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池戸豊次「鹿を殺す」(「民主文学」16年9月号)

 不思議な小説である。じつは三度読んだ。一回目は下手な小説だなと思って飛ばし読みした。途中少し引っかかった。
「工作が苦手だった俺がいま職人の仕事をしているのが、おかしいです」と若い水道屋である主人公が語ると、主人公の小学校時代の恩師でもあるお寺の奥さんが、「苦手だからいいの、なんでもすぐ出来てしまう子は飽きてしまって、時間をかけて出来た子のほうがそのうちうまくなっていくのが不思議だった」と答える。おや気の利いたことを書いているなとは思ったが、それだけならまだありふれている。
 ぼくを立ち止まらせたのは次の文章である。
 <世界が綺麗すぎるとよく研がれた刃物のように禍々しくなる>
 これはゲリラ豪雨の夏の日、炭焼きの奥さんが行方不明になって死体で発見され、同じ日主人公の飼い猫もいなくなった。<まわりの匂いが消えて、自分の帰りいく場所がわからなくなったのだろう>
 いま、季節は冬。まわりは雪である。<この世界も匂いがしない……匂い、猫にとって匂いが記憶だったのだろうか……記憶がないということは、過去もないということで、過去がないということは今もないということで、今がないということは未来もないということで、そうした世界で、もし猫ではなく人だったら未知の惑星に立っているような孤独に震えただろう>
 認知症だったらしい炭焼きの奥さんのことを思いながら主人公が述懐している。
 すでに小説の終わり近いあたりだが、ここらへんからだんだん引き付けられてきて、ラストの文章を読んだとき、これはもう一度読み直さねばと思って読み直した。
 下手なのではない。読み馴れてきた文体と多少違っているというだけのことだ。これがこの作家の文体なのだ。
 奥美濃の話、時は2006年である。なぜわかるかというと、主人公が幼馴染だったいまの妻と再会したのが10年前で、それが阪神大震災の翌年だったからだ。
 雪で水道管の破裂した家庭が多く、修理に忙しかった日、罠にかかった鹿の頭を漁師がこん棒で殴り、さらにナイフで喉を掻き切って殺す、主人公はただ茫然とそれを見ている、そういう場面から小説は始まる。
 帰宅した主人公は妻にそのことを話すが、そこから話は鹿殺しからまったく離れてしまう。妻との過去のロマンスが語られ、それからお寺の水道の修理に出かけていく。そこでお寺の奥さんとのすでに引用した会話があり、主人公の15年前に急逝した母親と、いま病院で死にかけている父親の話になる。
 違う日は、炭焼きの家に修理にむかい、そこで炭焼きの死んだ奥さんと主人公のいなくなった猫の話。修理の終わったあと、炭焼きが言う。(猟師が殺した鹿を、運ぶのを手伝った夜)、<「礼にもらった酒をちびちび飲んでいると、外で鹿が鳴く声がしたんや」「また鹿が来たの?」「いや、違う。坊ちゃん、鹿は死んだところへ魂が戻ってきてそこで一晩中鳴くんや。その声やと思ってわしは聴いたんや」>
 ここまで来て話は鹿に舞い戻るのである。そしてラスト。だが、その手前に遠距離恋愛していたころの結婚前の妻とのロマンスが、短く挟まる。<あの頃、二人は逢えば激しく交わっていた。分離した一つのものがあわさるように、求めあっていた>。そしてラスト。
<人間も死ぬときは、目に見えぬ棍棒で頭を何度も叩かれてふらふらになり、鋭い刃物でとどめを刺される。そのとき喉からしぼり出されもれ出た声が、刺したものの耳に一生、残るだろう。いや、忘れても、そのものが死ぬとき、自分の声として聴くだろう。それは悲しみでもなく、怒りでもなくただありのままのことなのだ>

 ぼくの要約も下手だが、要約では伝えきれない種類の小説である。語り口に特徴があり、それによって読者の前にひとつの世界を描いてみせる、それは読んで味わってもらうしかない小説である。全体は水道修理の仕事をさまざまに語りながら進んでいく。労働小説としても読める。
 ラストの文章の意味がとれるだろうか。これは理屈で理解する文章ではない、感覚で味わう文章なのだ。
 何が書かれているかというと、作者の死生観である。生きることと死ぬこと、生きてやがて死ぬこと、死ぬことがわかっている生を生きること。それは鹿も人間も同じことだ。その残酷さと、その悦びとの交錯が書かれている。
 ちょっとヘミングウェイを思い出す。しかも日本の風土を丸ごとつかんだヘミングウェイである。
 ラストの炭焼きの小椋さん、西濃から渡ってきて、村の娘を嫁にもらい、三人の子は成人すると都会に出て行って、<夫婦は、つがいの鳥のように暮らしていた>。その奥さんが豪雨のときになくなるのだが、この小椋さんは、乙川優三郎の「脊梁山脈」に出てくる小椋さんを思い起こさせる。「脊梁山脈」も詳しい内容は忘れてしまったが、大化の改新の頃までさかのぼって渡り炭焼きの小椋一族の歴史をたどっていく物語である。それが頭にあってなおのこと小説世界に味わい深いものを感じた。

 二度目に読んで感想を書きたいと思ったのだが、盆の前後が急にあわただしくなって、時間がとれなかった。最近のぼくはすぐに記憶がおかしくなるので、確認のために三度目を読んだ。普段同じものを二度読むことはない。三度読んでも、やはり良い作品だった。
 ひとつ教訓が残った。自分にあわない文体に出あったとき、捨てて通り過ぎてしまうことは必ずしも正しくない。それは未知の文体との出会いかもしれない。
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