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石崎徹の描く文学世界  矢嶋直武 (その3)

■小さくされた者──「盗難」をめぐって

 石崎はかつて「まがね」復帰にあたってこんなことを書いていた。
《しばらくは製鉄所を書くつもりでいる。ここには書くべきことがあり、これを書けるのはぼくだけだからであり、そしてこれを書かねば、ぼくの人生は無に、等しいとも思うからである。》
 二作目の作品「盗難」(「まがね」52)はまさにこの<製鉄所>を舞台とする作品である。発表は2011年10月。前作「三郎のふしぎな日々」発表から8か月後の作品ということになる。

 主人公は、定年を間近に控えた班長、津川である。彼の上には作業長の御厨がいる。
 津川は<自動販売機からポカリスエットを四本抱えて>工場に戻ってくる。そこからこの物語は始まるのだが、戻ってきた津川は丸井に呼び止められる。丸井は《製鉄所からの出向者で、下請会社タチバナの社員である津川とは年収に相当な開き》がある人物。その丸井から<カネが無くなった>ことを伝えられる。そして、丸井は《安俣は手癖が悪いとか》と聞いてくる。つまり、丸井は《安俣》を疑っているのである。《安俣》は津川の《班》なのだ。津川はその日の仕事を終えると、《御厨さん、問題発生じゃ》と彼に報告し相談する。しかし、問題は解決の糸口を見いだせぬまま一週間が過ぎる。工場内には《すでにうわさが流れはじめて》いた。そこで、津川は覚悟を決める。すなわち、<安俣本人に会って問い詰める>しかない、そう覚悟を決めたのである。《プレハブの狭い詰所》で津川は安俣と対峙する。結果は安俣が自分の犯行であることを認めて終わる。津川はよほどほっとしたのだろう。会社のことなど《家庭で話題にすることはまずない》津川だったが、この日に限って彼はつい《口がすべった》。しかし、津川の話をうけての女房の反応に彼は苛立ち言い合いになる。最後は女房の《じゃけん、謝っとるが》という一言で終わる。
 作品のタイトルとなっている「盗難」に関わる顛末だけを追うと以上のような流れになるが、その合間合間に<津川をめぐる人々><工場の様子・作業の様子><津川がタチバナに来るまでの経緯>などが語られていく。

 この作品は《これを書けるのはぼくだけ》と自身が語るように、まさに石崎にしか書けない、熱のこもった力作である。「三郎のふしぎな日々」で静かに復帰を果たした石崎だが、この作品は前作とはまったく雰囲気を異にする。わたしはこちらのほうがずっと好きである。石崎の筆使いには力がこもり、まさに、石崎の文学世界はここへきて一気に加速し、快調に疾走を始める。
 何と言っても、津川と安俣との対峙に始まり、野村との若干のやりとりを間に挟みながら、女房との言い合いに至る終幕はまさに秀逸である。前半の叙述はこの終幕をドラマティックに盛り立てるための布石と言っても過言でない。
 石崎の情報によれば、この作品を「犯人探しに終始し、安俣の動機に言及していない」という理由から否定的に評価する批評があったと聞く。しかし、その批評はまったく的を外していると言わざるを得ない。この作品において<安俣の動機>などはまったく問題でない。
 安俣は《大島工業からの派遣社員》で、まだ若い。おまけに《十代で一度結婚し、別れた》《別れた先に、すでに年かさの子供が一人》いる。加えて、《両親も離婚し、祖母と、どこかの工員をやっている父親との三人暮らし》だ。厳しい労働の割には給料も安い。なんとも、思い通りにならない人生。仕事が終われば酒だって飲みたくなるに決まってる。呑んで酔えば、人恋しくもなる。しかし、カネもない。店を出ればパチンコ屋のネオンがやけに眩しい。思わず、<勝ちたい、いや勝ってみせる>と強気になったのが運の尽き。つぎ込んだ金はあっという間にすべてパーになる。<勝つと思うな、思えば負けよ>と悔やんでみてもカネは戻ってこない。ああ、カネが欲しい。
 実行するかどうかは別として、盗みの動機などいくらでもころがっている。
 いや、これはわたしの貧しい想像に過ぎない。しかし、このわたしの貧しい想像が当たっていようといまいと、安俣の動機についてはそれでもはや十分なのだ。すべては読み手の想像に任せればいい。この作品の狙いはそんなところにはないのだから。
「盗み」はこの作品を構築するひとつの<仕掛け>に過ぎない。
「盗み」というひとつの<事件>をめぐって浮かび上がる人々の反応、そこに見えてくるさまざまな人生、それらを生き生きと描き出し映し出すところにこの作品の狙いがある。そして、作者のその狙いは、この作品において見事に成功していると言える。
 殊に、津川とその女房とのやりとりは読む者の心に沁みる。
 そもそも、突然に降ってわいたような<盗難>事件。津川にとってこれほど迷惑な話はない。関わらずにいられるものなら、関わらずにいたい。しかし、嫌疑をかけられた者が自分の班の人間である以上それを放っておくこともできない。御厨に相談はしたものの一向にらちがあかない。業を煮やした津川は安俣との直談判に挑む。成算があるわけではない。しかし、他に解決の見通しもない。津川はプレハブ小屋のなかで緊張しながら安俣と対峙する。安俣は罪を認めた。津川の緊張は一気に解け、安堵する。この思いを女房に話したい。めずらしく津川はそう思った。しかし、女房から返ってきた言葉は津川の期待を大きく裏切るものだった。
──《それで路頭に迷ったん。かわいそうに》
 津川の話しを聞いたとき、女房のアタマをよぎったものは<年収百億>を超えたという<どこやらの部長>の顔であり、世間を騒がせた<ホリエモン>の顔だった。来る日も来る日も、<農協>で汗水流して働いている女房にとって、彼らは何とも腹立たしい存在だったのだ。それに比べれば、僅かなカネのために職を失う<安俣>は、女房にとってなんと哀れな存在に感じられたことか。女房には、夫の努力を軽んじたりする気持ちなど微塵もない。それはそれとしてわかりながらも、ついつい<かわいそうに>の一言が口をついて出てしまったのだ。それは<働く者>の真情(心からの気持ち)だったのだ。しかし、津川にとって女房の一言はカツンとくる。夫たる自分に対してまずもって<それは良かった>とか<ご苦労さん>とか言うのがスジだろう。それをお前はなんだ。夫に<ねぎらいの言葉>を掛けないばかりか、他人の安俣のほうを気にかけている。そんなバカな話があるか。その耐え難い怒りが《おまえはわしの職場がわかっとらん》となって爆発する。しかし、津川が女房にわかって欲しいのは<職場>なんかではなく、<オレの気持ち>なのだ。実際、津川にしたところで女房の<職場>についておそらく何も<わかっとらん>筈なのだ。さらに言えば、<オレの気持ち>をわかってもらいたいと思っていたであろう津川自身、<かわいそうに>と言った<女房の気持ち>など少しもわかろうとしていない。そんな夫の性格がよくわかるからこそ、女房は《じゃけん、謝っとるが》と言ってその場を収めようとする。むろん、腹の底から《謝っとる》わけではない。そう言わなければ収まらないことを女房は知っているからである。ならばなぜ、二人はお互いの気持ちをもっと推し量ることができないのか。それはお互いに疲れているからなのだ。職場の人間関係ならば、そうした<気遣い>も働くかもしれない。しかし、無理な気遣いは疲れる。だからこそ、家族の間では<我がまま>も出る。それが<共働き夫婦の現実>なのだ。
 このようにして、津川と女房の言葉と気持ちは微妙にずれていき、すれ違っていく。
 しかし読者は、二人のそのすれ違いの様子を手に取るように読み取ることができる。それは二人の気持ちがそれぞれによく理解できるからである。そして読者は、ときに津川に寄り添い、ときに女房に寄り添いながら、共にハラハラしたり、イライラしたり、ホッとしたりするのだ。
 まさにこれこそが、<文学作品を読む楽しみ>であり、<喜び>なのではないだろうか。わたしたちが初めて文学作品に出合った、あの幼かった頃を思い起こせばいい。わたしたちはつねに主人公と共に生き、その人生を追体験し、ハラハラ、ドキドキしながら読みふけったではないか。
 読者にとってこの作品は、まさに「三郎のふしぎな日々」からは得ることのできなかった<文学を読む楽しみと喜び>を与えてくれるものとなったのである。
 最後に、この作品が読者の心に深く沁みるもうひとつの理由について述べたい。
 それは、津川、女房、おやじ、おふくろ、そして安俣に至るまで、すべての人物たちが<どこやらの部長>や<ホリエモン>とは「対極」の世界に生きる人たちだからだろう。言うならば、彼らはキリスト教で言うところの<小さくされた者>たちなのである。ここには、<小さくされた者>たちの、汗と涙と怒りと喜びと悲しみが詰まっている。
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