プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

失われた夜のために (その9)

      九

 結局一週間後に、僕は電話した。その次の日曜日に、花見客でにぎわう河原にかかった橋の上で、僕らは会った。おもちゃのような郊外電車を降りて、人ごみの中を橋の方へ歩いていくと、圭子は欄干に寄り添って、人々の頭のあいだで、僕を見ていた。橋が地面より少し高くなっているので、彼女の顔はよく見えた。少しも変っていなかった。僕が近付くまで、彼女は表情を変えずに、ずっと僕を見ていた。人々に押し流されないように、僕は彼女に倣って欄干に身を寄せた。
「久しぶり」と僕はいった。
「ばか」と彼女は呟いた。
「ご挨拶だな」と僕はいった。
「よく平気な顔で会いに来るね」
「じゃ、謝ろうか? でも、僕が謝らなきゃならないのかい」
「そうでしょう? ひとことも言わずに消えてしまって」
 人々は次から次へと橋へ詰めかけて来て、僕らは欄干にすがり付いていたが、押し流されそうな勢いだ。
「向うへ渡って河原に下りないか」と僕はいった。
 彼女が欄干から離れたので、僕は歩き始めた。ともすれば離れ離れになってしまいそうなので、僕は彼女の腕をとった。彼女は素直に僕に身を寄せた。大きな河で、橋は長かった。向うは山が迫っているが、山と川とのあいだに、もうひとつの郊外電車の駅があり、そのこちらの河原は広い公園になっていて、一面、満開の桜で、その下では宴会が繰り広げられていた。花を見るならそちらだが、花を見に来たわけじゃない。それに宴会を縫って歩きながらでは、何の話もできそうもない。橋を渡りきると右に折れて、堰の方へ道をとった。そちらは人の姿もまばらだ。圭子はまだ僕につかまっていた。僕は彼女を抱きしめたいと思ったが、我慢した。この女は結婚するんだ。もう自由ではないのだ。やがて圭子はそっと僕から離れた。
「さあ、話して。いったいどこで何をしていたの」
「あちこちに住んで、あちこちで働いて、そうして生きていた」
「ずいぶん分かりやすいね。それでいまは?」
「やっぱり働いて、生きている」
「あたりまえじゃないの」
「いいや。僕にとってはあたりまえじゃない」
「そうね。あんたは働くことが嫌いだったもんね」
「まあ、そういうことだ。それで、おまえは誰と結婚するんだ」
「あんたの知らない人よ」
「へえ。じゃ、おまえの求婚者たちはみんなふられたのかい」
「どこに求婚者がいたのよ」
「おまえのまわりにはいつも男たちが群がっていたじゃないか」
「友達でしょ。それも党員やサークルの人ばかりじゃない」
「でも、おまえは秋山と寝たんだろ?」
 圭子は鋭く僕を見返した。僕も圭子を見つめた。彼女は平静な様子でまっすぐ立っていたが、息を殺しているように見えた。
「どこからそんな話を聞きこんだのよ」少し声が震えたような気がした。
「当時の僕は情報網を持っていたんだ」
「役に立たない情報網ね」彼女は切り捨てるようにいった。
「まあ、いいさ。終ったことだ」
「あんたはその情報網に踊らされて街を出たの」挑みかかるような調子だった。
「どうだかね。みんながそんなことを聞きたがるが、それはまったく意味のない質問だ。僕はふと出かけたんだ。人はいちいち理由を明らかにして行動するかい? 人間てそんなに分りやすいものかい?」
 彼女は頭を振って心持ち肩をすくめた。
「理由はおそらくいろいろあるんでしょうよ。でもあんたはそれを説明したくないのね。それを説明しようとすると、自分が傷つくからなのね」
「そうじゃない。言葉にするとどれもこれも嘘になってしまうからだよ。僕は出て行った。そしてそれは終ったんだ」
「いいよ。わたしも何もきかない。わたしも党を離れたし、会社も換ったし、昔の仲間とは、ごくたまに限られた人と会うだけよ」
「どうして党をやめたの?」
「わかるでしょ。もともとしっくりこなかった。いまでもあの人たちのことは尊敬しているけど、でも、感覚がずれるのよ。わたしの心にぴったりこないの。それはあんたがいちばん分ってることじゃない。人は、ただ、正しいからって行動できるわけじゃないでしょ」
「僕はおまえがどういう活動をしているのか、ほんとうはよく知らなかったんだ。僕らはそういう話をあまりしなかったね」
「あんたはわたしの本音をぶつけられる相手だったんだ。あの人たちには到底分ってもらえない本音をね。わたしはただわたしたちの仲良しサークルがうまくいくようにと思ってやっていただけで、たいしたことは何もしてなかった。でも、あんたが初めてわたしたちの前に現れたときは、わたしたちの心を揺すぶるものがあったよ。それから、あんたは次第に崩れていったでしょう?」
「かっこよく登場しすぎたのさ。大学では単なる落第生で、入党も許してもらえず、女子学生たちには子供あつかいされて、気の利いたジョークひとつ言えるでなし、人見知りするし、大人が怖いし、それでも工場へ入ったら、たちまちインテリあつかいだ。――自分がどういう人間かということすら分っていなかったのにね」
「離党届を出して、いったん引込めたよね」
「そう。そのときから僕は民青のL・Cを降りて、文学サークルを始めたんだ。あれにはけっこう可能性を感じていたんだが、おまえはあのころ僕に批判的だった」
「それは、わたしが自分を支えきれなくなるような気がしたからよ。あんたが楽な方に逃げたように思えた」
「逃げたのさ。その時にはもうおまえの噂も流れてきたんだ。僕は自分が何者なのか、分らなくなっていた」
「あんたは大学へ戻るべきだったのよ。所詮あの人たちとやっていける人間じゃなかった」
「どうだかな。僕はやっぱり工場で働いているんだぜ。そしてそれが適職のような気がしているんだ。僕はもともと学問に興味がないし、それに、もう人間たちとは関わりたくないんだ」
 僕らは堰の近くで手頃な石に腰掛けた。川は豊かな水量で、流れも速い。堰からは水しぶきが上がっていたが、僕らのところまでは届かなかった。何組かの男女が歩いたり、腰掛けたりしている。見上げる橋の上は相変らずぎっしりと人々が往き来している。はるか向う岸にも、小さな人影が動いていくのが見えた。だがここには、堰を流れ落ちる水の音以外には、ときおり子供の上げるらしい嬌声が、微かに伝わってくるだけだ。僕は首をねじって彼女を見つめた。彼女も見返してくる。僕は黙って彼女を見つめた。圭子も黙って見つめ返してくる。彼女の顔も、とりたてて美人というほどの顔じゃなかった。どちらかといえば小作りな平凡な顔だ。青木は彼女の人気の理由が分らないといったが、僕にも分らない。でも確かに人気があった。そして僕もこの顔に吸いよせられるように惹かれたのだ。彼女はあの頃そうだったように今日も念入りに化粧をしていた。でもどちらかといえば、僕は化粧を落したときの彼女の顔のほうが好きだった。この顔はすぐそこに、手の届くところにあり、彼女の眼も鼻も唇も、すぐそこに、眼の前にある。なのに、この距離感は何だろう。彼女の顔はそこにあり、僕はここにいた。だが、彼女の頭の中まで、僕の手は届かない。彼女の脳細胞の襞のひとつひとつに刻まれた彼女の感情、彼女の思念、彼女の記憶する過去、その愛や、歓びや、哀しみの、そのひとつひとつが、僕にとって手の届かないものなのだ。僕はここにいて、彼女はそこにいるのに、なんて僕たちは孤独なんだろう。彼女は眼をそらさない。僕もそらさない。だが、僕らはわかっている。僕らはもうキスすら、することはないだろう。さっき身を寄せ合ったのがせいぜいなのだ。あれ以上僕らは近付くことはないだろう。たぶん、別れ際に握手するくらいが関の山なのだ。
「わたしたち、自由だったはずよね」
「ああ。でも僕は、自分に耐えられない感情があることを知らなかった」
「それって、あんたがわたしにやきもちを焼いたってこと?」
「まあ、言葉にしてしまえばそういうことなんだろうな」
「だからといって黙って行ってしまうことないでしょ? あんたはわたしに尋ねることも出来たのよ。そうすれば、わたしにも説明することができたかもしれない」
「僕だって苦しんだんだ。好きな女がよその男と寝たと聞けば、誰だって苦しむ。僕は大人らしく対応したいと思ったし、努力もした。でも、何をしていてもおまえたちのことが頭を離れなかったし、傷みは増すばかりだ。僕は限界だった」
「わたしも悪かったのかも知れないけど、そんなおおげさな話じゃなかったのよ。あんたにそんな話が届いているなんて全然知らなかった。あんたはひとことも何も言わなかったじゃない」
「知らなければよかったとどれだけ思ったか。でもそのつど思うんだ。知らなければもっと滑稽じゃないか。恋人を寝取られながら、何も知らずにいる男。そんな滑稽さにはとても我慢できない。人が苦しむのは何よりも滑稽さのためだ。滑稽ってみじめなものだよ」
「わたしは謝らないよ。だって、あんたが想像しているようなことは何もなかったんだもの。あんたは誰から聞いてそんな嘘を信じたの?」
「もういいよ。何がほんとうで何が嘘かなんてわかりゃしない」
「わたしを信じないの?」
「信じるよ。でも起ったことの事実よりも、感じたことの事実のほうが大事な時もあるんだ」
「あんたはもっと寛大なんだと思ってた。わたしたち若かったし、いろんな人と付合って、いろんなことを経験してみたい年頃だったでしょ」
「もちろん、おまえの経験はおまえの主体的な経験だ、おまえにとってはね。でも男の感じ方はまた違う。おまえと付合う男にとっては――どんな付合いだったのかは知らないが――やったぞ、ものにしてやったぞ、あいつの女をおれはものにしてやったぞ、というそれは勝利感なんだ……その前では、僕は敗北者だ」
 圭子はとたんに険しい表情をして顔をそむけた。眉をひそめ、下唇を噛んで、厳しい横顔を見せて黙り込んだ。僕は自分が馬鹿なことを言ってしまったことに気づいたが、口に出した言葉は取り消せない。やがて、圭子は、正面を向いたままで呟いた。
「そうなの、あんたにとってわたしはそんな存在だったの……」それから、いきなりこちらを向いて、語気を強めた。「わたしはあんたがものにした女なの?」
「そうは思ってないさ。でも競争相手が出てきた時には、そういう屈辱感が男を襲うって話だよ」
「わからない」と圭子が怒鳴った。「全然わからない。わたしはひどく侮辱された気がする。あんたってそんな下劣な人だったの?」
「そうさ。僕は下劣でちっぽけな人間だ。……そんなこととは知らなかったが」
「ふうん、やけに謙虚なんだね」と圭子が皮肉を響かせていった。「あんなに傲慢だったのに」
 圭子はもう黙って正面を向いてしまった。僕は彼女を傷つけたのだろう。だが僕だって傷ついていたし、こんなことはおたがいさまだ。しばらくの時が流れた。僕は水の音に耳を傾けた。陽はまばらな雲をよけて僕らを照らしていたが、春の空はどこか薄ぼんやりとして、あの夏の日々のようなくっきりとした姿はそこにはなかった。
「僕は傲慢だったのかい」と僕は呟いた。
 圭子はなお正面を向いたままだったが、やがて思いを断ち切ったように、落着いた声でいった。
「だいたい自信満々だったよ。ときたま違う顔も見せたけど……」
「人はいろんな芝居をするさ。どれがほんとうの自分かなんてわかりゃしない」
 圭子がふりむいた。
「ほんとうの自分なんてないというのが、あんたの持論だったでしょ」
「そうだ、そんなものない。……でも、あったのかもしれない」
 僕らは黙り込み、川と堰と対岸に眼をやった。川は流れていく。いつまでも形を変えず、同じところで飛び跳ね、同じところでうねり、同じように流れていく。その水はそのつどまったく別の水なのに、流れの形は変らない。まるで同じものがそこにあり続けるかのように僕らの眼の前にいつまでもあった。鴨長明はすごいことに気づいていたんだな、とふと思う。
「で、あんたの他者はまだ存在しているの?」
「え?」
「あんたの、あの陽の当ったテーブルとたしかに存在し、たしかに死ぬコックのことよ。あれはまだ存在しているの?」
「どうだかね。おまえこそどうなんだ。その問題はおまえが提出したんだぜ」
「わたしはもうそんなことは考えない。そういうことはもう終ったのよ」
「愛されているからか?」彼女は黙ったまま僕を見ていた。僕はいいなおした。「それとも愛しているからか?」
「彼のことはいいよ」
「どういう男なんだ」
「いいって言ってるでしょ」
「だっておまえがどういう男に惚れたのか、知りたいじゃないか」
「普通の人よ。背も高くないし、ハンサムでもない。スポーツマンでもない。ただの勤め人よ。小さな赤字経営の出版社にいる。給料は不規則だし、わたしも働かなきゃならないの」
「でも惚れたんだ」
「そうよ。あんたに惚れたときのようにね。わたしは馬鹿だから、損な男にばかり惚れるんだ」
 それはそうだ。女にとって僕は損な男だ。何をしたらいいか分らず、自分が何をしたいのかさえ分らず、いつまでも四畳半にこもって、架空の帝国史を書いている男だ。こんな男を相手にしたって仕方がないだろう。だが圭子が見つけた男は損な男じゃないかもしれない。赤字の出版社に情熱を燃やせるなら、それは一人前の大人の男だ。
「わたしたち、何度も海へ行ったね」とやがて圭子がいった。「最後に行った海のこと覚えてる? いつものようにサークルの人たちが一緒だったから、なかなか二人きりのチャンスがなくて、帰る間際になって、海岸から離れたあのひとけのない小さな池のほとりで、やっと二人になれた。集合時間が迫っているのに、あんたはわたしを抱きしめて放さなかった。いつまでも放さなかった。もう時間が来てると思ったけど、わたしも放したくなかった。バスへ戻ると、わたしたちさんざん叱られたよね。あの直後だった、あんたがいなくなったのは」
 僕は黙っていた。そうだったかな、と僕は思った。あのあと、いろんなことを考えすぎたので、記憶がごちゃ混ぜになってしまい、今では何がいつのことだか、よくわからなかった。
「わたしがどういう思いでそののちの日々を過したか、それを考えたことある? あんたは自分の思いを語ったけど、わたしの思いに少しでも気づいてた? いまさら言ったってどうしようもないけど、あんたの他者はまだ存在していないのよ。あの頃だって決して存在していなかったし、一度も存在したことなんてないのよ。そうでしょ?」
 橋の方からひとしきり子供たちの声がきこえてきた。

      十

 僕は帰り着き、灯りをつける。夜はまだ少し寒いので、炬燵のコンセントを差し込み、ポットもそうする。いつもの夜だ。いつもと変りない夜だ。頑固に、僕と馴染むことを拒否する天井、片隅に積み上げた本、窓ガラスには天井の灯りが写っている。炬燵の上は電気スタンド、灰皿、人名辞典、表紙の取れている本や取れてない本、そして数字と漢字と直線が書き込まれたざら半紙の束。僕は手を伸ばし、ざら半紙を下して、茶碗やウィスキーを取り出し、炬燵の上に並べる。いつもの夜だ。
 そうして、しばらくぼんやりと座っていた。
 やがて、ポットがたぎった。僕はコンセントを抜く。コンセントを抜き、けれども僕は動こうとしなかった。
 僕はあぐらをかいて炬燵に座り、左手は炬燵に入れ、右手を炬燵の上に置いたまま、しばらく何をしてみようとも思えずにいた。僕の右手のそばには、茶碗と、茶葉の缶と、茶漉しと、砂糖と、スプーンと、そしてウィスキーのボトルがあった。僕は何も考えていなかった。何も考えることができなかった。しばらくそうして、ポットの湯の冷めていくにまかせていた。
 ふと自分がさっきから炬燵の上の何かをじっと見つめているのに気づいた。僕はびくっとした。これは何だろう。これは何なんだろう。この奇妙な肉の塊りはいったい何なんだろう。瞬間、僕はわからなくなった。このものはいったい僕とどういう関係があるんだろう。それは存在している。それは今ぴくっと動いた。これは何故そこにあり、何故動くのか。これを動かしているのは僕なんだろうか。それともそれは、それ自身の意志で動いているのか。これははたして本当に存在しているのか。僕は手を動かそうとしてみた。手は動いた。僕は自分が手を取戻したことを理解した。
 僕は左手を炬燵から取り出し、右手とこすり合わせてみて、次には両手の指を組み合わせ、組んだまま関節を反らせた。それから解いて、両手を同時に握ったり開いたりしてみた。そのあと片手は握ったまま、右手だけを握ったり開いたりした。手は僕の思いどおりに動いた。手は僕の命令に従った。だが手は何ものなのか。何故僕の命令に従うのか。命令を出しているのは僕なんだろうか。どれが僕で、どれは僕でないというのか。
 僕は立上がり、窓辺に近寄った。高台にあるアパートの、この二階の部屋からは、屋根屋根のはるか向うに拡がっている街を遠望できる。僕は窓を開け放った。暗い屋根屋根の向うに、街の灯りが散らばり、空には無数の星が散らばっている。空と街とはまるで境を失ったかのように融けあっていた。
 僕は部屋の灯りを消し、窓辺に立って遠い灯りを見続けた。
 人が人生を間違えるのは何の故なんだろう。何が僕らを間違った軌道に引き込んでしまうのか。
 時間がすぎていった。
 そうしてただ佇んでいると、いつしか夜のやさしさに全身が包みこまれていくような、そんな思いがした。僕は自分の孤独に、何かしら確かな手触りを与えられているように感じた。
 いずれにせよ、僕は生きていかねばならない。生きていくことの意味がわかる日は決して来ないかもしれないが、それでも生きているあいだは生きねばならない。
 僕は灯りをつけ、窓を閉めた。畳の上からざら半紙を拾い上げ、書き込まれたものと白紙とに分けた。書き込まれたものを算え上げてみると、それは奇しくも三ヶ月前と同じ十六枚の紙切れだった。僕はそれを二つに割き、さらに四つに割いた。
 アントワーヌ・ロカンタンが自己の無意味な人生を記述してみようと思いたったとき、彼が期待したのは、ほんとうに読者だったのだろうか。ロカンタンはジャズを聴いて感動し、自分も何かを創ってみたいと思った。それは、それまで彼が書こうと努めていた、ド・ロルボンという存在についてではなく、いかなる存在についてでもなく、ジャズのように、一瞬一瞬が存在であると同時に、次の瞬間には消えてしまう、時間の流れの中にあるひとつの現象を描くことで、本そのものがひとつの存在として浮かび上がってくるような、そのようなものを彼は書きたがった。サルトルはその先に読者を期待するロカンタンを置いた。だが、ロカンタンが期待したのは、ほんとうに読者だったのだろうか。
 いや、そうではあるまい。彼が思ったのは、自分の空虚な人生に、どうやらなすべきことができたのかもしれないということ以外ではないだろう。ド・ロルボンでもなく、架空の帝国史でもなく、そのような、存在についての本ではなく、現象を記述してみるという試みのうちに、それまで彼を包み込んでいた空虚さとは違う手ごたえを感じ、それが地味なつらい仕事であっても、そこには労働の喜びとでもいったものが、見出せそうな気がしたのではなかったか。
 そして、僕にとっても、もし何かなすべきことがあるとするなら、それは僕の失われた日々、とりわけあれらの失われた夜について記述してみることなのではないか。書いたからといって、そこになにか意味が生じるわけではない。ましてあれらの夜を取戻せるわけでもない。それはただ、ひとつのちっぽけな魂が、このように彷徨したというだけのことに過ぎない。だが、それはたしかに僕であり、僕自身なのだ。それを記述する日々も、またひとつのラッキーセブンに過ぎないかもしれないが、しかしそこには、なにかしら、架空の帝国史を記述する日々とは違った何かが生れてきそうな気がする。これもまた錯誤であろうか。錯誤であるとしても、そこから出発しなければ、僕は永久に出発できないだろう。

関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す