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石崎徹の描く文学世界  矢嶋直武 (その5)

■労働者の一分(いちぶん)──「朝」をめぐって

 山田洋次監督の時代劇映画に「武士の一分」という作品がある。「一分」とは「一人前の存在として傷つけられてはならない、最小限の威厳」(新明解国語辞典・三省堂)のこと。ここではそれをもじって「労働者の一分」というタイトルを付けてみた。
 石崎が製鉄所を舞台として描いた作品には、「盗難」のほかに「朝」「ノロ鍋始末記」の二作品がある。両者を比べた時、わたしは断然「朝」を推す。そこでここでは「ノロ鍋始末記」を割愛し「朝」に関する感想を述べることとする。

 「朝」は「盗難」と並んで、まさに石崎の代表作と呼ぶにふさわしい優れた作品である。したがって、当然「まがね」に掲載されていると思われるのだが、この作品を掲載した「まがね」をわたしは持っていない。わたしは石崎のブログからプリントアウトしてこの作品を読んだ。ブログの末尾には「1982年」と書かれている。
 前述したように「朝」は鉄工所を舞台とし、そこで働く労働者の姿を描いた作品である。主人公は別所。24才になる若者である。全体の構成は三つの章からできている。《朝方、ちょっともめた。》で始まる一章は、この《もめごと》の発端を書いている。そして三章では、《ちょっと》した《もめごと》だと思っていたそれがどんどん大きくなり、とうとう始末書を書かされるという事態にまで発展する。その間に挟まれた二章は、別所がかつて同棲していたと思われる相手の女、《よし子》との再会が描かれる。  
 そもそもの始まりは《早めの寒波に見舞われた十一月の朝》のこと。災害撲滅のために製鉄所が開いた《決起集会》で、別所は《掛け合いコール》をしなかった。おまけに、別所は《ポケットに手を突っ込んだ》ままの姿勢だった。それを見た作業長の徳村は別所を呼び止め激しく追及する。だがその朝は、《前田のじいさん》が間に入ってくれたおかげでなんとか収まったかにみえた。しかし、別所のこの一件は瞬く間に事務所に広がり、所長の耳にまで届くこととなる。そこで係長の黒川という男が別所を呼びつけ、さらなる追求が始まるのである。前田のじいさんがことの経過をこう説明する。《あの徳村のあほが、あれきりですましきらんと腹立ちまぎれにしゃべりちらしたもんやけん、話がでかくなったばい。どげんかせいとうちの事務所にいってきよった。》黒川は《二十七、八》の《どこか垢抜けのした、気持ちのよい顔立ち》の男だった。この黒川と別所のやりとりは実に読み応えがあり、第一級のテニスプレーヤーによるラリーを見るように読み手の目を掴んで離さない。
 《なぜ、掛け合いコールをやらなかった?》という黒川の問いに対する別所の最初の答えはこうである。
 《理由などありません。ただ、ああいうことがぼくの性に合わないんです。》
 もちろん、こんな答えで黒川は納得しない。別所のつぎの答えはこうなる。
 《ぼくの眼には、一糸乱れずというのは異常と映ります。・・ぼくは人はもっと多様なものだと思っているし、それが一致を強制され、強制されているうちにそれに馴らされ、いつのまにか強制を感じなくなり、あたかも自発的な意思であるかのごとく錯覚してしまうことを見ると、いやな感じがします》
 黒川は《まるで十二の子供のように頑固だ》と溜息をつく。それから煙草に火をつけるとこう言う。
《君はつまり、てれくさいんだろう。握りこぶしを突き上げて声を張り上げることを、なにか芝居じみたことのように感じるんだろう》
 別所は《にやりと笑いながら》答える。
 《そのとおりです。・・ぼくはてれくさいんです》
 これを聞いて黒川は《ほっと肩の力を抜き》、《これで解決だ》と安堵し、《慣れるものだよ》と笑顔を見せる。
 しかし、ここで別所はふたたび切り返す。黒川にしてみれば、<もう返ってこないだろう>と思って打ち込んだサーブを、別所は必死で追いつきまたボールを返してくる。まさに、息詰まるサーブの応酬であり、ラリーはさらに続くのである。
 別所は話す。
 《気がつきませんか。この製鉄所の構内には異様な雰囲気があります。誰一人ポケットに手を入れません。そのこと自体はいいことです。だがそれは自主的な行動なのでしょうか。・・何か、根本的な何かが見過ごされているように思います》
 黒川は《がっかり》し、《ふりだしに戻った》と感じる。黒川は最後通告ともいえる「始末書」の提出を別所に要求する。別所はそれに従い、「始末書」を書く。黒川と別所はその「始末書」を持って徳村のところへ向かう。しかし、最後の場面で別所はその「始末書」を徳村に渡さず、彼の面前でそれを破り捨てる。

 この作品の優れているところはいろいろあるが、まずその一つは、登場する人物の一人一人が実に生き生きと、個性豊かに描き分けられていると言う点である。これは作者が相当に高いレベルの筆力を持っていることの証である。経験の浅い書き手にはなかなかできることではない。しかしそれは、単に筆力だけの問題でもない。そこには同時に、作者の人間を見る目の確かさがあるからでもある。
 モスクワ芸術座の優れた演出家スタニスラフスキーは、<悪人を演じるにはその人間の善良な部分を見つけなければならない》という意味のことを言った。言い換えれば、<悪人といえども100パーセントの悪人はいない>ということなのだ。
 未熟な役者が悪人の役を貰うと、一生懸命その人物の<悪人らしさ>を強調しようとする。そうすると、<いかにも紋切り型の悪人>、すなわち<パターン化された悪役>にしかならず、<血の通った人間>にはならない。
 石崎は、<徳村>についても<黒川>についても、決して<悪人>としてのみ一面的に描いているわけではない。彼らなりの<善良さ>も<正直さ>も<小心さ>も、丁寧に描いている。つまり、石崎は自らの登場人物に対し愛情を注いでいる。だからこそ、彼らには<血が通って>いるのであり、作者の<操り人形>にはなっていないのだ。
 余談になるが、優れた文学とはそもそもそのようなものでなければならないのである。すなわち、作者は自らがつくりだしたすべての登場人物に対して、あまねく愛情を注ぎ、平等に扱わなければならない。したがって、すぐれた文学はそのような意味においてすべて「民主なる文学」なのである。「民主」とは、作者の登場人物に対する姿勢である。主人公にのみ愛情を注ぎ、悪役を粗末に扱うような作品は「民主なる文学」ではなく、それはまた<すぐれた文学>とはなり得ないのである。
 この作品の優れた点のもうひとつは<会話の巧みさ>にある。
 すでに述べたように、別所と黒川のやり取りは見事である。それは、それぞれの人間の発する言葉の背後に、それぞれの生活感、人生観が滲んでいるからである。言い換えれば、彼らは自らの生活を背負い、人生を背負って語っているからなのだ。そうしたことばを紡ぎだした石崎の功績は高い評価を得てしかるべきである。
 つぎに「第二章」について。すでに述べてきたように「一章」と「三章」は<朝のトラブル>をめぐる一連の流れの中にある。しかし、「二章」のなかで別所は一切この朝のトラブルについて<よし子>に話していない。<話すほどのことではない>と考えていたからだろうか。だとするならば、「二章」を挟み込む意味をわれわれはどこに求めればよいのだろうか。
 「二章」はこれだけで完結した一編の作品になり得る仕上がりになっている。別所とよし子のやりとりも、別所と黒川のやりとり同様、大変に自然で生き生きと描かれている。また、二人のやりとりが、話せば話すほど少しずつ少しずつ二人の間を引き離していくという点でも共通している。それは「コスモス」の中での<男1>の台詞を思い起こさせる。<男1>は語る。《男1/そうかい。でも言葉は人と人とをつなげもするかもしれないが、切り離しもするぜ。・・・ぼくには言葉は人を切り離す道具にしか思えない・・・>と。この考えは、実は石崎の多くの作品の底流に共通して流れているものでもある。「盗難」における津川と女房。「朝」における別所とよし子。同じく別所と黒川。さらには「コスモス」における古田と峰小枝子。さらに遡れば、「三郎・・」における三郎と恵子からそれは始まっていた。
 最後に、作者に一言。
 この作品の書き出しは《朝方、ちょっともめた。》で始まる。書き出しとしてはなかなか洒落た書き出しである。しかし、《ちょっと》には明らかに「評価」が含まれている。では、《朝方》に起こったトラブルを《ちょっとしたトラブル》と捉えているのは誰なのか。別所であろう。しかし、この小説は「三人称」で書かれている。であるならば、《ちょっともめた》と感じているのは別所であって「作者」ではないはずだ。
 この作品に限らず、石崎の作品は「三人称」で書かれているものが多いのだが、語り手である「作者」と「主人公」との距離がいささか不明瞭であるものが少なくない。
 たとえ一人称の「わたし(ぼく)」で書かれた作品であっても、「作者」と「わたし(ぼく)」は区別されなければならない。つねに、「わたし(ぼく)」を見つめる「作者」の眼が作品の中に働いていなければならない。それを「作者」による「わたし(ぼく)」に対する<批評性>と呼ぶこともある。譬えて言えば、作品の中の「わたし(ぼく)」は<鏡に映った、鏡の中>の「わたし(ぼく)」であり、それを見ている自分、すなわち「作者」が別にいなければならない。「作者」と「わたし(ぼく)」は決して一心同体ではない。まして、「三人称」で書かれた小説ならば、明確に「作者」と「別所」は切り離されていなければならない。しかし、残念ながら「作者」による「別所」への<批評性>は弱い。その象徴が「朝方、ちょっともめた」という書き出しである。これはごく素直に読めば、語り手である「作者」の言葉なのだ。それが、「別所」の<トラブルの捉え方>をそのまま「作者」の捉え方にしてしまっている。この<距離感>の無さがせっかくの作品を<甘く>している。
 ともあれ、そうした弱点を含みつつもわたしは「朝」というこの作品を高く評価したい。作者は意識したかどうかわからないが、わたしはこの作品を読んでフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの、あの有名な一句を思い出した。
 <ここでは、むしろ、考えないために給料が支払われているのです>(シモーヌ・ヴェイユ「労働と人生についての省察」より)
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