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岩崎明日香「角煮とマルクス」(「民主文学」新人賞)

 29才。民主文学に有望な若手が現れた。この人は何年か前、民青東京都委員長として「民主文学」の若手座談会に出席し、それをぼくもこのブログで取り上げた。そのあとプロレタリア文学の評論を発表したりしていた。今回初めての小説を引っ提げての登場である。
 書き出しに文章の硬さが目立ったが、読み始めるとなかなか読ませる。長崎の家族の物語である。駄目な父親と、健気な母親、女三人男三人の六人兄弟姉妹。それにキリスト気狂いの祖母がいる。父の母である。
 正月で帰省した次女(共産党職員、作者自身の投影)がお節を作りながら家族模様が描かれていく。物語の運びがうまい。物語の背後にお節を作っている語り手(三人称だが、実質語り手)が常在していて、それが物語のトーンとなっていてリズムよく進んでいく。初心者にはいいお手本ではないか。
 父親は10年前、経営していた店が倒産、借金まみれで暴力沙汰を起こして留置場入りし、そこで肺がんが発覚してあっという間に死んでしまった。まだ52才だった。語り手は当時東京の大学生で、家庭的にも問題だらけだった父親とのあいだには深い精神的な溝があった。
 母親は昼も夜も働き、子供たちをみな進学させていく。父親以外はみな前向きだ。その人物造形がうまい。
 自伝的要素が濃厚と思われる。だが現実をそのまま書いてもリアルな物語が生まれるわけではない。Naotoの歩き方と一緒で、漫然と歩いたのでは自然な歩き方にならない。自然な歩き方のためには歩き方を演じなければならない。それと一緒で、この小説の人物たちが自然に見えるのは、漫然と書いたからではなく、やはりそこにこの作者の才能がある。
 最も興味深かったのは、長崎という土地でのキリスト教のありようである。「この土地には信教の自由がない」と作者は登場人物に言わせる。ここではキリスト教が世間様であり、共同体の倫理であり、法なのだ。それに背くものには世間の眼が冷たい。
 長崎の一部の土地の特殊なありようなのかもしれないが、まったく知らなかったので驚いた。ここは作りごとではなく、実際にそういうことがあるのだろう。
 彼らの祖母(亡父の母)がその典型的な人物として描かれる。存在感があって、この小説のアクセントのような人物である。
 弟たち(末の弟は大学受験の真っ最中)とのやりとりがあって、最後、姉と二人での父への墓参りで締めくくる。この姉だけは中学卒ですぐ働いて家計を助けたと前のほうに記述があり、あとのほうでは病院勤務となっていて、途中から学校へ行って看護婦にでもなったのだろうかと想像する。この父親に愛された最初の娘と、二番目も女だったということで愛されることのなかった語り手と(そのあとから男三人、女もう一人が生まれるわけだが)この姉妹の会話がしみじみとよい。
 読み終わると、芥川賞よりも読後感がいい。何故だろうと考える。
 現実感がまるで違う。芥川賞は結局作りもので薄っぺらい。この作品には圧倒的な現実感がある。
 この現実感はもちろん作者の手柄なのだが、しかしたぶん自伝なのだということはやはり有利な点である。人は誰でも一つは傑作が書けるという。自分のことを書けばよい。アマチュアならそれで終わりだが、プロであるためにはその次が勝負となる。
 もちろんこの程度の作品は同人雑誌をひもとけばかなりざらにある。ざらにあるから値打ちがないわけではない。どれもいい作品である。しかしとびぬけるためには何かが必要になる。それがいわゆる「純文学」の世界では手法上の実験を必要とするのだろう。
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605:広い感情と新しい感情   高原利生 by 高原利生 on 2016/05/22 at 23:03:36 (コメント編集)

石崎さんの『岩崎明日香「角煮とマルクス」(「民主文学」新人賞)』2016年05月21日 (土)の最後へのコメント

http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-889.html
石崎:「人は誰でも一つは傑作が書けるという。自分のことを書けばよい。アマチュアならそれで終わりだが、プロであるためにはその次が勝負となる。
 もちろんこの程度の作品は同人雑誌をひもとけばかなりざらにある。ざらにあるから値打ちがないわけではない。どれもいい作品である。しかしとびぬけるためには何かが必要になる。それがいわゆる「純文学」の世界では手法上の実験を必要とするのだろう。」

この点だけに対する小さな異論である。文学のしろうとの仮説である。以下の、過去の事実を述べた文以外の全ての最後に、「と思う」を加えて読んでほしい。
「とびぬける」こと、「売れる」こと、「いわゆる「純文学」の世界」の三者の関係がよく分からないが、「とびぬける」ためには、「新しい感情と広い感情」が必要だ。

石崎徹さんブログ『「価値」付け足し 』(2016.02.14)へのコメント586:全体化と価値,感情  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.html#comment586
やその後のコメントで、高原利生ホームページの、その「新しい感情と広い感情」の仮説を引用し、カフカ、サルトル、カミュについて触れた。
そこで、ペストのリウーは、誠実さが広い感情を表したと述べた。ペストが売れたのは、それが新しい感情も表していたからではないか。徹底的な誠実さは新しい感情でもあった。
嘔吐は、対象との新しい関係のための問題提起で「新しい感情」を表した。

おそらく、石崎さんの言う「民主文学」各作品の「現実感」というのは、広い感情を表している。ただ、新しい感情ではない。50年前には、広さが、新しさになるためにはペストのような徹底さでもよかった。
今「売れる」ためには新しい感情だけでよい。「手法上の実験」は、新しい感情のための十分条件だが必要条件ではない。

今、必要なのは、若きマルクスが述べ目指した(結局、完成しなかった)ような対象との「一体化と対象化」が統一された感情を前提とした、一体化の中の広い感情と新しい感情の統一である。(これは理解されないだろうと思う。高原利生ホームページをご覧ください)理想的には、広い感情と新しい感情の両方が要る。無理な注文なのかもしれない。
おそらく「民主文学」などの各作品には十分「現実感」という広い感情はある。これが必要ないわけではないが、それだけでは足りない。飛躍と思われると思うが、これは、50年かかって左翼が革新でなくなったことと同根である。

以前のコメントで、
石崎徹さんブログを二つ、前のコメントで引用した。次の二つである。
「付け足し」(2016.05.13)の、
「作家は人生を感じたいのだ。だが評論家は小説を感じたいのだ。」

『ふたたび「社会主義リアリズム」について』(2016.05.04)の、
「ぼくの書く社会状況はできるだけ現実を写そうとしている。だが人物は現実ではない。もちろん現実から離れすぎないようにはする。だがここという場所で人物は現実を飛び越える。その行為は現実ではないが、その精神は現実なのだ。ぼくの作中人物がとる行為は、人々が(とりわけぼく自身が)こうしたいのにできないという行為なのだ。ぼくは自分にできないことを作中人物にやらせるのである。
 これはもちろんぼくにとっての小説がそういうものだというだけのこと」

こういう総括の言い方が、石崎さんの小説批評が優れている原点、小説や戯曲の構成力の原点だと感じる。

何度も繰り返しで恐縮だが、本コメントは、こういう総括ができる石崎さんに対する、激励、批判、挑発である。石崎さん以外には、さらになかなか通じないだろう。

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