プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

失われた夜のために (その1)

 失われた夜のために

      一

 僕は手をとめる。なぜうまくいかないのか、よくわからない。うまくいかないというよりも、どうやら限界なのではないか。登場人物が百名を超えてから、もうこなしきれなくなっている。民部少輔とか図書頭とか左衛門佐とか筑前守とか、そういう馬鹿々々しい幾十もの小官職が、僕の頭に悪腫のように堆積している。そいつらはこびりつき、しこりのようになり、僕は眼をつむる、すると、後頭部からこめかみまで、鈍い重量感が滞っている。頭を後ろに反らし、左右に烈しくふってやる、首の付け根がぽきぽきと音をたてる。もう一度眼をつむる、眩暈に似たものが頭の中を動いて、すぐに眼を開く。頭蓋骨の内側に、硬いごろごろしたものがいくつも場所を塞ぎ、頑固に動こうとしない。石ころを数十もつめこんだみたいだ。
 しかし、やり方はある筈だ、と僕は思う。問題なのは、この小官吏どもが、もはや少しも生きていないこと。かれらは三十すぎて登場し、つまらない官職を得、五十から六十までにほぼ残らず死ぬ。国司は四年から六年の任期で人を替えねばならないので、適当にたらいまわしする。まったく機械的だ。かれらが増えすぎると、内乱が起こり、半数が淘汰される。それでもかれらは鼠算なみに増えていく。ほんとうは、かれらはもっと失業の期間を持つべきだった。それに、この小官吏どもと、皇帝家を始めとする、いくつかの貴顕の氏族王家との間に、中流貴族といった層がまるでないのはどういうわけか。かれらはあまりに早く没落し、たちまちにして、みな最下等の一線に並んでしまう。もちろん、要職が最上流の貴族に独占されるのはやむを得ないが、そして時流に乗り損ねた一族がたちまち没落していくのは当然としても、やはり常になんらかの中間的部分はある筈だ。
 もう一度頭をふる。さっきよりいっそう大きくぼきぼきいうので、おそろしいくらいだ。だが、どうやら、わかりかけてきた。貴顕の一族の少年たちが要職をすっかり占めてしまうのでは、もはや律令の時代は完全に終っているというべきだし、すでに律令の時代ではなかった道長時代に、範を求めたことがまずまちがっていたのだ。皇帝の権力が絶対的であり、その皇子たちがそれぞれ一家をなして栄えていくというためには、むしろ中流どころの貴族群に活躍させねばならない。その一族にあっては、嫡子のみが一定の地位を約束され、庶子の没落は早いだろう。
 こうして徐々に、まったくちがう構想、まったくちがうイメージが湧きあがってくる。こうなってくると、霧が晴れるように頭の中が澄んでくる。まず、子の人数がおしなべて四五人に限定されてしまう傾向を、なんとか打ち破るべきだろう。子のない皇帝や大臣や大納言がいなければならない。一方には十数名の子を持つ親が登場すべきだ。そして零から十数に到る、あらゆる偶然的な数字が統計的な几帳面さで選ばれねばならない。十六で生まれる子も五十六で生まれる子もいるだろう。二十歳で死ぬ者も八十で死ぬ者もいるだろう。結局のところ、僕はまったく機械的にやりすぎた。
 僕はぱらぱらとざら半紙をめくっていく。十数枚のざら半紙に記録された、百数十年の歴史。九代にわたる皇帝群、太政大臣、左右内大臣、大納言、中納言、参議から、果ては国司たちまで、すべては一人の皇帝から出て、代々男系でつながり、その生年、官職に就いた年、没年に到るまで、その細かな数字のひとつひとつが、かれら一個人一個人の栄枯盛衰、そして一国の一世紀半にわたる歴史の変遷を物語る。漢字と数字と直線のみで表現された歴史。百数十年、精確には……百三十七年だ。九代の皇帝……二十二名の大臣……現官吏数百二十一名……死者数九十九名。僕は算え終わり、ちょっとメモを執る。多少はまちがえたかもしれない。なにしろ、漢字と数字と直線とで真黒に埋め尽された十六枚の読みとりにくい書類の中から、重複を避けながら一名ずつ読んでいくのは、あまり面白い仕事じゃない。登場人物、総べて二百二十名。なるほど、これが僕の三か月間の全仕事だ。僕の夜は残らず、ここで消費された。よろしい。これは失敗した仕事だ。僕はざら半紙を重ねて真中から二つに割き、更に四つに割く。なるほど、これが三か月間だ。僕はそいつを屑籠に放りこむ。そいつは小さな屑籠にすっぽり納まり、そいつはいかにも平べったい……
 注意深くやりなおさねばなるまい、と僕は思う。炬燵に足を入れたまま身体を延ばしてポットのコンセントをさしこむと、そのまま畳の上に仰向けになった。右手を開いたり閉じたりし、ぐっと開くと、中指の第二関節が硬直して、もう動かない。電気溶接のホルダーを握るのに力を入れすぎるせいなのだ。僕は胸の上で静かに揉んでやる。この指はだんだん使いものにならなくなる。この身体もだんだん使いものにならなくなる。僕は天井を見る……だが、いつか見なくなるだろう。
 建国の初期に叛乱が少なすぎる。まったくないといっていいほどだ。これは怠慢だ。建国初期は倭の五王時代に比定すべきであり、皇位継承は血を流さずには片付かなくてしかるべきだ。子の数を増せば、叛乱を吸収できる。
 ポットがたぎり始める。上体を起こして手を伸ばし、手近の小さな水屋から茶碗や砂糖を取り出し、炬燵の上に移す。真新しいざら半紙の束を、汚さないように、畳の上におろしてやる。それでも炬燵の上は、電気スタンドや、人名辞典や、灰皿や、すりきれて表紙の取れそうな、わけのわからない本の類いでいっぱいだ。ほどよい濃さに出ている、うまい紅茶を飲み、これが僕の人生だ、といえたら、とてもすばらしいことだろう。しかし……おそらく……これが僕の人生なのだ。

 午後の仕事の最中に、工長がきた。彼はしばらく、小物の製缶用の、丈の高い机が並んでいる方で、年寄り連中と雑談していたが、やがて、衝立の間から、丈の低い溶接用の机の前へ入りこんできた。ちょうど一個終って、次の一個を手前へ引き寄せたところだった。僕は手をとめて、工長を見あげる。彼は片手で衝立によりかかり、愛想笑いしながら、調子をたずねる。僕は適当に受け答えしながら、彼に対して少しも卑屈そうな様子をしていないと感じて、自分に満足する。ここのところ欠勤もないし、今日の仕事がとりわけはかどっているせいだ。
 なぜ寮へ入らないのかと彼はたずねる。アパートの部屋代をきき、損じゃないかという。
「何か特別の理由でもあるのかね。毎日定時で帰るようだが、なにか、していることでもあるのかね」
 別に、と僕は答え、煩わしいことを嫌いなだけだと説明する。
「しかし、残業をしないのはどういうわけかね。残業しなければ、早く帰っても遊びにいく金もないし、毎日やることもなくて、暇をもてあますんじゃないかね。それにそろそろ貯金もせねばなるまい。いつまでも独り者でいられるわけじゃないんだから」
 まあ、僕はまだ若いから、と曖昧に笑ってごまかそうとする。君の年齢では、もう若すぎるというほどじゃない、と彼はいい、まだなにか言いたげだったが、僕が笑っているだけなので、匙を投げて行ってしまった。
 すぐにまた仕事にとりかかり、二、三個溶接し終ると、隣の溶接台から、年寄りの一人が声をかけてくる。秘密めかして、にやにや笑い、「おやじ、なに、いいおったね」
「残業しろって」
「そうだろ、少しは金儲けしろよ」
 彼も、工長と同じことをいおうとして、衝立の横あいからまだ顔をのぞかせている。僕は無言で面をひっかぶり、アークを、ば、ば、と飛ばしてやる。彼は眼を焼いて、あわてて衝立の向うに隠れただろう。そのまままた仕事にかかる。

 会社の食堂で夕食をとってから、バスを待つ。時刻がずれるから待っている人も少なく、バスもなかなか来ない。陽は道路の向うで建物の陰に沈もうとしている。工場の塀に沿って枯れ残りの芒が風に靡き、風は砂埃を舞いあげる。陽が落ちると、急に寒さが厳しくなる。僕は電話ボックスの中へ入りこむ。そこはいくらかましだ。煙草をくわえて火を点けかかると、バスが来た。あわててとびだして、バスに乗る。バスはすいている。出口付近に座って、暮れていく風景を眺める。いくつかの工場の塀を通りすぎて、やがて街に入るころには、車内灯がついて、もう、窓の外は、ともりはじめた街の灯が、車内と二重写しになって、なにも見えない。僕は車内に眼を転じる。まばらな乗客が、それぞれの座を占めて、怖れ気もなく座っている。僕の眼の前には若い男の外套の肩と、うなじと、きれいに刈りこまれた頭髪と、耳とが――これはさっき僕と一緒に待っていたやつだ、少しも寒くないかのように堂々と立っていたっけ、きっとうちの会社の事務系のやつだろう――むこうの席には赤いオーバーの若い女、ちょっと澄ましている、それから若いのや年とったのや、男や女がばらばらといる。みなひとつひとつ別々の有機物の固まりが、あくまで無機物であることを主張する鉄に隔てられて、いかにも頼りなく宙に浮いて全速力で走っている。こうして見ていると、硬い鉄と柔らかい肉体との、この同居は、いかにも奇妙で危なげだ。有機物はいつか滅びるだろう。無機物はいつまでも無機物だろう。けれども、それらはそこにあり、かれらはそこにいた。
 乗りかえのためにバスを降りる。パチンコ屋のネオンが、十字路のあちらでもこちらでもそればかり華々しい。風はもう氷のように冷たい。信号の真中で、小野と広田と岡の三人連れを見つけた。むこうでは岡が真先に気づき、三人とも歩道まであともどりする。岡は多少興奮している。
「あんた、いったいどこにいたの。いきなり消えちゃって、びっくりするじゃないか」
 ごめん、と僕はいう。その横では広田が笑いもせず、外套のポケットに両手をつっこんだまま、人並みはずれて高い背をまっすぐに伸ばし、人を嘲るように細い顎をつきだした以前のままの傲慢な調子で、唇だけを動かし、「元気かい」
「元気だ」
「働いてるのかい」
「そうだ」
 彼はしばらく無言で僕を見る。僕は並外れた長身の彼をまっすぐに見あげる。やがて、広田はちらりと信号を見、笑うと子供っぽくなる例の笑顔になって、
「じゃ、おれ、急ぐから、先に行くよ。元気で」
 ふりかえりもせずに横断歩道の人ごみに紛れこんでいく、昔のままだ。
「あいつ、愛想のないやつだ」と小野がいう。僕が笑うと小野が続けた。「やつは君に腹を立てているからな」
「しかたがない」ぼくは笑いを収めた。
「僕だって、怒ってるぜ」と岡がいった。「あんまり突然だったものな。あんたは僕らの前で毎晩のように、何をすべきかといい、そしてある日ふと消えちまったんだ。広田さんだってあんたに頼りきっていたし、あんたのこと好きだったんだ」
「僕はなにもいわないよ」と僕がいった。「なにもいう資格はないからな」
「もう一度、帰ってこいよ。これから面白くなる。難しいけど、僕らは少しずつ情勢を変えてるんだ。広田さんと僕とでね。難しいことばかりだけど、でも、少しは人数も増えたんだ」
「もう帰れないよ。会社が入れてくれないさ」
 男が駈けてきて岡にぶつかり、変りかける信号へと突進していく。岡は転びそうになって僕につかまる。
「暇があったら、茶でも飲んでかないか」と小野がいった。
「おれ、もう行かなきゃ、まにあわないよ」と岡がせわしく腕時計を見ながらいった。僕に向きなおり、「また会いたいな。小野さんに連絡先を教えといてくれよ」
 僕はうなずく。岡は小野に、じゃ、あしたといって、おりしも変った信号を渡っていく。途中でふりむいて、手を挙げる。僕も挙げてやる。小野と僕とは寸時並んで突立つ。
「えらい、はりきりようじゃないか」
「彼は今度青婦部の役員に立候補する。いちばんマークされてる一人だ」
 小野はいいながら、人混みの中を歩き出す。僕は彼と並ぶように人々をよける。自分が久しぶりに活気に満ちていると感じる。そうだ、久しく自分らしい喋り方や笑い方をしなかった。自分らしい喋り方や笑い方――そんなものがないとすれば、自分の好む、喋り方や笑い方――それに黙り方や、歩き方までも、こういったものはみないつもとちがう。これらはどれもこれも、あの頃やっていたやりかたなのだ。
「どのくらいになるのかな」と僕はいい、胸の中で算えはじめる。意外と記憶が混乱していて、月と月、年と年とが混じりあい、なにが去年のことで、なにが一昨年のことだか、少しもはっきりしてこない。実際、以前はこうじゃなかった。何年の何月にどこでなにをしていたか、僕はいつでも瞬時に答えることができた。あのころは自分に関する年鑑をひとそろい頭の中に持ち歩いていたのだ。僕はいつでも精確な自伝を書けたし、アリバイに困ることもなかったろう。ところが今では、自分の過去なんてものはどこに転がっているのだか、見当もつきはしない。
「岡はいくつになった」と僕はたずねる。
「二十歳だよ」
「そうか、二年か。もうそんなに経ったのかな。思いもよらなかった」
「そうか、そんなになるかい」と小野がいう。
 二年だ。精確に言えば二年半だ。すると僕はあの頃、そんなに若かったのか。それはまだすべてが可能な年頃といってよかったはずだ。ところが僕は自分をひどく老年だと思いこみ、あの日々をまちがって生きてしまった。
 僕らは奥のほうに座を占める。運好くそこの客が立ちあがったのだ。とても混んでいて、音楽、客たちのざわめき、コップの触れあう音、小野の声が届かない。ごたごたしたままのテーブルの上に小野は身を屈める。僕もそうする。
「さて、いったい、どこでなにをしていたのだい」と小野がたずねる。
 僕は手短かに、行った街や、就いた職のことを話す。
「別に、ここに帰ってくる必要はなかったんだが……」
「なぜ帰ってきたね」
「理由はない。僕は工場に入ろうと思った。けれども、自分の部屋が欲しかった。ここなら地理がわかっているから、手頃なアパートも探しやすい」
「じゃ、一人住まいしているのか」
「ああ。相部屋はもうごめんだったんだ。誰とも口をききたくなかった。でも工場へ入ろうと思ったときには、別の期待も……持っていたかもしれない」
「また、やりなおそうと思った?」
「そんなにはっきりしたものじゃない。でも、ほかには何ひとつすることがなかった」
「それで、いまは?」
「やはり、何ひとつすることがない。でも工場に入ってよかったと思うよ。ほとんど口をきかなくてすむ」
 ボーイがきて、テーブルを片づけ、注文をとる。ボーイはすらっとして給仕服がよく似合い、こういう職業にぴったりの整った顔だちをしている。片手にコップをのせた盆を持ったまま、その上でメモをとっている。器用な男だ。もう長いのだろう。彼はボーイだと僕は思う。彼はボーイにさせられている。ボーイにさせているのは、僕の眼だ。だが、彼はそう思っていない。彼は立ち去る。
「なぜ、君が消えてしまったのか、おれにはいまもってわからんのだ。説明してくれないか」
「僕は立ち去った。理由など必要だっただろうか。ある朝、ふと、僕は出発したんだ」
「君は寮になにもかも置いていった。君のおふくろさんが田舎から出てきて、すっかり整理していったよ。おれはたまたま岡の部屋にいて、おふくろさんに会った。泣きはしなかったが、いまにも泣くのじゃないかと思った。――おふくろさんに会ったかい」
「ああ。ひどく老けこみやがった」と僕はいった。
「君のせいだよ」
「わかっている」
 小野は身を退いて椅子に体を沈め、しばらく僕を見た。小野は少しも変らない、と僕は思った。僕は小野に対し、あるいは岡や広田や、そのほかの一人一人に対し、どれほど深い友情を抱き続けてきたかを、いってやりたくなった。だが、それはほんとうだろうか。僕は去った。僕は去り、かれらを捨てたのだ。ほかの生き方もできたにちがいない。いまなら、僕はなにを選ぶことも可能だったということがわかる。そして僕はこれを選び、ここに、こうしているのだ。小野はふたたび身を乗りだしてくる。
「まだ理由をきいていない」と彼はいった。
 僕は笑った。とまどったのだ。あの直後は、あれこれと理由らしきものを探してみたような気がする。あの頃は僕はまだ年鑑をしょって生きることに執着していたのだ。しかしまもなく、そんなことがすっかり終ってしまったことに気づいた。いつからか、僕は過去を思い出せなくなっていた。あの、幼時期や少年期や青春期の、美しい思い出とかいうやつが、少しも僕の心を動かさなくなり、同時に、僕を悩まし続けた、それらの時期へのつらい後悔の念とも、すっかり縁遠くなったのだと気づいたのは、そのころだった。僕はいつのまにか過去とは無縁に生きはじめていたし、過去の行為の動機を探ってみることが無意味なばかりか、いったいそれらの行為に動機があったなんてことが、もう信じられなくなっていた。僕はしばらく考えて、それからいった。
「理由は――それが理由だというのなら――おそらくいくつだって発見できるだろう。誰だって出発する理由くらい、ひとつふたつでなく持っているものだ。けれども、人はたぶん理由なんかで出発したりはしないだろう」
 ボーイがきて、飲物を置いて、立ち去った。小野は砂糖とミルクを入れ、飲物をかきまぜながら、つぶやく。
「ま、そりゃ、そうだろう……しかし……」
 僕は笑いだした。
「僕はあのころずいぶん欠勤していたんだ。それですっかりうっとうしくなっちまったのさ」
 小野は、びくっとして僕を見る。
「そんな単純なことで、党を捨てたのかい」
 単純なことで……僕はコーヒーを飲む……単純なことで……たくさんだ、僕はいまでは心理学に興味をもっていないといってやろう。
「おれには、どうもわからん」と小野がいう。「君は役に立つ男だった。君はおれたちの前に現れ、さぼっていた広田は、たちまち君と一緒に行動しはじめた。君らの職場は注目に価した」
「会社も注目したさ。それから僕はとばされ、もうなにもしなかった。そうだろ?」
「君には年寄りが扱えなかった。そのかわり、君は寮で動いた」
「ひどく自己を分裂させてね。会社で一日沈黙していて、寮に帰ると多弁になるんだ」
「そう、君は確かにそのことで悩んでいた。いまもっておれにはよくわからんのだが、あれはどういうことだったんだね」
「こわいのさ、人間が」と僕はいう。「特に大人がね。あのころはひどくこわかった。やつらをはじめて見たせいだろう。やつらがやつらの頑固な道徳で僕に向ってくると、僕は決してやつらを納得させることはできないと感じた。いまでもそうだが、いまでは、やつらを納得させる必要がなくなってしまった」
「そのへんがよくわからないんだ――君はマルクス主義者かね」
「ちがう。だが、あんたもちがう。誰だって、主義者じゃない。あんたはやつらの仲間だ。やつらと同じ感受性をもっている。だが、僕はちがう」
「君は労働者なんだ」
「残念ながらね。そして、そいつは何の意味ももっていない」
 小野は身を退いて黙り込んだ。周囲のざわめきと音楽とが、急に耳に戻ってくる。僕は広い店内を見渡した。どのくらいの人数がここに集まっているんだろう。彼らはその人生の途上でふと出会ったどこかの誰かと、彼らだけに通じる会話を交していて、隣の客が何を話していようと関心がない。そして店の外にはもっと大勢の人々がお互い無関心に歩きまわっている。その無数の人々の中の一人が僕の目の前にいて、小野の目の前にもいる。人々のただなかで僕らがここにこうしていることに、僕は漠然と何がしか感慨を抱いた。
 その時、小野が別の話題を持出した。
「君は大学では、どんな活動をしていたんだ」
 僕は何気なく問いに答え始めたが、答えているうちに徐々に、思いもかけず饒舌になっていった。
「たいしたことはしてないさ。落第生だからね。民青には入っていたが、党には入ってなかった。だから工場に来てから入ったろ。デモについていったり、ビラを撒いたり、あとクラスアジといって、講義の始まる前の、学生たちのお喋りでざわついている教室に入って、即席のアジ演説をやるんだ。みなお喋りに夢中で誰も聞いちゃいないんだけどね。小クラスは苦手で、百人くらいの教室が好きだった。たいていマイクのスイッチが入っているので、僕のひ弱な声でも、かえって小クラスよりも透ったんだ。ある日、たまたま知ったばかりのボール爆弾の構造を細かく喋った。この時だけだったな、みなしんとして聞いてくれ、終ると一斉に拍手してくれたんだ。かえって僕のほうが感動してしまった。そのとき思ったね、抽象的なことをいっても駄目だ。具体的に喋ればみんな聞いてくれる。でも僕は不勉強なので、結局一回きりだった。それに僕は気が変りやすいんで、何ヶ月か活動したら、また半年くらい下宿にこもってしまう。そんなことの繰返しだった」
「下宿にこもって何してたんだ」
「別に。あれこれ下らないことさ。僕はいつでも、自分が何をしたいのか、よく分らないんだ」
「そのへんは、おれにはどうも理解しにくいところだが――君が組合大会で堂々と執行部案を批判できた理由は分ったよ。そういう経験を君は大学でしていたわけだ」
「いいたいことが分っている時には僕は喋れる。僕がまったく喋れなくなってしまうのは、いいたいことがない相手に対してなんだ。そしてほとんどの相手に対して、僕にはいいたいことがない」
「それはつまり、雑談とか世間話とかが苦手だという意味かい」
「まあ、そうだけど、苦手というだけじゃなくて、興味が持てないんだ。たぶん……会話のない家庭で育ったし、友達も欲しがらない子供だったからなのだろう」
 小野はまた黙って煙草を吸った。こんなことも、あの頃は誰にも話したことがなかったな、とふと思った。あの頃はなすべきことがあった。ありすぎるくらいあった。あまりに忙しくて、たとえ少々悩んでも立ちどまってなどいられなかったのだ。
 小野はもう、さっきのように、椅子に体を沈めてしまった。僕もそうする。友情は、ただそれのみでは何の意味もない。もしそれが何かに向って役立てられるのでないなら、そんなものはいったい何だろう。女たちは愛しているということが好きだ。だが愛が愛から外へ出ていかないなら、それがいったい何だろう。しかし、僕らは僕らを何の役に立たせたらいいのか。小野は僕を見つめている。五分刈りの頭が四角い顔によく似合う。狭い額の横皺と細めの眼はいかにも人が好さそうだ。そして実際、好人物だった。彼はきょう僕に二年ぶりで出会った時、僕になにかを期待しただろうか。彼は僕をなつかしんだ。僕も彼をなつかしんだ。すべてこういうことは意味がなかった。僕はもう彼と会わないだろう。彼のがわにも僕と会う必要がないだろう。僕は岡とも会わないだろう。岡には僕が必要ではない。僕は誰にとっても必要ではない。
「あれから、ずいぶん大勢やめていってね」と小野がいった。
僕がたずねると、彼は指おりながら、いくつもの名前をあげた。それらはすべて多少僕を驚かせた。僕の知っている彼らは、いつもいちばん苦しいことに耐えて、自分に課されている責務をまちがいなくやりとおす彼らだった。僕が消えたときにも、人々は僕がいま感じているような驚きを、僕に対して持ったのだろうか。
 いくつかの、気になる名前が出てこなかった。僕はさりげなく訊いてみた。
「秋山さんはどうしてる?」声が少し震えたかも知れない。
「ああ、あれは元気だよ。設計からも何人か脱落したが、秋山は元気でやっている。そういえば君は秋山と気が合っていたな。そうだろ?」
「別に気が合っていたわけじゃない。ただあの人は多少本を読んでいたので、話題が合っただけだ」
「去年結婚したよ。どこかの集会で活動家の女の子を見つけてきた。社外の子だがね。秋山は社内の女の子にも、もててたんだけどな。設計でも人望があるから、今度は分会長をねらえるだろう」
 またしばらく話題が途切れたあとで、そういえば、と小野がいった。
「田村もやめたよ」
「いつごろ」と僕がきく。
「もう一年になるかな。彼女は同時に会社もやめた。君はまったく会ってないのか」
「二年半、会ってないね」
「そうか。先ごろばったり彼女に会ったら、結婚するとかいっていた」
 僕は意外なことを聞いたように思った。だがそう思うのはまちがっている。圭子だって結婚するだろう。もうそんな年なのだ。人々はみなその青春を終えたのだ。
「彼女は変ったかい」
「変ったね」と小野がいう。「別人のように変った。君のいない間に、なにもかもすっかり変ってしまったよ」
 小野は僕を見る。そういう小野だけは変っていなかった。小野は頑固に自分の道を守りとおしていくだろう。
 ふたたび僕らは沈黙する。それぞれの椅子に身を沈め、まるで、自分の尻の下にその柔らかな肌ざわりのあるのが当然だというふうに、クッションの上で少し尻を動かし、座り心地のよい窪みをつくり、そうして僕らは、その無機物の上に身を沈める、怖れ気もなしに……

関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す