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ムルソーから「ペスト」へ

 1968年生まれの若い人から太宰治、三島由紀夫、谷崎潤一郎、アルベール・カミュについてそれぞれ質問されて、戸惑った。それらの作家に関して、言葉にできるほどの明瞭な考えが自分のなかにないことに気付いたからだ。
 太宰はほぼ読んだが、中学三年の時である。以後ほとんど読みかえしていない。三島と谷崎は少ししか読んでいない。カミュもかなり読んだつもりではあるが、何を言葉にできるだろう。
 じつを言えば、20代の終わりころに、ムルソー論を書こうと試みたことがあった。小説を書くことに興味を失い、評論が書きたくなった。
 コリン・ウイルソンの「アウトサイダー」を読んで数年経っていたが、まだその影をひきずっていた。学業を中途で放棄したこのイギリス青年は、作家たちを自分流に読み込み、自分流に系統立てることで、学者たちが獲得し得なかったほどの影響力をあっというまに全世界に拡げることに成功した。
 ヘッセ、ジッド、ドストエフスキー、サルトル、カミュ、ヘミングウエイからT・E・ロレンス、チャンドラーまで総動員して、アウトサイダーの系譜を作り上げ、そのそれぞれの特徴点とそれがどのように自己を克服しあるいは展開していったかについて論述している。
 これを読んだとき、ぼくはヘッセの復権に驚いたのだ。ヘッセはぼくが太宰に続いて愛読した本だったが、大人になってしまうともう恥ずかしくて口にできないような気がしていた。あれは10代の小説だという思い込みがあった。
 だが、ウイルソンはヘッセから説きはじめる。それは最も原初的なアウトサイダーであり、そこにアウトサイダーの特徴を典型的に見ることができるというわけだ。
 それならば太宰治だってそうだろう、とぼくは思った。ぼくはムルソーによって太宰を否定したのだが、しかしよく見ればムルソーだって太宰ではないか。
 そういう観点からムルソー論を展開したいと思った。
 とりあえずカミュをできるだけ読んだ。27才で「異邦人」というたかだか三百枚程度の短い作品ひとつを引っ提げて、たちまち全世界を征服してしまったこの人物には、迷い多い青春期の日記と、異邦人の原型ともいうべき習作、そして珠玉のエッセーがあった。
 それを読んだぼくは自分の勘の正しさを確信した。ムルソーははじめからああいう本心を見せない人間だったのではない。カミュは日記のなかに赤裸々に青春の悩みを語っている。そこにこそムルソー誕生の地点がある。
 評論というものは、それを書こうとしたらその作家についてそのときまでに出た評論を一応おさえておかねばならない。ぼくは本屋を巡って眼についたムルソー本を買いあさってきた。ほとんどフランス人の書いたものの翻訳である。そしてムルソー・ノートと題してノートを作りはじめた。
 だが、やがて、ぼくにはムルソー論を書けないということに気付く。なぜならぼくはフランス語を知らないからだ。
 文学というものはあくまでも言語である。言語に含まれたニュアンスは翻訳では伝わりきらない。それは翻訳者の解釈を含んでしまう。微妙なところはフランス語を知らなければ把握できない。
 こうしてぼくはムルソー論を放棄した。同じころ、「狭き門」論や、「汚れた手」論も書きかけていたが、いずれも同じ運命をたどった。
 学問というものはできるときにしておくべきものだ。そうしないと一生後悔する。
 と、つまらないところにオチが来てしまったが、それを書きたかったわけではない。
 ムルソーから一歩進んで「ペスト」について少しだけ書いてみたいと思ったのだ。というのは先日友と語ったとき、ムルソーについてはそれなりにしゃべったが、「ペスト」にはわずかしか触れることが出来なかったような気がするからだ。
 我々の時代、ムルソーはほとんど普通名詞だった。ムルソーといえば話が通じた。その名前を忘れることはありえない。だが「ペスト」の登場人物の名前はもう忘れてしまった。ひとつには「異邦人」は何回か読み返したが、「ペスト」は50年間読んでいないからだ。
 そこで新潮文庫を開く。1966年の第17刷である。昔の文庫は字も小さい上にすでに黄ばんでいて読みにくいことこの上ない。
 主人公は医師リウーである。これは本心を見せない男、チャンドラー描くところのフィリップ・マーロウである。彼は外見上小説の初めから終わりまでまったく変化しない。ただ寡黙にコツコツと義務を果たす。
 対照的なのが、若い新聞記者ランベールである。彼ははじめのうちこの閉鎖された街――アルジェリアのオラン――から逃げ出すことばかり考えている。だが、物語が進むにつれてランベールは徐々に変化してくる。やがて街に残り、リウーたちに協力することを選ぶ。
 従来の小説ではランベールこそ主人公であった。人間の自己変革していく姿は読者を感動させる。
 だが「ペスト」以後、ランベール的人物は主役を張れなくなった。
 これがつまりムルソー・シンドロームなのだ。読者は心境小説に飽き飽きしていた。架空の人物の心境などくどくど読みたくない。ただその言動だけを見せてくれ。フィリップ・マーロウだけを見せてくれ。
 こうして小説の文体もまた変化せざるを得ない。それは人物の行動とセリフだけを書く。くだくだしい心理描写などしない。
 そしてそのことは作者の人間哲学を表現するものともなる。すなわち、人間の心の中など、手に取るように分かるはずがない。それをわかるように書いてみせる小説はすべて哲学に反している。分かるのはどう行動し、何を言ったか、そのときどういう表情をしたかということだけだ。小説はそれだけを書く。そして心の内は読者の想像にまかせる。
 ここに20世紀の文体が誕生した。これから見れば、日本の当時の小説はたしかに百年遅れていたのである。
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