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どうでもいいことだが

 ネットに深入りするときりがなく、まったく何も進まなくなってしまうので、最近ブログもあまり書かないし、人のブログも読まない。
 それでもたまには開けてみる。先日松竹伸幸を開けたところ、次のような記事があった。
<聴涛弘の「マルクスならいまの世界をどう論じるか」の広告を赤旗が載せないと書いたとたんに注文が殺到して品切れになり、いま増刷中である。「ロスジェネ」の時にも同じ現象があった。赤旗が大きく扱ったときにはまったく反響がなかった。翌日赤旗が昨日の評価は誤りであったと書くとたちまち注文が殺到して1万部くらい売った。これはなんだろう。ゆがんだ愛情?>
 だが、不思議がる必要はない。共産党支持者でも(支持者ならなおさら)読まなくても内容が分かってしまうようなものをわざわざ買わない。共産党から無視されたとなると、それだけで読んでみる価値が出てくる。
 共産党支持者は、支持しながら、なぜこの党は大きくならないんだろうと歯がゆく思っている。それに答えてくれるようなものを読みたいのだ。公式見解は読みたくない。公式見解が正しいなら、党が停滞するはずがないからだ。
 少し話がずれるが、SEALDsが注目されるのも似た現象である。いままでにないものが生まれてきたので注目される。人々はそれを求めている。
 むかし、「カムイ伝」のコミック本を買い集めていた。忍者集団から生命を狙われて逃げまわっている抜忍カムイが主人公なのだが、漫画は大河ドラマ化してきて、百姓正助のほうに重点が移動してくる。そのとき妻が正助は面白くないと言ったのだ。「正助は民青みたいで面白くない」
 自分自身元民青の妻の口から出ると、なるほど言い得て妙だと感心した。
 人はただ理論的に正しいだけのものを求めるわけではない。心に訴えてくるものを求める。何故それが自分の心を動かすのかが分からなくとも、心に訴えてくるものにはそれなりの正当な根拠がきっとあるのだ。
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588:「理論的に正しいもの」と「心に訴えてくるもの」 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/22 at 11:11:03 (コメント編集)

「理論的に正しいもの」と「心に訴えてくるもの」
「どうでもいいことだが」2016年02月20日 (土) http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-863.html へのコメント 高原利生  20160222

「どうでもいいことだが」雑文 - 2016年02月20日 (土) http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-863.htmlで、石崎徹さんは、
「人はただ理論的に正しいだけのものを求めるわけではない。心に訴えてくるものを求める。何故それが自分の心を動かすのかが分からなくとも、心に訴えてくるものにはそれなりの正当な根拠がきっとあるのだ」と書いた。
「人はただ理論的に正しいだけのものを求めるわけではない」という文には「理論的に正しいもの」への大方の態度に対する反感がある。おそらくそれは正当な反感である。

人が「心に訴えてくるものを求める」のは、そのとおりであろう。
しかし、ここには「心に訴えてくるもの」に対する無条件の信頼がある。残念ながら、僕は、必ずしも信頼できない場合があると思う。
従って「心に訴えてくるものにはそれなりの正当な根拠がきっとある」かどうかの意味の重要さは少し減るが、重要であることには変わりない。「心に訴えてくるもの」の「根拠」は重要であろう。この問題はここでは触れない。
また、売るべき文が売れるかどうかには、この根拠があるかどうかは「重要」な意味がある。この問題もここでは触れない。

「理論的に正しいもの」の問題に戻る。
「生きるとは、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。」ことを書いている。(高原は、結論だけ書くと言われそうである。事実、少ししか考えていない結論だが、当たり前のような気がする重要なことなのでそう書いている)
このような仮説を作り続けることから、次第に、より「理論的に正しいもの」を知っていくしかない。「理論的に正しいもの」の理想の実体はない。「理論的に正しいもの」を求める態度だけが比較的に「正しい」。それも比較的に「正しい」だけである。
問題の一つは、この言い方は「心に訴えて」来ないことである。
もう一つは、この言い方は、「理論的に正しいもの」の内容でなくその形式に過ぎない。「理論的に正しいもの」を求める過程だけが「正しい」。おそらく、これで余計に「心に訴えて」来ない。

絶望的課題は、価値も手段もそれぞれが膨大な中で、「目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決し、その仮説を検証し、新しい目的(価値)と手段の仮説を作る」「生きる」論理的過程に、「心に訴えてくる」感情の入る余地を見つけることだ。余地は見つからない。それでも、この「生きる」論理的過程を感情的に拒否されるのは困る。(ホームページのまえがきに書いたような言い訳はさておいて)

コメント586:『「価値」付け足し 』(2016.02.14)にコメント  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.html#comment586
で、今考えている「手段」について、新しい感情を作り表現する芸術について書いた。以上はその補足説明である。

コメント585:石崎徹氏『「価値」について 』2016年2月13日にコメント 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/14
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-858.html#comment585
も参照されたい。

「どうでもいいこと」でないと思った内容について気になったことであった。更に余計なお世話かもしれない。
2016年3月16日の電子情報通信学会総合大会の発表に向けて考えている今の検討内容を、自分のためにもまとめたのである。ご容赦いただきたい。

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