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植田与志雄氏への手紙

 Eメール添付で受領した「非物質的材の生産について」の読書がじつは中断したままです。この間ありがたいことに、いろいろな方からたくさんの原稿や本が送られてきて、読むほうがまにあっておりません。
 ですが、「さざ波通信」が終了ということで、いつ読めなくなるかもしれないと思い、とりあえず、植田さんの投稿をいくつかプリントしました。次のものです。
(1) 2010.06.01 ソ連崩壊後の疑問「なぜかくも長き期間にわたってこのような欠陥や誤りが見過ごされてきたのか」
(2) 2010.06.26 否定形での発想を改めたい(人文学徒さんに)
(3) 2010.07.25 設計図なのか社会自身の法則なのか。(pcaiaさんへ)
(4) 2010.08.28 どこにただすべき問題点があるのか(常幹参院選総括)
(5) 2010.09.18 民主集中こそが問題の核心(本田さんへ)

 一読して、同じことを考えてきた人がいるのだ、と感じています。ずっとぼくが考えてきたことがほとんどそのまま書かれているので、おかしなことですが、なんだか馬鹿馬鹿しいような気がしたのです。永年、ぼくの考えを理解してくれる人どころか、関心を持ってくれる人にすら巡り合わなかったので、ずっと孤立感を抱いてきました。
 ところが同じことを考えていた人が党内にいた、ただ党のルールによってお互いが孤立させられていただけなのだと知り、それは予想されたことだったのですが、あまりにも予想通りで、なんだか気が抜けたのです。
 やはり派閥を禁じるのは間違いですね。ぼくはこれを50年前から言っていました。少数意見の持ち主だって、党内を広く見渡せばちゃんと同じ考えの人を見つけることができるのに、派閥を禁じるのでそれができず、孤立感を覚えて離党してしまう。こうしてイエスマンしか残らず、改革の不可能な党になってしまって衰退するしかない。その結果がいまの党だったわけで、だから馬鹿馬鹿しいのです。

 とはいえ、ネットでいろいろ読んだなかで、いちばんぴったり来たのは植田さんでした。植田さんに巡り合えたことは、遅すぎたけれども、やはり大きな喜びでした。
 ただもう年をとりすぎてしまって、今更ぼくらに何かできるとは思えません。
 なので、植田さんの最後の分類(5)に従えば、党内民主化改革に、1、賛同する人。2、賛同しない人。3、迷う人のなかで、ぼくが位置するのは3です。もっとも、迷っているわけではありません。もう影響力を発揮するようなことはできないから、そういう仕事は若い人に任せる。いままで日本社会で党が果たしてきた役割を、当面党が変わりなく果たしてくれて、そうしていつか若い人たちが改革していってくれればそれでいい、という一歩引いた考えです。
 党はだいたい十年か二十年遅れてぼくの考えを追いかけてきているように感じますから、あまり悲観はしません。

(1)から(5)まで読ませていただいて、すぐ感想を書きたかったのですが、ほかに読まねばならないものが多かったので、少し日にちが経ってしまいました。いまのぼくは記憶力の減退で、読んですぐ書かないとあやふやになってしまうのです。
 それで、なるほどと思うところはたくさんあったのですが、それはもう共通認識なので良しとしましょう。異論を持ったところを少し書いてみます。

 その前に(5)の三分類をもう一度取り上げると、社会主義への関心の強い人ほど党に疑問を持ち、疑問を持たない人は社会主義にもあまり関心がない、と植田さんは書いておられますが、これもぼくが日ごろ感じてきたことです。
 むかし(党員だったとき)も、いま(党を離れてから)も、ほとんどの党員が共産主義、社会主義に関心がないように見えることに驚いてきました。つまり理論問題に関心を示す人がいないのです。ぼくは永年そのことを不思議に思い、苛立ちを覚えてきました。でも、いまは納得できたように思います。要するに人々が共産党に近づくのは理屈じゃないのです。生活の実感なのです。だからそれでよいのです。もちろん宗教的に盲信されたのでは困りますが、そしてそれが「社会主義国」の病弊だったのかもしれませんが、高度資本主義国の市民たちはもう少し賢く、決して盲信しているわけでもなさそうです。
 ともかくこの人たちのおかげで党は成り立ち、そして現在日本社会でそれなりの役割をはたしています。そのことは評価すべきだろうと思います。

 植田さんの文書(6年前のものですが)を読ませてもらって、まず全体の感想としては、工学系の人の特徴だろうか、高原さんと共通したところがあると感じます。
 つまり「設計図」です。植田さんも高原さんも設計図を重要視されている。
 高原さんは、まず「理念」を見つけ出さねばならないと主張されます。「利潤」に代わる理念を見つけ出さねばならない。そこは植田さんも一緒ですね。
 理念に基づいて未来社会の設計図を提案しなければならない。
 どのような社会を作るのかについての共産主義者の回答はあまりにもあいまいである、それは未来の人間の仕事であっていまの人間が具体像を示すことはできない、というマルクスの言葉を受けついでいるだけだ、その「あいまい像」はもはや現実味を失っている、現代資本主義をもっと緻密に分析し直して、具体的で現実性のある改革案を示さねばならないということなのでしょう。
 これに疑問を呈されたのが、(3)のpcaiaさんでした。
 <ソ連社会であろうと日本社会であろうと、ある人間が考えた「設計図」によって建設されるのでなく、何処の社会もそれ自身の法則にそって発展していくのだと思います。問題は「設計図」が社会発展の法則を正確に反映した「意識」に裏打ちされているか否かにあるのではないでしょうか>
 これに対して植田さんは次のように反論されています。

       ☆     ☆     ☆

1.いつの時代にあっても設計図によって社会は作られ運営されてきた。
2.平安時代でも律令など人間の頭がつくった仕組で社会が構成、運営されてき た。
3.ただし存在する仕組みは時代の生産力で制約されたものとなっていた。
4.時代によって決められる外枠の範囲内では人間の頭で社会の設計がなされて きた。
5.4の自覚のもとに次の社会を建設しよう、大きな設計の変更をしよう。
6.「社会のあるべき理念をベースとした意識的社会設計」これが社会主義の新しいところ。
7.設計のキモは「生産手段の共有」これが社会主義の具体化。
 pcaiaさんの「人間が考えた設計図によって建設されるのではなく」は3を指し、疑問、否定したい設計図とは3を無視して頭の中だけで作り出した設計図のことを指しているのではないでしょうか。
 そして「設計図が社会発展の法則を正確に反映した意識に裏打ちされているか否か」は5,6であるように思えます。 だとすればそれは私の考えていることと同じになると思います。違うでしょう か? 
 私は生産手段の共有を基本とする社会の設計こそが社会主義のキモで、共産党は社会主義の設計施工の責任を自覚した集団だと理解してきました。ですから設計を放棄するなら共産党の存在意義はないと思います。一方でこのようなデザイン主義は傲慢で出すぎた誤った道だとの批判、生産手段の共有アイディアの非現実性、危険性への批判など社会主義を根本的に再検討する余地はたくさんあるとも思いますが……(以下略)

       ☆     ☆     ☆
 
 なるほど、これは鶏が先か、卵が先かというような議論で、じつは同じことをそれぞれ反対の方角から見ただけのことともとれる、その違いを明確な言葉で表現することにはかなり困難を感じます。
 にもかかわらず、ぼくはこの二つは違うと考えています。そしてそれは重要な、決定的な違いであって、まずその違いを明確にせねばならないと考えます。

 ぼくが立つのは、pcaiaさんの側です。そこが植田さん、高原さんとぼくとのおそらく最も大きな違いです。
 ただpcaiaさんの考え方に全面賛成ではありません。彼の使う「社会発展の法則」という言葉に違和感があります。言葉というよりもその言葉の使われる使われ方への微妙な違和感です。ぼくはpcaiaさんの文脈の中で、この言葉が原始マルクス主義的な使われ方をしていると感じてしまいます。「原始」と言ったのは、まるで1960年代の共産主義読本を読むようだと感じるからです。
 もちろん「ヒラケゴマ」のような絶対的な法則はどこにも存在しません。法則とは、自然の法則にせよ社会の法則にせよ、現代の人間科学が到達した段階における法則にすぎません。それは科学の進歩によってどんどん変化していきます。それは現代の人間が自然なり社会なりをこのように認識しているというだけのことにすぎず、自然なり社会なりが実際にそのように存在しているわけではありません。
 原始マルクス主義は(1960年代の共産主義読本は)その点言葉の使い方がいい加減で無批判でした。ぼくはpcaiaさんがそれをまだ引きずっているように読めてしまうので、彼の主張を全面支持はできないのです。
 でもその点を留保すれば、彼の植田さんへの疑問は理解できます。そして同意できるのです。

 けれどもぼくの中にも迷いがあります。ほんとうは植田=高原説が正しいのかもしれないという思いもあります。
「理念」「設計図」を重視するのは、マルクスが批判したフーリエ、サン・シモン、ロバート・オーエンらの空想的社会主義でしょう。さらに遡れば、トマス・モアのユートピアであり、(時代的にではなく理念的に遡って)武者小路実篤の「新しき村」です。
 そしていま「里山資本主義」だとか、さまざまな試みが方々で起こっています。グローバリズムによる貪欲資本主義からいかに避難するかというローカリズムの試みの数々です。
「人々はいま空想的社会主義からやり直そうとしているように見える」とぼくはかつてブログ上で書きました。そしてそのような試み、新しい理念を持った新しい設計図を、ローカル的ではあるが実践してみようとすること、そこからやり直そうとする以外には、もうとても未来の見えないところへ人類は来てしまったのではないか、という思いがしたのです。
 それは解決そのものではないけれど、そういう実験によって何かを具体的に見つけ出そうとしている、そういう具体的な行動によらねば未来を見つけ出せないのじゃないか、頭の中で考えているだけじゃダメなんじゃないか、と思ったのです。
 そういう具体的行動をともなった試みや、あくまで頭の中で解決策を見つけようとされている高原さんのようなケースも含めて、「理念」「設計図」の探求は、たしかになされねばならないことでしょう。
 マルクスだって空想的社会主義を乗り越えようとはしたが、でもその試みを無視、軽視したわけではなく、そこからヒントを吸収したのだろうと思います。
 でも鶏か卵かということは、それとはまた次元が違うように思うのです。
 植田さんが律令制を例示されているので、それを少し見てみましょう。

 律は刑法典、令は行政法典ですが、令の内容は官僚制度の整備と、徴税、徴兵の制度化です。その基本は公地公民です。地方豪族による土地、人民の私有を禁止し、すべてを中央権力が掌握するという制度です。北魏の均田法を取り入れたと言われています。徴税、徴兵の権利を中央権力が独占するための法律です。
 しかし、この法律の施行によってはじめてそれが可能になったと捉えることはできないでしょう。法は外国から輸入したとしても、すでにその法を実行できるだけの権力を大和朝廷が地方豪族に対して持っていたから可能だったのです。
 しかもそれは完全に実施されたとは思えません。地方豪族がすべてを手放すということは考えられません。彼らは律令以前に国造や県主としてすでに中央権力に組織化されていましたが、律令によって、郡司(大領、少領)ともなれば、また国衙の末端(大掾、少掾)にも連なります。郡司を統べる権力として国司がおり、この国司は確かに中央権力が任命しますが、郡司は元国造なのです。そういう形で地方豪族を温存しつつ中央権力の浸透を図ったものと思われます。権力とは当然経済関係です。ただのペーパーでは権力ではありえません。そして当時の経済とは土地と人民ですから。郡司のもとで土地と人民の旧来の所有関係は維持されたはずです。
 ぼくは不勉強なので証拠を上げることもできずにものを言っていますが、公地公民がどの程度実施されたのかということは疑問で、かなりの程度にそれは単なる理念であっただろうとは推測されているところです。班田収授法などはかなりあやしい。もちろん実施された証拠もかなりあることはあるみたいですが、どの程度に実施されたのかはわかりません。
 こうしたところからやがて荘園制度に移っていきます。これは明らかに現実が法に先行しています。法はただ現実を後追いしただけです。墾田永代私有令から荘園が始まったと言われますが、そればかりではないでしょう。徴税権をめぐる国司と郡司の緊張関係は最初からあったはずで、豪族(田堵)たちは国司の頭越しに中央権力者との間に直接私的関係を結ぶことで、不輸不入の権を獲得します。名目上の領主は中央権力者ですが、実際に経営にあたっていたのは現地豪族(荘官)です。彼らはまた在庁官人として国衙の仕事も代行するようになります。これが京都の支配をはねのけたとき鎌倉幕府が成立します。
 たしかに権力者は常に法を作ります。法を作ることで支配はよりスマートになります。しかし法の前に現実があり、現実が法を規定しているという側面が強い。社会そのものはどうでしょう。これは法によって作られたためしはありません。法が設計した社会なんてないでしょう? まず社会の現実があり、それにもとづいて法を作るのです。鎌倉が権力を握れば、鎌倉が法を作ります。江戸が握れば江戸が作ります。明治政府が権力を握れば明治政府が法を作るのです。法の前に現実社会がすでに成立しています。社会とは要するに権力関係のことで、権力関係によって社会の大枠は決まってしまいます。法はただその現実を文章化するだけです。現実をうまく反映すればスマートに実施され、現実との間に齟齬があればギクシャクします。
 律令による官僚制度は見事に整った制度で、いま見てもほれぼれしますが、中国の制度をまねて頭の中で作った制度だからです。だから現実に合わずにどんどん空洞化していきます。摂関政治の時代には実際に政務を執り行っているのは摂関家の家令で、身分の低い人たちです。大臣たちは何もしていません。院政の時代になると院庁の役人たちが政治を動かします。これも身分の低い人たち(受領層)です。
 これに比べて武家政権の時代になると、どれもごちゃごちゃとしたすっきりしない制度です。江戸期の制度さえ「万事、庄屋仕立て」と言われていました。三河の小さな大名だったときの役柄をただ全国支配用に引き延ばし、そこへその時その時で必要な役所を追加していったからです。この制度にもいろいろ問題があってやがて機能しなくなりますが、律令よりは現実的でした。

「社会主義国」は理念を持った集団が権力を握り、理念にもとづいて社会を設計した最初の例と言えるのかもしれません。そして、これらの国家が時間はかかったが結局は崩壊したのは、それが原因だったのかもしれません。
「社会主義国家」というのは、ぼくの目には、およそマルクス哲学とは縁遠い国家に見えます。
 マルクスは現実主義者です。彼は理想社会の設計には意味がないと考え、理念が社会を動かすことはありえないと考えました。
 彼が取り組んだのは現実の資本主義社会の研究であり、その制度によってなぜ人々が苦しむのか、どこに矛盾があり、その矛盾を止揚する力がどこにあるのかを考えました。そして労働者を発見しました。
 しかし彼がやったのはそこらへんまでで、そこからあとは後継者たちが考えねばならなかったのです。労働者を扇動すれば権力を倒し、新しい権力を作ることはできる。だがもちろん扇動から生まれた権力はそれ以上のものにはなりえませんでした。
 民主主義のシステムが必要だったのだが、早すぎた革命にはその準備がなかったのです。だから、植田さん、高原さんの言うことはわかるのです。システムの設計がいる。理念がいる。
 それはわかるのだが、それが先行することにはやはり疑問があります。社会は理念や設計どおりには動きません。理念や設計が先行することには危うさがあります。
 しかし一方科学的社会主義が失敗したのは、「理念」や「設計図」がなかったからかもしれません。だからいま、空想的社会主義が方々で復活しているのかもしれません。
 おそらく現実と理念との一歩一歩の歩みが必要なのだと思います。現実の運動の中で理念が試され、修正され、それが現実の運動に反映していくという息の長い過程が必要なのです。

 鶏から見ても卵から見ても、結局考えていることは同じじゃないか、というふうにも見えます。「理念」や「設計」を現実に合わせて修正していく、ということは植田さんが強調されていることで、そこに何の違いもありません。
 そのとおりなのですが、口で説明するのは難しいのですが、それでもそこには何か決定的な誤りがあるというふうにも感じます。
 もちろん植田さんが基本的に現実主義者であるということは理解できます。しかしあの七箇条を読むと、多少の懸念が残るのです。

 ここまで書いても何故かすっきりしないのは何故なのかと考えてみました。
 要するに、植田さんは鶏が先でも卵が先でも同じことだと主張され、pcaiaさんとぼくとはいや違うと言っています。違うということを論理的に説明しようとしてもうまくいきません。必要なのは論理ではないのです。基本的な考え方の違いが、具体的な現実の場面にどのような影響を与えるかということなのでしょう。
 そしてこれがいまのところ難しい。というのは植田さんとぼくとでは具体的な問題ではほとんど意見が一致するからです。具体的な問題で一致するなら、それ以前の理論なんてどうでもよいじゃないかということになってしまいます。
 だから、せっかくここまで書いたが、この問題はしばらく保留してもいい。どこかで基本的な認識の違いが具体的な課題のとらえ方の食い違いを生じるかもしれない。そのときに論議すればよいのかなと思います。

 ぼく自身は、新しい「理念」を創り出そうとも、未来社会の「設計図」を作ろうとも思いません。ぼくにとって大切なのは、いまここで生きている人間たちの生活であり、思いなのです。
 けれども、さまざまな「理念」や「設計図」に無関心ではありません。そういう試みは大いにあるべきだと思います。でもその一つ一つはそれぞれが試みなのであって、絶対的なものではありません。そしてそういういろんな試みを呑み込みながら社会は徐々に前進していくのだろうと思います。

 尻切れトンボになりましたが、ここで終わります。
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