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失われた夜のために (その4)

      四

 その次の日曜日に、岡が訪ねて来た。彼は朝あまりに早く来たので、僕は昨夜からまだ眠っていなかった。雨戸を閉め切った部屋の中で、僕は六時ごろドアの下から差し込まれた朝刊を炬燵の上いっぱいに拡げ、まだ読んでいた。けれども、そろそろ眠ろうと思い始めていた。岡はノックし、僕が立っていってあけてやると、
「起きてたの? 朝早く迷惑じゃない?」
「いや、大歓迎だ。入れよ」
 僕は手早く畳の上を片付け、彼が歩いていって座るための場所を作ってやる、古新聞、コーラの空き瓶、本、ざら半紙などを。
「だらしがねえなあ」
「どうだって、いいことさ」
 岡は寮の相部屋での僕しか知らない。そこでは僕はいつもきちんとしていた。僕の相方が几帳面だったし、彼は僕らの支持者ではなく、むしろ僕の監視人のような立場だったので、滅多な書類を出しっぱなしには出来なかったのだ。
「よくここが分ったな」と僕はいった。
 先日、小野との別れ際に岡との約束を思い出して、アパートの地図と名前とを書いて渡しておいたのだ。アパートに電話はなかったし、家主の家は近いが、呼び出してもらうのも気が進まなかった。
「看板が目に付いたんで、すぐ分った」と岡がいった。
 カーテンをあけ、ガラス窓をあけ、雨戸をあける、なるほど、もう朝だ、外は日の光に満ちていた。
「起きたところなの?」
「いや、眠るところさ」
「何してたの?」
「別に何も」僕は笑い、「まあ、座れよ。寒いかい」
「寒いね。単車を飛ばして来たんだ」
 僕は窓を閉める。
「買ったのかい? お茶を入れてやろう」
「去年の夏にね、何CCだと思う?」
「大きいのかい?」
「二百五十」
 僕はわざと眼を丸くしてやる。
「そいつは素晴らしい。どこのだ?」
「ホンダ」
 とりたてて何気なく言おうと、岡はしている。彼は炬燵にほとんど全身を突っこんで、背を思いきり丸め、時々横目でちらと僕を見ながら、平静な声で、ホンダ、という。
「ウィスキーを入れるかい?」
「ああ、少しもらおうか」
 僕はウィスキー入りの紅茶を、彼にはウィスキー入りのコーヒーを。そして、煙草。彼は僕の勧めた煙草を断り、ジャンバーのポケットから自分の煙草を取出す。
「岡は煙草を吸ってたっけ?」
 彼は面白そうに僕を眺めながら考える。
「あんたのいる時分にはまだ吸ってなかったね」
「そうか。もう二十歳だって?」
「ああ、この秋になった」
「青婦部に立候補するって?」
「まだわからないよ。組合選挙まで半年もあるんだ。小野さんが言ってたの? 立候補しろとは言われてるんだ。小野さんは、今年はいよいよ青婦部をとる、て意気込んでる」
 岡はやがて饒舌になる。彼は誰かに話したくてしかたなかったのだ。誰がいつどのようにしてやめていったか、そのうちの誰が党活動の妨害を始めているか、誰は協力的で、頼みにいけば選挙の票を五票ないし十票集めてくれるか、創価学会の誰が最近活発であるか、民社党支持者の組合役員の誰それとは最近話が合うとか――用心しろよ、と僕は忠告してやる――、職場の空気は……もちろん不満は渦巻いているが、みんなとても無気力だ、若い連中も最近あまり協力的じゃない、けれどもともかく僕らの中核的部分はまとまってきつつある、それから、
「安田さんて知ってる?」
「美代子かい?」
「なんだ、知ってんだな。こないだ、真夜中に彼女の家まで単車とばしてね」
「ほう、それで?」
「時刻が遅すぎてね、十二時近かったんだ。彼女のおやじに変な眼で見られちゃった。彼女はおろおろするし、大失敗さ。ちょっと近くまで来たら灯が点いていたから、とか何とか言って、すぐに引上げちまった。また寒い中を半時間もぶっとばしてさ、馬鹿みたい。でも、その時には、会いたかったんだな。次の日、職場に電話して、謝って、でもそれから、割にうまくいってんだ」
「そりゃ、素敵だ。彼女はかわいらしいもんな」
「そうだろ。――彼女、三宅さんと仲がいいみたいけど、何かあるのかな」
「僕のいた時分には何もなかったね。でも、そりゃ、あるかも知れないね。まあ、それなら、取合うさ。身を退いちゃ、絶対だめだ」
「だけど、分が悪いんだよな。三宅さんは本社だもんね、いつでも会えるだろう? 僕はそうはいかないんだ」
「彼女、組織に入ったの?」
「いや、入ってない。だけどまあ、シンパだな。サークルの方でいろいろ協力してくれるんだ。そこで知り合ったんだけど。僕の方は毎日が殺人的スケジュールだろ? 日曜日だって朝から晩まで全部日程がつまっちまうしさ」
「岡も、ずいぶん活動的になったもんだな。だけど、こんなことは短期間では絶対どうしようもないことなんだし、こつこつといつまでも続けることが一番大切なんだから、あまり動きすぎて、しんどくならないように用心しろよ」
「そうなんだ。あれもこれもやらなきゃならないと思うだろ? L・Cにもいろいろ不満があるし、ああしろこうしろと言うと、そんな力量はないと来るだろ? 頭に来るんだな、おれがやってみせると思うんだよな。そうなると何もかも自分の仕事ばかりみたいで、自分が一人で走りまわってるみたいで、時々、何してるのかな、と思うんだ」
 L・C――リーダー・クラスなんて言葉が岡から普通名詞のように出てくる。岡がこんなふうになるとは思ってもいなかった。
「そう、そいつが一番危険だ」と僕はいった。「自分の力量を知って、自分を大切にしなきゃいけないよ」
 岡はうなずく。おれは何を言ってるんだろう、と僕は思う。まったくのところ、僕は語るべきではない。今でも岡の指導者であるような口を利くべきではない。僕はただ岡の話を聞いてやり、いちいち相槌を打ってやる。僕の語るべき言葉なんてどこにあろう。僕はマルクス主義者ではない。僕はもう彼らと共通の闘いを闘ってはいない。
 もう一杯、今度は紅茶を飲ませてやり、僕も飲む。ウィスキーを少し。そして煙草。僕は手元のちっぽけな水屋の上から、新しい灰皿を取り、吸殻満杯の灰皿と取り替える。彼の話は次第に途切れがちになり、それでもまだ続く。決して、こんな膨張経済は永続きしやしまい、日本は繁栄しているそうだ、でも、そんなことは嘘っぱちだ、僕らは少しも繁栄していない、働くことと政府に反対すること以外に、僕らの仕事が何もないというのは第一おかしい、日本はアジアに出て行くだろう、そこから巻上げた金で、少しは公害や物価高や低福祉を解決するかもしれない、でもそんなことは永続きしない、いつ かはアジアから追出される、そうしたら、だまされていた労働者たちも気がつくだろう。……
「おまえは変ったな」
「そうかな」
「見違えるほどだ。人がすっかり変るのに、二年あったら十分すぎるほどなんだな」
 正直に言えば、おまえは勘のいい少年じゃなかった。実直な労働少年というだけが取り柄で、僕は少しも期待してやいなかった。まあ、鶏ほどには走るだろう、だが鷲のようには羽ばたくまい、と思っていたものだ。けれども、岡は羽ばたいている。確かに彼はまだ、学校を出た連中のようには、すらすらと口を利けない。言うことも、時には飛躍し、時には的はずれだ。でも、彼はまだ若いし、そんなことは重要じゃない。重要なのは、彼が、小説を読んで育った連中に負けないほどの、繊細な恋をしていること、つまり、物事に対する感受性を育てるのに成功したこと。それから、自己や他を、常に批判的に把握する方法を獲得したこと、彼は知性や感性を磨きあげる暇も機会も与えられずに十五の年から働かねばならなかったのに、六畳一間に五人家族がごろ寝せねばならなかったのに、自分が他人のために役に立てることを知った日から、知らず知らず、急速に、自己を変えたのだ。
 岡はいたずらっぽい瞳で、僕を見ている。その瞳の黒がひどく目立つ。彼の眼はこんなじゃなかった。こんなに活き活きと、うるおいと深みのある眼ではなかった。眉と眉の間、あるいは唇の両端などに刻みこまれた皺は、彼が二年間かかって描きあげた、彼の手になる自画像だ。彼は違う自画像も描けただろう。だが、彼はこの自画像を描いたのだ。
 僕は僕の二年間を思い浮べる。それは瞬く間に過去り、その間、僕は何もせず、何も変えはしなかった。それは一日のように過ぎた。
 僕が離党届を出したと聞いて駈けつけてきた民青の若いL・Cは、そのごつい顔と身体に似合わない涙を、隠しおおせずにいた。その時、結局、僕はやめなかった。僕はすべての役を下り、ただ自分のやりたいことだけをやることにした。それは続くこともできたのだ。数か月後、僕は文学サークルの結成にほぼ成功し始めており、再度の配転の後、仕事にようやく関心を抱き始めていた。もちろん忙しすぎる任務から解放された肉体的精神的なゆとりが、僕の視野を転じ始めていたのだろう。僕はむしろ出発すべき理由を失い始めていた。ただ、夏が、僕を誘っただろう。太陽は自由を孕んで燃えあがり、空も街々も建物も毎日眩いばかりにきらめいていた。僕は住み馴れた街に嫌気がさし、まだ見ぬ街へと、今まで一度も出発しようとしなかったことを悔いた。
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