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植田与志雄氏への手紙

 Eメール添付で受領した「非物質的材の生産について」の読書がじつは中断したままです。この間ありがたいことに、いろいろな方からたくさんの原稿や本が送られてきて、読むほうがまにあっておりません。
 ですが、「さざ波通信」が終了ということで、いつ読めなくなるかもしれないと思い、とりあえず、植田さんの投稿をいくつかプリントしました。次のものです。
(1) 2010.06.01 ソ連崩壊後の疑問「なぜかくも長き期間にわたってこのような欠陥や誤りが見過ごされてきたのか」
(2) 2010.06.26 否定形での発想を改めたい(人文学徒さんに)
(3) 2010.07.25 設計図なのか社会自身の法則なのか。(pcaiaさんへ)
(4) 2010.08.28 どこにただすべき問題点があるのか(常幹参院選総括)
(5) 2010.09.18 民主集中こそが問題の核心(本田さんへ)

 一読して、同じことを考えてきた人がいるのだ、と感じています。ずっとぼくが考えてきたことがほとんどそのまま書かれているので、おかしなことですが、なんだか馬鹿馬鹿しいような気がしたのです。永年、ぼくの考えを理解してくれる人どころか、関心を持ってくれる人にすら巡り合わなかったので、ずっと孤立感を抱いてきました。
 ところが同じことを考えていた人が党内にいた、ただ党のルールによってお互いが孤立させられていただけなのだと知り、それは予想されたことだったのですが、あまりにも予想通りで、なんだか気が抜けたのです。
 やはり派閥を禁じるのは間違いですね。ぼくはこれを50年前から言っていました。少数意見の持ち主だって、党内を広く見渡せばちゃんと同じ考えの人を見つけることができるのに、派閥を禁じるのでそれができず、孤立感を覚えて離党してしまう。こうしてイエスマンしか残らず、改革の不可能な党になってしまって衰退するしかない。その結果がいまの党だったわけで、だから馬鹿馬鹿しいのです。

 とはいえ、ネットでいろいろ読んだなかで、いちばんぴったり来たのは植田さんでした。植田さんに巡り合えたことは、遅すぎたけれども、やはり大きな喜びでした。
 ただもう年をとりすぎてしまって、今更ぼくらに何かできるとは思えません。
 なので、植田さんの最後の分類(5)に従えば、党内民主化改革に、1、賛同する人。2、賛同しない人。3、迷う人のなかで、ぼくが位置するのは3です。もっとも、迷っているわけではありません。もう影響力を発揮するようなことはできないから、そういう仕事は若い人に任せる。いままで日本社会で党が果たしてきた役割を、当面党が変わりなく果たしてくれて、そうしていつか若い人たちが改革していってくれればそれでいい、という一歩引いた考えです。
 党はだいたい十年か二十年遅れてぼくの考えを追いかけてきているように感じますから、あまり悲観はしません。

(1)から(5)まで読ませていただいて、すぐ感想を書きたかったのですが、ほかに読まねばならないものが多かったので、少し日にちが経ってしまいました。いまのぼくは記憶力の減退で、読んですぐ書かないとあやふやになってしまうのです。
 それで、なるほどと思うところはたくさんあったのですが、それはもう共通認識なので良しとしましょう。異論を持ったところを少し書いてみます。

 その前に(5)の三分類をもう一度取り上げると、社会主義への関心の強い人ほど党に疑問を持ち、疑問を持たない人は社会主義にもあまり関心がない、と植田さんは書いておられますが、これもぼくが日ごろ感じてきたことです。
 むかし(党員だったとき)も、いま(党を離れてから)も、ほとんどの党員が共産主義、社会主義に関心がないように見えることに驚いてきました。つまり理論問題に関心を示す人がいないのです。ぼくは永年そのことを不思議に思い、苛立ちを覚えてきました。でも、いまは納得できたように思います。要するに人々が共産党に近づくのは理屈じゃないのです。生活の実感なのです。だからそれでよいのです。もちろん宗教的に盲信されたのでは困りますが、そしてそれが「社会主義国」の病弊だったのかもしれませんが、高度資本主義国の市民たちはもう少し賢く、決して盲信しているわけでもなさそうです。
 ともかくこの人たちのおかげで党は成り立ち、そして現在日本社会でそれなりの役割をはたしています。そのことは評価すべきだろうと思います。

 植田さんの文書(6年前のものですが)を読ませてもらって、まず全体の感想としては、工学系の人の特徴だろうか、高原さんと共通したところがあると感じます。
 つまり「設計図」です。植田さんも高原さんも設計図を重要視されている。
 高原さんは、まず「理念」を見つけ出さねばならないと主張されます。「利潤」に代わる理念を見つけ出さねばならない。そこは植田さんも一緒ですね。
 理念に基づいて未来社会の設計図を提案しなければならない。
 どのような社会を作るのかについての共産主義者の回答はあまりにもあいまいである、それは未来の人間の仕事であっていまの人間が具体像を示すことはできない、というマルクスの言葉を受けついでいるだけだ、その「あいまい像」はもはや現実味を失っている、現代資本主義をもっと緻密に分析し直して、具体的で現実性のある改革案を示さねばならないということなのでしょう。
 これに疑問を呈されたのが、(3)のpcaiaさんでした。
 <ソ連社会であろうと日本社会であろうと、ある人間が考えた「設計図」によって建設されるのでなく、何処の社会もそれ自身の法則にそって発展していくのだと思います。問題は「設計図」が社会発展の法則を正確に反映した「意識」に裏打ちされているか否かにあるのではないでしょうか>
 これに対して植田さんは次のように反論されています。

       ☆     ☆     ☆

1.いつの時代にあっても設計図によって社会は作られ運営されてきた。
2.平安時代でも律令など人間の頭がつくった仕組で社会が構成、運営されてき た。
3.ただし存在する仕組みは時代の生産力で制約されたものとなっていた。
4.時代によって決められる外枠の範囲内では人間の頭で社会の設計がなされて きた。
5.4の自覚のもとに次の社会を建設しよう、大きな設計の変更をしよう。
6.「社会のあるべき理念をベースとした意識的社会設計」これが社会主義の新しいところ。
7.設計のキモは「生産手段の共有」これが社会主義の具体化。
 pcaiaさんの「人間が考えた設計図によって建設されるのではなく」は3を指し、疑問、否定したい設計図とは3を無視して頭の中だけで作り出した設計図のことを指しているのではないでしょうか。
 そして「設計図が社会発展の法則を正確に反映した意識に裏打ちされているか否か」は5,6であるように思えます。 だとすればそれは私の考えていることと同じになると思います。違うでしょう か? 
 私は生産手段の共有を基本とする社会の設計こそが社会主義のキモで、共産党は社会主義の設計施工の責任を自覚した集団だと理解してきました。ですから設計を放棄するなら共産党の存在意義はないと思います。一方でこのようなデザイン主義は傲慢で出すぎた誤った道だとの批判、生産手段の共有アイディアの非現実性、危険性への批判など社会主義を根本的に再検討する余地はたくさんあるとも思いますが……(以下略)

       ☆     ☆     ☆
 
 なるほど、これは鶏が先か、卵が先かというような議論で、じつは同じことをそれぞれ反対の方角から見ただけのことともとれる、その違いを明確な言葉で表現することにはかなり困難を感じます。
 にもかかわらず、ぼくはこの二つは違うと考えています。そしてそれは重要な、決定的な違いであって、まずその違いを明確にせねばならないと考えます。

 ぼくが立つのは、pcaiaさんの側です。そこが植田さん、高原さんとぼくとのおそらく最も大きな違いです。
 ただpcaiaさんの考え方に全面賛成ではありません。彼の使う「社会発展の法則」という言葉に違和感があります。言葉というよりもその言葉の使われる使われ方への微妙な違和感です。ぼくはpcaiaさんの文脈の中で、この言葉が原始マルクス主義的な使われ方をしていると感じてしまいます。「原始」と言ったのは、まるで1960年代の共産主義読本を読むようだと感じるからです。
 もちろん「ヒラケゴマ」のような絶対的な法則はどこにも存在しません。法則とは、自然の法則にせよ社会の法則にせよ、現代の人間科学が到達した段階における法則にすぎません。それは科学の進歩によってどんどん変化していきます。それは現代の人間が自然なり社会なりをこのように認識しているというだけのことにすぎず、自然なり社会なりが実際にそのように存在しているわけではありません。
 原始マルクス主義は(1960年代の共産主義読本は)その点言葉の使い方がいい加減で無批判でした。ぼくはpcaiaさんがそれをまだ引きずっているように読めてしまうので、彼の主張を全面支持はできないのです。
 でもその点を留保すれば、彼の植田さんへの疑問は理解できます。そして同意できるのです。

 けれどもぼくの中にも迷いがあります。ほんとうは植田=高原説が正しいのかもしれないという思いもあります。
「理念」「設計図」を重視するのは、マルクスが批判したフーリエ、サン・シモン、ロバート・オーエンらの空想的社会主義でしょう。さらに遡れば、トマス・モアのユートピアであり、(時代的にではなく理念的に遡って)武者小路実篤の「新しき村」です。
 そしていま「里山資本主義」だとか、さまざまな試みが方々で起こっています。グローバリズムによる貪欲資本主義からいかに避難するかというローカリズムの試みの数々です。
「人々はいま空想的社会主義からやり直そうとしているように見える」とぼくはかつてブログ上で書きました。そしてそのような試み、新しい理念を持った新しい設計図を、ローカル的ではあるが実践してみようとすること、そこからやり直そうとする以外には、もうとても未来の見えないところへ人類は来てしまったのではないか、という思いがしたのです。
 それは解決そのものではないけれど、そういう実験によって何かを具体的に見つけ出そうとしている、そういう具体的な行動によらねば未来を見つけ出せないのじゃないか、頭の中で考えているだけじゃダメなんじゃないか、と思ったのです。
 そういう具体的行動をともなった試みや、あくまで頭の中で解決策を見つけようとされている高原さんのようなケースも含めて、「理念」「設計図」の探求は、たしかになされねばならないことでしょう。
 マルクスだって空想的社会主義を乗り越えようとはしたが、でもその試みを無視、軽視したわけではなく、そこからヒントを吸収したのだろうと思います。
 でも鶏か卵かということは、それとはまた次元が違うように思うのです。
 植田さんが律令制を例示されているので、それを少し見てみましょう。

 律は刑法典、令は行政法典ですが、令の内容は官僚制度の整備と、徴税、徴兵の制度化です。その基本は公地公民です。地方豪族による土地、人民の私有を禁止し、すべてを中央権力が掌握するという制度です。北魏の均田法を取り入れたと言われています。徴税、徴兵の権利を中央権力が独占するための法律です。
 しかし、この法律の施行によってはじめてそれが可能になったと捉えることはできないでしょう。法は外国から輸入したとしても、すでにその法を実行できるだけの権力を大和朝廷が地方豪族に対して持っていたから可能だったのです。
 しかもそれは完全に実施されたとは思えません。地方豪族がすべてを手放すということは考えられません。彼らは律令以前に国造や県主としてすでに中央権力に組織化されていましたが、律令によって、郡司(大領、少領)ともなれば、また国衙の末端(大掾、少掾)にも連なります。郡司を統べる権力として国司がおり、この国司は確かに中央権力が任命しますが、郡司は元国造なのです。そういう形で地方豪族を温存しつつ中央権力の浸透を図ったものと思われます。権力とは当然経済関係です。ただのペーパーでは権力ではありえません。そして当時の経済とは土地と人民ですから。郡司のもとで土地と人民の旧来の所有関係は維持されたはずです。
 ぼくは不勉強なので証拠を上げることもできずにものを言っていますが、公地公民がどの程度実施されたのかということは疑問で、かなりの程度にそれは単なる理念であっただろうとは推測されているところです。班田収授法などはかなりあやしい。もちろん実施された証拠もかなりあることはあるみたいですが、どの程度に実施されたのかはわかりません。
 こうしたところからやがて荘園制度に移っていきます。これは明らかに現実が法に先行しています。法はただ現実を後追いしただけです。墾田永代私有令から荘園が始まったと言われますが、そればかりではないでしょう。徴税権をめぐる国司と郡司の緊張関係は最初からあったはずで、豪族(田堵)たちは国司の頭越しに中央権力者との間に直接私的関係を結ぶことで、不輸不入の権を獲得します。名目上の領主は中央権力者ですが、実際に経営にあたっていたのは現地豪族(荘官)です。彼らはまた在庁官人として国衙の仕事も代行するようになります。これが京都の支配をはねのけたとき鎌倉幕府が成立します。
 たしかに権力者は常に法を作ります。法を作ることで支配はよりスマートになります。しかし法の前に現実があり、現実が法を規定しているという側面が強い。社会そのものはどうでしょう。これは法によって作られたためしはありません。法が設計した社会なんてないでしょう? まず社会の現実があり、それにもとづいて法を作るのです。鎌倉が権力を握れば、鎌倉が法を作ります。江戸が握れば江戸が作ります。明治政府が権力を握れば明治政府が法を作るのです。法の前に現実社会がすでに成立しています。社会とは要するに権力関係のことで、権力関係によって社会の大枠は決まってしまいます。法はただその現実を文章化するだけです。現実をうまく反映すればスマートに実施され、現実との間に齟齬があればギクシャクします。
 律令による官僚制度は見事に整った制度で、いま見てもほれぼれしますが、中国の制度をまねて頭の中で作った制度だからです。だから現実に合わずにどんどん空洞化していきます。摂関政治の時代には実際に政務を執り行っているのは摂関家の家令で、身分の低い人たちです。大臣たちは何もしていません。院政の時代になると院庁の役人たちが政治を動かします。これも身分の低い人たち(受領層)です。
 これに比べて武家政権の時代になると、どれもごちゃごちゃとしたすっきりしない制度です。江戸期の制度さえ「万事、庄屋仕立て」と言われていました。三河の小さな大名だったときの役柄をただ全国支配用に引き延ばし、そこへその時その時で必要な役所を追加していったからです。この制度にもいろいろ問題があってやがて機能しなくなりますが、律令よりは現実的でした。

「社会主義国」は理念を持った集団が権力を握り、理念にもとづいて社会を設計した最初の例と言えるのかもしれません。そして、これらの国家が時間はかかったが結局は崩壊したのは、それが原因だったのかもしれません。
「社会主義国家」というのは、ぼくの目には、およそマルクス哲学とは縁遠い国家に見えます。
 マルクスは現実主義者です。彼は理想社会の設計には意味がないと考え、理念が社会を動かすことはありえないと考えました。
 彼が取り組んだのは現実の資本主義社会の研究であり、その制度によってなぜ人々が苦しむのか、どこに矛盾があり、その矛盾を止揚する力がどこにあるのかを考えました。そして労働者を発見しました。
 しかし彼がやったのはそこらへんまでで、そこからあとは後継者たちが考えねばならなかったのです。労働者を扇動すれば権力を倒し、新しい権力を作ることはできる。だがもちろん扇動から生まれた権力はそれ以上のものにはなりえませんでした。
 民主主義のシステムが必要だったのだが、早すぎた革命にはその準備がなかったのです。だから、植田さん、高原さんの言うことはわかるのです。システムの設計がいる。理念がいる。
 それはわかるのだが、それが先行することにはやはり疑問があります。社会は理念や設計どおりには動きません。理念や設計が先行することには危うさがあります。
 しかし一方科学的社会主義が失敗したのは、「理念」や「設計図」がなかったからかもしれません。だからいま、空想的社会主義が方々で復活しているのかもしれません。
 おそらく現実と理念との一歩一歩の歩みが必要なのだと思います。現実の運動の中で理念が試され、修正され、それが現実の運動に反映していくという息の長い過程が必要なのです。

 鶏から見ても卵から見ても、結局考えていることは同じじゃないか、というふうにも見えます。「理念」や「設計」を現実に合わせて修正していく、ということは植田さんが強調されていることで、そこに何の違いもありません。
 そのとおりなのですが、口で説明するのは難しいのですが、それでもそこには何か決定的な誤りがあるというふうにも感じます。
 もちろん植田さんが基本的に現実主義者であるということは理解できます。しかしあの七箇条を読むと、多少の懸念が残るのです。

 ここまで書いても何故かすっきりしないのは何故なのかと考えてみました。
 要するに、植田さんは鶏が先でも卵が先でも同じことだと主張され、pcaiaさんとぼくとはいや違うと言っています。違うということを論理的に説明しようとしてもうまくいきません。必要なのは論理ではないのです。基本的な考え方の違いが、具体的な現実の場面にどのような影響を与えるかということなのでしょう。
 そしてこれがいまのところ難しい。というのは植田さんとぼくとでは具体的な問題ではほとんど意見が一致するからです。具体的な問題で一致するなら、それ以前の理論なんてどうでもよいじゃないかということになってしまいます。
 だから、せっかくここまで書いたが、この問題はしばらく保留してもいい。どこかで基本的な認識の違いが具体的な課題のとらえ方の食い違いを生じるかもしれない。そのときに論議すればよいのかなと思います。

 ぼく自身は、新しい「理念」を創り出そうとも、未来社会の「設計図」を作ろうとも思いません。ぼくにとって大切なのは、いまここで生きている人間たちの生活であり、思いなのです。
 けれども、さまざまな「理念」や「設計図」に無関心ではありません。そういう試みは大いにあるべきだと思います。でもその一つ一つはそれぞれが試みなのであって、絶対的なものではありません。そしてそういういろんな試みを呑み込みながら社会は徐々に前進していくのだろうと思います。

 尻切れトンボになりましたが、ここで終わります。
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687:新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について 二版 高原利生 by 高原利生 on 2017/07/17 at 20:13:22 (コメント編集)

687「新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について 二版 高原利生」初版2017/01/19 二版2017/07/18
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment687
20170718,19,20,22,23,24,26,30

(基本となる価値と論理)
 石崎徹氏のブログへのコメント626、633、637、638、687、696と、最新発表論文(今は、情報技術フォーラムFIT2016、電気・情報関連中国支部連合大会CGK2016、情報処理学会IPSJ2017、2017年9月発表のFIT2017)が、今までの高原利生の人生総括である。今までの発表を分かりやすくまとめなおした方がいいかもしれないが、そうすると、思考の過程が見にくくなる恐れがあるので行わない、というのが、怠惰の言い訳である。(2017年06月26日追記)

 石崎徹氏ブログへのコメント626、633の中で、FIT2016で書いた「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文を引用している。これは、世界の過去、現在、未来をどう見るかという世界観の一部でもある。
 なお、FIT2016和訳の原文を読まれた方は気付かれたと思うが、正確には、原文はこの表現と少し異なる。(2017年07月22日追記)

 石崎さんは、ブログ「高原さんのコメントに(文章を一部修正しました)」2017年07月18日 (火) で、この文を取り上げた。
 その中で、石崎さんは、この文を、人の生きる一側面を述べたものととらえると理解できると言い、次のように述べた。
 「人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた、とは言えるでしょう。」
 その上で、石崎さんは、この文を次のように書き換える案を示した。
 「人は現実のただなかにあってその現実を解釈し、価値判断し、それにそって仮説的な目的を立て、それを実現するためのこれも仮説的な手段を見出し(行動し)、その目的と手段とを現実によって検証し、修正しながら生きてきた」
 さらに次のように述べている。
「こういう文章ならば、生きるということの一側面の表現として理解しやすく、だれも反発しないでしょう。
 もっとも高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)、それに対してはいっぱい言いたいことがあります。」

 これに対して、高原のコメント689:人類と人 by 高原利生 on 2017/07/19で、全体としてコメント626、633などでは、「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」を分けて書いていることを述べた。取り上げていただいた文は、「人類の生きる全体構造」の本質についての仮説である。

 構造とは、物事を構成する要素とその要素間の関係である。この関係には時間的なものと空間的なものがある。この定義も一般に使われているものと少し違うかもしれない。高原の文は、用語が(も)分かりにくいと言われるが、一般に使われているものと少し違う意味の用語を使わないといけないことばかりなので、できる限り、定義を述べてから記述をしている。矛盾、粒度、オブジェクト、機能、構造、論理、弁証法などである。中川教授は、用語集まで作っていただいていることも前に紹介した。(2017年07月22日追記)

 「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」という時、前者は、時間的な構造と空間的な構造の両方であり、時間的構造に重点が置かれる。

 後者「人の今生きる一瞬の構造」は、「一瞬」についてなのであるが、その一瞬の中のさらにその短い時間の中の空間的構造を使った時間構造を表している。
 世界観が、(価値観、感情、潜在意識)、(態度)、(オブジェクトの粒度)の順に決めると考えている。この中の、世界観、価値観、感情、潜在意識、態度、粒度決定の区分はあいまいで、論文のたびに変わっている。ただし、悟性、理性というとらえ方はしていない。
 生き方は、この、世界観、価値観,感情,潜在意識、態度、粒度決定を指す。
 高原の興味は、人、個人の生き方である。生き方は「人の今生きる一瞬の構造」の中にある。「人の今生きる一瞬の構造」は複雑で、技術、政治、経済などの制度、科学や芸術を含む。

 人の生きる一瞬の全体を、「生き方」-「方法」-「認識と行動」の連鎖というモデルでとらえる。「方法」「認識と行動」のさらにごく短い一瞬前に(価値観、感情、潜在意識)、(態度)、(オブジェクトの粒度)の順に決まる「生き方」があり「方法」によって「認識と行動」が行われるととらえる。
 実際には、「認識と行動」のさなかにも「生き方」の変更による「認識と行動」の変更は常に行われうるし行われている。しかし、こう分けることによって、独立した検討や変更が可能になる。

 後に、人類の過去の歴史認識,現在の生きる構造,未来像、価値観からなる世界観、態度、方法が哲学だと述べている。人の意識的または無意識の哲学が、その人の認識や行動を決めているととらえる。

 石崎さんにいつも誤解されるのは、高原のとらえるのは、いつも本質の近似モデルであることである。お説教のようで恐縮だが、一般に、認識するとは、認識するものの近似モデルを作ることではないか?近似モデルであるから、見直しを続けないといけないものである。

 以上の上で、もう一度、石崎さんの言い換え:
「人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた」
という、一見もっともらしい表現が、高原の意図と異なるところを整理しておく。小さな差異に見える表現上の違いが、大きな根本の違いが表面に表れたものかもしれないからである。労働してきた人にとっては、目的と結果の比較、検証、対策、再実行は、当たり前のことだろうが、それともやや異なる。

 1.第一は、前に述べたように、ここでの問題は、個々の人の生き方でなく、その前提になる、制度ができた以降の数千年前から今後に至る「人類」が生きてきた歴史の「構造」とそれから導かれる価値観を見出すこと、
 2.第二は、大きな価値を具体化して個々の目的が作られること。
 3.第三は、大きな価値、理想についても、個々の目的についても、現実の認識についても、「仮説」であり見直しが必要であること、
 4.第四に、これも繰り返しになるが、高原の述べていることは、本質についての近似モデルであること。従って見直しを続けてより正しいものにする必要があること。
 これらが石崎さんの表現には読み取れないと思う。

 と言いながら、もちろん、高原の表現も十分ではない。この高原に抜けているものがあった。
 [THPJ2015/1]の冒頭に、次のように書いた。このことをホームページにも書いている。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
 人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」
 1と2がない。石崎さんのいう小説、とも違う気がする。
(2017年07月22日追記)

 以下の思考の前提になっているのは、粒度である。人は、制限された能力で世界を切り取るため、粒度を必要とする。オブジェクトとは、世界からある粒度で切り取った情報である。機械は制限された粒度を必要としない(ように扱うことはできる)。情報量が、昔に比べて画期的に増えた対策が、粒度の意識だと言ってもよい。

理想について 1:理想は「状態」でなく運動であること
 高原は、今、自分を含めて「人はどう生きるべきか」が根本的に違っていると思っている。この数年の論文のテーマは生き方の追究だった。
 「人は人生論の説く理想のようには生きられないよ」と言う人がいる。そこで述べられる理想が違っているのではないだろうかと思うので、理想について再考する。
 理想は状態ではなく、努力の運動、過程であると言う意味の文が「ドイツイデオロギー」にある。これは「共産主義」の「定義」について述べたところで、「共産主義」とはある状態を指すものでなく、それを目指す運動、過程を指すのだと語ったところである(正確な引用は、ホームページの別の場所に書いた)。宮沢賢治が1926年に「農民芸術概論綱要」で「永久の未完成これ完成である」と似たような表現をした。マルクスとエンゲルスは、これより80年ほど早い。
 もっと早いのがあった。植田さんから2017年7月10日下記のメールを頂いた。
 「論語の解説書「生きるための論語」安富歩/ちくま新書
を読んでいたら、似たような内容のところに出会いました。
『これを知るを知ると為し、知らざるは知らざると為す、これ知るなり』
 この論語の一節に関して、こう解説しているのです。
 解説:
「知の峻別がフィードバックされて元の知を修正する、これの連続過程が知そのもの。
 知は静的な状態、対象ではなくダイナミックな運動、全体の過程そのものが知である。
 知の過程の名称、この過程の繰り返し全体が知である」(植田氏メール引用終わり)

 これは、「知」について述べたことで、「理想」や「価値」について述べたものではないが、「理想」や「価値」も、もちろん、「知」の生み出したものである。(念のため2017.07.19追記)

 実は、「理想を状態でなく運動、過程である」ととらえることが、生きる態度にどう繋がるのかと昨日、自問し、答えが出るのに一日かかった。頭が死んでいない普通の人には自明なのかもしれないが、分かってしまえば当たり前と思いつつ書いておく。
 生きる態度とは、今の一瞬の「態度-方法-行動または認識」という連鎖の中の、さらに一瞬の中の冒頭にある。「態度-方法-行動または認識」の全ての要素が運動、過程であると、より整合的な全体ができるのではないか?この当たり前のような結論にも時間がかかった気がする。考え直すということに踏み出すためには、少しの勇気がいる。2017年7月16日。

理想について 2:歴史と論理の一致という命題によって、歴史から理想を求めることができる
 弁証法の有名な命題によると、歴史と論理は大まかには本質が一致する。注
 注:明示的に、(ノイズを除くと)歴史と論理は一致すると述べたのは、「哲学ノート」のレーニンだったが、エンゲルスのマルクスの「経済学批判」(1859年)の書評、マルクスの「資本論」の各序文や後書きで実質的に扱っている。もちろん、これらの元はヘーゲルである。ヘーゲルによれば、物事に内在する論理が展開して現実の運動が行われるので、論理は歴史とまったく一致する。

 歴史と論理は大まかには一致するという命題は、歴史の中に本質的論理を見つける可能性があることを述べている。ここで、論理と本質を同じような意味に使っている。論理的と物理的を対比して使うことがあるが(これは、設計ないし工学系の人間に特有のことかもしれない。設計ないし工学では、論理像を物理的に実現するのが設計なので身に付いている)、この場合も、「論理的」は抽象的、本質的、「物理的」は具体的、現象的という意味である。
 これから次の仮説ができる。
 論理の中にある本質が必ず歪んで実現される実際のこの世では、歴史から抽出された本質は、理想、価値になり得る。

 この本質は、扱う歴史の長さ、どういう前提の歴史であったかに依存する。今の場合の歴史は、偶然かもしれないが、マルクスたちの「唯物史観」の扱っている時間粒度と一致する。この時間は、農業革命後の生産量増大を受けて、物々交換、制度が成立して以来の数千年間である。
 この数千年は、人類が(言語の発明、火の利用、道具の利用に続き)本格的に対象化を開始して以降の歴史である。
 この八千年前の農業革命のエネルギーと自然の対象化が、対象化の本格的な開始であった証拠は、二千年遅れて物々交換と所有という対象の自分への一体化、さらに二千年遅れて自然と神への一体化という自分の対象への一体化が始まったことに示される。対象化の反対概念を作ったことが、人類の新しい段階の可能性を作ったと思う。(2017年7月13日追記)
 詳しくは、高原の一体化矛盾についての論文を見ていただくしかないが、対象化の反対概念を成立させたのは、言語の発明、火の利用、道具の利用という10万―100万年の昔の対象化ではなく、八千年前の農業革命が起こしたエネルギーと自然の対象化だった。このあたりの詳しい検討は、まだまだ必要である。
 そしてコメント633で述べた対象化と一体化の矛盾(二つの運動オブジェクトの矛盾)が始まる。

 対象化と一体化の矛盾というのは、一体型矛盾の一種である。従来の両立矛盾が普通の両立矛盾と一体型矛盾に分かれる。エンゲルスの三つの法則とは少し異なる。
 マルクスの矛盾概念の欠点は、資本論第一巻第一章にはっきり表れている。簡単に言うとヘーゲルの矛盾の欠点そのままである。資本論第一巻第一章の矛盾の欠点の「原因」は、何かを始める時の運動の分析ができないことと、外部の運動の作用を分析できないことにある。つまり、資本論第一巻第一章で、前者は、商品ありきで分析を始めてしまったことに起因し、後者は、商品流通を効率的に行いたいという「外部」からの要請の無視に起因している。これらは、石崎さんに読んでいただいたTHPJ2012に詳しく(と言っても数ページに)書いてある。

 弁証法論理は、あらゆるものが相互に関連し合い変化していることの分析と変更のためにあるという教科書の「うたい文句」も思い返してみると怪しいのだ。「相互に関連し合い変化している」ことの始まりの扱いと「外部」の扱いが不明確なのである。
 資本論第一巻第一章以外のマルクスの矛盾を使った分析は素晴らしいものであり、いつ読んでも感動する。そのこともコメント626、633では例をあげて書いた。
 矛盾の分類についてのFIT2016は散々紹介してきてリンクも示しているが、見られていないと思うので、一部を引用する。結果だけを書いているので、導いた経過は、2006年以降の論文を読んでいただくしかなかろうと思う。(2017年7月23日追加)

 エンゲルスの三つの法則のうち「対立物の統一」は矛盾の定義に関する。エンゲルスの残り二つが矛盾の分類である。この二つを分類しなおしている。 下記11の量的変化はエンゲルスは矛盾と扱わないが、これも運動なので矛盾ととらえている。FIT2016は散々紹介してきてリンクも示しているが、見られていないと思うので、一部を引用する。

 以下、矛盾の分類についてのFIT2016和訳の記述を書き直した。2017年に記述を変更している。まだまだ検討の余地がある。2010年以来、一体型矛盾を検討しているが、7年経ち、まだ道半ばである。

注 矛盾の機能上の分類(様々な矛盾の分類がある。[THPJ2015/1参照])

 矛盾は、運動の構造である。従って、世界のモデルの最小単位になることができる。この最小単位の大きさを表すのが粒度である。矛盾が、粒度を管理する根源的網羅思考とあいまって思考が進んでいくことが分かったことである。
矛盾は、通常の変化、変更である狭義の差異解消矛盾と、従来の通常の矛盾である両立矛盾に分かれる。両立矛盾も広義の差異解消と呼べる。その理由は、両立していない状態から両立の状態への差異解消という粒度があるからである。
 下記が今のところ、運動の構造を網羅していると考えている。エンゲルスの「三つの法則」に該当する項も示した。
 1.差異解消矛盾
   11. 量的変化を起こす(値)
   12. 量的変化により両立二項が質的変化を起こす(値から属性変化)。これがエンゲルスの「質量転化の法則」。:例:水の沸騰、蒸気の液体化
 2.両立矛盾(値、属性)  
   21. 二項の両立を実現する。これがエンゲルスの「対立物の統一の法則」。これを設計で最も良く使う、というか、設計とは、ほとんど、目的実現のために二項を両立する手段を見つけることに等しい。なお、対立物の統一は矛盾の本質を表す粒度がある。
   22. 両立し統合された二項が弁証法的否定され質的変化を起こす。これがエンゲルスの「否定の否定の法則」 例: 全ての製品。それぞれの「部品」が構成されて、車のような新しい質を持った製品になる。
 3.一体型矛盾(オブジェクト、属性)
   23. 特別な両立矛盾で両項を「変更し続ける」。21がその都度終わってしまう運動であるのに対し、この一体型矛盾は永続する矛盾である。(FIT2016 では「高め続ける」としていたが狭すぎて間違いだったのでFIT2017で、訂正した。悪化され続けることもある。良くなる/悪くなるというのは、人のとらえる価値に依存する)
(2017.03.26、07.12、07.20,27追記)

 以上が、理想,価値の成立根拠が現実の歴史の総括にあるということと、理想,価値が状態でなく過程,運動であることの説明である。
 このような目的、理想が「でも人は理想のようには生きられない」という理想でないために必要なことだと思う。
 しつこいが、書くことは考えることである。ここでも、今までに分かっていたことに、自分で初めて分かった(2017年1月26日)ことを加えて書いた。

価値(理想)と事実の同時認識の必要性
 理想、価値は、生きる態度のために必要なので、哲学の一要素であると考えている。
 どうしていいか分からないが行動しなければならない目の前の物事という事実に対し、意識している価値だけを根拠に(世界観と、意識していない価値に規定されている潜在意識によって)目をつむってエイッと飛ばなければならない。これが、方法、論理学は別にして、科学に移行せずに残っている哲学である「世界観」と「態度」の役割である。
 そして、方法、論理による判断は、必ず、理想、価値が具体化された目的と現実の差異解消のために行われる。
(これで抜けているのは、「音楽」や「小説」などだ)

 事実と価値を、1.相互規定があり、従って同時に把握、変更する一体として観る態度、2.謙虚にかつ批判的に観る態度は必須であるというのもこの数十年の歴史的教訓の一つである。
 理想、価値がないと事実を見ることができず、事実があって始めて理想、価値が生まれる。事実と価値は同時に決める(後に述べる)矛盾である。「人類が生きるとは云々」という文は、事実と価値,理想の双方を対等に含む。事実と価値,理想が同時に必要だということが、コメント626の全体をとおして言い続けたことであった。
 謙虚な態度と批判的に観る態度も、同時に実現する矛盾である。
 この二つがないため、多くは、今のマスコミや政党、マスコミに登場する評論家のように、現状を変えず感情に迎合する保守になってしまう。

 事実と価値,理想の両立の客観的・主観的実現が、若きマルクスが目指し、サルトルの全体化の目指したことだ。 「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」
 もう一つ、この文で、言いたいことは、あるべき価値、理想も、人が作っていく、作り続けるものであることである。つまり、価値、理想は、静的状態でなく、実現し続ける運動、過程であり、同時に、求め続け作り続けるものである。
 「もう一つ、この文で、言いたいことは、」と書いてしまったが、繰り返しになるが、と書いた方が良かった。コメント626、633に、「、、し続ける」という表現が頻発する。「、、し続ける」ということは、常に未完であるということである。
 これも、過去の総括から得られた。繰り返しになるが、この文は変えられない。

論理について
 ここまでの記述でも、論理は一方向に進まず、概念にも双方向関係がありお互いを含みあっている。これが問題だった。このため、全体を理解しないと部分が分からない事態が必ず起こる。これをどう解決するかを今まで延々と述べてきた。また全体の中の位置を示すように努力してコメント626と633を書いたつもりだ。
 高原の用語使用、悪文の問題もある。(用語使用についてはコメント633で苦しい言い訳をしている。)
 コメント626、633の記述の方法は、FIT2016などで書いている矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法である。
 コメント626、633の繰り返しになるが、なぜ矛盾概念が必要かというと、一方向に進まない事実を表すために双方向性を表す事実の最小単位が必要だからである。この最小単位が矛盾である。そしてどういう事実を扱うかを決めるのが粒度で、粒度を管理する思考が根源的網羅思考である。余計な固定観念を捨てれば、この方法が最も単純、簡単である。IPSJ2017では、「大きな問題」に必要な矛盾と根源的網羅思考による解き方を提案している。

 (月刊学習に、1970年代に「マルクス主義哲学入門」という極めて優れた連載があった。今、ありがたいことに、http://y-ok.com/philosophy/で連載が復元され全文が読める。極めて入門として水準が高い。本になっていないことは残念である。
 この講座の書かれている内容は正しいものがほとんどであるが、「三つの法則」は残っている。高原の弁証法論理は、大きな構造の点でこれと異なる。高原の矛盾のとらえかたとマルクスやエンゲルスが意識していなかった粒度の理解がないことが誤解を生んでいる。
 きれいごとに聞こえるかもしれないが、高原の批判は、弁証法的批判で、批判対象のプラス面を残し活かした批判である。弁証法やその要素の矛盾については典型的にそうなっている。)(2017年07月22日追記)

哲学を作っている
 コメント626、FIT2016、IPSJ2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらにより、世界観の一部として「生きる構造」と生き方を考察した。
 コメント633、FIT2016、CGK2016、FIT2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらと「生きる構造」とにより、「ポスト資本主義」と生き方を考察した。

 人類の過去の歴史認識,現在の生きる構造,未来像、価値観からなる世界観、態度、方法が哲学だとすると、高原が作っているのは哲学である。自分にとっての「哲学」が、生き方と方法である。高原は、今は、哲学が存在しない危機にあるので、事実主義(従来の「唯物論」)と弁証法による新しい哲学を作っている。

 その概要の概説は、石崎氏のブログへのコメント626、633、637、638、687
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment633
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment687など
にある。

(生きる態度を邪魔するもの三つ)
 1.世間の目を気にし出る杭を打つ
 日本では、世間の目を気にし出る杭を打つ。自分だけ変わることを避ける。小さな改善はするが根本的に考えることをしない。(田中宇のとらえる)マスコミがそれを助長する。論理より感情を重視する20160330。思考や感覚が異なると周りから嫌われる20160622,0712。

 ゼロベースで考え直すことは「状況に応じて」考えることから始めない。しかし最近、「不寛容社会」が語られ、何と「空気を読め」という悪罵がネットで飛び交う。「世間の目を気にし出る杭を打つ」ことが、公然、堂々と「正しい」意見であると主張される。全く困った状況である。20160712,0820

 2.特に左翼とリベラルの欺瞞
 3.マスコミ
(この二項は削除した。ホームページをご覧ください)。
 加計問題についてだけ、ここに追加しておきます。
 加計問題について、NHKや朝日新聞などリベラルは、前川前次官の官僚の立場を重点的に報道しています。加計問題は、1.行政の岩盤に政治が正当だがやや行き過ぎに介入したという小さな問題と、2.政治と行政間の矛盾の問題があります。3.保守と革新の問題はありません。今は全体を見る力のある政党、マスコミがいません。保守だけしかない。左翼と「リベラル」の政党と「リベラル」のマスコミは、1が問題の全部だとがなり立て、世論を煽ります。加計の問題は、小さな1の問題と、本質的な2の問題からなっています。
 これは、全体を把握する必要性と、その能力のない人々への批判にもなりました。それ自体は正しいが、小さな問題を、全体だと言いつのる人に、人は容易に騙されます。(2017年7月26日追記)

637:新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について  高原利生 by 高原利生 on 2017/01/19 at 12:51:04 (コメント編集)

637「新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について  高原利生」on 2017/01/19
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment637
20170119,20,22,25,26,28,31,0201,0326,0626,0710,11,12,13,16,17

(改版している。
687「新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について 二版 高原利生」初版2017/01/19 二版2017/07/18
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment687

(基本となる価値と論理)
 石崎徹氏のブログへのコメント626、633、本637、638と最新発表論文(今は、情報技術フォーラムFIT2016、電気・情報関連中国支部連合大会CGK2016、情報処理学会IPSJ2017、2017年9月発表のFIT2017)が、今までの高原利生の人生総括である。今までの発表を分かりやすくまとめなおした方がいいかもしれないが、そうすると、思考の過程が見にくくなる恐れがあるので行わない、というのが、怠惰の言い訳である。(2017年06月26日追記)

 石崎徹氏ブログへのコメント626、633の中で、FIT2016で書いた「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文を引用している。これは、世界の過去、現在、未来をどう見るかという世界観の一部でもある。

 ある人から、2017年1月16日に、コメント626に説教臭さを感じてしまうというメールがあった。
この人は言う。
「<人類が生きるとは……である>と数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ありません。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれています。」
「ぼくは人生論が嫌いなのです。人生論とは説教です。人はどう生きるべきかについての御託です。でも人はそうは生きられないよ、というのがぼくの書こうとすることです。
 ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」(以上、メール)

 また「御託」と言われるだろうが少し反論しておく。
 以下の思考の前提になっているのは、粒度である。人は、制限された能力で世界を切り取るため、粒度を必要とする。オブジェクトとは、世界からある粒度で切り取った情報である。機械は制限された粒度を必要としない(ように扱うことはできる)。情報量が、昔に比べて画期的に増えた対策が、粒度の意識だと言ってもよい。

理想について 1:理想は「状態」でなく運動であること
 高原は、今、自分を含めて「人はどう生きるべきか」が根本的に違っていると思っている。この数年の論文のテーマは生き方の追究だった。
 「人は人生論の説く理想のようには生きられないよ」と言う人がいる。そこで述べられる理想が違っているのではないだろうかと思うので、理想について再考する。
 理想は状態ではなく、努力の運動、過程であると言う意味の文が「ドイツイデオロギー」にある。これは「共産主義」の「定義」について述べたところで、「共産主義」とはある状態を指すものでなく、それを目指す運動、過程を指すのだと語ったところである(正確な引用は、ホームページの別の場所に書いた)。宮沢賢治が1926年に「農民芸術概論綱要」で「永久の未完成これ完成である」と似たような表現をした。マルクスとエンゲルスは、これより80年ほど早い。
 もっと早いのがあった。植田さんから2017年7月10日下記のメールを頂いた。
 「論語の解説書「生きるための論語」安富歩/ちくま新書
を読んでいたら、似たような内容のところに出会いました。
『これを知るを知ると為し、知らざるは知らざると為す、これ知るなり』
 この論語の一節に関して、こう解説しているのです。
 解説:
「知の峻別がフィードバックされて元の知を修正する、これの連続過程が知そのもの。
 知は静的な状態、対象ではなくダイナミックな運動、全体の過程そのものが知である。
 知の過程の名称、この過程の繰り返し全体が知である」(植田氏メール引用終わり)

 実は、「理想を状態でなく運動、過程である」ととらえることが、生きる態度にどう繋がるのかと昨日、自問し、答えが出るのに一日かかった。頭が死んでいない普通の人には自明なのかもしれないが、分かってしまえば当たり前と思いつつ書いておく。
 生きる態度とは、今の一瞬の「態度-方法-行動または認識」という連鎖の中の、さらに冒頭にある。「態度-方法-行動または認識」の全ての要素が運動、過程であると、より整合的な全体ができるのではないか?
 本稿の後半のマスコミ批判を書くのに、2017年の日曜の半分かかった。この当たり前のような結論にも時間がかかった気がする。この当たり前のような結論にも時間がかかった気がする。2017年7月16日

理想について 2:歴史と論理の一致という命題によって、歴史から理想を求めることができる
 弁証法の有名な命題によると、歴史と論理は大まかには本質が一致する。注
 注:明示的に、(ノイズを除くと)歴史と論理は一致すると述べたのは、「哲学ノート」のレーニンだったが、エンゲルスのマルクスの「経済学批判」(1859年)の書評、マルクスの「資本論」の各序文や後書きで実質的に扱っている。もちろん、これらの元はヘーゲルである。ヘーゲルによれば、物事に内在する論理が展開して現実の運動が行われるので、論理は歴史とまったく一致する。

 歴史と論理は大まかには一致するという命題は、歴史の中に本質的論理を見つける可能性があることを述べている。ここで、論理と本質を同じような意味に使っている。論理的と物理的を対比して使うことがあるが(これは、設計ないし工学系の人間に特有のことかもしれない。論理像を物理的に実現するのが設計なので、設計ないし工学の思考では身に付いている)、この場合も、「論理的」は抽象的、本質的、「物理的」は具体的、現象的という意味である。
 これから次の仮説ができる。
 論理の中にある本質が必ず歪んで実現される実際のこの世では、歴史から抽出された本質は、理想、価値になり得る。

 この本質は、扱う歴史の長さ、どういう前提の歴史であったかに依存する。今の場合の歴史は、偶然かもしれないが、マルクスたちの「唯物史観」の扱っている時間粒度と一致する。この時間は、農業革命後の生産量増大を受けて、物々交換、制度が成立して以来の数千年間である。
 この数千年は、人類が(言語の発明、火の利用、道具の利用に続き)本格的に対象化を開始して以降の歴史である。
 この八千年前の農業革命のエネルギーと自然の対象化が、対象化の本格的な開始であった証拠は、二千年遅れて物々交換と所有という対象の自分への一体化、さらに二千年遅れて自然と神への一体化という自分の対象への一体化が始まったことに示される。対象化の反対概念を作ったことが、人類の新しい段階の可能性を作ったと思う。(2017年7月13日追記)
 詳しくは、高原の一体化矛盾についての論文を見ていただくしかないが、対象化の反対概念を成立させたのは、言語の発明、火の利用、道具の利用という10万―100万年の昔の対象化ではなく、八千年前の農業革命が起こしたエネルギーと自然の対象化だった。このあたりの詳しい検討は、まだまだ必要である。
 そしてコメント633で述べた対象化と一体化の矛盾(二つの運動オブジェクトの矛盾)が始まる。(2017年3月26日、7月12日追記)

 以上が、理想,価値の成立根拠が現実の歴史の総括にあるということと、理想,価値が状態でなく過程,運動であることの説明である。
 このような目的、理想が「でも人は理想のようには生きられない」という理想でないために必要なことだと思う。
 しつこいが、書くことは考えることである。ここでも、今までに分かっていたことに、自分で初めて分かった(2017年1月26日)ことを加えて書いた。悪文の弁明にもなったかもしれない。

価値(理想)と事実の同時認識の必要性
 理想、価値は、生きる態度のために必要なので、哲学の一要素であると考えている。
 先の批判メールの人と一部一致するのは、哲学は時間的に科学の前にあるものだというとらえ方である。そして、どうしていいか分からないが行動しなければならない目の前の物事という事実に対し、意識している価値だけを根拠に(世界観と、意識していない価値に規定されている潜在意識によって)目をつむってエイッと飛ばなければならない。これが、方法、論理学は別にして、科学に移行せずに残っている哲学である「世界観」と「態度」の役割である。
 そして、方法、論理による判断は、必ず、理想、価値が具体化された目的と現実の差異解消のために行われる。
(これで抜けているのは、「音楽」や「小説」などだ)

 事実と価値を、1.相互規定があり、従って同時に把握、変更する一体として観る態度、2.謙虚にかつ批判的に観る態度は必須であるというのもこの数十年の歴史的教訓の一つである。
 理想、価値がないと事実を見ることができず、事実があって始めて理想、価値が生まれる。事実と価値は同時に決める(後に述べる)矛盾である。「人類が生きるとは云々」という文は、事実と価値,理想の双方を対等に含む。事実と価値,理想が同時に必要だということが、コメント626の全体をとおして言い続けたことであった。
 謙虚な態度と批判的に観る態度も、同時に実現する矛盾である。
 この二つがないため、多くは、今のマスコミや政党、マスコミに登場する評論家のように、現状を変えず感情に迎合する保守になってしまう。

 事実と価値,理想の両立の客観的・主観的実現が、若きマルクスが目指し、サルトルの全体化の目指したことだ。 「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」
 もう一つ、この文で、言いたいことは、あるべき価値、理想も、人が作っていく、作り続けるものであることである。つまり、価値、理想は、静的状態でなく、実現し続ける運動、過程であり、同時に、求め続け作り続けるものである。
 「もう一つ、この文で、言いたいことは、」と書いてしまったが、繰り返しになるが、と書いた方が良かった。コメント626、633に、「、、し続ける」という表現が頻発する。「、、し続ける」ということは、常に未完であるということである。
 これも、過去の総括から得られた。繰り返しになるが、この文は変えられない。

論理について
 ここまでの記述でも、論理は一方向に進まず、概念にも双方向関係がありお互いを含みあっている。これが問題だった。このため、全体を理解しないと部分が分からない事態が必ず起こる。これをどう解決するかを今まで延々と述べてきた。また全体の中の位置を示すように努力してコメント626と633を書いたつもりだ。
 高原の用語使用、悪文の問題もある。(用語使用についてはコメント633で苦しい言い訳をしている。)
 コメント626、633の記述の方法は、FIT2016などで書いている矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法である。
 コメント626、633の繰り返しになるが、なぜ矛盾概念が必要かというと、一方向に進まない事実を表すために双方向性を表す事実の最小単位が必要だからである。この最小単位が矛盾である。そしてどういう事実を扱うかを決めるのが粒度で、粒度を管理する思考が根源的網羅思考である。余計な固定観念を捨てれば、この方法が最も単純、簡単である。IPSJ2017では、「大きな問題」に必要な矛盾と根源的網羅思考による解き方を提案している。
 また、これは、「人類が生きるとは……であると数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ない。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれている」という批判に対応している。「無限に多様で無限に複雑」な事実を扱う近似モデルの最小単位が矛盾である。

哲学を作っている
 コメント626、FIT2016、IPSJ2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらにより、世界観の一部として「生きる構造」と生き方を考察した。
 コメント633、FIT2016、CGK2016、FIT2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらと「生きる構造」とにより、「ポスト資本主義」と生き方を考察した。

 人類の過去の歴史認識,現在の生きる構造,未来像、価値観からなる世界観、態度、方法が哲学だとすると、高原が作っているのは哲学である。メールをくれた人は、従来の哲学に満足しているらしい。あいにく高原は、この人と事実認識が異なり、今は、哲学が存在しない危機にあるので、事実主義(従来の「唯物論」)と弁証法による新しい哲学を作っている。
 メール氏は「ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」と言う。

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文が、人類の歴史と現在を俯瞰して観た「生きる全体構造」であるのに対し、このメール氏の「哲学、現実と科学」は、「生きる一瞬の構造」に関する。高原利生の「生きる全体構造」「生きる一瞬の構造」は、コメント626で述べたものである。「生きる全体構造」は、現状であり本質であり理想であった。「生きる全体構造」は、変えられない、「生きる一瞬の構造」の要素だけが変えられる。変えられるので「生きる全体構造」に合うように変えるべきであるという当たり前のことを述べている。

 しかし、メール氏のこの言は、現状を根本的に変える必要のないことを暗に述べている。
 これ自体、メール氏への批判であるが、内容についての疑問、批判を二つ述べる。
 一つは、エンゲルスが言ったという形式論理学の哲学、筋道を立てて考えていくというのはよく分からない。コメント626などに書いた意味で、ほとんどの判断は、形式論理ではできない。
 二つ目、「現実を先入観なしに見る」ことは、不可能である。せいぜい、よりよい世界観、態度、方法を持つ努力をすることができるだけである。これは高原の結論に等しい。20170118,19,20

(生きる態度を邪魔するもの三つ)
 1.世間の目を気にし出る杭を打つ
 2.特に左翼とリベラルの欺瞞
 3.マスコミ
   ホームページのどこかに書いたが、ドイツイデオロギーで、マスコミ等で流布される「情報」は、支配層の息のかかったものになるという意味のことが言われ、共産党の志位現委員長は、それを実証した本まで書いた。論理のないくだらない本だと思っていた。
   この「支配層」は、今のアメリカでは、時の政治権力ではなく、経済界であり、何故か戦後の歴史を見ると日本では官僚体制である。田中宇の「戦後の日本はずっと「官僚独裁体制」だった」「対米従属な日本の官僚機構は、米軍産の傀儡機構である」というとおりである。アメリカでは「軍産」が、日本では官僚がマスコミを支配している。
(他の内容は削除した。ホームページにはそのまま載せている)

633:ポスト資本主義  高原利生 by 高原利生 on 2016/10/31 at 22:31:43 (コメント編集)

http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment633
コメント633『ポスト資本主義』  高原利生

 コメント626『生きる構造』  高原利生 2016/09/21 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626を補足する。

 コメント626と違い、(石崎さんと)植田さんに特有の話題はコメント632で書き、一般論をこのコメント633に書いた。
 主題が、現在の根本的問題であることが分からないと、多くの人には問題を大きくし過ぎているように見えるかもしれない。
 マルクス以降150年間の事実を見て、価値を模索しながら、矛盾と根源的網羅思考を淡々と展開すると、既存左翼と全く異なることになった。殆どの人、特に左翼には「たわごと」と思われるだろう。右翼、左翼、リベラルという区別は意味がなくなっている。文中で、左翼という言葉を、克服すべき既存左翼という意味で使っている。
 なお、反論がないことを良いことに、何度か書き直したことをお断りしておく。
 コメント626について、ある人からメールで反論された。それについてのコメント637を書いている。
(字数がオーバーしたため最後の部分が削除された)

(目次)
A.『生きる構造』の補足
 1.認識と変更の論理
B.応用
 2.生産力、生産関係の変化:左翼の生産手段の社会的所有と管理というマイナス=左翼の労働の無理解というマイナス
 3.国民国家:左翼の国家主義というマイナス
 4.原発というプラス:左翼の原発反対というマイナス
 5.人工知能というマイナスとプラス
A.『生きる構造』の補足
 6.生き方の解

(A.『生きる構造』の補足』)
1.認識と変更の論理
11.事実主義という「唯物論」

 事実主義という「唯物論」(コメント626で述べたフォイエルバッハ論の2,3,4項)により、マルクス以降150年間の事実と認識の変化を見なければならない。
 マルクス以降、150年間の明らかな大きな変化が思いつくだけで大きく二つ、細かくは五つある。

 まず、客観と生産に関する変化を見る。
 第一に、特に20世紀以降、宇宙と地球の歴史、宇宙と地球の生命の歴史、今後の地球と人類を含む地球上の生命の危機が画期的に明らかになりつつある。高原は、今後の人類を含む地球上の生命の存続を、個々の生命や、生命の属性の価値より優先して考えている。
 第二に「生産」の前提も、マルクスの時代から大きく変わった。地球では生産が、太陽エネルギーとその蓄積物である化石燃料エネルギーを前提に行われてきたが、それが今、崩れかけている。化石燃料エネルギーの枯渇が予想されることと、地球環境保全のための化石燃料エネルギー利用抑止、太陽エネルギーなどの自然エネルギーが気候変動、地殻変動、直径500メートルの小惑星ベンヌ (Bennu)衝突などにより長期に使用不能になる恐れのため主エネルギーとして使えないためである。(化石燃料エネルギー採掘による地球の空隙がマントル運動に与える影響も気になる)
 これから、物理学や哲学の認識がない人間にも、存在を運動させる原動力がエネルギーであり、生産より利用可能エネルギーが、より重要な上位の概念であることが分かる。地球の危機を救う原子力の発見があったのもマルクス以降である。利用可能エネルギーは生産力の最重要要素である。

 次に、個と情報の変化を見る。
 第三に、資本主義の発展は「個」の画期的な発達をもたらした。この点で、驚くべきことにマルクスとエンゲルスはすでに「大工業」の発達が「労働者」の全体的能力をもたらすことを述べていた。
 さらに資本主義の発展は、教育の普及、コンピュータと全世界ネットワークの画期的発達と、そのほぼ全員への普及、さらに人工知能の発展をもたらした。
 生産という粒度で見れば「労働者」の全体的能力の発展、教育の普及、人工知能の発展は、「生産力」に属する。
 第四に、これと関係するが、マルクスの記述と異なり、資本主義により、150年間で、労働者は、「鉄鎖」以外に失っては困るものを多く持った存在になった。(「所有」の本質的前提と違う)実質上の法的「所有」についても、150年前と比べてそうである。

 第五に、マルクスやエンゲルスは、「ドイツイデオロギー」で、だったと思うが、我々の周りにある政治的「情報」は「支配層」が一方的に与えると単純化した。何と、日本共産党の志位氏は、日本でもそうなっているという都合の良い実証本まで書いた。資本主義内部の分析を行わないのと同様、この我々の周りにある政治的「情報」の内部分析も行わず教条を後追いして分析のふりをする。
 今、第四までと異なり、情報をめぐる事実は複雑になっているので、整理しながら書く。次のようになっているのではないかと思う。
 1.誰でも平等にアクセスでき、発信もできる情報、全世界ネットワークがある。まだ制限はあるが、これはこの10年ほどの間に、平等に広がった画期的な進歩である。これは、安く良いものを作る資本主義の成果であるという粒度、面が大きい。当然、この情報は生産力の要素である。
 同時に、民放などのように情報提供が、広告と抱き合わせで行われることが多いことや、ソフトウェア普及が、自社製品普及のための無償提供をきっかけにおこなわれることが多い。それがまんまと成功する。要するに「不純」な動機が成功している。これをどうすればいいのかよく分からない。ハードウエアの安価化も、実は開発というサービスやソフトウェアのコピーによるという似た事情がある。
 2.政治経済情報についても、1.の情報はある。ここでは注意すべき二点にだけ触れる。
 21.田中宇のいう欧米マスコミの「偏向」報道とそれに乗る日本のマスコミの問題がある。
 昔のサダムフセインは悪業の限りを尽くしている報道ばかりであった。最近のウクライナクーデターの最中も当時の政権が、何億円ものシャンデリアを買っていたという報道が繰り返される。殆どの場合、被害者側は被害を誇張する。それを当時の「偏向」報道が利用し、「大衆」はいつもまんまと乗せられる。なお、欧米マスコミの「偏向」報道ではないが、旧日本軍による南京虐殺30万人という数字は被害者側の一方的数字による。
 田中宇の仮説によっても、この欧米マスコミの「偏向」が何によるのかは必ずしも明確にならない。しかし状況は変わりつつあることも田中は分析しようとしている。欧米マスコミの中心だったイギリス、イスラエルの変化などである。
 22.日本では、全政党とマスコミは、多数決主義を信じていて「世論」を煽り同時に絶対視する。
 いい例ではないが、前の二人の東京都知事(猪瀬、舛添)退陣に至る過程でも、全政党とマスコミが、小悪全非難の「大衆迎合」の態度を取り、全政党とマスコミの「大衆迎合」と作られた「世論」が悪循環を繰り返す。

 今、人類が直面しているのは、当然ながら、150年前とは全く異なった課題であり、「史的唯物論」が描いた課題ではない。「史的唯物論」は、過去の認識仮説としては意味があった。左翼は、後に述べる弁証法とも無関係になっているだけではない。事実主義という「唯物論」と無関係になってしまい、事実を見ない。

12.マルクスの「対象との関係と弁証法」と、高原の「対象との関係と弁証法」
 マルクスの、人の対象についての関係の単純化、特に「所有」の把握間違いと、弁証法の狭さに由来する問題がある。マルクスは、この二点を、ヘーゲルの狭さから受け継いでいる。
 高原は、ヘーゲルの「所有」を「精神哲学」の文庫本一ページ半ほどの完璧な定義で知った。マルクスは、この完璧な内容と「経済学哲学手稿」の数十の文章に書かれた対象との感動的な完璧な関係の大きな落差を埋められず、このヘーゲルの「法的所有」と、あまりに単純化した「資本家―労働者」モデルで「マルクス経済学」を展開してしまった。
 世の既存左翼は、マルクスの「経済学・哲学手稿(草稿)」からマルクス、エンゲルスの「ドイツイデオロギー」を経て、彼らが豊かさを切り捨て貧弱な体系にしていく過程を「マルクス主義」の誕生と勘違いをしてしまった。

 これらはマルクスでなく、後の人の解くべき課題である。
 それらをいくつかに書いた。高原利生ホームページの真ん中ほどのところにある「ポスト資本主義のための哲学:既存「マルクス主義」批判」などである。(内容は見直していないのでおそらく古くなっている)
 左翼の弁証法の無理解は、左翼の議論が論理的内ゲバ殺人になってしまう一因になっている。それだけが原因ではないが、左翼はしばしば物理的殺人さえ犯した。旧ソ連などでの悲劇を、既存左翼は自分たちとは関係ないと知らん顔を決め込む。

「原因と結果」という「客観的」対概念はない。事実を認識するために「原因と結果」という固定観念を使うことには注意が必要である。
 目的を「結果」として、それを作る「原因」を設計する「主観的」行為はある。(他にも「原因と結果」が使える場合はある)この場合も、目的,理想,価値と、現実は、同時に矛盾として把握されなければならない。つまり、この両者とその差が実感として同時に矛盾として把握されなければならない。

 弁証法的世界観によれば、客観的には、常に関連し合いながら変化する運動があるだけである。事実を理解するのに必要なのは、相互作用という運動を理解することである。(この点で、コメント626『ポスト資本主義と生きる構造』で述べた「フォイエルバッハ論」の事実主義(唯物論)の4項に従う)この運動の単位が矛盾、どういう矛盾を扱うかを決めるのが粒度である。この矛盾は、教科書に出てくるマルクスやエンゲルスの矛盾とは粒度が違うので、再定義した[THPJ2012][THPJ2015の三部作など]。
 弁証法の要素である矛盾を学んだのは、資本論第一巻第一部第一章と第四部第十三章からだった気がする。
 資本論第一巻第一部第一章の貨幣誕生の分析は、ヘーゲルのままの弁証法では不十分にしか行えない。第一章で、商品ありきで論理を始めてしまうこと、商品から貨幣が生まれる過程の説明で外部からの流通の効率化の働きを無視すること、同じくその過程で「等号」が突如ひっくり返ること、この三つがなぜか分からなかった。最初の問題は、何かを始める場合の運動が分析できないという欠点をもたらし、二番目の問題は、外部からの運動についての、無駄な論争を呼んできたので、ともに解決しなければならなかった。そのことをTHPJ2012で書いた。(これは公表が2013年なので前に示した『高原利生論文集3』に入っている)
 最後の問題はまだ解決できていない。今(2016年11月1日)、気づくのは、物々交換が生んだ等価原理の(というか物々交換と等価原理は同時に生まれたのかもしれない)キーを、ここでもマルクスは結果的にごまかしてしまったのではないかという疑問である。等価原理が生んだいい面も悪い面も両方知っている我々は、この検討を続けないといけない。
 資本論の他の部分は、読んでいる第一巻に限ってだが、感動的な優れた弁証法の展開がある。
 マルクスの弁証法には、有効な優れた論理と、初歩的な不備が混在している。方法の一部が違うのは、全部が違うということだ。それで弁証法全体の見直しを弁証法的否定によって行ってきた。最新成果の要約はTHPJ2015の三部作やFIT2016に示している。
 マルクスを検証し新たな仮説を作ることはマルクス以後の人の課題である。
 また、重要なマルクスの精神、態度を誰も学ばなかった。

 粒度を意識しないと正しい矛盾は、とらえ損ねるか間違ってとらえてしまう。つまり事実をとらえ損ね、正しい事実変更もできない恐れが大きい。実際に(特に最近の左翼は、といっても、気を付け始めたこの三年ほど前からの話であるが)そうなっている。626の繰り返しになるが、粒度は、論理の扱う粒の「大きさ」で空間時間範囲、属性からなる。粒度と網羅は矛盾であり同時決定される。粒度の扱う空間時間範囲は分かり易いが、属性は分かりにくいので例を挙げる。色が7種で網羅された中の青と、24種で網羅された中の青では、青の粒度(この場合は属性)は異なる。

 事実の認識と、目的の実現はどちらも「矛盾」の解として行われる。目的の実現が「矛盾」の解として行われるだけでなく、事実の認識が「矛盾」の解として行われることに疑問を感じる人もいるだろう。THPJ2015の最初の二編では、事実の認識のための「事実の矛盾」と「主観的」目的実現のための「解の矛盾」に分けて、両者の扱いがやや異なることを詳しく書いているのでご覧いただきたい。
「事実の矛盾」と「解の矛盾」という区別、「差異解消矛盾」と一般の「両立矛盾」と特殊な両立矛盾である「一体型矛盾」という区別があることもTHPJ2015の最初の1編で書いている。これらはそれぞれが、矛盾を全て区分する。この区分の差は、矛盾を分類する粒度による。

 認識と変更のうちに、体系的なものがある。法則である。[TS2012][THPJ2012]で、法則を述べた。自然であろうが社会であろうが、体系的法則がある。ある粒度で自然であろうが社会であろうが、体系的法則があるという点で、自然も人間も社会も変わりはないと思う。したがって自然科学だけでなく人間科学も社会科学もある。
 なお、自然でも人間でも社会でも、この法則は常に仮説ではないだろうか。常により高い真理が発見されていく。自然の場合、より高い一段上の法則が分かった時に、前の法則の適用範囲が比較的に明確になりやすいという違いはあるような気がする。

 ありがたいことに、この矛盾と粒度の管理方法である根源的網羅思考の両方は、中川徹教授のホームページ
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2016Papers/Takahara2016/Takahara-FIT2016-161005.html
に『高原利生論文集』 第一部(2003-2007) 、 第二部(2008-2012) 、 第三部(2013-2017)
へのリンクがあるので見ることができる。上のURLは、後に出てくるFIT2016のページである。
 矛盾は主としてマルクスとアルトシュラーにより、根源的網羅思考は主としてデカルトとマルクスによる。
 根源的網羅思考における、論理を展開できる「粒度」を選ぶことが思考の中心で、殆ど全てと言っていいと思う。これはマルクスやダーウインの思考である。(マルクスとダーウインは同時代の人で、お互いの検討を讃え合った書簡が残っている)
 根源的網羅思考が、弁証法論理なのか形式論理なのか悩んでいた時期がある。ホームページを見直していると「その時点での相互作用がない網羅が必要かつ可能でありそれを求める、そして網羅が不可能になればその網羅を見直し続けるという立場を取る」とある。

 なお、http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jforum/2016Forum/FromReaders2016/FromReaders1610-.htmlに、鳥居 達生さんと中川徹教授による高原への過分の評価が載っている。
 中川教授は、鳥居達生さんのコメントを紹介され、
「高原さんの矛盾の統一的な考え方について、 率直に 「すごい」 とおっしゃった方は (初期のEllen Dombさん、そして中川の他には) 鳥居さんが初めてでないかと思います。
 沢山の方は、「用語が独特で、大きなことを言っている のは分かるが、難しい、理解できない。」と 言われます。 用語や論理をフォローすることには、(私自身も)誰も 苦労します。
 しかし、 高原さんの論理はいま、その大きな成果として、 「一体型矛盾」という考え方で、 この例に挙げられているような非常に大規模な問題を 統一的に捉えたことにあると思います。 それらを統一的に考える手掛かりが得られた。 「それはすごいことだ!」 と私は思います。 この意義を鳥居さんがご理解下さったのだと、 うれしく思います。」
と述べられ、高原の矛盾を説明されている。

(B.応用)
2.生産力、生産関係の変化:左翼の生産手段の社会的所有と管理というマイナス=左翼の労働の無理解というマイナス
21.
コメント626『生きる構造』では、左翼の弁証法の間違いと「私的所有」の取り違えによる結果の例として、資本主義の問題解消策が「生産手段の社会化」「生産手段の社会的所有と管理」ではないことを述べた。生産力と生産関係の矛盾の解が、なぜこんなバカげた単純解になってしまうのか?
「生産手段の社会的所有と管理」などというのは、価値の実現手段として無効である。未来のための何のキーにもならない。「生産手段の社会的所有と管理」を実現するのが社会主義、共産主義なら、作らないといけないポスト資本主義の未来社会は、社会主義、共産主義にはならない。ポスト資本主義は、長所も多い利益第一という価値に代わる価値を実現する社会である。この社会に「生産手段の社会的所有と管理」は論理的に関係しない。
 (田中宇のいう、今のアメリカとアメリカに追随する日本の金融緩和に拠る資本主義延命は、もちろん「生産力と生産関係の矛盾」の解ではなく、直接の「生産力と生産関係の矛盾」の表れでもなかった。2016年11月にトランプが次期大統領に決まり、アメリカは、従来の資金の注入がほとんど金融システム内に限定されていてインフレにならなかった状態から、実体経済に回る方向になりインフレになる恐れが大きい、一方、中国は「健全な資本主義」に戻りつつあると、田中は言う。)
 
22.生産関係概念再考
「生産力と生産関係の矛盾」の生産関係を再考する。
「史的唯物論」は、過去については当たっている点のある良い仮説だった。マルクスの有名な「経済学批判」の序言は「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。」と述べる。
 マルクスは、この序言の中で、「課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生する」という優れた矛盾の認識を述べた。彼が「経済的社会構成が進歩してゆく段階」として挙げた、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式」という今までの認識仮説は、実現した歴史についてのもので良い仮説であった。

 この文を含めた序言は「正しく」解釈できる。つまり「社会の物質的生産諸力と、既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係との矛盾」という表現は「正しく」解釈できる。マルクスの「所有」を解釈し直すことによって「正しく」解釈できる。マルクスは「所有」を「生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係」として生産関係の中でとらえた。高原は、マルクスが「所有」をとらえ損ねていると何度も述べているが、ここで「所有」関係が生産関係の全てであるようにさえ描かれている。誤解された「所有」であるにせよ、その「所有」を増す「価値」のために生産するのだ。つまり、何のために生産するかという「価値」に関する諸関係も生産関係の一部としてとらえられる
 こうして「社会の物質的生産諸力と、既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係との矛盾」「生産力と生産関係の矛盾」の中の「生産関係」をとらえ直すことができる。

23.生産力概念再考
 「生産力と生産関係の矛盾」の生産力については、マルクス以後150年の事実の変化を見なければならない。これはすでに述べた。
 つまり、宇宙と地球の歴史、宇宙と地球の生命の歴史、今後の地球の危機が画期的に明らかになりつつあること、生産より利用可能エネルギーがより重要な上位の概念であること、原子力の発見、資本主義の発展は教育の普及、人工知能の発展などにもより労働者の「個」の画期的な発達をもたらしたことである。(ただ、日欧米マスコミの報道内容と、各政党の、マスコミが作る「世論」重視の態度は邪魔である)これらエネルギー、「労働者」の全体的能力、人工知能は、「生産力」の一部としてとらえられる。

 マルクスは、労働の可能性を150年前とは思えないほど本質的に把握していた。
 マルクスとエンゲルスは、すでに「ドイツイデオロギー」で「大工業」における労働が、自然発生的制約を超えて、新しい可能性を開いていることを書いている。
 資本論でも、次のように、「大工業」における労働者の全面的発達を述べている。「一つの社会的細部機能の担い手にすぎない部分個人の代わりに,種々の社会的機能を自分の個々の活動様式としてかわるがわる行うような全体的に発達した個人をもってくる----
----生産の資本主義的形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係とが,このような変革の酵素と古い分業の廃棄というその目的とに,真正面から矛盾することも疑う余地はない。」(資本論第一部生産過程第四編第十三章機械と大工業(国民文庫第一巻第三分冊p.290-292)
 第十三章「機械と大工業」を読み返すとやはり感動する。上の最後の文は、マルクスがこの問題をとらえかけていたことを表していると思う。ただし、第一巻しか読んでいないので、相変わらず初期の「分業」の誤解が残っているのか、「古い分業の廃棄」という表現がそれを克服して新しい労働像の展望に達しているのか不明だ。
 マルクスの予想を超え、資本主義の発達は、「史的唯物論」の構造を変えてしまうほど「個」を画期的に発達させた。

 労働は、賃労働に限らず、子育てなどを含む全ての対象の運用と変更である。この労働の原動力が、利益追求でない新しい価値追及であるような、その価値と、実現のための制度を作ることが解である。どういう価値か分からないので、実現のための制度はどういう制度かまだ分からない。だから、それを検討しなければならない。

24.「生産力と生産関係の矛盾」が作る事実と価値
 これから、「生産力と生産関係の矛盾」の事実と価値が明らかになる。
 FIT2016で述べたのは、これに二つの課題があることであった。
 その一つ、資本主義の現状の問題解決は、「社会主義」や「共産主義」ではないらしいポスト資本主義を作ることで、利益第一主義に代わる新たな価値とその原動力を見つけ、一人一人の労働で実現することである。その検討はだれもやらないので、FIT2016では少し初歩的な検討をした。
 新たな価値はまだよく分からない。この「価値」は「最低限、謙虚さと批判、一体化と対象化を統合した、一人一人が多様な「個」の確立をし、その「個」の労働が新しい「価値」と事実の変更を続けていく。[FIT2016]」という文脈の中にある「価値」であろう。
 理想は、「一人一人の多様な個が確立され、その個がそれぞれ全能力を振り絞り苦労に苦労を重ねる労働が新しい価値と事実の変更を続けていくこと」である。それが、どう生産手段の社会化と関係するだろうか?
 コメント626で述べたように、問題は、労働の原動力を「利益」という私的「所有」から新しい「価値」による原動力に変えることであり、それを実現するのは労働運動と生活運動である

25.考えれば誰にも分かるこの簡単なことに「マルクス主義者」と左翼政党は、150年間気付かない。左翼政党は、「全体的に発達した個人」実現のための労働内容の変革に全く取り組まず、一貫して労働条件改良だけをバカのように主張し続ける。今、労働をしている殆どの人が、「利益第一主義」は違っていると実感している。左翼が、新しい「価値」を求めようとせず、労働条件の改善運動しかできなかったのは、おそらく左翼集団に労働を理解する指導者が150年間不在だったことにもよるだろうが不可解である。
 この左翼の労働の無理解は、労働が、個の能力を振り絞り苦労を重ねる努力であることの無理解を生み、左翼が努力せずに「権利」を主張することにつながっている。(話がそれるように思われるかもしれないが、左翼が、PKOに反対することにもつながっている) それを批判する保守派は正当である。一方で、右翼、保守派は、苦労を重ねる労働が「利益」という価値につながることを是認する。
 問題は簡単ではないか?労働が価値を産むことの無理解が、左翼の間違いの根本にある。これが「生産手段の社会化」「生産手段の社会的所有と管理」という既存左翼の結論も生んでしまった。同時に、右翼、保守派の「利益」という価値批判ができなくなる。

「生産手段の社会化」「生産手段の社会的所有と管理」という既存左翼の結論も、マルクスの、資本主義モデル単純化による「生産力と生産関係の矛盾」の解として「正しい」粒度、側面がある。利益第一主義が起こす無政府性をなくす解としては、観念の中で「生産手段の社会的所有と管理」は一つの解に過ぎないが一つの解ではある。
 しかし「生産手段の社会化」「生産手段の社会的所有と管理」は「マルクス主義者」の最終目標実現の中心手段になっている。
 これでは、殆どの「マルクス主義者」の、弁証法や事実主義という「唯物論」の無理解、論理の欠如という欠点と並んで、根本が客観的に欺瞞的という大欠点となってしまう。客観的欺瞞について「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定 二版」で検討した。これは、高原利生ホームページの上から四分の一のところに埋もれている。客観的に欺瞞的にならないためには、価値と事実の客観性の見直し、検証が常に必要である。これは困難な作業が必要となる。

3.国民国家:左翼の国家主義というマイナス
 同時に、資本主義は、「利益」という「私的所有」と並んで、国民国家を必要としたが、それにも既存左翼がべったり同調している(これには正当に反対する左翼もいる)。既存左翼の国民国家に対する態度自体に反対である。欺瞞でなく戦争反対を言うには国民国家をなくすことが客観的根本的に必要だからである。
 コメント626『生きる構造』では国家主義には触れなかった。国民国家を前提にした課題には、領土、安保条約や天皇制の問題がある。左翼政党の当面の領土、安保条約や、「大衆迎合」による天皇制への対応に反対である。安保条約は破棄、天皇制は廃止しかない。天皇制は世界文化遺産にするのがいいということを、コメント618:まがね58号と新しい感情 by 高原利生 on 2016/08/13に書いた。世界文化遺産にして「民営化」もいい。
 そうすれば「日本国」憲法の、基本的人権、平和主義は「日本国」独自のものではなくなる。また、自民党の憲法草案には賛成しないが、立憲主義は古いという安倍総理には賛成する。

 上の二項をまとめる。
 私的所有と、国民国家への悪しき帰属――この二つの対象との一方向関係をなくし、初期マルクスが夢見た対象との双方向関係を作ることが中長期的かつ今の緊急で重大な課題になっている。
 さらに「史的唯物論」が描いた未来像を、現実が超えつつある。今、人類が直面しているのは、当然ながら、150年前とは全く異なった課題であり、「史的唯物論」が描いた枠組みには拠らない。


4.原発というプラス:左翼の原発反対というマイナス
 もう一つコメント626『生きる構造』に触れなかったのが原発である。
 前に太陽消滅時のための原発を論じた。(石崎ブログに載せていただいた『「ふたたび50億年」について 二版』2013年09月30日 など)
 この二三年で新たな事実が分かってきた。自然エネルギーも今後の小惑星衝突、カルデラ噴火などによる気候、地球変動で長期に使えない恐れがある。(政治家は知っていて、対策が膨大で「大衆受け」しないから無視しているのかもしれない。ただ、プーチン大統領は、一年前のシベリアへの小さな隕石落下の際、ロシア、中国、アメリカ共同で、対策組織を作ろうと言ったことがある。NASAは小惑星の対策組織を作った。)これは今後、自然エネルギーは主電源として使えないということである。それに、更地と水面は、植物の太陽光利用、他の動物のために確保しておかなければならない。宇宙時代を迎えつつあるが、マントル運動は地球内でしか発電に使えない。
 火力発電は、炭酸ガス排出停止、化石燃料枯渇のためできるだけ早い停止を目指すべきである。今のような、原発停止を補うための休止中の旧型火力発電再稼働などは論外である。
 パリ協定批准と数十年後の実現には、全火力発電停止と化石燃料で動く自動車の廃止が必須である。(川口マーン惠美という人が記事を書いている。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49947?page=2 )
 左翼、NHK解説委員、小泉元首相の言うように、原発再稼働しないでも電力は足りているではないかというのは間違いである。彼らは今でもそう言い続けている。足りないから、電力会社は無理やり旧型火力を改修し再利用しあるいは新設せざるを得なかった。
 この三者とも福島事故の「原因」はまだ分かっていないと言う。いつ「ベント」をするべきだったかは分かっていないかもしれないが、対策を取るに十分な「原因」は分かっている。
 この三者とも、他の問題についてと同様、論理がない。左翼の論理がない例を、高原利生ホームページの『「川内原発の再稼働に断固抗議し、停止を求める」声明(2015年8月11日 日本共産党幹部会委員長 志位和夫)批判』に示している。ここだけではないが、志位氏の論理は、小学生にも分かるお粗末極まる「論理」である。

 述べたように、今後の人類を含む地球上の生命の存続を、個々の生命や、生命の自由や愛という属性の価値より優先して考えるべきである。
 今、日本「国民」の総負債額は1000兆円とされる。今のまま、原子力発電を抑制し火力発電中心の施策を続けると、原子力発電所の想定使用可能年20年間に、化石燃料輸入額と、耐用年数が来るまでの原発を活用できない仮想損失額として100兆円ほどの無駄な損が生じる。これは総負債額1000兆円に対し無視できない額ではある。かつ当分続く資本主義の元では、この費用は考慮する要因ではある。
 一方、NHKなどは、福島原発廃炉の費用がかさむことを宣伝しているが、いずれ廃炉費用の掛からない型の原発に替えていく中での小さな要因である。
 要するにプラスマイナスある費用の要因は小さい。

 生命の存続だけでなく、それに次いで個々の生命も重要ではある。安全な原発のための努力は続けなければならない。安全の度合いは限りなく高めていける。飛行機や自動車が発明されてから安全な乗り物になるまで数百年かかる。化石燃料が枯渇するまで、または地球が破滅するまでに安全な原発を作らなければならない。今からその努力を続けなければならない。
 蒸気自動車の発明から250年経ち、今、自動車は、WHOの統計によれば、毎年130万人の死者を出す存在になり、しかも事故による死者の数は年々増え続けている。安全な自動車への要求の声は小さいが、やっと安全な自動車のメーカーの努力が始まったところだ。原発ができて数十年・その間の原子力による死者の数、自動車ができて250年・その間の自動車による死者の数、の比較は、人類存続より小さな要因ではあるが、やはり一応、政治的判断のために行うのが良い。

 これらを大雑把に概観した上で、やはり、原子力の発見、原子力によるエネルギー生成手段の発明は、人類の歴史上、最大のできごとだった。そして70年前から今までの人間の「水準」では、核爆弾に続いて、安全でない原子力発電、次第により安全な原子力発電という順番は変えられなかったと思う。今もあまり時間の余裕がない中で、傲慢だと言われるのは覚悟で、その人間の「水準」を何とか上げなければならない。
 日本の左翼は、50年前、核爆弾を作った「巨悪」帝国主義アメリカが勧める原発に反対した。当時は、賛成する論理を作るのは左翼には無理だったと思う。しかし左翼は、今も、新たなお粗末な論理を作り続け原発反対を変えられない。
 左翼政党の政策にある「原子力の平和利用」に原子力発電は入っていない。左翼政党は、今の原子力発電はまだ安全でないので使わないと言う(訊いた質問の答えによる)。これは、世界紛争の処理を他国に任せる無責任と同じである。(憲法9条を守ると言うなら、今の戦争の根源「国民国家」をなくす努力をしないと欺瞞になる)
 新しいエネルギーは今からいそいで準備しないといけない。エネルギーについては、電気・情報関連学会中国支部連合大会CGK2016「エネルギーとポスト資本主義」で述べている。
 高原は、ポスト資本主義を作る課題が急務だと思い焦っている。この課題がなぜ新しいエネルギーを作る時期と重なったのかはまだ謎である。偶然とは思えないがまた偶然のようにしか思えない。

5.人工知能というマイナスとプラス
 さらに、人工知能の研究実用化が予想以上に進みつつあり、AIを備えたロボットが単調労働の代わりになるだけでなく、AIそのものが10年後には大半の知的労働に代わるという予測もある。格差拡大と関係するが、格差拡大よりずっと危険になり得る重大な課題である。経済格差は、単に労働配分の問題に過ぎないが、AIの利用は、人間の労働自体の問題であるからである。
 IBMやGoogleなどの「ビッグデータ」活用や人工知能の基にしている「価値」、人工知能という可能性が、今は正しい価値のために使われていない。ここに着目し批判しなければならない。このマイナスをプラスに使う変更も必要である。緊急を要する。誰かやってほしい。今、高原に、追いかける時間がない。
 最低限、予測の結果を伝えるマスコミは、予測の基にしている価値と予測手法も併せて明示するようにすべきである。しかしマスコミは、それらをそもそも意識していない。おそらくAI開発者自身も「価値」を意識していないまま「価値」を変えている。
 すくなくとも、粒度の網羅のデータベース、その粒度での網羅を行うデータベースが必要で、網羅されたものから粒度を選択するのは人間が行うのが良い。そして議論は、どういう網羅からどういう理由で粒度を選択したかを述べた上で行うべきである。

 左翼は、人工知能にも無関心である。状況は、左翼の外で、これらについても動いている。
 人の価値を高める一人一人の「生き方」とポスト資本主義は、これらの問題を解決するためにも緊急重大な課題である。あるべき姿と現実の認識と対応が乖離しているのは、この問題だけに限らないが、左翼には、はなはだしい。

 左翼は、宇宙と地球の歴史に無知で、従ってその制約下にあるエネルギーについて人類の敵になってしまい、ポスト資本主義を作る課題にも全く取り組まない。他人任せで自分では努力せず「権利」だけ得ること、欺瞞的かつ「大衆迎合」であり未来を拓かない保守性、言っていることに論理性や理論もない悲惨な状況である。左翼は(日本以外は知らないが)得た「権利」と、それが書いてある「憲法」を守るのに懸命の保守勢力にもなってしまった。若者からそっぽを向かれている理由である。左翼の政治家は論理、理論も世界観もなく失格だが(マルクス経済学出身の「政治家」は、やや論理があるように見える)、今は、一般に政治家も哲学者も不在である。

(A.『生きる構造』の補足』)
6.生き方の解
61.進化

 進化は世界観に含まれるべきだが、FIT2016とCGK2016では、検討から除外した。ここで進化について述べる。(進化については、石崎さんに教えられるところが多かった)
 進化の歴史を考える。生殖によって子孫を残す動物の進化の形式は、通常の遺伝子組み合わせと遺伝子コピーミスによる突然変異の二種あると考えられる。いずれも、生き残るとは生きるエネルギーを確保することである。1) 日常的にエネルギーを確保できたものが生き残る。その前提で2) 気候変動や共存する他生命との関係変化など、緩やかな生きる環境の変化に対処し、生き残るための遺伝子変更をして生きるエネルギーを確保できたものが生き残る。さらにその前提で3) 突発的な危険に対処する遺伝子変更によってエネルギーを確保できたものが生き残る。つまり、遺伝子変更ができ、生きるエネルギーを確保できたものが生き残った。進化は、生きるエネルギーを確保するに必要な遺伝子変更を行えたものだけが生き残るという、エネルギー原理に拠っている。

「進化は世界観に含まれるべき」というのは舌足らずな表現である。進化も網羅的に追考しなければならない。
 進化の歴史と過程も、進化の結果も、これらから抽出される進化の概念も、世界観に含まれるべきである。進化の歴史から抽出される論理も、進化の結果として現在ある生命の多様で平等な在り様も、世界観に含まれるべきである。現在、人間と同時に存在している他の生命も、数十億年の進化を生き抜いてきたという意味では皆、平等であること、なぜ人だけが特別な地位にあっていいのかを答えなくてはならない存在であるという問題意識も、世界観に含まれるべきである。せいぜい、知識を多く持ってしまい他の生命を左右できるものの責任が大きいということに過ぎないかもしれないが、それでもそれは世界観に含まれ、共有すべき認識である。

 他と同様、固定観念としてでなく、仮説として世界観に含まれるべきで、常に仮説内容の見直しをする態度が必要である。
 この態度なしに、進化を認めないキリスト教原理主義やイスラム教原理主義を嗤ってはならない。固定観念は事実として常に必要だが、同時に変更を怠ると、エホバの証人やISISと同様な無残な状態に陥り、客観的に人類の進歩に逆行してしまう。現になっている。これは進化に限らない問題である。

62.未来の生き方の解
621.問題

 一般的には、全部を理解しないとどの一部も理解できない。同様に、全部を理解して適正な粒度を見つけ全ての矛盾の解を出さないと、それは部分の解でもない。これは、議論に値する問題全てについてそうである。[FIT2016]
 大きな問題、小さな問題を問わず、認識と変更のための思考が、高原が改良した、矛盾と根源的網羅思考の二つを要素とする弁証法である。

 根源的網羅思考をゼロベースで行うと、正しい粒度のために必要な論理的網羅をやり直すことになるため、誰がやっても従来と全く異なった結論になる。それは殆どの人に理解されないが、今の、ポスト資本主義を作る革新が求められる時代には、ゼロベースでの従来と異なる結論が必要だ。実現は現実的に徐々にすればいいのである。

『ポスト資本主義』『生きる構造』のような大きな構造設計の選択粒度の根拠は、試行錯誤に拠っていて、まだ定式化できておらず課題として残っていた。よく分かっていない状態で、この問題に取り組んだFIT2016と電気・情報関連学会中国支部連合大会CGK2016であった。以下はこの二つの論文を読むための解説にもなっている。

 小さな問題は単独で解けることがある。大きな全体の問題として解かねばならぬ問題とそうでない問題の区別をどうして区分けすればよいか?と、大きな全体の問題として解かねばならぬ問題の解き方が課題である。
 これは、分かりかけている過程を書いている。(高原利生ホームページの「本の読み方と根源的網羅思考」がある。そこに、「書かれたしまった文」には思考の搾りかすしかないと書いた。常に、搾り甲斐のある内容を書こうとしている。)

 大きな問題の例を挙げる。人の生き方、労働運動と生活運動に関係する全体の要件をすべて満たす「解」を見つける。その「解」が出てくる世界観把握、そういう「解」がもたらす「価値」「感情」「態度」を作る。これはコメント626で述べた「生きる全体構造」を作る作業である。(この「生きる全体構造」の半ば無意識の運用が、今の一瞬を「生きる」ことである)
 それは、同時に、同じ方法で統一的にできた方が良い。実は、「できた方が良い」のか「できなければいけない」のかは微妙である。
 高原は、『論理を展開できる粒度を選ぶこと』『その粒度が構成する全体の構造を決めること』『この二つを同時に行うこと』をやろうとしている。

622.FIT2016とCGK2016に述べた解
 FIT2016とCGK2016の二つの論文は、今までの歴史総括による生き方を、定式化の仮説構築によって試みた。この数千年の全人類の生きた歴史と今後生きて行くという粒度では、以下に引用するような4層への分割と、そのうちの3層内では同じ属性粒度の矛盾が(同じ矛盾であるから当然同じ原理に従う)運動をする構造によって単純性が得られた。
 数千年の全人類の歴史というのは、文化の要素として、技術、芸術、科学、人為的な制度がそろった後の歴史に限るためである。これは、マルクス、エンゲルスの「史的唯物論」の扱う時間範囲と同じである。このうち一番遅く整備されたのは(共同観念の必要な人為的)制度で、物々交換による等価原理が確立したのち、「目には目を」のような法や道徳のような共同観念ができたというのは仮説である。等価原理は等式を生み、科学の進歩を促進した。天秤の発明、最初の法は、ほぼ同時期である。
 単純性というエネルギー最小基準によって、結果として「エネルギー史観」のようなものができる。エネルギーは生産の前提であるから、できかかっているのは「唯物史観」より上位の理論かもしれないが、もちろん、マルクス達の「唯物史観」のような豊かさ、広がりはない。なお、後に、エネルギー基準が崩れるかもしれない未来についても述べる。

 以下は、FIT2016からの抜粋である。
「もし、単純な生きるモデルが得られるとしたら、この単純性は、層への分割とその層内では同じ原理に従うという二つの両立矛盾CCの解として得られるはずである。
 そこで、網羅された中から得られる適切な粒度で、人類が関わる、過去、現在、未来の全世界の事実と価値実現手段を俯瞰した上で、生きることの第一の仮説を具体化したあるモデルを第二の仮説として提案する。
 これは、4層に分かれ、それぞれの層では統一された根源的網羅思考と一体型矛盾の原理に従っている。
こうして 無数の可能世界の中から、世界の一つの単純モデルが得られる。
 4層とは、
  1) 個人による世界の知覚。
 知覚は入り組んでいる。世界、自分と自分の価値観、感情、潜在意識が、知覚に影響する。また、知覚は、自分の認識と潜在意識に影響する。
  2) 世界観:世界観は、過去、現在、未来についての事実観と価値観の共同観念である。[THPJ201503] 世界観は、個人の価値観、潜在意識、感情に影響する。
  3) 「生きる」:「生きる」とは、個人個人が、態度で粒度を特定し、弁証法論理で認識し行動することである。
  4) 共同手段:技術、制度 [TJ200306]、科学、芸術。これらを介して人間の認識と行動は、実現に至る。
 我々の態度と行動は、ゼロベースで価値を得るよう試みる方向を持つのが良い。この価値は、人類の存続-個の生-多様な個の属性という系列をなしている。[FIT201501] 個の属性と行動は、私と外部の関係、つまり「私-関係-オブジェクト」の「関係」である。生きるとは「私-関係-オブジェクト」を決めることである。
 第一に、この関係は、次のように網羅される。
「既存の思考をゼロベースで変更し行動する、既存の思考を修正し行動する、変更しない」
 ここで、「既存の思考をゼロベースで変更し行動する」ことを選ぶ。
 第二に、「ゼロベースの変更」を根源的に網羅すると、態度の粒度から「謙虚さと批判」、態度と行動の粒度から「愛と自由」になる。[TS2011] [FIT2013] [FIT201501, 03] 「謙虚さと批判」「愛と自由」は、「一体化と対象化」に統合される。これらは重要な一体型矛盾CUの二項になる。[FIT2013]
「一体化」とは、私と他の生命を含むオブジェクトを再統合する意思である。この意味の価値が、行動の態度として私と他の生命を含むオブジェクトを高める「愛」である。
「対象化」とは、オブジェクトをオブジェクトとして操作する意思である。この意味の価値が、オブジェクトを変更する能力である「自由」である。[FIT2013]
 この態度と行動は、粒度特定と一体型矛盾CUの解に拡張されるとよい。
 以上は、ゼロベース原理と、根源的網羅思考、一体型矛盾CUにより得られた。

 農業革命とともに始まった時代は、自然と神への一体化世界観の誕生とともに進んでいく。しかし、一体化世界観は十分には実現できなかった。これは一体化が一方向で「個」が確立しなかったせいである。産業革命、資本主義とともに始まった時代は、オブジェクトを効率的に変更する対象化世界観とともに進んでいく。」(FIT2016の抜粋終わり)

 FIT2016では、2) 世界観(世界観は、過去、現在、未来についての事実観と価値観の共同観念である。[THPJ201503] 世界観は、個人の価値観、潜在意識、感情に影響する)、3) 「生きる」、4) 文化という共同手段(技術、制度 [TJ200306]、科学、芸術)の三つが、「一体化と対象化」という矛盾で統一的に把握できることを示した。この三つに内在する粒度の矛盾が、引用に示したように、生きることを網羅する要素の中から「自動的に」選ばれた「一体化と対象化」だった。「自動的に」選ばれたと言っても、選ぶのに二三週はかかったと思う。そしてこのように統一的に把握できる形になっているのは、生きるエネルギーを最小にするためである、というのが高原の仮説である。1) 知覚は検討の対象に含んでいないが、知覚もエネルギー最小のため今の形になったと推測できる。

 これは歴史の総括である。この中の不十分な一体化や対象化が各時代の生き方であり技術や制度を作ってきた。今までの数千年の総括である農業革命と産業革命の一体化と対象化を完成させながら、一体化と対象化を統一させることが、理想の生き方とそれを支える理想の技術や制度を作る。これが分かりにくいと思うが、高原の仮説である。
 まず「理想」があるのではなかった。理想像が、人の労働と生活の歴史を総括して得られたのは不思議である。行うべきことは、全ての個人の労働と生活の変更であるというのが原点である。

 今までは、手段変更は個別には意図的だったが、全体を意図的にコントロールする論理はなかった。それが得られる画期的段階に人類は達する。これはあくまで「理想像」であり「理想像」に過ぎない。

 FIT2016では「本稿の方向だけが、一体化と対象化、謙虚さと批判、愛と自由を豊かにする。これが、一体化と対象化を体現した「個」、「個」の思考、議論と民主主義を確立する。これが、また、新しい真理、新しい価値を発見し続け、価値を高め続けるだろうが、必ずしも通常の「成長」はしない。この理想的関係が、利益に代わって労働の原動力になる。利益は資本主義の始まり以来、その原動力だった。これが新しい経済を作るだろう。また、これが戦争を止めさせるだろう。これが全ての問題を根源的に解決するだろう」と述べている。
 しかし、このどこにも「生産手段の社会化」は登場しない。政党も登場しない。個人全員による思考と議論が行われる「歴史」が始まる。

 2003年以降、毎年、今までの総決算のつもりで論文やノートを発表してきた。これは論文を書く態度としては、取ってはならぬことである。石崎徹さんブログのコメント626と本コメント633も、単に誤解を解くコメントが、結果として両方合わせて4万字程の高原の今までの人生の総決算になってしまった。
 石崎さんにはご迷惑だったと思う。おわびと感謝を申し上げる。

632:「631:高原さんへ・・・利益第一主義について by 植田与志雄」へのコメント by 高原利生 on 2016/10/20 at 17:09:04 (コメント編集)

「631:高原さんへ・・・利益第一主義について by 植田与志雄 on 2016/10/20」へのコメント
2016年10月26日三版(「植田与志雄氏の回答」2016.9.15 の批判も含む)

植田さん。ありがとうございました。ただ植田さんとは今まで、お互いでしょうが、誤解が多く議論がかみ合いません。
前のコメントも少し直しているので、それをご覧ください。高原の今の出発点は、引用したFIT2013やTHPJ2015の三篇ですので、それもご覧ください。
(いつもそうですが、内容の全部は関係していて、全部を理解しないとどの一部も理解できません。今回は、特に、理解できるための全てを書いたつもりです。傲慢な言い方に聞こえるかもしれませんが)
それで少しは誤解が解けるかと思います。
コメント633も書かせてもらっていますのでご覧ください。
コメント626でも紹介していたFIT2016の内容が中川徹教授のホームページに載りましたのでお知らせしておきます。http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2016Papers/Takahara2016/Takahara-FIT2016-161005.htmlただ、これは前半の矛盾のところは別にして、後半の本論は難しいですね。わずか2ページほどで、分かっている全部を詰め込もうとしているので。いつもの高原の論文の欠点です。

植田さんは「資本主義と利益第一主義と生産手段の社会的所有の関係について」の「高原さんの主張にはよく理解できないところがある」と始めて、実際には、利益第一主義と資本主義の関係に内容を集中し、結論がよく分からないまま終わってしまいました。

1.「利益第一主義を退場させることが資本主義を引退させるのに必要」と思っています。「所有」について、今まで前から植田さん(や石崎さんに)に繰り返して言っていることが通じない。これが「マルクス主義者」の「問題」の大きな一つだと思います。「利益第一主義を退場させることが資本主義を引退させるのに必要」というのは、高原のように、経済学を知らず「利益第一主義」と「資本主義」を同一視し、「利益第一主義」と「資本主義」は「利益」という「私的所有」を原動力、駆動力として同時進行していると思うものから見れば同義反復なのです。

植田さんは、高原が同一視して扱っている「利益第一主義」と「資本主義」を、どちらが「原因」でどちらが「結果」と高原が言っているかを、「マルクス主義」の「歴史」と一緒に詮索し高原が混乱しているように、多くの字数を割いて書かれています。「原因」「結果」という対概念は、一般に誰のどういう粒度、視点、価値から見るかを確定して初めて意味がある概念で、純粋に客観的な概念ではありません。繰り返しますが、ここで高原は、「利益第一主義」と「資本主義」を同一視しています。敢えて言うと「利益第一主義」と「資本主義」は、お互いが原因になり同時に結果であるようにして「発展」してきました。

「卵が先か鶏が先か」ではなく、「同時進行している卵と鶏の変化の運動を規定する法則は何か」です。一般にはこれはもう克服されているはずです。
しかし「現実が先か法が先か」「現実が先か、理念(実現価値とその手段設計)が先か」が議論され、石崎さんが「現実が先だ」と言われているのを見ると、そうでもないのだと思いました。
それも意識し、今までの高原の言ってきた全体像であるコメント626で、現実と価値,目的実現は、同時進行過程、相互作用過程であることを、しつこく書いたつもりなのに、植田さんにも理解していただけず残念です。

つまり、石崎さんと植田さんには、「原因と結果」という固定観念がありますね。前にも書きましたが、「原因と結果」という「客観的」対概念はないのです。弁証法的世界観によれば、客観的には、常に関連し合いながら変化する運動があるだけです。(目的を「結果」として、それを作る「原因」を設計する「主観的」行為はあります。他にも「原因と結果」が使える場合はあります。この場合も、目的,理想,価値と、現実は、同時に矛盾として把握されなければならない。つまり、この両者とその差が実感として同時に矛盾として把握されなければならない。)

植田さんが「利益配分」の形態をいろいろ述べておられたが、これは、そういう細かなこと以前の大きな課題です。

植田さんは『高原の「一人一人の多様な個を確立し、その個の労働が新しい価値と事実の変更を続けていくことを含む制度設計」は、伝統的なマルクス主義が目指していた理念とアプローチ、個の解放とそれを可能にする社会の設計、と同じではないでしょうか。』と言われる。
どこに「一人一人の多様な個を確立し、その個の労働が新しい価値と事実の変更を続けていくこと」を目指した伝統的「マルクス主義」があったでしょうか?「伝統的なマルクス主義」左翼はそのかけらもない保守勢力、老人の左翼、欺瞞だけの左翼になってしまっている。客観的欺瞞の最大のものが、「主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化」の内容を一切検討せず、それさえやれば全てが解決すると述べることです。
「手紙」で植田さん自身のよく考えられた1-6項が紹介されています。http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.htm 1-6(7)項と、高原の「生きる構造」は、もとになる弁証法、価値は「個」の労働が作るものであることが違います。

駆動力第一主義と言われるのは当たっているかもしれません。しかし、これは、駆動力を、価値、価値に影響を与える世界観や、価値が影響を与える感情や潜在意識、態度の三つの全体として、重要視する当然の態度で、コメント626 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626でも述べています。

2.(その他)
植田さんの「弁証法」だけでなく「唯物論」理解も疑問があります。事実主義という「唯物論」と、矛盾を単位とする弁証法の理解が、皆さんとは少し違っているように思います。それで見直した内容の要約を626では整理をしましたのでご覧ください。

社会に自然のような法則はないという植田さんの結論が出てくるのは分かりません。自然であろうが社会であろうが、体系的法則があるから自然科学だけでなく社会科学もあるのではありませんか。

また、植田さんの「植田与志雄氏の回答」2016.9.15 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-928.htmlの学術会議の提言は20年以上前ですね。今は状況が激変しているのではないでしょうか?

3.どうも植田さんや石崎さんと違うのは、全体の要件をすべて満たす「解」を見つける、そういう「解」が出てくる世界観把握、そういう「解」がもたらす「価値」「感情」「態度」を作るのは同時にしか、同じ方法で統一的にしかできないということです。先に「全部を理解しないとどの一部も理解できない」と書きましたが、同様に、全部を理解して適正な粒度を見つけ全ての矛盾の解を出さないと、それは部分の解でもないのです。これは、今、議論に値する問題全てについてそうです。
分からないだろうなぁと思いながら書いています。上に一部をダブって書きましたが、今、議論に値する問題は全て、一つ一つの問題を単独で論じても無駄で、統一的に全体の中で同じ方法で論じることが必要なのです。高原は、粒度を見直すこと、これとこれは一括りにして論ずるという「粒度」を選ぶこと、「全体」の論理を展開できる「粒度」を選びながら統一的に論じることをやろうとしています。そうして、論理を展開できる「粒度」を選ぶことが思考の中心で殆ど全てと言っていいと思います。マルクスやダーウインの思考です。コメント626の選択粒度の根拠は、今のところ試行錯誤に拠っており、まだ定式化できていません。課題として残っています。

これをゼロベースでやると、従来と全く異なった結論になる。それは理解されないが、今の、ポスト資本主義を作る革新が求められる時代には従来と異なる結論は必要だと思っています。
植田さんが改良しか認めないとあからさまに言われるのには驚きました。全く有害だと思いますので批判しておきます。批判内容は、FIT2016で一番簡単にわかります。626の全部にも書いてありますが。
実現は現実的に徐々にすればいい。それ自体大変な「設計」を要しますが。昔、社会システムの設計をやっていました。動いている社会システムを停止させずに新システムに移行させるのは、小さなシステムでも大変な設計作業が要りました。

植田さんの最初の①②を別々にして扱うこともそうです。高原の全体を読んでいただくと、植田さんの最初の①②を分けずに一つの問題として扱っていることが分かると思います。一つの問題として扱ってはじめて答えが出る。まだ完全ではありませんが。

それを含め、植田さんは、元に戻して(元のままなのかもしれませんが)ぐちゃぐちゃにしているように見えます。植田さんには失礼な言い方になったかもしれません。

しかし、植田さんのコメント631で、かえって高原のやってきたこととするべきことが分かり、力づけられました。その統一的に全体の中で同じ方法で論じる思考が、高原が14年かかってマルクスを改良した、矛盾と根源的網羅思考の二つを要素とする弁証法であるというと信用されなくなるでしょうか。

631:高原さんへ・・・利益第一主義について by 植田与志雄 on 2016/10/20 at 14:54:04 (コメント編集)

高原さんに・・・利益第一主義について
2016.10.17 植田
この一連の議論でポスト資本主義社会の設計に関して植田の興味ある話題は二つあります。
①社会の設計について、理念や理想に導かれての設計(制度と運用)に疑問。これは石崎さんの提起。②利益第一主義にかわる価値を見つけて、これによる設計がなされるべき。これは高原さんの提起。

①は不十分ながらヒントになると思うコトを「回答」で書いたので、ここでは②について書きます。

高原さんの主張にはよく理解できないところがあります。
「資本主義と利益第一主義と生産手段の社会的所有の関係について」です。

*その前にお断りしておきたいことがあります。高原さんが問題視している第7項で「社会主義の設計のキモは生産手段の社会的所有」と植田が言ったのは、伝統的な社会主義では設計のキモは生産手段の社会的所有とされていると解説したもので、植田自身もかつては社会主義のキモは生産手段の社会的所有だと思っていたけれど、今はそこには懐疑的だと原文には書いています。

*その上で高原さんの主張を高原HPも参照して下記のように要約しました。
・「生産手段の社会的所有と管理」は未来のための何のキーにもならない。
・ポスト資本主義は、長所も多い利益第一という価値に代わる価値を実現する社会である。
・利益第一主義は現代の諸悪の根源でもあるけれど、文明の推進力でもあるのだから、そこを解決する道を見つける必要がある。
・生産手段の社会的管理等は推進力になり得ない。
・この答えを見つけないで資本主義に反対するのは、欺瞞である。
・新たな価値はまだよく分からないが、、、、、一人一人が多様な「個」の確立をし、その「個」の労働が新しい価値と事実の変更を続けていくことを含む。そのための制度設計が必要。

*これに対する植田の疑問と感想を記します。
・逆転の発想
⇒利益第一主義は資本主義が生み出した「主義」であるとするのがマルクス主義のあるいはマルクス主義を超えた一般的な認識になっていると思うのですが、高原さんは利益第一主義を退場させることが資本主義を引退させるのに必要と言う。これはかなり思い切った逆転の発想で、宗教的な社会改革のアプローチに通じると思います。
・高原さんは利益第一主義が資本主義を生んだと言っているかのように聞こえる
⇒利益第一主義は人類史の中で合理的根拠を持って登場し、存在している、具体的に言えば利益第一主義が資本主義を生み出したのではなく、資本主義が利益第一主義生み出した、資本主義の中で利益第一主義は居心地の良い席を与えられている、存在が意識を規定する、とするのが唯物論ベースでの認識で植田も基本的にはそう思うのです。高原さんはここが逆で、まず利益第一主義を変えよう、存在によって規定されているはずの意識の方をまず変えて、その後で存在の方を変えましょうと言っているように聞こえるのです。本当は高原さんはそうは言っていないのかもしれませんが。
・高原さんは利益第一主義が資本主義を生んだとは言っていない
⇒高原説を冷静にみれば利益第一主義と資本主義の関係を、利益第一主義から資本主義が生まれたとは言っていない。両者を因果関係の中に置いてはいない。利益第一主義は諸悪の根源でもあるけれど資本主義をここまで発展させてきた善玉でもあったので、ここを忘れて利益第一主義を敵視してはいけない、ポスト資本主義は利益第一主義に代わる推進力原理を見つけないと絵に描いた餅となる、と言っているようです。
・利益第一主義に代わる価値を見つけるのが先なのか
⇒生産関係の改革、具体的には生産手段の共有か否かは措くとしても、によって資本主義の解体、根本治療を施して、その中で利益第一主義も合理性を失って退場できるのではないかと漠然とではあるけれど思うのですが、高原さんはここはマルクス主義者の典型的な誤りだというのですね。
・人類の物理的生存基盤を維持するための駆動力第一主義
⇒原子力問題に関する議論でも共通していますが、木を見て森を見失ってはイケナイとするのが高原説で、そういう面では一貫していて、駆動力(生命の存在条件の確保の源泉)第一主義と言ってもいい姿勢を感じます。
・利益第一主義とは何か
⇒高原さんは利益第一主義の中身についてはあまり語っていないようなので、もしかしたらごく一般的なものと捉えているだけで十分としているのかもしれませんが、利益第一主義と言われた場合に浮かぶことがあります。まず利益とは何かが、次に利益第一と言った場合の第二、第三は何か、比べる相手について、この両方を考えたくなります。
自己と他者との利益配分割合か⇒9:1なら利益第一で5:5ならそうではない?
利益と損失(不利益)の割合か⇒危険あっても利益優先するか、危険の少なさを選ぶか
今と将来のどちらを重視するか⇒将来の利益ために今を我慢するか
自己と種のどちらが大事か⇒自我の生命と人類の永続のどちらか
自分と地球の大切の度合い⇒自己の人生の燃焼か地球に優しくか
などなど利益第一に係る選択は広さも深さも多様だから利益第一の代わりといっても簡単ではない。
・大きな物語としての社会の設計を重視するのか
⇒高原さんの「一人一人の多様な個の確立、その個の労働が新しい価値と事実の変更を続けていくことを含むそのための制度設計」は、伝統的なマルクス主義が目指していた理念とアプローチ、個の解放とそれを可能にする社会の設計、と同じではないでしょうか。マルクス主義は長い間その制度設計が生産手段の社会的所有と考えてきた。でもそのような理念、理想に導かれた制度設計とそれによる社会の運営、そのようなアプローチが石崎さん始め多くの人々から疑問視されている。設計はもっと近距離での近未来というより今存在する現実の要求からに限ってこれを重ねるべきだとする、つまり改良主義ですが、ここに関する議論の一つが「石崎さんの植田への手紙9/14と植田からの回答9/15」だった。
高原さんのアプローチはこのような改良主義ではなく、利益第一でない価値を見つけてそこに立脚した設計を行うべきとする、あえて分ければ「理念に導かれた設計」派でしょうか。
・利益第一主義の分解はできないか
⇒資本主義は利益第一という手段によって、人間のパワーを引き出した、そういう役割、功績は代えがたい、ここはマルクスも資本主義の文明駆動力として全く肯定的に認めている。しかし現代ではパワーの無政府性などによって利益第一主義の内実が問い返されているのではないだろうか。つまり利益第一主義の丸ごとの放棄ではなく、正負を腑分けした選択が問われている、そこを高原さんは利益第一主義に代わる価値、と言っているのではないだろうかとも思えるのです。

とりあえずここまで。

630:管理人のみ閲覧できます by on 2016/10/16 at 20:40:38

このコメントは管理人のみ閲覧できます

629:管理人のみ閲覧できます by on 2016/10/13 at 07:23:23

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627:管理人のみ閲覧できます by on 2016/09/29 at 10:44:27

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626:生きる構造  高原利生 by 高原利生 on 2016/09/21 at 11:17:40 (コメント編集)

コメント626『生きる構造』  高原利生 2016/09/21

ブログ「植田与志雄氏への手紙」2016年9月14日 へのコメントである。
また本コメントの補足として、コメント633「ポスト資本主義」、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment633 687「新しい哲学を作っている 二版」(上の633を687に変える)なども参照されたい。

(はじめに)
 石崎徹さんブログ「植田与志雄氏への手紙」(2016年9月14日)に高原の言についての「小さな」誤解のある言及が二三あった。傲慢不遜なネット右翼やネット左翼からの「大きな」非難は無視すればよいが、石崎徹さんは尊敬する誠実な方である。誤解を解き石崎さんへの弁証法的批判を述べ、併せて、余計なお世話で、多少の挑発と激励を述べる。そのため石崎徹さんブログ『「価値」付け足し』(2016.02.14)に対する コメント586「全体化,一体化と価値,感情」を書き直すことにした。この辺の事情は石崎さん以外には分からないだろうと思うが、時間がかかったおかげで、結果として自分の頭を整理することになった。石崎さんにも分かっていただけると良いと思っている。批判する石崎さんの言われている内容は目次の1、2にある。
 なお、一々断っていないが、石崎さんが引用された植田さんの2010年の意見のいくつかへの批判を含んでいる。
 石崎さんに、ある一つのことを理解してもらう意図で書き直すと、コメント586の古い版のあちこちを直す必要があった。石崎さんにバラバラなテーマを扱っていると思われる恐れがあったので、同じテーマを統一的に扱っていること(これは、サルトルの全体化のために必要なことである)が分かるように節の名前を付け直した。記述の順番は変わっていない。削除はなく、記述の統一性が分かるようにする追加だけである。そうするとかなり長くなってしまった。

 コメント626と633は「ポスト資本主義」をゼロから考える内容になってしまった。「ポスト資本主義」を扱うFIT2016等を書いていた時期に重なった所為でもある。「ポスト資本主義」という言葉は、左翼は、使わない。使うのは資本主義を変えなければいけないと感じている左翼以外の人である。

 創始者の正しい「主義」が、生き残るためには、創始者の残したものを解釈するのではなく、創始者が目指して実現できなかったものと方法を求め続ける態度が必要だ。その意味のことを今までに論文の前書きに二度書いた。「マルクス主義者」と左翼政党は、残念ながら150年間、マルクスの解釈しかせず、そのため、予期したとおりの、生残るとしたら現実と「世論」に妥協するこういう道、という無残な道をたどっている。ただ、「マルクス主義者」と左翼政党の言っていることは、この三年ほどのネットの内容に限られる。
 本コメント626とコメント633では、重要な判断の際、結果として、「マルクス主義者」と左翼政党は、意識せずにか意識してかは分からないが、必ず違った方向を選んでしまったように見える。勝手に選んだ「重要な判断」とは、この二つのコメントで書いた項目である。うがった見方をすると、今の左翼集団は、ポスト資本主義を作ってしまうと、自分の集団が不要になってしまうので、本コメントに述べたような初歩的間違いばかりをする。

 気が付いてみたら、石崎さんへの誤解を解く内容が、大袈裟になっただけではなく、石崎さんのおそらく正しい粒度、面を単純否定したようになってしまった。石崎さんにお詫びしなければならない。
 石崎徹さんには敬意を持っているが、おそらく石崎さんに失礼な記述がある。また、一部左翼を傲慢だと非難しながら本稿も傲慢である。しかし、それを直す気力がない。

(目次)
1.「まず実存がある」か?――本に何が書いてあるか?意見とは何か?議論とは何か?
2.価値と感情の構造
3.生きる全体構造と一瞬の構造
4.準備――粒度、網羅と弁証法、唯物論
5.価値と、価値の見直しの必要性
6.マルクス、サルトル、パースと、全体化,一体化
7.準備続き――再び網羅、粒度と弁証法、唯物論
8.結論――生きる構造と価値実現
9.応用1――生きる中の思考、議論、民主主義
10.応用2――生きる中の芸術
(おわりに)――結論を補足する

1.「まず実存がある」か?――本に何が書いてあるか?意見とは何か?思考、議論とは何か?
 サルトルや石崎徹さんブログ『「価値」について』(2016.02.13)の「まず実存がある」は、おそらく「まず現実がある」と同じで、「理念」先行という間違いの単純否定によるのではないか?今のほとんどの議論は、相手の言うことの不備を述べて自分の論拠の正しさの証拠とする。「相手の言うことの不備」は必ずあるので、これでは本来、議論にならない。テーマ自体を論ずるのが良い。これは、「考える」とはどういうことか、「本を読む」とはどういうことか、意見とは何かという大きな問題に一般化できる。
 
2.価値と感情の構造
 価値(観)と感情は別のものである。石崎さんが『「価値」続』(2016.02.14)で、「ぼくにとって「感情」と「価値」とは同義語です」と書いたとき、読み飛ばしていた。余りに、自分と意見がかけ離れていると思ってしまえば、内容を理解できない。 今、「「感情」と「価値」とは同義語です」という意味がよく分かる。「感情」と「価値」を一括りにできる見方、粒度はある。だから、石崎さんに反対するのではない。ただ、この見方、粒度に足らない場合、粒度がある。

「感情」「価値」は、なかなか複雑で扱いが面倒である。「生きる」ことの中には、まず、それ自体が複雑な「感情」と「価値」があり、次に、それらが何に影響され、何に影響するか、つまり、それらを含んだ「生きることの構造」の全体が必要である。

3.生きることの全体構造と一瞬の構造
 今、人と世界の変革が必要である。人々は変革を待ち望んでいる。この変革のためには、人と人類が今まで生きてきた、現在生きている、そしてこれからどう生きて行くかという、長い過程に中にあって変化していく「生きることの構造」の把握が必須である。そして、変革とは「生きることの構造」の運用ではなくその内容の変革である。
 生きるとは、生命の系列という対象の運用と、そのために外界の対象を変更することである。もちろん、対象には精神も含む。この対象の運用、対象の変更は生きるという当たり前の行為である。生きることが変革であるためには、生きる構造の内容を変えねばならない。
 ヘーゲルは、一度きりの粒度設定と網羅を見事に行って、当時に限定ではあるが見事な生きる構造の体系を作った。(後で述べるが、粒度と網羅が分かりにくい。定義に再帰性があるからであろう。簡単に言うと、網羅された中から選ばれた粒度の決まった粒と粒の関係が論理である。粒度とは、粒の空間的時間的大きさ、属性である)しかし作った構造の歴史的制約や変更の必要性を述べなかった。それは、ヘーゲルの論理は自律的矛盾による弁証法だったことと、対象との関係も、例えば法的概念による「所有」のように固定的だったことによる。
 残念ながら、マルクスもあまり変わらなかった。マルクスは、構造の内容変更を述べようとして失敗した。彼は、対象との関係を見直しかけた(これと労働の可能性を述べたことが彼の大きな業績である)が例えば「所有」についてはヘーゲルのままだった。マルクスの弁証法も、基本はヘーゲルの弁証法だった。
 価値実現には、新しい矛盾概念により、対象との新しい関係のために、一度きりの粒度設定と網羅でなく、何度も、価値と事実の粒度設定と網羅を繰り返さないといけない。もう、ここで結論を書いてしまったような気がする。

 人と人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。それを続けることである[FIT2016]。
 これは、長年かかって得た「生きることの全体構造」の一つの結論である。理想の生きる全体が網羅されていると考えるが、ほぼすべての人に欠けていると思う。ここで、人が意識して変更できるものに、「生きる」ことを限っている。遺伝子進化は、人の把握のために重要であり、後に述べる「世界観」の重要な要素である。ここでの検討にはとりあえず含まない。

 人の思考を含んだあらゆる運動は、他の動物と同じく知覚から始まるというところから出発する。人が他の動物と違うのは、知覚と、思考,行動の実現の間に、膨大な蓄積物を持ってしまった点である。意識されていないこの蓄積物を、意識してモデル化することが、2013年のFIT2013(『高原利生論文集1,2,3』http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htmにリンクあり。[FITxxxx]、[THPJyyyy]、[TSzzzz]などで始まる高原の2003年以降の文献はここにリンクがあり、読むことができる)以降、「基本概念から、あらゆることをゼロベースで再構築する」中の当面の課題である。

 この蓄積物は、まだよく内部構造の分からない「生きることの一瞬の構造」である。これを、三つの階層モデルで近似するというのが仮説である。(高原利生ホームページ参照)。
 三つの階層は、認識像と行動像を作る階層、これに影響する階層、これを実現する制度、技術、科学、芸術の階層である[FIT2016]。変革には、この三つの同時変革が必要と考える。
・認識像と行動像を作る階層:粒度決定、決定粒度と方法により決まる認識,行動像の総合体
・これに影響する階層:認識,行動像の前段階にあってこれを規定する歴史像と未来像についての「世界観」と、これが規定する価値観、潜在意識、感情、態度
・これを実現する制度、技術、科学、芸術の階層:認識,行動像の後段階にあって認識像、行動像を実現する「認識についての科学と芸術」「操作についての技術、制度」[FIT2016]
 この前の二つが、ほぼ「生き方」を作る。なお、「操作についての技術、制度」だけでなく、科学も設計の対象である。

 また「理念」というのは、「世界観」、価値観、態度、粒度決定、方法の集合体である。今後、なるべく使わないことにする。今まで理念という言葉を使ってきたので、石崎さんも、高原の「理念」を語っている。既存の理念は全て壊すべきものであるし、理念の一部である価値も、随時、変更すべきことを主張している。

 先に述べた「生きる全体構造」は、この「生きる一瞬の構造」における仮説設定、検証とその構造変更を繰り返し行う「生きる一瞬の構造」の運用である。表現がおかしいように見えるかもしれないが、この「生きる一瞬の構造」は、8千年前の農業革命、それによる生産力増大が生んだ物々交換と等価原理が作った制度、産業革命を経て変わってきた「生きる全体構造」を抽象化して得られたモデルである[FIT2016]。「生きる全体構造」と「生きる一瞬の構造」は同時に得られる。この「生きる一瞬の構造」は等価原理が生まれた四五千年前から今の形になったと考える。この構造の要素の内容を変えなければならない。後に述べるように、変える主な要素は、前段階にある「世界観」とこれが規定する価値観、感情、態度である。潜在意識は、変えたい。これらを変えると変わるのではないか。芸術は、これらの変更のために重要である。また科学、技術、制度は、意識的に変えないといけないが、これらに規定される。

 何かを意識的に変革するには、新しい価値、世界観も必要である。この固定化した世界を変えるのは死にもの狂いの努力を必要とする。必要な要素は、すべてが同時に必要である。
 
4.準備――粒度、網羅と弁証法、唯物論
 論を展開する場合、必要なことは、網羅されている全体を提示し、または、その網羅された全体の中のどこにあるかを示したうえで論ずることである。網羅は、どういう粒度(粒の空間的時間的大きさ、属性([FIT200502]の定義を修正))で行われるかに依存するから、粒度も必要である。色が7種で網羅された中の青と、24種で網羅された中の青では、青の粒度(この場合は属性)は異なる。
 そもそも粒度の決まった粒と粒の関係が論理である。粒度設定と網羅の後、その上で論理を展開することが、考えるということだ。正しく論理を展開できる粒度と網羅を探すことが、考えるということの中心である。内容の全部は関係していて、全部を理解しないとどの一部も理解できない。同様に、全部を理解して適正な粒度を見つけ全ての矛盾の解を出さないと、それは部分の解でもない。粒度、網羅、論理は、同時に決まる三項からなる矛盾である。客観的にそうなっていない思考は無効である。マルクスやダーウインは有効に思考した。

 粒度と網羅の意識は、ほぼすべての人に欠けている。
 
 2012年以来の、高原の、粒度と,網羅の意識的管理である「根源的網羅思考」は、マルクスの思考方法の検討とサルトルの全体化の具体的方法を考えてできた。
 サルトルの全体化が重要で、出発点がどうであれ、そこからどう全体が網羅的に獲得できるかが課題である。今が全体にどう繋がるか?サルトルは、全体化を語っただけで、どのようにそれを実現するか語っていない。実現方法は読者に任されている。それを実現しなければならない。

 マルクスが述べたことについても同様である。彼は、26歳の時に全体の構想を述べた。その後、彼は、単純化したモデルでかつヘーゲルの「所有」概念で資本主義を分析してしまった。彼の弁証法もヘーゲルの自律矛盾によるもので、エンゲルスの三つの法則も運動の一部しか扱えず、全体の事実を扱えない。このため、弁証法論理は見直した。マルクス、エンゲルスが理解していなかった弁証法論理については、毎年書く論文でも新しい発見を追加している。
 いままでのまとめを、「粒度、矛盾、網羅による弁証法論理ノート:ノート2015-1」[THPJ201501] http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.htmlなどで述べた。

 今回のFIT2016も、半分はその後の弁証法の新しい発見に充てている。
 弁証法論理は、客観の運動原理であるだけでなく、思考、議論(したがって民主主義)の基礎にもなるので重要なのである。
 特に左翼には、唯物論と並んで重要な基本であるはずなのに、見事に弁証法論理がない。マルクスの資本論の弁証法やエンゲルスの三つの法則を解釈しかしなかったからであろう。弁証法論理は、矛盾という世界の単位とその単位を指定する粒度の管理思考(根源的網羅思考)からなる。左翼に民主主義がなく、匿名ネット左翼に傲慢で品のないものが多く、結果的に欺瞞的になり、左翼の評価を落としているのには、弁証法論理が理解されていないことが大きく働いている。

 なお、マルクスの弁証法論理展開の結果として得られた「生産手段の社会的所有と管理」などというのは、価値の実現手段としてさえも無効である。未来のための何のキーにもならない。「生産手段の社会的所有と管理」を実現するのが社会主義、共産主義なら、作らないといけないポスト資本主義の未来社会は、社会主義、共産主義にはならない。ポスト資本主義は、長所も多い利益第一という価値に代わる価値を実現する社会である。この社会に「生産手段の社会的所有と管理」は論理的に関係しない。これについてはコメント633に述べる。

 下記で「事実」というのは、知覚可能な全てであり、もの,精神も、それらの歴史像も、存在,運動(関係)も含む。高原の用語は、流通しているあいまいな用語を借りて、その意味を拡張して使うので、論文でそのことを説明するのに、最初の半分のページを使わないといけないことがある。事実、オブジェクト、運動、矛盾などである。これらの用語の意味を確定するのに数年かかった。用語の定義は、2013年以降の論文をご覧いただきたい。
 事実に、「現実」「理念」を含むので、石崎さんに誤解されそうである。高原の「事実主義」や、まず「事実」があるというのは、石崎さんの、まず、「現実」があるということとは異なる。高原の、まず「事実」があるというのは、現実と理想や価値が同時にあることをいう。
 もう一つの唯物論にも左翼の根本的誤解が多い。以下、高原利生ホームページ「弁証法論理の準備及び概要」からエンゲルス「フォイエルバッハ論」に述べられた内容を引く。

「唯物論」(名前が良くない。「事実主義」がよい)に四つの意味がある。
 1. エンゲルス「フォイエルバッハ論」の第一の定義で、物質と心のどちらが本源的かという問いに、物質が本源的と答える立場。
 2.エンゲルス「フォイエルバッハ論」にあるように、行動を決めるのはいつも心だが、人間の物質的生活の成り立つことが思考、行動の前提であるという粒度から、根本的に物質(とエネルギー)が思考、行動を規定していることを認める立場。これは、希望や「祈り」が意味を持つとしても、物質的生活を変更する行動が、より重要ということを意味する。
 3.エンゲルスの第二の定義で、次のように「事実」に対する態度をとらえるものである。
「われわれは現実の世界――自然と歴史――を、先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現れるままの姿で把握しようと決心した。われわれは、空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」(フォイエルバッハ論、岩波文庫、p.60)
 4.エンゲルスが、「フォイエルバッハ論」で、「世界は、物の集合体でなく過程の集合体である」と述べた。以前、「物の集合体でなく過程の集合体」というのは間違いで、「世界は、物の集合体であるだけでなく過程の集合体でもある」のが正しいと思っていた時がある。今は、このエンゲルスの表現は正しいと思う。
 これは、やや説明が要る。「世界は、過程の集合体」というのは、第一に、「世界は、物の集合体」というとらえ方が、1の意味の「唯物論」を前提にしているのに対して、「世界は過程の集合体である」という表現は、この前提を必要とせずこれより広い。
 第二に、既に述べたように、存在と関係の二種である動かないオブジェクトが、実際に動き運動して事実、世界の近似の単位である矛盾(=項1-関係(運動)-項2)を作る。項は、もともとは存在だったが、存在でも関係でもその複合体でもよい。存在は、ものか観念である。矛盾は、簡単にいうと関係、運動であり、関係、過程、運動、作用、変化は同じものの粒度の異なる表現である。従って「世界は過程の集合体である」という表現は正しい。

 高原は、1は、哲学の領域から科学の領域に移り、2,3,4だけが態度、哲学として有効ととらえる。
 つまり、1の意味での「唯物論」という「哲学」はなくなっている。科学といえども仮説なので、科学的論証、実証がされれば変わり得るが、今のところ、科学の意味の唯物論も正しいと思っている。
 また、2は相対的なものである。2という、より重要な粒度があるだけである。3は完全に生きる態度として正しい。しかし、これは、世の「マルクス主義者」の最も遠い立場である。

 3と4は、「事実主義」という意味の唯物論である。3が態度としての事実主義、4が事実としての事実主義の意味であると思う。この「唯物論」は、自然、社会に共通である。
 要するに、左翼の弁証法と唯物論理解は間違いだらけである。

5.価値と、価値の見直しの必要性
「粒度、矛盾、網羅による弁証法論理ノート:ノート2015-1」[THPJ201501]の2.2.4項で、「(静的な)価値の内容と役割」を述べている。前に石崎さんブログコメントで紹介した。石崎さんは全部を覚えておられないと思うので、以下は、念のためそれからの抜粋をする。

「人々の(静的)価値認識は多様であるが、とりあえず、種の存続、個人の生、生の属性である自由と愛は、この順に重要であることが前提として共有されるべきである。これは願望で、本稿は、読者のいかなる価値観にも対応できる。
 とりあえず、種の存続を最上位の価値としているが、これがさらに上位の宇宙の価値を見付けるかもしれない。
 人以外の生命の価値は不明である。若い人と老人などの生命の価値の差はある。しかしどういう差なのか不明である。
 自由を、自分の、自分,他人を含めた対象を変更する意識と能力、愛を、自分の、自分,他人を含めた対象の価値を同時に高める意識と能力としておく。自由は、対象化を目指す方向の価値である。これに対し、愛は、一体化を目指す方向の価値である。自由と愛は、この限り網羅されており、一体型矛盾(これは矛盾の一種である。上記ノート参照)の二項で、本来は、相互に条件となって統一されるべきものである。
 価値を増やすのは、自分を含めた対象を変更する行為である。仮にこれを労働と言っておく。この労働は、賃労働に限らず、対象を変更する一切の行為である。コミュニケーションや議論を含む。

 価値は、実現とそのための労働行動に関し、次のような役割がある。
 第一に、価値は、多くの場合無意識に、その重要さにより実現の優先度を決めてしまうので意識しないといけない。
 第二に、価値は、多くの場合無意識に、実現のための行動の目的を決めてしまうので意識しないといけない。
 第三に、価値は、多くの場合無意識の実現のための行動の原動力となるので意識しないといけない。
 第四に、行動の結果は、目的を規定する価値、論理、実際の行動の有効さの全体で決まる。このうち、日常の領域が制度の場合、結論は、論理の「正しさ」よりも価値の粒度(誰のどのような時間のためという空間時間の範囲、属性)とその全体構造に、実質的に殆ど依存してしまう。
 第五に、価値とその全体構造は、行動や法則の結果の正しさの検証のために必要である。しかし、無意識に行われる行為の検証は行われないことが多い。

 また、価値は、認識に関し、次のような役割がある。
 第一に、価値は、多くの場合無意識に、認識の対象を規定している。
 第二に、価値は、認識結果、特に法則や学説の結果の正しさの検証のために必要である。我々は、特定の学説が検証されないまま盲信者を産み続ける例を知っている。
 以上から価値は重要である。

 多様であってよい価値と、世界で共有すべき価値の区別がよく分からない。共有すべき価値は各人に強制することになるかもしれない。
 強制でなく、種の存続、個人の生、生の属性である自由と愛を、全員が共有し、しかも各人が同時に多様な価値を追求することが必要だと思うが、難しいような気もする。
 価値は、長い時間粒度の中で不変ではなく、意識し、見直し続ける態度がいる。しかしある時点の価値は「最小の基本概念」に次ぐ重要概念である。
 人が生きる直接の原動力は、価値を実現しようとする人の意図である。他の生命の「価値」が個の生であったのに対し、人は、個の生だけでなく、種の存続、自由と愛を意識的に価値とすることができ、そうしないといけない生物である。
 社会の原動力は、人の価値に規定されたこの力が長い時間、広い空間の粒度で人の意図が隠れ客観的力のように見えるものである。」 

6.マルクス、サルトル、パースと、全体化,一体化
 マルクス、サルトルに戻る。マルクスが提起した対象との新しい関係も、サルトルの全体化の方法も、パースの連続性の実現方法、仮説設定の方法も、提起されただけで実現していない。
 全体化、粒度と網羅を述べ続けているのであるが、今(2016年4月12日)、初期マルクスの根源的な対象との対等性、パースの連続性、サルトルの全体化の三つが、欠けている全体、網羅を作る要素ではないかと気付く。

 高原の理解では、サルトルの全体化は、一時が万時、一事が万事ということだ。今の一時が万時につながらなければならない、かつ、今の一事が万事につながらなければならない。これは、事実認識,行為と、それが実現する価値,目的の把握が同時でないといけないということでもある。

「属性-機能-目的-価値-価値に対する態度」という、数百年かかって出来上がる双方向系列がある。
 機能は、関係(運動)の属性の人間にとっての意味である。属性は、機能に一対一に対応する。行為の目的は、無意識の価値を具体化したものになっている。価値は無意識の行為の規定要因である。究極の価値も日常の意味の歴史を総括して得られる。この系列の全ての項は変わってきた。[THPJ2012から]

 実際にも、あるべき「目的―機能」と現実の「目的―機能」の差異解消が、現実のあらゆる人の行為である。ただ、現実には目的の上位にある価値は、意識されないことが多い。
 つまり、現実問題として、(理念・)価値と現実は、不十分に両方あった。これを、理想として、同時に、十分に両方あるように変えることが必要なのである。

 高原が言っているのは、個人の思考と議論によって良い方向を出そうというほぼ絶望的な提案である。
 そして差異解消は、矛盾と粒度を網羅的に管理する根源的網羅思考でおこない、時々は「価値」の見直しをしよう、というのが、この何年かの論文で書いてきたことである。

 サルトルの全体化は、ある認識、行為自体が主観的にも客観的にも全体であるべきだということを述べていて、パースの連続性を含むかもしれない。
 パースの連続性は、今の個人の行動の、まっすぐ歩くか右に曲がるか、夕食に何を食べるか等の判断と、今の経済をどうするか等の判断は、同じ原理に拠っているというものだ。

 初期マルクスの根源的な対象(他人とその他の対象)との対等な新しい関係は、「経済学・哲学手稿(草稿)」を読んでいただくほうがよかろう。石崎さんは、まだ読んでおられないと推測する。
 抜粋を、
 石崎徹さんブログ「労働(高原氏のコメントから)」- 2013年11月28日 (木)へのコメント143:発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その2 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/06 に示している。
 ここに引用しなかった文に、次の文がある。
「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」(「経済学・哲学手稿」国民文庫,藤野渉訳,p.153)
「対象的,自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性を持つということ,あるいは第三者に対して自らが対象,自然,感性であるということは,同一のことである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)
「太陽は植物の対象であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)

 このマルクス、パースとサルトルの三つは相互に関係している。ここの引用に関する限り、マルクスが本質で、パースとサルトルはその実現方法の満たすべき属性を語っている。
 ここで、「マルクスが本質」というのは、マルクスの言う対象、オブジェクトを、高原の再定義により、人が知覚でき表現できる全てのものと理解する必要がある。
 そうすれば、サルトルとパースはその一部である。サルトルの「全体化」は、主観と客観の時間・空間における一体化に限って表現する。パースの「連続性」は、論理の一体的統一性を述べている。実際、彼は、演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)、仮説設定(アブダクション)の統一を考えたように見えるが、うまくその答えを出さなかった。こうしてみると、一体化の内容の網羅はまだ済んでいないことが分かる。
 そして問題は、一体化の実現方法が語られていないことである。

 これも、今(2016年4月12日)、気付くのは、三人とも、産業革命後の人で、対象化世界観の真っただ中にいたにもかかわらず、言っている内容は、一体化の重要性を語っているということである。その後の、不十分なマルクスを解釈するだけの「マルクス主義者」批判は、高原利生ホームページに繰り返し(おそらく10か所以上で、簡単に、あるところでは少し詳しく)書いている。

 マルクス、パースから150年、サルトルから50年経つ。この間、科学、技術は画期的な進歩を続けているが、哲学や思想は、本質的に進歩していない。粒度を相対化、対象化できた哲学者、思想家はいない。

7.準備続き――再び網羅、粒度と弁証法、唯物論
 全体のために必要なのは、網羅である。マルクスの時代も今も、「情報」に本質的な違いはない。観念によって認識されるものは全て情報である。しかし、当時と比べて情報量は、画期的に増えたので、網羅と網羅のための粒度の重要性が画期的に増している。これと別にマルクスやダーウインは、当時から粒度の管理が画期的だった。今、古典として残っているのは、意識せず粒度の管理がうまく行われていたからである。

 考え方の根本は、まず、主語と述語が、網羅した世界のどの部分かという粒度を意識することから始まる。難しいが、これができるだけで、思考は、画期的に一段高度になる。
 その上で、第一に、あらゆることを根源的網羅思考により根源的かつ網羅的にとらえる。根源的にとらえないと、根本的変革だけでなく良い改良さえ行えない。網羅しないと「問題」を見過ごしてしまう。
 考え方の第二は、世界を運動の総合体ととらえ(エンゲルス「フォイエルバッハ論」)、物理的運動だけでなく化学的作用、社会的運動、思考などを含む全ての運動を矛盾ととらえることである。つまり、世界の単位が矛盾であるととらえる。矛盾も三つの基本概念から作られる。難しく見えるが、世界を単純な矛盾という要素に分けて考える方法で、誰にも(機械にも将来)できる。

 矛盾と、粒度を網羅的に管理する根源的網羅思考からなる弁証法は、思考を自律的に進めていく論理である。矛盾と「根源的網羅思考」は、それ自体、矛盾である。

 以下、粒度の管理についての[THPJ201501]からの引用の一部である。

 価値とオブジェクトの個別の粒度確定が必要で重要だがこれは簡単ではない。
 a) 粒度概念自体の分かりにくさと粒度意識のなさがある。特に属性は分かりにくい。
 b) 粒度自体が極めて複雑である。
 粒度を規定する矛盾を網羅すると、
・粒度とオブジェクトの矛盾(これに別表現の粒度と属性(機能)の矛盾と、粒度と網羅の矛盾、粒度と構造の矛盾)
・粒度内部の空間時間範囲と属性の矛盾がある。
 ある価値を実現するための事実の把握とは、ある価値を実現するための事実の矛盾を求めることである。解の矛盾を解くとは、事実の矛盾から求まった解の矛盾を解くことである。いずれも粒度特定が必要である。そしてこの粒度を漏れなく特定することを規定する矛盾はこの二つである。(事実の矛盾、解の矛盾というのは、矛盾の分類の一面、一粒度で、他に、差異解消矛盾、両立矛盾、一体化矛盾という分類がある。内容は[THPJ201501]などにある。)
 c) 今の事実自体の複雑さ、特に、ある現象に関係しているのがどの現象なのか、自分が価値としているものが事実のどういう粒度と関係しているかがよく分からない。
 b) c)は、特に今の粒度の矛盾の困難さであった。

 次のd)e)は時間のかかる問題に関する。
 d) 世界の事実は日々変化し人の認識も変化しており可能な価値も時間をかけて変化している。
 e) 粒度は人の生物的身体的制約、人に蓄積された固定観念に規定される。このため、人に染みついた固定観念を相対化し否定し続けひらめきを得ることは難しい。
 d)e)のために必要なのが、時に価値と真理と基本概念の今の粒度、機能、構造、網羅の見直しを、謙虚に批判的に根源的に随時行い続ける根源的網羅思考[FIT2010,13][TS2010,11][THPJ2012]である。

 f) 以上と相互作用する間接的な理由であるが、どういう粒度で切り取ったのかを明示的に表現しないでも世に通用するように見えてしまう。粒度に相互規定され論理もあいまいになる。
 f)に対し、議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅の中からどういう理由で粒度を特定したかを示す必要がある。また、一連の思考、議論の論理の中で粒度は変えてはいけない。[THPJ201501] 引用終わり
 さらに、全体に関する次の重要な定理が分かった。
 根本に関する問題には、複数の粒度の矛盾の同時成立が必要であるらしい。これがどういう場合に必要か、どういう場合にどういう同時成立(矛盾)なのか、検討を続けなければならない。大きな問題、重要な問題ほど矛盾の個数が多くなり個々の矛盾の粒度も大きくなるらしい。人類の生き方などの問題である。

 価値と事実を対等に扱う。どちらも変更の対象である。どちらもオブジェクトであるから。

 粒度と網羅というのは矛盾なので、変更は同時に行わなければならない。
 何か考えるときに、1.網羅が必要な場合と、2.とにかく網羅された中の位置づけができている前提で、何か解が一つあればいい場合がある。(矛盾、粒度、根源的網羅思考については、高原利生ホームページ「本の読み方と根源的網羅思考」も参照されたい。これを見直していたら、2014年2月に「その時点での相互作用がない網羅が必要かつ可能でありそれを求める、そして網羅が不可能になればその網羅を見直し続けるという立場を取る。根源的網羅思考は、デカルトの狭い読み方と異なるオープンな思考法である」とある。書いたことを忘れている。)

8.結論――生きる構造と価値実現
 前に、「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。それを続けることである」と書いた。これは全体過程の構造である。

 この中の一瞬の認識と行動は、前に述べた次の三つの階層からなる。「粒度決定、方法により決まる認識,行動像」、「認識像と行動像の前段階にあってこれを規定する世界観と、世界観が規定する価値観、潜在意識、感情、態度」、「認識像と行動像を実現する制度、技術、科学芸術」の三階層である。
 
 価値と感情をめぐる構造、生きる全体構造は、人が新しいことをするには要るのだ。何もかも、全体の「生きる」ために要るのである。そう言うと傲慢になるのかもしれない。誰にも要るのだと言えば傲慢になるのかもしれない。そう思われれば仕方がない。

 これはまだよく分からない全体である。おそらく生きていくエネルギーを最小にするためにこのような形になった。価値(観)、世界観、潜在意識、感情、態度、粒度の関係は入り組んでおり、よく分からない。FIT2016で「生きる構造」の全体像が少し分かったので書いている。
 このうちの粒度は、普通、意識されていない。粒度の意識は、例えば、議論、従って民主主義にも必須であり、意識する必要がある。
 価値(観)、世界観、潜在意識、感情、態度、粒度は、明らかにそれぞれ別のもので(こういう分け方の粒度で網羅されているのかも、実はよく分からないが)相互に関係し合い重なっているかもしれない。世界観は価値観を含む定義も可能である。感情は態度に含まれるかもしれない。しかし、価値(観)と感情は別のものである。

「粒度決定、方法により決まる認識,行動像」の「前段階にあってこれを規定する「世界観」、これが規定する価値観、感情、態度」が、今、最も重要な役割を果たす。世界観は、今まで、8千年前の農業革命、それによる生産力増大が生んだ物々交換と等価原理が作った制度、産業革命を経て変わってきたという認識を含む。仮説である世界観ができ、粒度が意識され、粒度と網羅の矛盾が解決され、全体が分かり、それにどう近づくか分かれば、人類の「前史」が終わり、どのような粒度と網羅がいいのかを検討するつらい努力と変革が絶え間なく続き、多様な個性と価値が開花する「歴史」が始まる。簡単に言うと、これがこの二年間の結論である。詳しくは、論文を見ていただくしかなかろう。
 もしこれが分かっても、この、全体を求め続け、価値を実現する生き方を実行してくれる多くの人が必要である。前途多難である。

9.応用1――生きる中の思考、議論、民主主義
 認識と価値の実現の行為のための思考、議論(その中の批判)に関する考察である。
 必要なことは、思考、議論の対象について、網羅されている全体を提示すること、または、その全体の中のどこにあるかを示したうえで論ずることである。粒度を意識せよということである。これは、議論、従って民主主義にも必須である。これも、ほぼすべての人に欠けている。ただ、こうすると分かりにくく、また感情が感じられなくなる欠点がある。

 そして、驚くべきことと思うが、多くの場合、議論の前提であるべき思考、議論の対象について、網羅されている全体提示やその全体の中のどこにあるかを示すことが行われないどころか、その対象についての相手の意見の不備を、自分の意見の正しさの「証明」にしてしまう。場合によっては、自分の感じ方と違うことを、自分の意見の正しさの「証明」にしてしまう。今の殆どの議論、思考は、自分の考えはこうで、相手はそれと何か一つが違うため全否定という、網羅が全くなく論理といえないものである。それどころか、かなりの場合、相手への感情的非難になる。現に、なっている。ネット右翼やネット左翼が、往々にして、議論の前提となる「マナー」に欠け下品になるのは、何らかの病気や人の性格というより上の事情によるだろう。
 また、議論の大前提は、客観的に欺瞞的でないことである。客観的に欺瞞的であるかないかは、客観性の粒度によるので、常にその粒度と内容を検証する誠実な態度が必要だ。傲慢な左翼、ネット右翼やネット左翼には、その誠実さがない。自分が常に絶対に正しいと思っている。

10.応用2――生きる中の芸術
 新しい知覚と感情、新しい価値を含む新しい事実の発見とその認識は、科学と芸術により、価値の実現は、制度と技術による。
 科学、技術は対象化の志向を持ち、芸術、制度は一体化の志向を持つという違いがある。
 以下は単なる断想である。
 1.芸術の第一の役割は、意味のある大きな感情を作り表現すること
 大きな感情は、事実の全体像把握が含まれ、従って、新しい世界観を準備することがおそらく含まれる。 次項に比べて軽視されているような気がする。聖書の創世記、日本の神話など多くの宗教の「国作り物語」の極めて大きな役割がこれだった。今はこのような芸術は全くない。

 2.芸術の第二の役割は、意味のある新しい感情を作り表現すること
 この「新しい」という意味は何だろうか?
 今までより複雑な感情、より強い感情か?他の感情との折り合いの付け方が新しいのだろうか?新しい価値との関係が新しいのだろうか?対象化、意識化の形が新しいのだろうか?意識的行動との関係が新しいのだろうか?
 経済学・哲学手稿で生き生きと述べられた、対象との対等な関係は、どのような感情で表現されるのか?

 労働(物事を変える一切の行為)において、この対象との対等な関係の感情を描くのが文学の課題と思う。それには、既存の保守的感情に訴えて新しい感情を受け入れさせる必要がある。
 カフカやサルトルは、生活の中の新しい感情を描いて受け入れられた。
 初めに述べたように、常に新しい価値と新しい感情を作り続けなければならないのに、保守感情がそれを妨げている。人は、失っては困る権利をもう得てしまったと勘違いをして、それを守るだけになってしまった。「何でも反対」で、新しいものを作る力を失ってしまった。どうしたらいいのだろうか?

 2016年04月18日 (月)に石崎さんが「ムルソーから「ペスト」へ」 を書いている。
「ペスト」は、リウーという医師の、徹底して誠実であり続けることの素晴らしさ、それだけを描き、それがある新しい感情をもたらす物語であり、その他の登場人物、状況はそれを書くために書いたと思う。
「大きい感情を作り表現する」型も持っている。ペストの状況の意味のある全体像も描いているからだ。

(おわりに)――結論を補足する
 a.
高原への誤解の釈明と石崎さんへの意見は、本稿と、下記で尽きていると思っている。

 ・石崎徹さんブログの『「広い感情」と「新しい感情」』2016年5月23日」へのコメント606:「広い感情」と「新しい感情」についてコメント 高原利生 2016年5月25日http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-890.html#comment606
 ・石崎さんブログの「物々交換とマルセル・モース 2016年08月04日」への
コメント617:「物々交換とマルセル・モース 2016年08月04日」について 高原利生 2016年8月10日
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-899.html#comment617
 ここで物々交換がもたらした等価原理についてのまだ解決できていない大問題について触れている。
 ・石崎さんブログへのコメント618:まがね58号と新しい感情 by 高原利生 on 2016/08/13
(httpではじまるURLの引用が制限を超えた。今までのURLの数字を、896、618に替えると当URLになる)
 この中で、文学雑誌の評、感想が、生きる一つの問題としてとらえられている。
 ・石崎さんブログの「大仏次郎賞および大仏次郎論壇賞」2015年12月23日 への
コメント560:「何かを始めるに必要なこと」と「所有」「粒度」 二版 高原利生2015年12月30日
(httpではじまるURLの引用が制限を超えている。今までのURLの数字を、826、560に替えると当URLになる)

 コメント560を再読してみて、石崎さん(と植田さん)との議論が深まっていっていないことが分かる。
 また、本稿を書いていて一つ分かったことがある。石崎さん(や植田さん)とやり取りをして、やってきたことは、やや単純化すると二種しかなかったと思う。次の二種である。
 1.石崎さん(や植田さん)から情報として教えられることはあったが、同じ意見にまるまる変わることはなかった。もちろん頭から受け付けないこともあった。ゼロから全てを考え直すことにしている高原にしてそうである。固定観念を壊すのは困難である。おそらく石崎さん(や植田さん)もそうではないかと思う。
 エネルギーを最小にするために固定観念ができたのだ。ゼロから全てを考え直すためには、そのエネルギー最小原理に抵抗しなければならない。ゼロから全てを考え直すことが、マルクスの座右の銘「全てを疑え」ということである。それを、マルクスを解釈するだけの「マルクス主義者」は決してしなくなってしまった。そうではなく、前からしなかったのかもしれない。
 2.もう一つ、高原がしてきたことは、自分の今までの論理を、相手、石崎さん(や植田さん)の論理を含むように作り直すことだった。それが両立矛盾という通常の意味の矛盾の解を作ることである。そもそも何かを書くとは考えることで、考えるとは矛盾の解をつくることだ。 
 それはいくつかやった。しかし残念ながら、それが理解されたことは無いように思う。理解されないと前に進めないかもしれないと思うのに、うやむやに終わってしまったことが多い。これもひょっとして、石崎さん(や植田さん)も同じ思いではないか。
 これだけである。要するに、前に説明してきた理想の「議論」の過程も本質も、何も実現されていない。
 
 議論については、網羅の重要性を本稿でも述べているが、実現できていない。
 議論とは、当の課題について網羅したあらゆる矛盾について、根源的網羅思考を行い、全体を作ることである。このことの困難さは、絶望的ではないか?前にも絶望的と書いた。今の一部左翼の「民主的」「議論」では、「民主的に」選ばれた「権力者」が必ず勝つ。これを直すことよりはるかに絶望的に困難である。

 それで、ブログにコメントを書くのはもうやめようと弱音を吐いた。
 しかし今、石崎さん(と植田さん)に、議論としては失格だが少しは伝わるかもしれないという希望で書いている。
 しかし、本稿でも、議論の要件である「粒度と網羅」を少し意識したに過ぎないし、全体化、一体化には、「一部の理解にも全体がいる」ことを改めて自覚させられた。それが全ての人に伝わるのは絶望に近いことも改めて自覚させられた。

 b. 一方で、2013年以降、ゼロベースで考え直すことを、やっているとどんどん自分の考えが変わっていき、また、あらゆる人との意見の差は広がるばかりで孤立していく。「孤高」などと気取っている場合ではない。
 ゼロベースで考え直すことは、固定観念も変えてしまうことで、この意味でも、本来、唯物論と弁証法が世界観の中核である筈だった左翼とは無縁になった。ホームページに「右翼と左翼?」を書いている。
 本コメントの根本の考え方を理解し賛成してくれる左翼はいないだろう。残念ながら、石崎さんや植田さんを含めてそうだろうと思う。
 高原利生ホームページの「本の読み方と根源的網羅思考」に書いたように、書かれた結果は、全て思考の搾りかすである。特に十数ページでは、生きた思考が復元し易いように書けてはいないだろう。

 c. はじめに、石崎さんに「ある一つのことを理解してもらう意図」と書いた。
「ある一つのこと」は、
『「価値と感情」は複雑な構造をしていて、人間の「生きる」中で重要なものであるが、それ自体複雑であるだけでなく、他の「世界観」や潜在意識や知覚との関係を考えないと分からない、本当は遺伝子の進化も考えないと分からない』
『今、課題は、現代の課題を解決し個々の政策を作り実現すること、どう思考するか、どう議論するか、いい小説を書くこと、、、という一人の人の「生きる」課題である』
『それは、初期マルクスやサルトルが、対象化と一体化を考えた「生きる」課題と同じである』
 問題はこれに答えを出すことである。

 前に少し説明した弁証法の単位である「矛盾」の本質は、二項の差異の「現状」を、二項が両立する「あるべき状態」に変える、この「現状」と「あるべき状態」との(広義の)差異解消である。THPJ201501では、網羅された基準で矛盾を分類し、FIT2016に、その一部について一覧表を作っているのでご覧いただくと良い。 高原の拡張し修正した弁証法とは、この矛盾と、粒度を網羅的に管理する根源的網羅思考である。
 FIT2016の後半は、本稿の全体化,一体化と、これと対になる対象化の二つをキーにして、「生きる一瞬の構造」の三つが構成されているという仮説を、矛盾と根源的網羅思考によって述べた。
「生きる一瞬の構造」は、あえて単純化すると、「感情、価値(観)が規定する態度」と「矛盾と根源的網羅思考による認識像、行動像(による行動)」からなる。高原は、感情的に「感情、価値(観)が規定する態度」の方を決定的に重視する。こうすると、欺瞞と不誠実の既存固定観念(と思うもの)を単純否定してしまう。これは、高原の「主義」に反するが、今のところ論理は感情に勝てていない。

 2003年以来検討しているのは、現実から抽出して得られた矛盾とゼロから理想像構築をする根源的網羅思考である。修正で片のつく問題はあろうが、個人が「生きる一瞬の構造」の中の、世界観や、政治、経済、教育の制度、技術の全体は、ゼロから理想像は構築する必要がある。実現は現実的に行えばいいのだ。
 教科書に書いてある内容とは異なる点が多い。要点だけ述べた本稿では、十分理解されないだろう。
 また、根源的網羅思考で困ることが二つある。ゼロベースで考え直すとあらゆることで他と意見が異なってくること、原稿を読み直すと必ず直すところがあることである。

 d. なお、「もし解があるとしたら、こうであるかもしれないから、とりあえずそう仮定してみよう」というのは、普通と逆の工学思考である。これは、演繹や帰納によって解を求める推論ではない。「こうであるかもしれない」のものを仮定してみるのが、仮説設定、Abductionである。虚数、デルタ関数、テーラー展開などが、仮説設定による工学思考結果の例であると思う。根源的網羅思考は、仮説設定という工学思考の一種かもしれない。
「もし解が実現できるとしたら、こうでなければならない」ものをつくる設計は、仮説設定をしているのではない。
 演繹や帰納と仮説設定の関係は、パースのテーマである。高原も、今まで何度か、命題変更の網羅を試みたが[THPJ201503など]うまくいっているのかどうかよく分からない。

 e. 2016年12月に、石崎さんの「失われた夜のために」新版を読んでのコメント628:「失われた夜のために 新版へのコメント」 高原利生 2016/10/11 (httpではじまるURLの引用が制限を超えた。今までのURLの数字を、933、628に替えると当URLになる)を改版した。
『「失われた夜のために」には何人かの「生き方」の物語が登場する。「失われた夜のために」の序の作者、残りの部分の手記の筆者である「僕」、手記の多くの登場人物、手記の筆者の未亡人の「生き方」である。それに忘れてならないのは、架空の帝国の歴史物語、(当時の)共産党、(当時の)キリスト教の、人または人々の「生き方」である。』
『「失われた夜のために」の「生き方」がどうなっているか確かめようと思ったが、共産党、キリスト教を含め、(コメント626,633で求めた)「生き方」はなかった。当たり前だったろうか?というか、これだけ見れば、根本的な共産党、キリスト教、石崎徹さんへの批判である』と書いた。コメント626,633で求めた理想の「生き方」はどこにも、高原にもまだないのである。
 作者はそれを求めようとしたのかもしれないがよく分からない。そもそも、既存の政党、宗教には、本稿で述べた「生きることの全体構造」「人と人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。それを続けること」が全くない。殆どの人にもない。当たり前だったかもしれない。既存のものの全否定になり、ただ、「--し続ける」ことを求めるのが、何度も言う本稿の立場の欠点である。

 f. 石崎さんに、ある一つのことを理解してもらう目的で書いた内容であった。主題が「生きる構造」における「生き方」、「どうしたら価値実現ができるか」をゼロから考え直す問題になり、既存の特に左翼の固定観念を全面的に改めることになってしまった。ゼロから全てを考え直すことは理想である。実際にはなかなかマルクスやダーウインのようにはできないだろう。
 そうしようとする人には、チャールズ・ディードリッヒ(米国の薬物中毒患者救済機関・施設Synanonの設立者)の言葉「Today is the first day of the rest of your life.」が良い。
 また、アドラーが、生き方の意識化を説き、「三日あれば人間は変われる。勇気があれば」と言ったそうだ。これも良いではないか。
  
 今までに石崎さんのブログで述べたコメントの繰り返しが大半であったが、今まで書いた部分の、全体の中の位置が分かるようにしたことと、多少は新しい意見もあったことは分かっていただけると思う。要らぬおせっかいと言われないことを願う。
 なお、2015年以降の論文やノートでは、「分かっていないこと」をなるべく書くようにしているが、本稿は、「分かったこと」に重点を置いて書いた。

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