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失われた夜のために (その2)

      二

 鉄製のむきだしの階段を上がって、薄暗い廊下を通り、手探りで錠前に鍵をさしこむ。中はほとんど真暗で、外と同じように冷え冷えしている。畳の上にあるものを蹴飛ばしてしまわないように用心しながら、そろそろと、部屋の中央へ進み、足が炬燵布団の端を踏むと、見当をつけて、その上のあたりへ、右手を左右させる。手が紐をつかみ、引張り、灯りがつく。炬燵のコンセントを入れ、同時にポットのコンセントも入れる。服を着替えてから、茶碗を洗いにいく。紅茶に、少しウィスキーを入れてやる。久しぶりに喋ったせいで、いくらか興奮しているのがわかった。今日はとても寒いし、面倒だから、風呂へ行くのはやめて、ウィスキー入りの紅茶をたっぷり飲んで、少しだけ煙草を吸って、早く寝よう。
 紅茶がとてもうまい。炬燵も暖まってきた。炬燵が僕の脚を暖める、と僕は呟く。それから、うまくて熱い紅茶が、僕の喉を通る、と僕は呟く。そうじゃない、やりなおしだ。何か流動する物質が、僕の口の中で拡がり、舌や、頬の裏側と接触する、すると、熱くてうまいという感じが、僕の意識の中に生れる、それからそれが外へ出ていかずに、喉をうごめき、胃に収まるとき、僕は満足する。紅茶をうまくするのは、この僕だ。だが、紅茶がなければ、どこにもうまさはないだろう。運好く、紅茶は素直に僕の口へ入り、喉から胃へと向う。それに、茶碗は僕の望むところへ紅茶を運んでくれる。これで僕に何かなすべきことがあるとか、あるいは、僕が何ものかであるというのなら、僕は世間の連中と同じように満足していいだろう。
 僕はふと屑籠を見る。小さな屑籠に、いかにもおさまりよくおさまっているのは、四つに割かれた十六枚のざら半紙。六十四枚の紙きれだ。そうだっけ、僕はあれを破ったのだ、と僕は呟く。なるほど、僕の三か月間があそこにおさまっている、と僕は呟く、あれは僕の三か月間だ、なるほど……。ふと僕は後悔する。何を後悔したのかよくわからないうちに、あれを生かしてやってもよかったのじゃないかと考える。しかし、屑籠を見つめて、僕はうんざりする。あれはともかく失敗だった。僕はやはりもう少しいいものを作るべきだろう。
 僕は昨夜の構想を思い出す。うまくいくにちがいないと僕には思える。だんだんうきうきしてくる。もう一杯、ウィスキー入りの紅茶を飲む。
 何と言っても、一番大きな失敗は、皇統を直線的にしてしまった点だ。もっとも、三か月前、いやそれ以前から、僕はいろいろと試してみた。草創期の皇統は倭の五王的でなければならない。そんなことはわかっていたし、兄弟相続を、僕はせいいっぱいやってみた。そこで僕が知ったのは、そういう方法では皇子がやたらと多くなり、実力者というのが残らず皇子なので、たがいに皇位継承を主張するし、内乱は日常的になり、最後には、代々の皇帝以外にはことごとく天寿を全うすることなく殺されてしまうような、えらくやせ細った系図しか残らないということだった。
 そこで皇統を直線的にする。神武から成務に到る神話上の皇統のようにだ。しかも草創期に内乱を手控える。こうすると、たちまち皇統は確立し、諸皇子からはたちまちにして、いくつもの王家が並び立ち、彼らは臣籍降下して各氏族となり、律令制の運用はまったくスムーズにいき始める。
 しかし、ずいぶん安易な方法をとったものだ。その系図はきれいに見えたが、退屈で、少しも面白味がなかった。
 方法はある。皇子の数をもっと徹底して増やすこと。四五人という家庭的な数じゃなく、十数人というふうに。古事記を見ても、このくらいの人数はまず当り前だろう。もうひとつは、皇子という特権的な称号を廃止すること。何故なら、それは歴史を歪めるからだ。古事記を見れば、日本書紀の創作の見破れる部分が少なくない。日本書紀は皇子と王との区別を厳密に立てた。だが、古事記には皇子という単語はただのひとつも見当らない。皇子も皇孫も区別なく王であり、後に即位する王に限って、あらかじめ命の称号を与えている。大王の子は、みな単に御子とのみ呼ばれていた。後、これに文字を当てるにあたって、王とした。それから、大宝令の制定によって、王の中から親王が区別される。皇子という文字を用いた時期が歴史上あったのかどうか、はなはだ疑問だ。大化の改新や壬申の乱の前後に、それらは用いられ始めたかもしれない。だが何しろ文書というものが、隋に送る外交文書以外にはほとんど意味をなさない時代には、読み方がどちらも、みこ、であるなら、皇子も王も何の区別もない。それは日本書紀の編者の創作だったかもしれないのだ。
 何もかもすっかりちがうようになるだろう。皇子は姿を消し、王だけがごろごろすることになる。皇帝の子と孫との間の身分的差別はまったくなくなる。もちろん、この方が倭の五王時代に相応しい。皇帝も、もちろん大王と呼ばれるべきだ。彼と王との身分的差別もまた、たいしたものじゃないのだから。が、これはまあ、皇帝であってよい。彼が大王であることにはあまり積極的意義はないが、皇子が王であれば、ほとんど彼を人臣同様に扱える点で、楽なのだ。
 もちろん、僕にはわかっている。倭の五王時代を律令的官僚制で表現しようなどと試みるのは無謀なことだ。というよりも、じつに馬鹿げた試みだ。このフィクション世界の欠陥は、それが紙上の権力ゲームに過ぎず、そこには現実的基盤が何もないことだ。
 権力とは、支配し、ないし支配されることである、とトルストイはいった。どうだっけ? 英雄とは……神の意思の具現でもなければ、彼自身の意思で歴史を作るわけでもない。逆に民衆の意思が英雄に仮託されるというのも間違いである。権力とは支配し支配されることであり、それ以外の何ものも意味しない。そしてこの支配関係をめぐる諸力のアンサンブルが歴史を動かす、トルストイは確かそういったのだ。
 マルクスは(エンゲルスだったかも知れないが)、歴史があるためには人間がいなければならない、人間がいて、食わねばならない、これが歴史の基礎である、と言った。
 僕の歴史物語に欠けているのは、こういった現実的基盤だ。政治とは結局武力であるが、武力とは単純な筋肉の力ではない。それは組織された暴力であり、暴力の組織力なのだ。そしてこの暴力の基礎にあるのは食うことである。食うために人は組織し、組織される。だが食べ方は歴史とともに変っていき、組織は古びて使い物にならなくなり、新しい組織を要求する。政治力とはまず何よりも経済を組織する能力なのだ。
 僕の歴史には肉体がない。権力にも組織的暴力にも、それを支える米がない。
 だが、そんなことは最初からわかっている。僕にあるのは僕の美学上の要求を満足させることであり、そこに広大なひとつのフィクション世界を作り上げることだ。
 僕は書き始める。もはや書くしかない。今度こそうまくいくだろう。もちろん百数十年に、ふたたび三か月を要するだろう。そのころにはもう春だろう。僕は王たちの名前を考える。いっそ、もっと写実的な名前にしよう。古事記的にしよう。僕は岩波文庫の古事記をめくる。畳の上に仰向けになる。顔の上に両手で本を支え、天井の灯りが眼に入らないようにする。僕は本をめくる。僕はめくる。僕は本を置く。天井を見る。
 天井はそこにあった。少しも馴染みなく、そこにあった。それが僕にはちょっと疑わしかった。なぜなのか、夜ごと夜ごと僕の眼にさらされながら、あの天井は何故僕の眼に馴染んでこず、いつまでも素気ないのか。昔はこうじゃなかった。子供のころ、両親の家に住んでいた時分には、天井の一本一本の木目、節穴、壁のしみから、襖の模様のひとつひとつ、どれをとっても、ぴったりとそこにあり、そこになければならないようにそこにあり、ひとつひとつが僕と結びつき、僕の記憶とからまり、それぞれがそれぞれ生き物のように膨らみと暖かみとを持っていた。だが、いま、天井はそこにあり、僕はここにいた。眼をつぶれば、僕はもう天井を思い出せない。天井はそこにあるだろう。あれは材木だ。あれは材木としてそこにあり、僕はここにいる。材木と僕とは、永久に切れている。
 無意味だ。僕は僕の思考、僕の感受性、僕の行為を、何枚かのざら半紙の中に放り込む。ざら半紙は何枚かに――たとえば十六枚に――まとまり、あるいは炬燵の上に、あるいは屑籠の中にある。どちらにあろうと同じことだ。それらの事物はいずれどこか、そのへんにあり、僕の思考、僕の感受性、僕の行為も、やはりそこにある。そこに閉じこめられ、切りはなされ、永久に無縁であり、そして結局、そこにもない。
 しかし、何が欲しいというのだ。歓喜か。僕はまったく歓喜を味わってこなかっただろうか。女たちのちょっとした眼の動きの中に、あるいはその唇の上に、時にはまたすべてがうまくいっており、僕は何ものかであり、海と太陽とが、すばらしく強烈であり、疑い得ないかと思えたような時、僕はいくつもいくつもの歓喜を拾ってきたのではなかったか。
 だが過ぎ去ってしまうと、僕はひとつひとつの歓喜の中に許すべからざる小さな無知をここにもあそこにも見つけだし、そうなってしまうと、僕はもうそれらの歓喜をただのひとつでも許しておくべきではないと感じ始めるのだった。こうして歓喜は消えてなくなる。あれやこれやの歓喜はかつてあったにちがいない。だが、それらはもはや記憶の何の痕跡もとどめず、あのまろやかさや暖かみをすっかり失って、僕と無縁にどこかにあった。
 苦悩は……苦悩にしても同じことだった。苦悩の内には、必ず何らかの無知が巣を設けていた。僕は時には、どちらかをはっきりと決断せねばならない、さもなければ取返しがつかないだろうと思い、時には僕は袋小路にいて、解決のしようがないと思った。だが、取返しのつかないことなど何ひとつなかったし、解決せねばならないことも何ひとつなかった。世界が存在し、僕が存在していた。そして……ただそれだけだったのだ。
 圭子は、時には僕を思い出しただろうか。だが、何だって、他人の中に自分の影を求めたりしたのだ? 僕は愛を味わい尽さなかったかもしれない。もちろん、もっとちがう愛し方もできただろう。だが、それは、もっとちがう技巧も使えただろうということと、どれほどちがうというのだろう。
 圭子が情熱を演技し始めると、僕はいつも瞬間的に愛が褪め、彼女を人形だと感じ、軽蔑さえし始めたものだった。彼女は理性的な女を演じるように心掛けていた。こんなことのなかには偶然的なことが多すぎるし、だから、あんたへの愛もきっとそのうち褪めるかも、と彼女はいったものだった。そういう時、僕は彼女を愛していると感じた。けれども、キスしてやると、それだけでもう、彼女もまたほかの女のように情熱の演技を始めた。
 他者がたしかなものだってことを、わたしは知りたいのと彼女はいっていた。他者はいつもないのと同じみたい、だから、わたしは結局、わたしのしていることが何なんだか、よくわからないのよ。
 僕はもう、そうじゃないね、と僕はいった。僕のまわりで、存在はそのあるべき姿を取戻したんだ。僕の前から、いきなり何もかもが消えてしまうなんてことはもう僕には起らない。ほら、向うのテーブルに陽が当っている。静かな明るさがテーブルの上に充ちている。そして、あのテーブルはたしかに存在している、と僕は感じる。あそこをコックが歩いていく。彼はたしかに生きており、たしかに死ぬんだ、と僕ははっきりと感じる。
 だが、それは嘘だった。他者が自己と同じたしかさと充実とで感じられることは、しばしばは起らなかったし、誰に対してもというわけでは、決してなかった。他者はたしかに存在していた。だが、事物のように存在していた。
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