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失われた夜のために (その6)

      六

 そしてまた、別の日曜日の午後。
 いつのまにか、うとうとしていたらしい。ドアが控えめに叩かれている。炬燵に座ったまま、僕は返事した。ノックは止まったが、誰も入ってくる気配がない。どうぞ、と僕はいった。遠慮がちに開かれたドアから若い女が顔をのぞかせた。
「お勉強中ですか」明るい声で女がいった。
「いいえ。お休み中です」
「少しお話していいですか」と女は同じ調子で続ける。
 どんな用事かときくと、パンフレットを差し出しながら、読んだことがあるかという。手を伸ばして受取り、一瞥して相手に返す。
「神様に用はありません」
「みなさん、そうおっしゃいます」
「それはお気の毒です」と僕はいった。まだ眠気が残っている。
 女はいきなり本題に入った。
「この世の中に不幸が絶えないのは何故でしょうか」
「僕はその問題に関心がない」
「でも、すべてのことがあなたとまったく関係がないと言えるでしょうか。戦後の日本は物質的な豊かさを求め、人々は欲望のおもむくままに、豊かな生活を求めて、邁進してきました。その一方で何かが忘れ去られていたのではないでしょうか。何故、今、人々の心は満足りないのでしょう。不幸な出来事が次々と起るのは何故でしょうか」
 女は相変らず、こだわりのない明るい響きで、べらべらとまくしたてる。開け放しのドアから風が吹き込んでくる。ドアの内側はすぐ畳だから、閉めたくとも閉めようがないのだ。僕は炬燵を強くし、煙草に火をつける。
「まあ、僕と話しても、時間の無駄ですよ」
「本をたくさんお持ちのようですが」
 女は室内を見渡す。本箱を持たないので、本は畳の隅に山積みになっている。たいしてあるわけではない。おふくろが田舎に持ち帰っていてくれた本のなかの幾冊かと、持ち歩いていた本と、あとはここに住み着いたこの半年に求めた本だけだ。
「心の問題をどのようにお考えですか」
 僕は女を見つめた。楕円形の顔、わずかに肩に触れる髪、前髪の間から控えめにのぞく額、くっきりした眉、眼は大きすぎず小さすぎず。鼻筋は高すぎはしないが、まっすぐに通っているそれは、どこか硬質なものを感じさせる。口も大きすぎず小さすぎず、器用によく動く。整った顔だちだが、なにか整いすぎている。遊びのない顔のように見えた。苦手な顔だちだ。多少嫌悪を感じる。地味な色のコートに包まれた細身の身体も、いくぶん堅苦しく、ぎこちなく見えた。
「寒いんですがね」と僕はいった。「どちらかにしてもらえませんか。中へ入ってドアを閉めるか、それとも引上げるか」
 女は躊躇しているらしい。しかしこの部屋には土間というものがないのだから、ほかに方法がないのは明白だ。日曜日の午後、雨戸もカーテンも開け放っているが、ガラス窓の向うは冬曇だ。
「どっちでもいいですよ。僕には時間はたっぷりある。でもたぶん、あなたのお役には立てませんよ」
 女は僕を見つめる。危険な男かどうか、値踏みしているようだ。たぶん引上げるだろう、と僕は思った。だが、女はやがて決心して靴を脱いだ。僕は驚いたが、いまさら拒否するわけにもいかない。
「まあ、炬燵にお入りなさい。暖かいですよ」
「ありがとう」女は正面に座った。
 僕は電気スタンドを畳の上に降ろす。紅茶茶碗やウィスキーのボトルを畳の上の盆に移す。ざら半紙の束を降ろす。しまいに数冊の本を重ねて、畳に置いた。
「何のお勉強ですか」
「帝国史の研究です」
「ローマ帝国ですか」
「いいえ。僕の頭の中の帝国です」
 女は疑わしげな眼をする。僕の頭を疑っているのかもしれない。だがまもなく体勢を立直した。
「主イエス・キリストは人類の罪を背負って十字架にかかられました。すべての人間の罪が許されるためです。この大きな犠牲をあなたはどう思われますか」
「余計なお世話だったかも知れないですね」
「どうしてですか」
「だって人類は無罪だからです」
「いいえ、人間は罪深い存在です。憎しみや争いごとが世の中に満ちています」
「それが生きるということなのかも知れないじゃありませんか」
「それでいいんですか」
「少なくとも人間の勝手ですよ。神様に干渉してもらいたくありません」
「でも、人々は決して仕合せではありません。あなたは仕合せですか」
「そのことに僕は関心がない」
「どうしてですか」
「それは大事なことじゃないからです」
「あなたには何が大切なのです」
「世界が存在し、僕が存在しているということです」
 女は、しばし、あっけにとられたような顔をした。僕は彼女の瞳を見つめ、案外、いい女かもしれないな、と思った。よくある宗教宣伝家たちのように、一方的に押し付けようとしないのがいい。彼女は対話しようとしている。少なくとも対話の何たるかを心得ている。瞳の中には真摯な光が宿っているように見えた。何かしら柔らかいものを僕はそこに見出し、顔かたち全体の硬さがそれによって融かされていくように感じた。コートに包まれた肩から胸に、かすかな柔らかみと膨らみとが感じられるようにも思えた。いずれにせよ、ここにいるのは女だ。生身の、人間の、現実の、女だ。ここ二年間僕にとって無縁だった存在だ。女がきいた。
「学生さんですか」
「いいえ。僕は違います。働いています。あなたは? 学生?」
「わたしも働いています。神様のお恵みで……」
「というと? それが仕事?」
「え? あ、いや、違います。これはキリストの言葉をみなさんに知っていただくための自主的な活動です。日曜日の午後だけさせていただいています。普段は普通の会社の事務員です。でも、すべてが神様のお恵みなのです」
 なんとなくきいてみた。
「仕合せですか」
 女は素直にうなずいて、にっこり笑った。案外かわいい笑顔だ。
「人は誰でも仕合せになれます……マタイの福音書には書かれています。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、思いわずらうな。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。野の花は働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった……主のおぼしめしに従ってさえいれば、すべては善いのです」
「何故布教するのです」
「主の御言葉をみなさんに知っていただくためです」
「人のことが気になりますか」
 女は眉を曇らせた。
「何故です。あなたは人々の不幸に関心がない。心の問題に関心がない。自分の仕合せに関心がない。あなたは何ごとにも無関心なようですが、どうしてそんなにも何もかもに関心を持たずにおれるのですか」
 予期せぬ反撃だった。僕はちょっとまごついた。
「まあ、いいじゃないですか。僕はあなたのことを聞いているのです」
 かわされて女は心外そうな顔をしたが、じきに言葉を継いだ。
「どうして心を痛めずにおれましょう。水俣でも、新潟でも、富山でも、四日市でも、水銀やカドミウムや大気汚染のために、人々の欲望がばらまいた大量の毒物のために、罪のない大勢の人たち、そして大勢の子供たちも苦しんでいます」
「そうですね」僕は軽く受けた。
「経済的な豊かさばかりを求めた結果です。お金がたくさんあればよいのですか。物がたくさんあればよいのですか。そうやってずっとやってきた結果がこれです。お金や物や豊かさが、人々を害し、人々を苦しめています。心の貧しさがこういう結果を生みだしました。物が豊かになるほど、心は貧しくなっていく一方ではありませんか」
「でも」と僕はさえぎった。「たしかどこかに書いてなかったですか……心の貧しき者は幸いなり、天国は汝らのものなればなり……心が豊かになってはまずいのじゃないですか」
 女は声を高めた。
「マタイです。マタイの第五章です。でも、あなたはまったく間違って読んでいます」
「そうかな。心の貧しき者こそ神を求めるのだ、僕はそう読みましたがね」
「それでよいのです。でもそれは自分の心の貧しさを知っている者という意味です。心が貧しければよいのではありません。心の貧しさを知り、自分が神の愛に価いしない人間であることを知り、悔い改めようとしている人のことです。何よりも大切なのは謙虚さなのです。そして人々はいまそれを見失っているのです」
 女はそう言って僕を見つめた。まるで、おまえもその一人だぞと言っているように聞こえた。
 それから彼女の調子が変り、また饒舌にしゃべりはじめた。しかしそれはだんだん一本調子になっていった。僕は黙って彼女の顔を眺めた。女は政治家たちの身勝手さを責め、若い人たちが自殺していくことに心を痛めた。話はどこまでも続いていった。
「……ベトナムでは無意味な殺し合いが続いています。いままた、神を怖れぬ者たちが、群馬の山奥で悲惨な事件を起しました。彼らは十四人もの仲間を自分たちの手で処刑しました。憎しみの連鎖からは何も生れません。人々は許しあい、互いを愛し合わねばならないのです。コリント人への第一の手紙はこう述べています……愛は寛容であり、愛は情け深い。たといわたしがあらゆる知識に通じていても、また山を動かすほどの信仰があっても、たとい自分の全財産を施しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」
 彼女は聖書の文句を諳んじてみせた。たぶん精確なのだろう。だが、あまりにもきまじめで、黙ってきいていればきりがない。その時ふと、不謹慎なからかい心が動いたのは、僕の見つめるすぐ前で彼女の唇がよどみもなく軽やかに動き続けたせいだろう。
「なめらかに言葉が出てくるそのあなたの唇を」僕は思わずにやりとして続けた。「もしいま僕が奪ったとしたら……それでもあなたは僕を許し、僕を愛しますか」
 女はいきなり、きっとなった。上体を大きくのけぞらせ、顎を突き出し、眼を見開き、眉を吊り上げた。
「何故です。どうしてそんな言葉が出てくるのです。知性のない人とも見えないのに。そういう悪ふざけを言い出す気持ちが理解できません。きっと、あなたの心は闇なのです。何が原因であなたはそんなふうになってしまったのです」
 女はしばらく背筋を伸ばしたその姿勢で、あぐらをかいた僕よりいくぶん高い位置から、さっきまでと打って変った冷たい目で僕を見下ろしていた。僕は笑いを収めた。ちょっと居心地悪かった。彼女はじきに語調をゆるめた。
「あなたは救われねばなりません。光はあるのに、あなたは眼を塞いでいる。心の眼を塞いでいるのです。どうか心を開いて、主イエスを受け入れてください。そうすれば、あなたも光を見るようになります。ルカは述べています……門を叩きなさい、そうすれば開けてもらえるであろう、すべて求める者は得、探す者は見出し、門を叩く者は開けてもらえる」
 僕は自分を取戻した。
「僕は自分の眼で世界を見たいだけです。神様の眼を借りたくありません。何にせよ押付けられるのはまっぴらなのです」
 彼女もまた自分を取戻した。
「使徒行伝をお読みになりましたか。あなたはサウロなのです。サウロは主を認めようとせず、使徒たちを弾圧していました。でも、ある日、彼は眼を開いて主の御姿を見、心を開いて主を受け入れ、それからは希望の道を歩みました。ヨハネの黙示録にはこう書かれています……主は戸の外に立って戸を叩いておられる、あなたが立っていって戸を開ければ、主は入ってきてあなたと食事をともにされるだろう」
 面倒になってきた。
「僕は立って行きもしなかったし、戸を開けもしなかったが、そのかわり、どうぞと言いましたよ。でも入ってきたのは神ではなくて、あなただった」
 女はひるまない。
「主の御声をお伝えに来たのです」
 もうたくさんだ。
「でも伝えるのはあなただ。人間だ。それが神の声だとどうやって判断するのです。そうでしょう? 判断する方法がないじゃないですか。この世のことはすべて人間の問題です。愉しむにせよ、苦しむにせよ、共感するにせよ、無視するにせよ、助けるにせよ、殺すにせよ、あるいは生きるにせよ、死ぬにせよ、すべてを決定するのは人間です。神が入りこむ余地はありません。神様はせいぜい天国で昼寝でもしていればいい。ザッツ、マイ、ビジネス。ノウ、プロブレム。あなたの役割は終りました。そろそろ出て行ってくれませんか」
 女は僕をにらんでいた。眉間に縦じわを刻み、眼はぎらぎらと光を放っていた。それは一種美しいとさえ言えた。ぼくは多少感動した。女は肩を動かして大きく息をし、視線を下ろした。そうして、静かに立上った。ドアを開け、靴をはき、閉め際にひとこといった。
「あなたに平安が訪れますよう、お祈りいたします」
 ドアが閉められた。
 ああ、祈ってくれ。それは君の祈りだ。僕には届かない。僕は煙草をくわえて火をつける。女が最後に引用したヨハネの黙示録が、遠い過去から甦る。「熱いか、さもなくば冷たくあれ」。僕は祈らない。僕は戸を叩かない。僕は許しを求めない。僕は誰をも許さない。だいいち許すべき他人はどこにもいない。
 もちろん、人々は生きていく。あるいは殺されていく。あるいは自ら死んでいく。だからどうだというのか。僕は僕だ。そして君たちは君たちだ。

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