プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

失われた夜のために (その3)

      三

 それからまた、僕は一生懸命働いた。僕が一生懸命働くということは、今では、誰でも認めただろう。もちろん、以前はそうじゃなかった。以前は仕事の間じゅう上の空で、しばしば僕はむしろ目覚めてなかったし、定時のサイレンが鳴るとはじめて、僕は僕がここにいるのを見いだすのだった。そして、それから、言葉や笑いや表情や身ぶりをとりもどして、街から街へと駈けずりまわる、僕の夜が始まるのだった。そのころ、僕は夜の中だけで生きていたのだ。昼は、僕からよそへと、削りとられ、所有を移された、質品だった。白い昼の光、唸りを上げるサンダー、シャーの落ちる音、のべつまくないハンマーの打撃、衝立のそこここからあがる、青白いアーク光線と、煙、粉塵、そして眼につく限りの鉄。そういったものは常にあったし、そういったものどもの中に僕はいた、ちょうど不思議の国のアリスのように。長い長い昼の間じゅう、僕は眠り続ける、博物館の人形のように。
 けれども、いくつか街を換え、職を換えているうちに、そういったことは、いつのまにか終っていた。今ではむしろ仕事に打ちこんでさえいた。ひとたび仕事にかかると、その仕事を立派にやり遂げること以外の関心を、すっかり失ってしまうのだった。僕は仕事を愛し始めてさえいるのにちがいない。ちょうど、あの年寄り連中がそうであるように。
 僕は安部公房を思い出す。彼は、取り除いても取り除いても滑り落ちて来る砂を相手の、永久に脱出の見込みのない蟻地獄の中で無益な作業を延々と続ける主人公に、「それでも労働には、過ぎ去っていく時間を忘れさせてくれる何かがある」と言わせた。今ならうなずけないでもない。それはカミュがシジフォスの神話に書いたことと同じ意味なのだ。
 僕はしばしば、昼があまりに短いとさえ思う。昼はしばしば瞬くまに過ぎ去り、仕事に未練が残ると、残業への欲求とまでたたかわねばならない自己を見いだす。一日くらい残業してもいいだろうと思い始めたりする。だがその都度、僕はその下らないアイデアを断ち切って、サイレンとともに更衣室へ向う。何故なら、僕は彼らじゃないからだ。
 誰かが僕の前に座る。僕は皿から眼を上げる。大場だ。大場はちょっとぎこちなくて、でも嬉しそうな笑顔を浮べ、
「久しぶりじゃないですか」
「そうですね。今日は定時ですか」
「ええ、たまにはね」彼は肘を上げて、牛乳を飲む。一口飲むと、握ったままテーブルに置き、「やはり、毎日、ここで食べてますか」
「まあ、安あがりだから」と僕はいい、食べ続ける。彼は牛乳をもう一口飲む。
「どうも、ここの連中は馬鹿げてますよ」と彼はいう。「毎日々々、どうしてあんな下らない話ばかりするのかなあ」
「放っときゃいいじゃないですか」
「そりゃ、まあ、そうだけど」彼は口ごもり、しばらく何ごとか思案し、やがて、また牛乳を飲む。「どうして、あんなに人間が下らないんですかねえ」
「貧乏だからですよ」
「わたしだって貧乏ですよ」大場の眉が少し吊りあがっている。僕はそれを眺め、蓮根の天婦羅にたっぷりソースをかけなおす。「百姓仕事で、中学だってろくすっぽ行けなかった。人から何年も遅れて、人が寝静まってから勉強して、やっと定時制高校を出たんじゃないですか。彼らのほうがまともな学歴を持ってますよ。わたしは自惚れるわけじゃない。しかし、ああいう会話しかできなくて、人間、いいと思いますか」
「もちろん、下らないと思いますよ」
「たとえばですね――」
「ちょっと、ごめん」僕は立上がり、テーブルに沿って歩き、やかんをとる。空だ。テーブルをまわって、もうひとつのやかんをとりにいく。パン売り場の付近にいる連中も、もう数人になり、おばさんは店じまいを始めている。調理場の、横に細長い窓口は、すっかりカーテンを下してしまった。
「たとえばですよ。課長のお宅へ伺ったとしますよね。そういう時、ふだん、ああいう話ばかりしていたら、ほかのことを喋ろうと思ってもできないんじゃないですか。やっぱり普段の癖が出て、ああいう話しかできなくなるんじゃないですか」
「そりゃ、そうでしょうね」僕は湯飲みから顔を上げ、いささか驚いて相手を見つめる。僕はこう言ってやりたかった。あんたにせよ、あの連中にせよ、課長のお宅へ伺うなんて目には、まず一生涯遭わずに済むでしょうよ。それに課長が自分の受け持ちの工員に、そういう話以外のどんな上品な話を期待しますかね。
「やっぱり、そうですね」
「そりゃ、そうです」
 彼は大きくうなずく。牛乳の残りを口に入れる。だが、まだあと一口残した。相変らず右手に握って、離そうともしない。僕は煙草に火をつけ、マッチを皿の底のソースの池の中に放りこんでやる。
「わたしが硬いって言うんですよ」
「どうでもいいことですよ」
「しかし、みんな、わたしを避けるんだな」
「あんたは人に好かれたいんですか」
「好かれたいというんじゃない。しかし、嫌われるより、好かれる方がいいでしょう? 誰だってそうじゃないですか」
「そんなことはみんな一番大事なことじゃありません」
「じゃ、何が大事ですか」
「事実ですよ」
「どんな事実ですか」
「事実一切合財」面倒なので、僕は話題を変える。「馬鹿な連中は相手にしないがいいですよ。あんたは下らない連中のことを本気でくよくよ考えることによって、いわば、その連中を自分と対等に扱っているんですよ。ということはあんたの値打ちをそれだけ下げたってことです」
「しかし、あの連中の中にいると、頭が変になりそうです」
「何故、気にするんです。また、どっかを風が吹いてらあ、と思ったらいい。大事なことはね、なるべくやっかいを避けることです。たいがいのことは人と調子を合せたらいいし、合せるのが面倒な時には放っておくことです。その時その時で、気楽な方をとったらいいんです。そうして、いますぐ他人のことは忘れてしまうことですね。あんた、人付合いに悩むだけで一生送りたくないでしょう?」
「しかし、それが一番大事なことじゃないですか」
「ちがいます」
「そうですかねえ」思案しながら、彼は最後の一口をやっと飲みほす。それからおもむろに煙草をくわえる。僕は立上がる。
「ちょっと、約束があって、行かなきゃならないんです」
「あ、そうですか」彼はうなずきながらも、煙草に火をつける。「待って下さい。一緒に帰りましょう」
 僕らは寒い夜の中に出ていき、タイムカードを打ち、バスを待ち、煙草を吸い、バスに乗る。バスの中で大場は僕の隣に掛け、こんな話が出来るのはあんただけだと言う。バスは僕らを降ろし、大場は別のバスに、僕は路面電車に乗るために、別々の横断歩道へ向う。
 僕は帰り着き、手探りで電気をつけ、ウィスキー入りの紅茶を飲み、煙草を吸い、ざら半紙を拡げる。僕は書き始める。皇帝の子供たちの名前を決め、孫たちの名前を決め、その生年を一人一人書き記し、それぞれに実力相応の官職を配分する。彼らは生き、享楽し、争い、殺しあい、そして死ぬ。一人死ぬ都度、そのあとを他のものが襲い、官の進むもの、取り残されるもの、こうして徐々に、または急速に、力関係は変化していく。人々は同盟し、敵対し、援けあい、殺しあい、栄達し、失脚し、滅亡し、繁栄する。大場に対して、あのような話し方をしたのは、意味のないことだった。当り前のことだけを、僕は言ってやることもできただろう。人に好かれたいと思ったら、あんたの自惚れを捨てなさい、というふうに。皇帝の死、内乱、皇帝の即位、人事の変化、または不変化。僕は書き、考え、表紙の取れた本や取れてない本をめくり、ウィスキー入りの紅茶を飲み、煙草を吸い、書き、考え、本をめくる。
 こうして、僕は日々を、昼と夜とを過した。日曜日が来ると、朝から晩まで書き続けて、部屋が煙草の煙の中にすっぽり埋葬されてしまうこともあったし、時にはまた、映画を見に行ってもいいな、と思ったりする。
 西部劇かギャングものかスリラーか戦争映画。僕は街から街へとうろつきまわり、僕の注文にかないそうな映画を探す。ピーナッツを買って、なるべく楽な姿勢で座り、一日の半分をそこで過す。やがてネオンに埋まった街を歩き、めしを食い、煙草を吸い、歩道の柵に腰掛けて、女の子たちを見物する。女の子たちは、男と腕を組み、または女の子どおしで、または一人で、右から左へ、左から右へ、人々の流れに従い、または遅れ、または人々の間を縫って、素早く、またはゆっくり、通っていく。女の子たちは綺麗な服を着、綺麗に見える髪と、綺麗に見える顔をしている。女の子たちは魅力的だ。申し分ないと僕は感じ、それから路面電車に乗って帰るか、またはジャズを聴きに行く。
 こうして、僕は日々を、昼と夜と、日曜日とを過した。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す