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「浜野博論」を公開して

 読み直しただけでは、まだ明確には自覚できなかった32年前のわが「浜野博論」の数々の欠陥が、タイプし終わると明瞭に見えてきた。
 なかでも、作家に対して文体の変更を求めたこと、なんといってもこれがいちばん大きな誤りだった。
 文体は作家の個性だ。それを失うことはその人ではなくなることを意味する。それは文学にかかわろうとするものが最も心得ておかねばならないことなのに、ぼくには備わっていなかった。
 ぼくは善意のつもりだった。浜野博の小説(とりわけ「火の方へ」)に感じる独特の文学性が、私小説の文体のままでは十分に開花しない、壁にぶつかっているのではないかと思えたのである。
 清水三喜雄の浜野論はもはや手元になく、その内容はうろ覚えになってしまった。短い評だったが、ある作品を取り上げて、作中の身体障害者が喫茶店で何を飲むかと問われ、(コーヒーをではなく)キリマンジャロをと答える、その情景の描写に、レッテルとして扱われることを、無言のままに拒否することで個性としてたち現われてくる障害者を、見ることができるという好意的な評であった。
 ただ、記憶が薄れているので断言できないが、この評の中でも、個人的な問題から社会的な問題へと作者を促すような文脈があったように思う。全体に浜野博への当時の論評にそういう傾向を感じ、それでは浜野文学は死んでしまう、もっと違う豊かな方向があるはずだという気持ちで書いた。
 ぼくのその思いの当否は別として、いずれにせよ評がなすべきことは、それらの作品の美質と弱点とを明らかにし、その上に何らかの方向性を示唆するにしても、そこに留まるところまでだった。そこから先は作家の仕事であって評者の干渉しうるところではない。まして文体は作家の魂であって評者が触るべきものではなかった。
 いまになってそのことに思い至っている。
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