかない人間が二人だけいる。東ドイツのスパイ、フィードラ―と、イギリスの図書館員ナンである。この二人だけが正直で、人間味のある人物として描かれる。
 リーマスがフィードラ―の聴取を受けているとき、いっとき息抜きに山を散歩する。そのときフィードラ―は「スパイの仕事はときには人殺しもせねばならない辛い仕事だ。我々には共産主義の理想があるが、君たち西側の人間はどうやってこころの折り合いをつけるのか」と問いかける。リーマスは「我々には何もない。ただ生活のためにやっているだけだ。西側とはそういう世界なのだ」と答える。このとき二人の心は響き合っている。
 壁に向かって走る車の中で、ナンは「でもムントはフィードラ―を殺した」と抗議する。それに対してリーマスは「君の党だって人を殺すだろう」と答える。このときすでにリーマスは、自分の所属する情報機関によってだまされていたことに気づいており、自分が排除するはずだったムントを逆に助けるために使われたことに、当然激しい憤りを感じており、彼の気持ちはナンと一緒なのだ。だが、生き延びねばならない。そのためにはフィードラ―のことなど考えてはおられない。
 そして、自分たちの情報部が最初からナンを犠牲にするつもりであったことを悟ったとき、リーマスは彼らとたもとを分かつのである。
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