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谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)

 二点異論がある(あとで述べる)が、全体として、丹念に資料をたどった良心的な論述だと思う。知らないことばかりで教えられることが多かった。
 ぼくが共産党とその文学理論に接触したのは1965年だから、もちろん当のソ連はすでにフルシチョフによるスターリン批判が終わっていたが、日本の共産党はフルシチョフを裏切り者と見なして、まだスターリンを擁護していた。
 したがって聴こえてくる文学理論は「社会主義リアリズム」であった。それは即ちバルザックの「批判的リアリズム」を発展させたものであると解説されていた。そのなかでモーパッサンから日本の自然主義私小説へとつながるナチュラリズムはどう位置づけられるのかがよく分からなかった。
 わからないなりにほとんど関心を失って、50年が過ぎた。ただ、リアリズムとロマンチシズムについては常に考えてはいた。文学史用語としての「社会主義リアリズム」への関心を失っていたのだ。
 今回たいへん腑に落ちた。谷本氏は次のように述べている。
 <ソ連の作家・芸術家を、専制体制の奉仕者とするために考案された似非リアリズム――これが社会主義リアリズムの正体だというのが、私が得た結論である>
 さらに、望月哲男氏の2003年の論文から引いて次のように記す。
 <社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 いずれも思い当るところが多く、的を射た結論だと思う。

 そのあと谷本氏は、では日本における社会主義リアリズムは、それと同じものなのか、そうではないのかと問いかける。結論としては以下のように違ってくる。
 <ここで二人(宮本夫妻)が語っているのは、科学的な未来展望を土台とした文学の創造であり、文芸弾圧を狙ったソ連の理論とは動機も内容もまったく違うものである>
 これも一応はうなずける指摘である。権力の側が、弾圧のために作り出した理論を、当時の日本左翼の貧弱な情報のために、そうとは知らずに輸入したのは迂闊ではあったが、それは無条件でソ連から日本へ移されたわけではなく、日本の側では日本の側での文学理論の模索の一過程としてあった。
 谷本氏は宮本百合子の言葉を引用する。
 <わたしにおいて社会主義リアリズムは、作品を作る方法として、作品のそとに存在するものではなかった>
 <わたしにとって、「それによって創作する」という方法(では)なかった>
 つまり百合子は自作の制作に当たっていかなる外なる規範を頭に置いたわけではない。ただ自分の書きたいように書いただけである。だが結果として、社会主義リアリズムというものに少し近づいたかなと感じているということなのだ。
 その上に日本で社会主義リアリズムを提唱する人たちが権力を持っていたわけではなく、権力に抵抗する側だったわけだから、ソ連のそれとは本質的に違うものだとも言えただろう。

 そこまではぼくも理解し、谷本氏に同意する。しかしそこに微妙な異議がある。これが二点の異論のうちのひとつである。
 どのような形でにせよ、文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある。文学が評論家の想定内に収まるとしたらそれは文学ではない。文学とは常に評論家の想定を打ち破るものでなければならないはずだ。評論家の作る基準に収まるような文学は文学ではないのだ。
 作家たちをさまざまな流派に分類することはできるだろう。またひとつの方向を目指した運動なり、団体なりを作ることもできるだろう。しかし、それは要するにただそれだけのことであって、文学に何か客観的な基準を求めようとすれば失敗を運命づけられるだろう。
 それはまた、仮にそのような文学イデオロギーが政治権力と結びついたとしたら、ソ連と同じ失敗を繰り返すことになる。そういうことも充分に意識されておかねばならない。

 二点目の異論のためには、ページを少しさかのぼる。これは文学とはまったく関係のないことでの異論である。
 119ページ上段の最後の段落。
 <狂気のテロルが吹き荒れるなか、ソ連社会はスターリン一人を絶対者とする専制体制に改造されていく。これは、共産主義運動のなかで起こった理論上の誤りなどではない。謀略と大量殺人による、国家と社会の乗っ取りである>
 ぼくが50年間問い続けてきた問題である。このブログ上で何度も書いてきたテーマだ。
 なぜ共産党の組織はスターリン一人で引っ繰り返されてしまうほど虚弱なのか。
 この虚弱さを生む共産党の組織の欠陥とは何なのか。それは現在の日本共産党ではすでに克服されたとはたして断言できるのか。
 何度も詳述してきたから繰返さない。関心のある人は「政治」のカテゴリーを引いてくだされば、ぼくの考えが詳しく出てきます。

 以上、谷本氏の論述に敬意を表しつつ、若干感じた疑問を記した。
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603:石崎徹さんブログ「谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)へのコメント 二版 高原利生 by 高原利生 on 2016/04/22 at 14:29:12 (コメント編集)

石崎徹さんブログ「谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-878.html - 2016年04月19日 (火)
へのコメント 二版 高原利生

二版を追加する。

石崎さんの引用に限った部分的感想を四つ述べる。最初の二つは石崎さんが谷本氏に賛成している点、後の二つは疑義をとなえている点である。

1.石崎「今回たいへん腑に落ちた。谷本氏は次のように述べている。
 <ソ連の作家・芸術家を、専制体制の奉仕者とするために考案された似非リアリズム――これが社会主義リアリズムの正体だというのが、私が得た結論である>
 さらに、望月哲男氏の2003年の論文から引いて次のように記す。
 <社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 いずれも思い当るところが多く、的を射た結論だと思う。」

これだけの引用なので誤解なのかも知れないが、<社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>という言い方で、社会主義リアリズムを否定するのは違うのではないか。
一般に、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”ことは正しい。目的に合致すれば、手段は問わないのも正しい。これが「無節操」に見えるのは、目的が、間違っているか誤解されているからである。
社会主義リアリズムが否定されるのは、主に、目的の狭さと政治の関与のあり方に関する点だと思う。
社会主義リアリズムの文献を読んだのは、四十数年前で、読んだ文献の数も限られているので違っているかもしれない。

2.石崎「谷本氏は、では日本における社会主義リアリズムは、それと同じものなのか、そうではないのかと問いかける。結論としては以下のように違ってくる。
 <ここで二人(宮本夫妻)が語っているのは、科学的な未来展望を土台とした文学の創造であり、文芸弾圧を狙ったソ連の理論とは動機も内容もまったく違うものである>
 これも一応はうなずける指摘である。権力の側が、弾圧のために作り出した理論を、当時の日本左翼の貧弱な情報のために、そうとは知らずに輸入したのは迂闊ではあったが、それは無条件でソ連から日本へ移されたわけではなく、日本の側では日本の側での文学理論の模索の一過程としてあった。
 谷本氏は宮本百合子の言葉を引用する。
 <わたしにおいて社会主義リアリズムは、作品を作る方法として、作品のそとに存在するものではなかった>
 <わたしにとって、「それによって創作する」という方法(では)なかった>
 つまり百合子は自作の制作に当たっていかなる外なる規範を頭に置いたわけではない。ただ自分の書きたいように書いただけである。だが結果として、社会主義リアリズムというものに少し近づいたかなと感じているということなのだ。
 その上に日本で社会主義リアリズムを提唱する人たちが権力を持っていたわけではなく、権力に抵抗する側だったわけだから、ソ連のそれとは本質的に違うものだとも言えただろう。」

谷本氏の「文芸弾圧を狙ったソ連の理論」というのは狭すぎるとらえ方だと思える。
石崎さんの「権力の側が、弾圧のために作り出した理論を、当時の日本左翼の貧弱な情報のために、そうとは知らずに輸入したのは迂闊ではあったが、それは無条件でソ連から日本へ移されたわけではなく、日本の側では日本の側での文学理論の模索の一過程としてあった。」の後半も、それはそうだろうが、としか言いようがない。(ここのところは、石崎さんの引用の不十分ゆえの、高原の誤解のようである。石崎さん、あるいは他の方が補足されるだろう。不適切な表現をお詫びしておく。2016年4月22日)

引用されている点とは違う一般的コメントだが、ソ連、日本に限らず、社会主義リアリズムに限らず、マルクス主義にも限らず、理論の発展についての態度と内容に根本的疑問を持っている。高原利生ホームページ(「右翼と左翼」、「マルクス主義」批判の数稿など)をご覧いただきたい。リンクを張る方法を知らないので、稿にたどり着くのが大変だが。
なお、文芸に限らない検討も必要と思う。文芸に限ると確かに、ソ連も日本も失礼ながらたいした作品は生まなかった。ソ連や当時の東欧は、社会主義リアリズムとの葛藤の中で、音楽などでは優れた作品を産んだのである。

ブログと別の形で、「一つの傾向を主張することはできる。リアリズムとかロマンティシズムとか。それは具体的にその時代、あるいはその作品にいま何が必要かという具体的な問題であって、抽象的、観念的、絶対的な基準というものはない。基準を意識して書くと、芸術ではなくなる。」という趣旨の文を、石崎さんから4月22日朝、受け取った。

「基準を意識して書くと、芸術ではなくなる」というのはもちろんそうだろう。
「一つの傾向を主張することはできる。リアリズムとかロマンティシズムとか。それは具体的にその時代、あるいはその作品にいま何が必要かという具体的な問題であって、抽象的、観念的、絶対的な基準というものはない」というのは、よく分からなくなってきた。
「抽象的、観念的、絶対的な基準」を語るのは悪だが、「具体的にその時代、あるいはその作品にいま何が必要かという具体的な問題」を語る批評は良いと読める。

「具体的にその時代、あるいはその作品にいま何が必要かという具体的な問題」を、より抽象的に述べることはある。それに、抽象、具象というのを分ける線はどこにも引ける。
また、基準という言葉は、事実に対して使っているので、芸術にふさわしくないかもしれない。
僕が、
石崎徹さんブログ『「価値」付け足し 』(2016.02.14)へのコメント、
コメント586:全体化と価値,感情  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.html#comment586で、芸術に要望したのは、より広い感情 and/or 新しい感情を書いてほしいという要望、それが芸術の役割ではないかという仮説だった。

嘔吐は、新しい感情を表現した。ペストは、両方の、新しくかつ広い感情を表現した。当時はそれが必要だった。当時はそれが必要だったということだけ見て、芸術により広い感情 and/or 新しい感情を書いてほしいという要望、それが芸術の役割ではないかという仮説(という科学)を一般論として述べることに文句を言われたくない気がする。

どうか、基準なり科学にとらわれず、今の時代に求められる新しく広い感情を表現してほしい。それがたまたま売れようが売れまいが、必要なのではないか?売れている作品はある。
今、そのような「今の時代に求められる新しく広い感情を表現した」文芸作品はない。映画もない。昔も、殆どなかった。(全部読んだのかと言われそうだ。音楽にはあるような気がするが、「広い」感情には弱点がある。)
石崎さんの構想力、構成力には驚嘆し敬意を払っている。コスモスは良かった。
(2016年4月22,23日,5月6日追記)

3.石崎「そこまではぼくも理解し、谷本氏に同意する。しかしそこに微妙な異議がある。これが二点の異論のうちのひとつである。
 どのような形でにせよ、文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある。文学が評論家の想定内に収まるとしたらそれは文学ではない。文学とは常に評論家の想定を打ち破るものでなければならないはずだ。評論家の作る基準に収まるような文学は文学ではないのだ。
 作家たちをさまざまな流派に分類することはできるだろう。またひとつの方向を目指した運動なり、団体なりを作ることもできるだろう。しかし、それは要するにただそれだけのことであって、文学に何か客観的な基準を求めようとすれば失敗を運命づけられるだろう。
 それはまた、仮にそのような文学イデオロギーが政治権力と結びついたとしたら、ソ連と同じ失敗を繰り返すことになる。そういうことも充分に意識されておかねばならない。」

一番気になるのは、石崎さんの「どのような形でにせよ、文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある。文学が評論家の想定内に収まるとしたらそれは文学ではない。文学とは常に評論家の想定を打ち破るものでなければならないはずだ。評論家の作る基準に収まるような文学は文学ではないのだ。」という言い方である。
いつも、芸術と科学の関係などについて、石崎さんから同じことを言われている。高原の反論の内容は、コメント
586:全体化と価値,感情  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.html#comment586
などをご覧いただくしかない。
今回の石崎さんの言い方に限定すれば、「文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある」とすれば、その「評価基準」が悪いのであって、評価基準のあることが悪いのではない。評価基準なり科学なりを、作り続け壊し続けなけれならないということを言い続けている。
事実の評価基準をFIT2015で提案した。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htmにリンクがある。THPJ201503でも述べようとしたが、見田宗助批判とともに時期尚早とされて掲載できなかった。

4.石崎「二点目の異論のためには、ページを少しさかのぼる。これは文学とはまったく関係のないことでの異論である。
 119ページ上段の最後の段落。
 <狂気のテロルが吹き荒れるなか、ソ連社会はスターリン一人を絶対者とする専制体制に改造されていく。これは、共産主義運動のなかで起こった理論上の誤りなどではない。謀略と大量殺人による、国家と社会の乗っ取りである>
 ぼくが50年間問い続けてきた問題である。このブログ上で何度も書いてきたテーマだ。
 なぜ共産党の組織はスターリン一人で引っ繰り返されてしまうほど虚弱なのか。
 この虚弱さを生む共産党の組織の欠陥とは何なのか。それは現在の日本共産党ではすでに克服されたとはたして断言できるのか。」

これも、二項のコメントと同じである。一般的コメントだが、ソ連、日本に限らず、マルクス主義の理論の発展についての態度と内容に根本的疑問を持っている。
「マルクス主義」は、マルクス以来、衰退を続けた。その中の一環として、左翼の問題はある。高原利生ホームページ(「右翼と左翼」、「マルクス主義」批判の数稿、例えば短いものに「マルクスの欠点、マルクスについての欠点、落差二つ」やや長いものに「ポスト資本主義のための哲学:既存「マルクス主義」批判」など)をご覧いただきたい。

なお、私は、芸術作品を作ることとは無縁の人間である。過去の社会主義リアリズムがどうであったかには全く興味はない。しかし、芸術作品は作らないが、芸術は生活の周りにあり、私はその中で生きている。
したがって、芸術とは何か、人はどういう芸術を求めているか、どういう芸術が必要か、科学、制度、芸術との関係がどうであることが必要か、それらの理想像を語ることができる。
芸術を「作る」立場の方も、理想像を求めながら創作をしてほしい。その上で、過去の社会主義リアリズムが必要なら論じてほしい。
それと、引用を示した高原のコメント586:全体化と価値,感情  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17でも触れたことだが、左翼は、テーマそのものについて論じるのでなく、多くの場合誤解した相手の不備を、自分の正しさの証拠に使うだけだった。それが、150年間の左翼、「マルクス主義者」の議論だった。
繰り返しになるが、テーマそのものを(主に)論じてほしい。過去の社会主義リアリズムがどうであったかを主テーマにしてはならないと思う。
芸術とは何か、過去の社会主義リアリズムが求めた芸術は何だったかが主テーマであるべきで、その中で何をどのように間違えたかということが必要なら論じるということだと思う。
結果として、1.社会主義リアリズムを潜り抜けた芸術家が優れた作品を作れるようにしてほしい。2.僕の稚拙な「芸術論」を批判してほしい。
(2016年4月22日追記)

(今、締め切りの原稿があるので、議論は、十分できないかもしれない)

602:管理人のみ閲覧できます by on 2016/04/22 at 09:07:22

このコメントは管理人のみ閲覧できます

601:石崎徹さんブログ「谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)へのコメント  高原利生 by 高原利生 on 2016/04/21 at 16:16:59 (コメント編集)

石崎徹さんブログ「谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-878.html - 2016年04月19日 (火)へのコメント

石崎さんの引用に限った部分的感想を四つ述べる。最初の二つは石崎さんが谷本氏に賛成している点、後の二つは疑義をとなえている点である。

1.石崎「今回たいへん腑に落ちた。谷本氏は次のように述べている。
 <ソ連の作家・芸術家を、専制体制の奉仕者とするために考案された似非リアリズム――これが社会主義リアリズムの正体だというのが、私が得た結論である>
 さらに、望月哲男氏の2003年の論文から引いて次のように記す。
 <社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 いずれも思い当るところが多く、的を射た結論だと思う。」

これだけの引用なので誤解なのかも知れないが、<社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>という言い方で、社会主義リアリズムを否定するのは違うのではないか。
一般に、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”ことは正しい。目的に合致すれば、手段は問わないのも正しい。これが「無節操」に見えるのは、目的が、間違っているか誤解されているからである。
社会主義リアリズムが否定されるのは、主に、目的の狭さと政治の関与のあり方に関する点だと思う。
社会主義リアリズムの文献を読んだのは、四十数年前で、読んだ文献の数も限られているので違っているかもしれない。

2.石崎「谷本氏は、では日本における社会主義リアリズムは、それと同じものなのか、そうではないのかと問いかける。結論としては以下のように違ってくる。
 <ここで二人(宮本夫妻)が語っているのは、科学的な未来展望を土台とした文学の創造であり、文芸弾圧を狙ったソ連の理論とは動機も内容もまったく違うものである>
 これも一応はうなずける指摘である。権力の側が、弾圧のために作り出した理論を、当時の日本左翼の貧弱な情報のために、そうとは知らずに輸入したのは迂闊ではあったが、それは無条件でソ連から日本へ移されたわけではなく、日本の側では日本の側での文学理論の模索の一過程としてあった。
 谷本氏は宮本百合子の言葉を引用する。
 <わたしにおいて社会主義リアリズムは、作品を作る方法として、作品のそとに存在するものではなかった>
 <わたしにとって、「それによって創作する」という方法(では)なかった>
 つまり百合子は自作の制作に当たっていかなる外なる規範を頭に置いたわけではない。ただ自分の書きたいように書いただけである。だが結果として、社会主義リアリズムというものに少し近づいたかなと感じているということなのだ。
 その上に日本で社会主義リアリズムを提唱する人たちが権力を持っていたわけではなく、権力に抵抗する側だったわけだから、ソ連のそれとは本質的に違うものだとも言えただろう。」

谷本氏の「文芸弾圧を狙ったソ連の理論」というのは狭すぎるとらえ方だと思える。
石崎さんの「権力の側が、弾圧のために作り出した理論を、当時の日本左翼の貧弱な情報のために、そうとは知らずに輸入したのは迂闊ではあったが、それは無条件でソ連から日本へ移されたわけではなく、日本の側では日本の側での文学理論の模索の一過程としてあった。」の後半も、それはそうだろうが、としか言いようがない。

引用されている点とは違う一般的コメントだが、ソ連、日本に限らず、社会主義リアリズムに限らず、マルクス主義にも限らず、理論の発展についての態度と内容に根本的疑問を持っている。高原利生ホームページ(「右翼と左翼」、「マルクス主義」批判の数稿など)をご覧いただきたい。リンクを張る方法を知らないので、稿にたどり着くのが大変だが。

3.石崎「そこまではぼくも理解し、谷本氏に同意する。しかしそこに微妙な異議がある。これが二点の異論のうちのひとつである。
 どのような形でにせよ、文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある。文学が評論家の想定内に収まるとしたらそれは文学ではない。文学とは常に評論家の想定を打ち破るものでなければならないはずだ。評論家の作る基準に収まるような文学は文学ではないのだ。
 作家たちをさまざまな流派に分類することはできるだろう。またひとつの方向を目指した運動なり、団体なりを作ることもできるだろう。しかし、それは要するにただそれだけのことであって、文学に何か客観的な基準を求めようとすれば失敗を運命づけられるだろう。
 それはまた、仮にそのような文学イデオロギーが政治権力と結びついたとしたら、ソ連と同じ失敗を繰り返すことになる。そういうことも充分に意識されておかねばならない。」

一番気になるのは、石崎さんの「どのような形でにせよ、文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある。文学が評論家の想定内に収まるとしたらそれは文学ではない。文学とは常に評論家の想定を打ち破るものでなければならないはずだ。評論家の作る基準に収まるような文学は文学ではないのだ。」という言い方である。
いつも、芸術と科学の関係などについて、石崎さんから同じことを言われている。高原の反論の内容は、コメント
586:全体化と価値,感情  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.html#comment586
などをご覧いただくしかない。

今回の石崎さんの言い方に限定し「文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある」とすれば、その「評価基準」が悪いのであって、評価基準のあることが悪いのではない。評価基準なり科学なりを、作り続け壊し続けなけれならないということを言い続けている。

事実の評価基準をFIT2015で提案した。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htmにリンクがある。THPJ201503でも述べようとしたが、見田宗助批判とともに時期尚早とされて掲載できなかった。

4.石崎「二点目の異論のためには、ページを少しさかのぼる。これは文学とはまったく関係のないことでの異論である。
 119ページ上段の最後の段落。
 <狂気のテロルが吹き荒れるなか、ソ連社会はスターリン一人を絶対者とする専制体制に改造されていく。これは、共産主義運動のなかで起こった理論上の誤りなどではない。謀略と大量殺人による、国家と社会の乗っ取りである>
 ぼくが50年間問い続けてきた問題である。このブログ上で何度も書いてきたテーマだ。
 なぜ共産党の組織はスターリン一人で引っ繰り返されてしまうほど虚弱なのか。
 この虚弱さを生む共産党の組織の欠陥とは何なのか。それは現在の日本共産党ではすでに克服されたとはたして断言できるのか。」

これも、二項のコメントと同じである。一般的コメントだが、ソ連、日本に限らず、マルクス主義の理論の発展についての態度と内容に根本的疑問を持っている。
「マルクス主義」は、マルクス以来、衰退を続けた。その中の一環として、左翼の問題はある。高原利生ホームページ(「右翼と左翼」、「マルクス主義」批判の数稿、例えば短いものに「マルクスの欠点、マルクスについての欠点、落差二つ」やや長いものに「ポスト資本主義のための哲学:既存「マルクス主義」批判」など)をご覧いただきたい。

なお、私は、芸術作品を作ることとは無縁の人間である。過去の社会主義リアリズムがどうであったかには全く興味はない。しかし、芸術作品は作らないが、芸術は生活の周りにあり、私はその中で生きている。
したがって、芸術とは何か、人はどういう芸術を求めているか、どういう芸術が必要か、科学、制度、芸術との関係がどうであることが必要か、それらの理想像を語ることができる。
芸術を「作る」立場の方も、理想像を求めながら創作をしてほしい。その上で、過去の社会主義リアリズムが必要なら論じてほしい。
それと、引用を示した高原のコメント586:全体化と価値,感情  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17でも触れたことだが、左翼は、テーマそのものについて論じるのでなく、多くの場合誤解した相手の不備を、自分の正しさの証拠に使うだけだった。それが、150年間の左翼、「マルクス主義者」の議論だった。
繰り返しになるが、テーマそのものを(主に)論じてほしい。過去の社会主義リアリズムがどうであったかを主テーマにしてはならないと思う。
芸術とは何か、過去の社会主義リアリズムが求めた芸術は何だったかが主テーマであるべき、その中で何をどのように間違えたかということが必要なら論じるということだと思う。
結果として、1.社会主義リアリズムを潜り抜けた芸術家が優れた作品を作れるようにしてほしい。2.僕の稚拙な「芸術論」を批判してほしい。
(2016年4月22日追記)

(今、締め切りの原稿があるので、議論は、十分できないかもしれない)

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