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ふたたび「社会主義リアリズム」について

「民主文学」5月号に載った谷本論氏の「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」の結論部分だけを記して賛意を表明したぼくのブログ記事に、高原さんがコメントで異論を述べられた。
 ぼくが結論しか書かなかったのが間違いだったのだろう。どんな論考にせよ、意味のあるのは論の筋道であって結論ではない。「民主文学」は誰の眼にもふれる雑誌ではないから、よけいに結論だけでは何もわからない。
 釈明文を書こうとしてなかなか書けないでいる。「民主文学」5月号を読んでもらいさえすればすぐ解決することなのだが、それを要約しようとすると、書かれていることがあまりぼくの知識のないことなので、簡単ではない。その上、いろいろとほかの用事があって、まとまった時間をとれなかった。
 谷本論考からぼくが引用した結論というのは次の二つである。
 Ⅰ<ソ連の作家・芸術家を、専制体制の奉仕者とするために考案された似非リアリズムーーこれが社会主義リアリズムの正体だというのが、私が得た結論である>
 Ⅱ<社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 Ⅱのほうは、谷本氏自身の言葉ではなく、望月哲男氏からの引用である。あとで述べるが、これは非常に皮肉っぽい逆説的な言い方をしているので、Ⅰと切り離して結論だけ聞かされれば確かに誤解を生じるだろう。
 谷本氏は論を進めるにあたって、ソ連における文芸理論の歴史を概述し、「唯物弁証法的創作方法」から「社会主義リアリズム」への転換の経過、作家同盟の解散から翼賛体制の確立、ゴーリキー、ショーロホフをスターリンがどう扱い、それに両者がどう応じたか、等々という歴史的経過を、さまざまな資料に基づいて検討を加えている。その結果谷本氏が到達した結論が、Ⅰの結論なのだ。
 これは論自体がすでに要約なので、これ以上要約しようがなく、ここに書くとしたら谷本文をそのままコピーすることになるので、やはり「民主文学」5月号を読んでいただくしかなさそうである。

 Ⅱについて、ぼく自身の考えとして述べさせてもらう。
 <社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 望月氏の文章を直接読んだわけではないが、この文章からだけでも実に皮肉っぽい逆説的な表現であることが読みとれる。望月氏が言っているのは、文学方法上の融通性、無節操が悪いということではないのである。むしろ融通性、無節操はかまわないのだが、そのようなものに社会主義リアリズムという名前が与えられていることを皮肉っているのだ。何故ならリアリズムとは文学方法であるのに社会主義リアリズムなるものが方法とは無関係に名付けられ、方法がリアリズムであろうがなかろうが許され、しかも方法とはまったく無縁の場所で融通性、無節操を批判され、なおかつそれが方法上の問題であるとして語られるからである。
 高原氏が疑問を呈されているのは、「別にそれでかまわないではないか。目的に合致すれば方法はどうでもよいだろう。いったいこれのどこがまずいのか」ということなのだろう。
 そのとおりなのである。高原氏は少しもおかしくない。だが、ここで望月氏が述べ、谷本氏が引用しているのは、それとは全然別のことなのである。
(繰り返すが)文学の方法なんてどうでもよい、当たり前のことである。だが、スターリンは「社会主義リアリズム」を文学の方法として主張したのであって、目的として主張したのではない。ここにはスターリン独特の、というか「マルクス主義者」にかなり共通の、言葉のマジックがある。
 リアリズムはそもそも方法論である。古典文学、あるいはロマン文学に対して、夢物語もいいが、そろそろ人間や社会の現実を書かねばならないじゃないか、として起こってきたのがリアリズム(写実)文学だろう。だが単に現実を書くだけではだめだ、展望が要る、というところまでは、まだ方法論として容認できる。ところがその展望とは社会主義への展望だ、というあたりからそろそろおかしくなってくる。方法の衣のなかに巧妙に目的が紛れ込みはじめる。その行き着く果ては、ソビエトを賛美するのがリアリズムであり、これを批判すればリアリズムではないという翼賛文学論になってしまう。ここまで来るとそれはリアリズムとは正反対のものになる。
 そのことをして望月氏が「融通性」「無節操」が内包されていた、と皮肉をこめて言ったのは次の事情によるのだ。
 たとえば最もわかりやすい極端な例を挙げるならば、「革命的ロマンチシズム」などという言葉が生まれてくる。そもそもロマン主義は写実主義とは反対のものである。だからロマン主義が必要なのだったら、そう言えばよいのだ。リアリズムだけではだめだと言えばよいのだ。だが、そうは言わない。革命的ロマンチシズムは社会主義リアリズムだというのである。本来方法を意味し、しかもあくまでも方法の問題なのだと主張するもののなかに、方法ではないものを紛れ込ませる。
 文学がさまざまな方法をとるのはあたりまえのことである。望月氏も谷本氏もそれを否定しているのではない。むしろ否定しているのはスターリンなのだ。彼は社会主義リアリズムという方法しかありえないと言っているのである。しかもその社会主義リアリズムの内実は方法ではなく、スターリンへの賛否なのである。でありながら、それをあたかも文学方法の問題であるかのごとく偽装している。
「目的のために方法を問う必要はないだろう? スターリンが間違った目的を掲げたという方が問題だったのだろう?」と疑問を呈する高原氏の気持ちはわかる。
 しかし(何度も繰り返すが)、ここで望月、谷本両氏が問題にしているのはそのことではないのである。文学方法をどうするかという問題ではなく、スターリンが方法ではないものに方法の名前を与え、それが方法の問題であるかのように思わせようとしたということについての問題なのだ。
 ややこしいことを言っているようだが、ぼくのとらえ方は望月、谷本両氏からそう隔たってはいないだろうと思う。もっとも谷本氏本人はリアリズムの擁護者として発言している。リアリズムの擁護者として、社会主義リアリズムはリアリズムではなかったと言っている。
 社会主義リアリズムとまったく無縁だった人には、さっぱり分からない議論でもあれば、またいっそ、どうでもよい議論でさえあるだろう。ぼくも民主主義文学にはずっとつかず離れずという関係だったし、特にその文学理論とはかなり距離を置いてきたので、すっかりわかるわけではないが、「批評の基準」論争などの中で耳にしてきたことから、民主主義文学運動というものが文学団体でありながらかなり言葉の使い方が雑で曖昧であること、リアリズムという言葉をずいぶん得手勝手に使いがちであるという感じは受けてきた。そういう流れの中では非常に腑に落ちる論考だったのである。

 ここでリアリズムについてのぼくの考えを述べる。ぼくはこの問題ではチエホフの「かもめ」の中での、あのキザな中年作家のセリフ「芝居は現実ではない、だが夢でもない、夢と現実の境目にあるのが芝居だ」という、あの立場に立っている。
 ぼくの書く社会状況はできるだけ現実を写そうとしている。だが人物は現実ではない。もちろん現実から離れすぎないようにはする。だがここという場所で人物は現実を飛び越える。その行為は現実ではないが、その精神は現実なのだ。ぼくの作中人物がとる行為は、人々が(とりわけぼく自身が)こうしたいのにできないという行為なのだ。ぼくは自分にできないことを作中人物にやらせるのである。
 これはもちろんぼくにとっての小説がそういうものだというだけのことで、ほかの人にはほかの方法がある。それぞれ表現したいものは違うのだから。
 ロマン主義とリアリズムとは対立しつつも車の両輪である。小説にはどちらも必要だ。問題は相対的なのだ。ロマン主義に社会がおぼれてしまえばリアリズムを主張する必要がある。リアリズムの世界で低迷してしまえばロマンを描いて見せねばならない。そういう波を描いていくのが文学史の現実だろう。いつでも正しい文学理論などというものはない。

 高原氏の指摘に戻ると、氏とぼくとは概ね近い位置に立っているとぼくは感じる。ただその位置へと入ってきた角度が違っているので、見る景色に違いがあり、語る言葉の意味が違ってくる。おそらくそういうことなのだろうと思う。
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604:石崎徹さんブログ『ふたたび「社会主義リアリズム」について』(2016.05.04)へのコメント by 高原利生 on 2016/05/05 at 01:43:17 (コメント編集)

「ふたたび「社会主義リアリズム」について」(2016.05.04)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-883.html
へのコメント

 一応、納得しました。未熟なコメント失礼しました。

 今、「一体型矛盾」の検討をしています。従来の矛盾が、一般的な二項の両立か二項の弁証法的否定で高い次元に達する一時的なものであるのに対し、「一体型矛盾」は、二項の性質を保存しながら、お互いをより高くしていく永続する矛盾です。詳細は、中川先生のホームぺージの最近の高原論文で読めます。
「リアリズムとロマンティシズム」も「一体型矛盾」に当たります。(なお、ロマン主義の対概念には、もう一つ「古典主義」があって混乱する。現実と理想、内容と形式が、入り混じっている。詳しくないが、これらは行ったり来たりを繰り返す)

他の「一体型矛盾」の例:男と女、
目的と手段、感情と論理、認識と行動、歴史と論理、機能と構造(生物の進化は機能と構造の矛盾の連鎖、一時的な機能と構造もある)、集中と拡散、
分析と総合、考えることと学ぶこと、受容と表現、普及と深化、
対象化と一体化=自由と愛、義務と権利、謙虚と批判

 なお、前の高原のコメント603:石崎徹さんブログ「谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)へのコメント 二版 高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-878.html#comment603
は、石崎さんの今回のコメントを受け入れた微修正の上で、大筋、そのままでよいと思っています。

 石崎さんの「ぼくの書く社会状況はできるだけ現実を写そうとしている。だが人物は現実ではない。もちろん現実から離れすぎないようにはする。だがここという場所で人物は現実を飛び越える。その行為は現実ではないが、その精神は現実なのだ。ぼくの作中人物がとる行為は、人々が(とりわけぼく自身が)こうしたいのにできないという行為なのだ。ぼくは自分にできないことを作中人物にやらせるのである。
 これはもちろんぼくにとっての小説がそういうものだというだけのこと」
というのは、非常によく納得しました。これがこのブログを読んだ最大の成果です。

 高原利生ホームページでも書いていますが、ゼロベースであらゆることを見直すと、世の中の意見とはどんどん離れていきます。孤高ならいいのですが単なる孤立ですね。
 こりずに次の論文を書いています。慣れない英語なので一層大変です。

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