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失われた夜のために (その7)

      七

 桜が咲き始めた。今朝、路面電車から通りすがりに、寺の土塀の上に顔を出した花びらを見た。人々は浮足立ち、花見の準備を始めているだろう。僕は通りすがりに見るだけだ。それもまたいいかもしれない。わざわざ用意して見に行く、目的化された花は、どこか生活から切れている。生活の中で通りすがりに見る花は、かえって生活の中の一風景として心に残るかもしれない。負け惜しみか? 一瞬で通り過ぎ、いまや見飽きた建物しか見えない風景に向って、僕は微かに笑った。実際、負け惜しみなのかも知れない。花も海も紅葉もない。季節は僕を素通りしていく。僕にあるのは四畳半だけだ。
 夕方、いつものように会社の食堂で食べていると、大場が来た。どこかで少し話ができないかという。彼から面白い話が期待できるとは思わないが、僕は承知した。今の僕には、どうせ時間はあるのだ。
 バスに乗って工場地帯を抜け、街に入ったところで、郊外に向う私鉄の小さな駅の、裏小路にまわった。目立たないところにあるこの喫茶店に来るのは久しぶりだ。まだあるという自信はなかったが、行ってみると二年前と同じ姿で残っていた。
「よくこんな店を知ってましたね」と大場がいう。
「昔よく来たんです」
 手頃な広さに、明る過ぎない照明、どっしりした家具調度類、テーブルの間に柱が数本立っていて、入組んだ造りになっている。客もまばらで、落ち着いた雰囲気は昔のままだ。
 やがてウエイトレスが持ってきたホットミルクに少し口を付けてから、大場は、その細長いグラスの把手を握ったまま、自分は組立ての現場にいるのだがといって、僕の現場を尋ねた。そういう話になったのははじめてだった。僕は自分がいるのは小物の鉄製部品の製作現場で、こまごましたものばかりだが、切ったり、曲げたり、くっつけたり、いわばちょっとした鍛冶屋のような仕事なのだと答えた。
 大場とは、半年前、いまの工場に途中入社したとき一緒だったのだ。所属は離れ離れになったが、退社時にたまたま顔を合せると、寄ってきて話しかけてくる。誰にも相手にしてもらえないからのような気もした。僕より五歳くらいは年上だった。熊本の出身だが、時折アクセントに九州人っぽいところが出る以外は、方言を使わない。いつも丁寧語を使った。対応上、僕もそうせざるを得ない。背は低めで、固太りしていた。顔もほどよく膨らんだ角餅のようだった。黒々とした長めの髪をきっちり七三に分けて額の片側に垂らし、太い眉、重そうなまぶた、太い鼻、分厚い唇をしていた。
 若い者はいるのかと大場はきいた。いや、熟練者ばかりだと僕はいった。僕がいちばん未熟なので苦労している。それでも多少経験があるので、まあ、なんとかやっている。
 大場はしきりにうらやんだ。
「熟練した職人の職場というのはうらやましい。わたしのところなんてひどいもんですよ。そりゃ、いろんな年代層がいますがね、まともな人間なんていやしない。口を開けば下ネタです。ありゃ、どういうんですかね」
 僕は笑った。
「うちの年寄りだって上品な話なんかしませんよ。どこも似たようなものだと思うがなあ」
 それでも彼は愚痴をこぼし続けた。きょうも愚痴を聞かされて終わるのだろうか。
 彼は熊本の少年時代に少し触れ、そのあと、こちらへ出てきて働きながら通った定時制高校の話を多少立ち入って語った。その学校の思い出が、彼にとっては一番懐かしい記憶のようだった。彼はそこの教師から文学を教わったのだ。その文学の連想から、話はやっと現代に戻ってきた。
「あんたの薦めに従ってカラマーゾフを読んでみたんですよ」
 薦めたというほどではない。いつぞや大場が僕の好きな本は何かときくので、一例に上げただけだ。
「どう思いました」
「あの文章はなんですか。あれでも日本語ですか。わたしにはとても読む気になれない」
「なるほど」と僕はいった。「あんたは文章を味わうのが好きなんですね」
「当り前じゃないですか。ほかに何のために小説を読むんです」大場はまたミルクを少し飲んだ。
 大場の言い方が断定的だったので、僕はふと言ってやりたくなった。
「ひとこと言いたいが、世の中に当り前のことなんて、ただのひとつもないですよ。あんたはいつも勘違いする」
 大場は鼻白んだ。
「言葉のあやですよ」
「まあ、翻訳小説では、文章を味わうことはできない。気の毒なことをしました」
「あの粗雑な文章が気になりませんか」
「馴れるとね、そういうものだと思って読むので、気になりません。僕は趣味人や好事家ではないので」
「よく分からないな」彼はしばらく黙った。まぶたを下げて、手にしたミルクを見つめている。それから眼を上げた。「……芥川は好きです。彼の書く世界は完成されている」
「後期の作品はそうでもないでしょう?」
 大場はうなずいた。
「精神がおかしくなってましたからね。彼は自殺したが、偉大な作品を遺した。芋粥も、藪の中も、どれもすばらしい作品です。これをどう思います? 人類に宝を遺したんです」まるで遺したのが自分であるかのように、晴れ晴れとした調子で彼はいった。
 僕は即座に答えた。
「遺されたものを鑑賞するわれわれにとっては。たしかにそのとおりでしょう。でも、当人にとって、何かを遺すということは、意味のあることでしょうか」
 大場は眉をひそめた。
「どういう意味です」
「当人は死んじまったんですよ。死んじまって、もう何もないんです。後世の人がそれを有難がろうが、がるまいが、それが当人にとって何だろう」
 大場は抗議した。
「自分の人生は意味があったと思えるだろうじゃないですか」
 僕は思わず笑った。
「どうやって思うんです。もう死んでいるんですよ」
 大場の唇がゆがんだ。
「でも人は誰でも死後に何かを遺したいんです」
 僕は笑いをおさめた。
「まあ、そういう人もいます」
 大場は少し激した。
「だって、そうでしょう? 何かを遺したいから、一生懸命働いて、家族を作り、子供を作り、家を建て、あるいは街や工場を造り、橋や建物を造り、もしくは学問やスポーツや芸術の世界で名声を得ようと努める。叶わない人はたとえ一冊の本でも遺そうとする。これが人間の自然でしょう? あんたは違うんですか」
「僕は他人のことは考えない」
 大場は呆れたような顔をした。
「でも、あんた自身の人生ですよ」
 僕は頭をふる。
「遺すとか遺さないとかいうのは、自分自身のことじゃないでしょう?」
 彼は首をひねる。
「分からないな。それは自分にとって意味のあることです」
 とうとう僕も、少しだけ弾けた。
「ありませんよ。ただ、そう思いこみたいだけなんです。死んでいく自分を納得したいだけなんです」
「誰だって納得したいじゃないですか。納得できたらいいじゃないですか。そのために人は頑張って生きてるんじゃありませんか。誰だって納得できない人生は生きたくないし、納得できないままで死んでいきたくはないですよ」
 僕は一歩ひいた。
「もちろん、納得できる人はそれでいいです」
 大場は瞬きし、しばらく黙り込み、それから呟いた。「どうしていつも斜めに構えるんだろう」
 今日の大場は攻撃的だ。いつもはぐだぐだと愚痴をこぼすだけなのだが、それもまわりの労働者たちがあまりにも馬鹿だという愚痴だ。今日は少し様子が違う。もっとも、それは、今日、僕がちょっと率直にものを言いすぎているせいかも知れない。
「斜めに構えてなんかいませんよ。僕はただ、本音で話しているんです」
 今日、僕の口からいつもと違う言葉が出るのは、いい加減、大場の相手をするのが面倒になってきているせいだろう。大場の誘いに乗ったことを僕は後悔し始めていた。同じことの繰返しだ。人間は決して自分を変えたりしない。もっとも、岡は自分を変えたが、それは見かけだけのことだったのかも知れない。人はそれぞれ自分の人生を生きる。これ以上、それをどうしようというのだ。
「後世に遺すことに意味がないとしたら、人は何故小説を書くんです」
 大場はなお攻撃の手を弛めない。
「めしを食うためですよ。彼らにとって、それは労働なんです。働かなきゃ、生きていけないですよ。ドストはね、ギャンブルに入れ込んで作った借金を返すために一生懸命書いたんです。ほかに理由なんてありませんよ」
「あんたはニヒリストだ」大場はほとんど叫ぶようにいった。「わたしは、あんたの考え方には、とてもついていけない」
「でもね、僕は自分の人生を愚痴ったりしませんよ。それは、僕が自分の人生に満足していようがいまいが、ひとには関係ないことだからです」
 言ってから、まずかったかな、と思った。もっともそれは彼が自分自身を自覚していればの話だ。僕は彼の様子を見た。彼はいっとき焦点の合わない目をただぼんやりとぼくの方に向けていた。それから何度か視線を上げ下げした。ときどき唇が引きつるように震えたが、言葉は出てこなかった。やがて、彼はポケットから小銭を出して算え始めた。
「わたしはどうやらあんたの時間を無駄にしているようです」
 小銭をテーブルに並べて、立上がった。僕は座ったまま、彼を見ていた。彼は出ていった。僕はとり残された。

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