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失われた夜のために (その5)

      五

 すべて、うまくいっている。僕は毎日働き、働いて食いぶちを、つまり自由を稼いで、それを残らず系図書きに注ぎこんでいる。
 帝国紀元八十年のこの時点においての眼目は、第九代皇帝康武の権力をいかに守り抜いていくかだ。彼は敗れてはならない。それは美学上の問題だ。父、昌泰帝から八年前に受け継いだばかりの彼の地位が、早くも彼の従兄弟たちに移っていくようでは、昌泰帝の二十年間の治世があまりにうつろなものとなりすぎる。
 康武の三十歳という若さでの即位を可能ならしめたのは、昌泰が二十年かかって培ってきた二つの勢力がようやく巨大化し、しかも康武の即位に自己の利益を見出したからだ。
 一方の雄、小黒王は、第二代履神帝の孫であり、昌泰の即位した五二年には、四十歳に達しながら左大弁にすぎなかったが、五四年参議、五七年中納言、五九年大納言と、とんとん拍子に栄進、以後十三年間その地位にあった。これは兄中納言三国王が五四年に死んだせいである。
 かたや、酒人王は、五二年、三十六歳でようやく左中弁に任じられたが、それ以前の地位は大膳亮にすぎなかった。第三代明叡帝の孫である彼は、三十年の羽田王の乱に参加した父古峰王と二人の兄が殺された時、まだ十四歳だったので罪一等を減じられて流刑ですまされ、かろうじて九死に一生を得た経歴の持主である。
 ところが彼も、五四年民部卿、五七年参議、五九年中納言と出世街道をひた走り、六五年には大納言となって、以後七年間小黒王とともに昌泰の両腕となるに到る。
 この二人の躍進の理由は簡単である。それは二人とも、その姉妹が昌泰の妃となっていたからだ。
 しかも昌泰帝、つまり即位前の広王は、第五代智徳帝の九人の皇子のうちの六番目であり、四十四歳で即位する前の地位はたかだか中納言兼左大将兼中務卿であり、それなりに貴顕の地位ではあるが、飛び抜けた存在とはいえなかった。昌泰の即位は、有力者の相次ぐ死という特殊な状況の中で起り、たちまち専権を獲得するや、信頼しうる身内の人間の官を急速に引上げたのである。
 この両大納言、小黒王・酒人王は、昌泰の死、康武の即位とともに、当然のように左右の大臣の地位を占めた。
 その時、太政大臣になった朝麻呂王は、第四代安靖帝の嫡孫、故太政大臣伊香王の嫡子という、貴族中の貴族であり、内大臣になった師尹王は、第七代孝授帝とその皇后との間に生まれた第一皇子であった。この六四歳と五二歳の名門貴族は、たがいに牽制しあうことで、康武、小黒、酒人の連合政権を打ち破る機会を逸したというべきだろう。
 だが、七七年までに、朝麻呂、小黒、酒人の三名はあいついで死没し、情勢は一変する。師尹王は太政大臣となり、左右の大臣には、ともに智徳の孫である、伊岐知王、常麻呂王が座って、ついに政権を智徳の孫たちで独占するに到る。
 この時、康武の権力は大いにゆらいだが、それは智徳派内部に自己の専権を確立することが不可能になったという意味に留まるものであり、彼に替りうる専権者もまたありえなかった以上、皇帝としての地位までも即座におびやかす種類のものではなかった。
 一方、智徳派の、履神、明叡、安靖三派に対する優位はこの時歴然と明かされ、師尹主導の政府は、三派に属する十四王家のすべての王から王の称号を奪いとってしまい、ここに史上初めて氏が登場する。
 ここまでがすでに作られた歴史だ。
 僕はこれに二か月を費やした。
 春が来かかって、ためらい、この冬いくどめかの寒波をぶりかえしている。小野も岡も、あの無愛想な広田も、ふたたび別の彼ら自身の二年間を作り出していこうとして、それぞれの道を生きているのだろう。だが、僕にとって、生きるとは、これらのざら半紙の上の僕の唯一の情熱を信じることなのだ。あの、雨戸の向うの夜の中で、どのような、いくつもの人生が演じられ、あの、殺伐たる工場の中で、男たちの、殺伐とした、ほとんど無意味な日々が繰返され、たとえば大場が、いかにして彼の可能性を彼自ら閉ざしていったか、おふくろは年をとり、何の意味もなく死んでしまおうとも、僕はもう失ってしまった関心について語ろうとは思わない。
 ふたたび紅茶、ふたたびウィスキー、ふたたび煙草。無限に繰返されるそれらの付随物が僕の喉をいやしてくれるかぎり、僕はごくつつましく、僕の情熱を守っていこう。
 昔、うちのトランプは子供たちの役に立たなかったが、それは五十二枚が見る影もなく擦り切れているのにジョーカーだけが真新しくて、すぐにわかってしまったからだが、それというのも、ラッキーセブンにはジョーカーを使わないからで、日に何十遍もラッキーセブンを繰返すのが、おふくろのまだ若いともいえた日々の生活そのものだったからなのだ。彼女は毎日つらそうな眼をして偏頭痛を訴えながら、なお来る日も来る日も黙々とトランプの一人遊びに明け暮れた。あのころの彼女には、なすべきことがひとつもなかったにちがいない、と僕は思う。今では彼女にもなすべきことができた。短歌の創作にいそしむことで、彼女はもう決して若かったころのように人生を浪費すまいとしているかのようだ。
 あるものは絵を画き、庭をいじり、マラソンをやり、山に登り、船や汽車に乗り、あるいは小説を書いたりするだろう。
 いずれにせよ、生きているあいだだけのことだ。何をしてもしなくても人は死んでいくし、死はどの人生をも等しなみにしてしまうだろう。価値が人間によって作られたことを認めるならば、価値が偶然によって作られることをもまた認めねばならない。それ以上のことはもはや哲学の領域から去り、心理学の領域に移る。そしてそれは僕には関心のないものだ。
 僕はいまからだって、どんな偶然をも自分のものとすることができるだろう。偶然はどこにでも転がっているし、拾うことは難しくない。花びらを拾い集めれば、ちがった美学を再構築することもやさしい。いつかはそれが堅固不抜の塔をかたちづくるかもしれない。それにしても僕は何故花びらを集めねばならないか。まったくのところ僕は動機に欠けているのだ。……
 氏の登場を、いかに動機づけるか、しばしば、僕はそのことで頭を悩ませてきた。そもそも、氏は皇帝家以前にあった。氏がなければ皇帝は存在し得ない。当然だろう。皇帝制度とは支配階級が自らを組織し秩序づけるための手段に過ぎないのだから。
 だが、ぼくの美学上の要求とは、ただ一本の系譜のなかに皇統も諸王家も諸氏もすべて統一することなのだ。氏は皇統から、すなわち諸王家から分枝せねばならない。日本史はそこに神話時代を置くことによって、氏を神々の系譜と、存在しない天皇の系譜の中に、うまく取込んだ。まったくうまい方法だ。僕も中学生のころには、神々の系譜から創り始めた。神話を創り、それを文章化した。
 だが、太政官制という、いかにも整った制度が、いつしか僕をひきつけ、この職位をもって歴史を説明しようと試みるようになると、もはや文章は不要になった。そしてこの制度にとって神話時代はいかにも不似合いに見えたので、僕は神話を切捨てた。
 その時むろん無理が生じた。初代皇帝慶晃という、ただ一人の存在から歴史を始めようとすれば、この歴史の登場人物は慶晃の子供たちだけから出発し、彼らだけが力を持ち、彼らだけが職位につき、その子孫が増えるにつれて氏が発生してくるのでなければならない。氏はなんらかの形で皇統から外へとはじきだされる必要があった。ここに次のような矛盾が生じる。
 つまり、王が王でなくなるということは、帝位継承権を失うことであり、それは彼らの没落を意味する。従って、氏とは没落すべき存在である。
 一方、氏がどうしても必要なのは、氏の力によって、帝位を安定させるためである。帝位継承権を保持した王たちが、皇帝の周囲で皇帝と並ぶ権勢を保っていれば、帝位は安定しない。彼らはいつでも自ら皇帝の地位を要求するだろう。そこで、帝位継承権を持たない氏族が皇帝の周囲で存在感を維持し、諸王家による挑戦から皇統を守らねばならない。従って、没落した氏では意味がない。氏は繁栄せねばならない。だが、繁栄しているならば、王の称号を失うことはないだろう。これは両立しえない。二律背反である。
 表紙の取れかけた、というか実際上すでに取れてしまっている天皇家系図をめくる。中学生の時以来、常に僕の手元を離れたことのない本だ。十五になる直前の夏休み、僕は百二十四代の天皇名を諳んじた。だが、僕の関心が現実の歴史から離れ、フィクションの世界に移行するにつれ、それらの名前は忘れ去られた。
 持統から元明、元正に到る女帝時代は、皇親政治の時代と呼ばれる。この半世紀の間に、天武の皇子たち四名が太政大臣となる。高市、忍壁、穂積、舎人である。この時代には、太政大臣は皇子の専任地位であった。大友が最初で、その時、太政大臣とは皇太子を意味した。だから、高市を除いた三人は、正式には知太政官事と呼ばれる。太政大臣であって太政大臣ではない。皇太子ではないことを明確にする必要があったからだ。この四名のあと高市の子鈴鹿王(聖武に殺された左大臣長屋王の弟)の就いたのもやはり知太政官事であったろうと思われる。そののち恵美押勝が中国風に太師と称し、道鏡が五年間だけ太政大臣禅師と呼ばれたのを除けば、藤原良房が太政大臣となるまで、一世紀余は空席であった。
 だが、皇親政治とは何なのか。天皇家の独裁を意味するのか? 天武の一族が強力な力を持ったのは確かだろう。だがそれは逆に天皇の地位の不安定を意味する。この、あおによし奈良の都の女帝時代は、血塗られた時代である。天武の児孫がお互いに殺しあい、ついに消滅していった時代である。
 これを解決し、皇統に安定をもたらしたのは、藤原四兄弟の児孫だった。彼らに守られて皇統は安定した。皇子や王は、皇帝家をきらびやかせる飾りではあるが、同時に常に皇帝にとっての脅威なのだ。
 そもそも皇孫は何故王と呼ばれるか。これは中国の制度の物まねだが、本家の中国では、皇帝の兄弟たちはみな地方の王として現地に飛ばされた。ていよく都から追い払い、都における彼らの影響力を消し去るためである。皇帝のまわりをがっちりした官僚制度が支えた。
 日本は形だけ真似したが、それは日本の実情には合わなかった。王は単なる称号で、支配地を持っていたわけではない。官僚制度は作られたが、職位と実力とはしばしば矛盾した。やがて藤原氏がさまざまな偶然の結果、非常に特殊な形で官僚層を独占することによって、皇統の守護者となったのだ。公地公民に換る荘園制度がそれを経済的に裏付けた。
 僕の系図にはこういった現実的基礎は何もない。神話時代から道長時代に到る数世紀に及ぶ時代を、ヤマトタケルも倭の五王も聖徳太子も、大化の改新と壬申の乱も、考謙女帝も嵯峨天皇も、すべてわずか百数十年に縮めて、大宝律令の官制の網をひっかぶせて説明しようとしている。最初から無理なことを、僕の美学上の要求に従わせようとしているのだ。
 そこで、もっともらしいまやかしが必要になる。
 だが誰をまやかそうというのか。絶対に読者を持つことなどありえない僕の歴史物語に、しかもたとえ読もうとしても文章すら存在しない頭の中だけの物語に、誰をまやかす必要があるのか。もちろん、僕自身をだ。世界でただ一人の読者として存在する僕の美学を満足させる必要があるのだ。
 十四王家は没落して十四氏となった。本来なら彼らの復活は百年後に起るべきだ。それまでのあいだ皇権は各々の実力と地政学に従って、有力な王のあいだを転々とすべきなのだ。
 ところが、僕は百年待てない。百年待つということは、およそ百日間のすべての夜を、雨戸に閉ざされた部屋の中に煙草を充満させ、頭の中には数十数百の石ころをつめこんで、かくして待つという意味なのだ。春もなく、夏もなく、秋もなく、太陽や空や街や女たちとはどんな交渉も持たずに、僕は僕の人生の何分の一かずつを確実に切りとって待ち続けるだろう。
 それにしても、情熱にはいくばくかの華やかさが必要だ。いますぐひとつの氏に権力を与えること。彼らに顕職を独占させ、皇統乗取りのいまわに、彼らを壊滅させること。この史上初の大変化のなかで、彼らの滅亡後も消え去らぬ数多くの変化を実現させてしまうこと。
 第二代皇帝履神の第五皇子であり、左大臣小黒王の父である、左大臣諸別王の孫やひ孫たちによって構成される諸別氏が、皇統との特別の関係を利用して、智徳派の王たちとたたかいながら、最初の繁栄した一族として歴史に名を留めること。なおかつ、諸別の滅亡後も智徳系の皇統を守り、智徳系諸氏へと権力を回帰させるために、智徳派諸王家の中間的権力を温存すること。即ち、師尹、伊岐知、常麻呂らの勢力を壊滅させてしまわないこと。
 問題点を整理してみると、構想がどこからともなく僕の頭の中にやってくる。それらは最初は漠然としており、見えそうで見えないのだが、忍耐力を発揮すれば、霧が晴れてくるのは時間の問題だ。僕は何時間も、幾晩も、一週間も、ただ煙草だけをやたらと吸い続けて過したが、僕の頭の中はひとつの点のまわりをとどまることなく無限に堂々巡りし続けた。このようにして失っていく人生は、無というよりもマイナスに等しい。僕は僕の存在のそこここに、墓掘り人夫のように穴ぼこを掘る。この穴ぼこの底知れぬ暗さが時には僕をめまいさせる。だが、暗黒へ、さらに暗黒へと、徹底して沈むこと。この暗黒の中で僕の情熱の残り火が、まだちろちろと消えやらずいる限り、これを最後まで問いつめてみることなしに、なお僕は僕であると言いうるだろうか。もちろん僕には分っていた。だが、何が分っていたのか。どんな議論も尻尾を飲み込んだ蛇のように回転し続けるだろう。そもそもあらゆる理論が肉体なしには成立しえず、そして肉体がかくも偶然によって形成されるという滑稽がひとたび僕をうちのめすや、僕はあの日々僕の感じた惨めさのひとつひとつにやりきれない笑いを感じ、世界が裏返り、また裏返る。ああ、人にはどんな生き方も可能だ。世界はどんなふうででもありうる。人間は何にでも価値を見出せる。そして、僕は誰ででもありうる。
 政変だ。もしも内乱が、対立する勢力の一方を将来の歴史から抹消してしまうのであり、そして、それが僕の必要を損なうのだとしたら、決定的打撃に到らない政変劇、勢力を削ぎつつ温存するところの失脚劇が仕組まれねばならない。それはある部分の内乱を伴いつつ、その収拾のための軍事的機会をとらえたクーデターとして可能だろう。
 上からのクーデター。智徳派王家の一種の共和政体の出現によって独裁者たることを否定された康武皇帝によるところの、この共和政治の破壊。
 ウサギのシチューに投じらるべきウサギは誰だ。
 康武の同母弟中務卿篤煕王、それに故左大臣永井王の子、中納言古市小熊、この両勢力を中心とする叛乱。
それは同じ皇后腹に生れながら、生れる順序が違っていただけの理由で、今や冷や飯食いに甘んじねばならぬ不遇の皇子と、智徳派勢力の急伸長によって没落の坂を転げ落ちていく、履神、明叡、安靖三派の諸氏族の不満を代表する者との野合だ。
 この叛乱は、太政大臣師尹王の死、皇太后能美女王の死によって誘発される。
 康武帝は篤煕王と古市一族とを打ち負かしたのち、この戦いに動員された兵力をもって、伊岐知、常麻呂の左右大臣を失脚させる。
 あとがまは、良嗣王と諸別道足。
 だが、この時点ですでに、中納言諸別得根、同伊香安世の両名が、康武親衛隊長として皇帝による独裁を支え始める。
 あとはおそらく康武の死後に、その後継者をめぐって得根が安世を打倒するだろう。
 師尹、伊岐知、常麻呂、あるいは良嗣らの子孫は、皇帝家、諸別氏の同盟政権のもとに、かなりの大貴族の家系としておそらく残るだろう。
 夜は更けた。一仕事終えた満足感を持って僕はポットのたぎるのを待つ。相変らずの孤独な部屋。意味のない天井。僕の部屋に始まり僕の部屋に終る、完結された輪。庭を造る男たちの満足。歌を詠む女たちの満足。煙草の煙の揺らめきのうちに、わずかに与えられる慰め。
 その夜、僕は圭子のことを少しだけ考えた。

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