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「価値」付け足し

「人が存在する」のところで、それは「人が行動する」「人が関係する」としてとらえるべきだというご指摘はまったくそのとおりです。
 ぼくの言葉にも不正確なものはたくさんある。認識の総体にそんなに違いがあるわけではない。ただそれぞれの関心を持つ場所が違っていて、だから言葉使いがずれてくるということでしょうか。
 ただ今回のテーマではありませんが、原発問題でははっきり考えが違い、これは譲れないだろうと思います。(これも付け足しです)
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by サマルカンドで朝食 on 2016/02/17 at 13:30:10

土曜日のこと。大雨と濃霧の中を福山に帰りました。午後からおいらの小説の師匠、中山茅集子先生の講演会があったからです。会場は「ふくやま文学館」たいへんな雨が降ってました。...

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586:全体化,一体化と価値,感情  改版 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17 at 14:14:31 (コメント編集)

石崎徹さんブログ『「価値」付け足し 』(2016.02.14)へのコメント
全体化,一体化と価値,感情 改版 高原利生 by 高原利生 2016年9月19日

A.全体化

石崎さんの言われるとおり「まず実存がある」でも「まず人が行動する」でも「まず人が関係する」でも、出発点はどうでもいい。ただし、一般論として存在から始めると保守的になりやすく、運動、関係から始めると保守的になることが防げるのではないかと思う。今、革新が必要な時代に、保守はそれだけで悪である。
サルトルの全体化志向が重要で、出発点がどうであれ、そこからどう全体が獲得できるかが課題である。

価値(観)と感情は別のものである。この点では、石崎氏のhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-859.htmlに反対する。石崎氏が『「価値」続』で、
「ぼくにとって「感情」と「価値」とは同義語です」
と書いたとき、読み飛ばしていた。余りに、自分と意見がかけ離れていると、言っている内容を理解できない。
今、「「感情」と「価値」とは同義語です」という意味が少し分かる。その上での反論である。

「感情」「価値」は、なかなか複雑で扱いが面倒である。
人の思考を含んだあらゆる運動は、他の動物と同じく知覚から始まるというところから出発する。人が他の動物と違うのは、知覚と、思考,行動の間に、膨大な蓄積物を持ってしまった点である。意識されていないこの蓄積物を、意識してモデル化することが、「基本概念から、あらゆることをゼロベースで再構築する」中の当面の課題である。
この蓄積物は、まだよく内部構造の分からない「価値(観)、感情、態度、粒度決定の総合体」と、これと相互規定するように見える歴史像と未来像についての「世界観」の二つから成り立っているというのが今の仮説である。(高原利生ホームページ参照、右にリンク)

以下、石崎さんに対する激励、批判、挑発を含む。

以下、高原利生ホームページから一部を示す。冒頭の「怒りと絶望と希望の間で,静かに全てを考え直す」を大幅に改版している。石崎さんと意見が異なるが、何かを変革するには、理念、新しい価値、世界観「も」必要である。
高原は、論理の筋道を示さず、結論だけを述べるように見えるという趣旨を、2003年にあるロシア人から、最近では、石崎徹さんから指摘された。もっともな指摘である。少し言い訳を述べておく。そのように見える「原因」は、いくつかあり、ホームページ「まえがき」に書いている。その一つは、次の事情である。 何もないところから、網羅しようとしてゼロベースで考えて得る結論がある。これは当然、いきなり結論が示されるように見えよう。この場合、出てくる結論が、ことごとく常識と異なる。上の事情だけが「原因」ではないが、理解されない。

人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。それを続けることである。
これは、長年かかって得た一つの結論である。理想の生きる全体が網羅されていると考えるが、すべての人に欠けていると思う。高原も、理想と思うだけで、この生き方は体現できない努力目標である。

論を展開する場合、必要なことは、網羅されている全体を提示すること、または、その全体の中のどこにあるかを示したうえで論ずることである。これは、議論、従って民主主義にも必須である。これも、ほぼすべての人に欠けている。
この二三年の僕の「根源的網羅思考」は、サルトルの全体化の具体的方法を考えてできたような気がする。
まともに読んだサルトルは「方法の問題」だけである。この中で彼は全体化を語ったが、どのようにそれを実現するか語っていない。実現方法は読者に任されている。それを実現しなければならない。

マルクスが述べたことについても同様である。彼は、26歳の時に全体の構想を述べた。その後、彼は、単純化して資本主義を分析してしまった。彼の弁証法もヘーゲルの自律矛盾によるもので、全体の事実を扱えない。このため、弁証法論理は見直した。10年ほどかかったが、おおまかな内容は分かったし、いくつか新しい発見もあった。http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.htmlなどで述べた。(どこかで述べたような気もするが、この2.2.4項で、「価値の内容と役割」を述べている)この後の内容は高原利生ホームページを参照されたい。石崎徹さんブログの右にリンクがある。
解釈するだけでなく、全体を求める必要がある。
マルクスが提起した対象との新しい関係も、サルトルの全体化の方法も、パースの連続性の実現方法、仮説設定の方法も、提起されただけで実現していない。
全体化、粒度と網羅を述べ続けているのであるが、今(2016年4月12日)、初期マルクスの根源的な対象との対等性、パースの連続性、サルトルの全体化の三つが、欠けている全体、網羅を作る要素ではないかと気付く。
高原の理解では、サルトルの全体化は、一時が万時、一事が万事ということだ。今の一時が万時につながらなければならない、かつ、今の一事が万事につながらなければならない。これは、それ自体が主観的にも客観的にもそうであることを述べていて、パースの連続性を含むかもしれない。
パースの連続性は、今の個人の行動の、まっすぐ歩くか右に曲がるか、夕食に何を食べるか等の判断と、今の経済をどうするか等の判断は、同じ原理に拠っているというものだ。

初期マルクスの根源的な対象(他人とその他の対象)との対等な新しい関係は、経済学・哲学手稿(草稿)を読んでいただくほうがよかろう。抜粋を、
石崎徹さんブログ「労働(高原氏のコメントから)」- 2013年11月28日 (木)へのコメント143:発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その2 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/06
に示している。
ここに引用しなかった文に、次がある。
「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」(「経済学・哲学手稿」国民文庫,藤野渉訳,p.153)
「対象的,自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性を持つということ,あるいは第三者に対して自らが対象,自然,感性であるということは,同一のことである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)
「太陽は植物の対象(オブジェクト)であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)
「それ自身が第三者にとって対象でない存在は,いかなる存在をも自分の対象として持たない.(中略) 非対象的な存在とは一つの非存在である」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)

この三つは相互に関係している。ここの引用に関する限り、マルクスが本質で、パースとサルトルはその実現方法の満たすべき属性を語っている。実現方法は語られていない。
これも、今(2016年4月12日)、気付くのは、三人とも、産業革命後の人で、対象化の世界観の真っただ中にいたにもかかわらず、言っている内容は、一体化の重要性を語っているということである。その後の、マルクスの不十分さを解釈するだけの「マルクス主義者」批判は、このホームページに繰り返し(おそらく10か所以上で、簡単に、あるところでは少し詳しく)書いている。

マルクス、パースから150年、サルトルから50年経つ。この間、科学、技術は画期的な進歩を続けているが、哲学や思想は、本質的に進歩していない。粒度を相対化、対象化できた哲学者、思想家はいない。

全体のために必要なのは、網羅である。マルクスの時代も今も、「情報」に本質的な違いはない。観念によって認識されるものは全て情報である。しかし、当時と比べて情報量は、画期的に増えたので、網羅と網羅のための粒度の重要性が画期的に増している。これと別にマルクスやダーウインは、当時から粒度の管理が画期的だった。また、今、古典として残っているのは、意識せず粒度の管理がうまく行われていたからである。

考え方の根本は、まず、主語と述語が、網羅した世界のどの部分かという粒度を意識することから始まる。難しいが、これができるだけで、あなたの思考は、画期的に一段高度になる。
その上で、第一に、あらゆることを根源的網羅思考により根源的かつ網羅的にとらえる。根源的にとらえないと、根本的変革だけでなく良い改良さえ行えない。網羅しないと「問題」を見過ごしてしまう。
考え方の第二は、世界を運動の総合体ととらえ(エンゲルス)、物理的運動だけでなく化学的作用、社会的運動、思考などを含む全ての運動を矛盾ととらえることである。つまり、世界の単位が矛盾であるととらえる。矛盾も三つの基本概念から作られる。難しく見えるが、世界を単純な矛盾という要素に分けて考える方法で、誰にも(機械にも将来)できる。
「根源的網羅思考」は粒度を網羅的に管理する方法で、矛盾と対を成す。粒度と網羅というのは矛盾なのである。何か考えるときに、1.網羅が必要な場合と、2.とにかく網羅された中の位置づけができている前提で、何か解が一つあればいい場合がある。 (矛盾、粒度、根源的網羅思考については、高原利生ホームページ「本の読み方と根源的網羅思考」も参照されたい)

全体は、
 1.知覚
 2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度、
の二つが、
 3.粒度と論理
を決め、
 4.媒介する技術、制度、科学、芸術
をとおして実現される。
これはまだよく分からない全体である。1,2と、3のうちの粒度は、普通、意識されていない。それは、おそらく生きていくエネルギーを最小にするためにそうなった。粒度の意識は、例えば、議論、従って民主主義にも必須であり、意識する必要がある。

1、2、3についての、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度の関係は入り組んでおり、よく分からない、単語の意味の仮の定義(単語の粒度である)をして関係を考えようとしているが、うまくできていない。
明らかなことは、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度ありき、では何も変わらないということだ。価値(観)、世界観、感情、態度、粒度は、明らかにそれぞれ別のもので(こういう分け方の粒度で網羅されているのかも、実はよく分からないが)相互に関係し合い重なっているかもしれない。世界観は価値観を含む定義も可能である。感情は態度に含まれるかもしれない。しかし、価値(観)と感情は別のものである。(この点では、石崎氏のhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-859.htmlに反対する)

この中の、特に「3.粒度と論理」と、「2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度」の中の世界観が、今、最も重要な役割を果たす。
仮説である世界観ができ、粒度が意識され、粒度と網羅の矛盾が解決され、全体が分かり、それにどう近づくか分かれば、人類の「前史」が終わり、どのような粒度と網羅がいいのかを検討と改革が続き、多様な個性と価値が開花する「歴史」が始まる。簡単に言うと、これがこの二年間の結論である。詳しくは、論文とホームページを見ていただくしかなかろう。

もしこれが分かっても、この、全体を求め続け、価値を実現する生き方を実行してくれる多くの人が必要である。前途多難である。

新しい知覚と感情、新しい価値を含む新しい事実の発見とその認識は、科学と芸術により、価値の実現は、制度と技術による。
科学、技術は対象化の志向を持ち、芸術、制度は一体化の志向を持つという違いである。
この違いについて、網羅的でないが、対象化志向、一体化志向の順に、二点述べておこう。

B.網羅された粒度と思考、議論

認識と価値の実現の行為のための思考、議論(その中の批判)に関する考察である。
 1.全体の内部を網羅し、その全ての問題の解を出さねばならない場合
 2.今の問題の全体の中の位置づけをしたうえで、その解を出せばいい場合
がある。問題の型の考察が必要であるが、大きくは次のことが言える。
1は、科学という認識には必須の要件である。全ての問題は本質的にこの問題である。
2は、単に感想を述べるだけなら不要であるが、思考にも議論にも最低限の要件で、特にまともな批判をする時は必須の要件である。

全体の中の粒度の意識がないことが、今の思考、議論の殆ど全ての問題である。そして、全ての人に、粒度の意識がない。何度も言うが、論理は、粒度間の関係である。粒度の意錦のない論理は無効である。論理が正しいとしたら、たまたま正しいのである。
必要なことは、思考、議論の対象について、網羅されている全体を提示すること、または、その全体の中のどこにあるかを示したうえで論ずることである。粒度を意識せよということである。これは、議論、従って民主主義にも必須である。これも、ほぼすべての人に欠けている。ただ、こうすると分かりにくく、また感情が感じられなくなる欠点がある。
そして、驚くべきことと思うが、多くの場合、議論の前提であるべき思考、議論の対象について、網羅されている全体提示やその全体の中のどこにあるかを示すことが行われないどころか、その対象についての相手の意見の不備を、自分の意見の正しさの「証明」にしてしまう。場合によっては、自分の感じ方と違うことを、自分の意見の正しさの「証明」にしてしまう。左翼政党とネット左翼に多い。また、ネット左翼は、議論の前提となる「マナー」に欠ける。
今の殆どの議論、思考は、自分の考えはこうで、相手はそれと何か一つが違うため全否定という、網羅が全くなく論理といえないものである。それどころか、かなりの場合、相手への感情的非難になる。現に、なっている。
これは、乱暴な議論をして相手を全否定するネット左翼、ネット右翼だけの問題だけではない。

C.芸術

少なくとも、大きな感情と、新しい感情を作り表現する主な担い手は芸術であろう。この項は、主に芸術に関する。芸術については全く門外漢なので、以下の「役割」は網羅的でなくまだあるかもしれず、以下は単なる断想である。
1.芸術の第一の役割は、意味のある大きな感情を作り表現すること?
大きな感情は、事実の全体像把握が含まれ、従って、新しい世界観を準備することがおそらく含まれる。 次項に比べて軽視されているような気がする。聖書の創世記、日本の神話など多くの宗教の「国作り物語」の極めて大きな役割がこれだった。今はこのような芸術は全くない。「宗教的」音楽にややその気配がする。
「国定」でなく作られてよいと思うが、絶望的である。特に左翼は作らないと断言できる。

2.芸術の第二の役割は、意味のある新しい感情を作り表現すること?
この「新しい」という意味は何だろうか?
今までより複雑な感情、より強い感情か?他の感情との折り合いの付け方が新しいのだろうか?新しい価値との関係が新しいのだろうか?対象化、意識化の形が新しいのだろうか?意識的行動との関係が新しいのだろうか?
経済学・哲学手稿で生き生きと述べられた、対象との対等な関係http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment143は、どのような感情で表現されるのか?
労働(物事を変える一切の行為)において、この対象との対等な関係の感情を描くのが文学の課題と思う。それには、既存の保守的感情に訴えて新しい感情を受け入れさせる必要がある。
カフカやサルトルが、生活の中の新しい感情を描いて受け入れられたのとは何が違うのだろう?
初めに述べたように、常に新しい価値と新しい感情を作り続けなければならないのに、保守感情がそれを妨げている。人は、失っては困る権利をもう得てしまったと勘違いをして、それを守るだけになってしまった。「何でも反対」で、新しいものを作る力を失ってしまった。どうしたらいいのだろうか?

(2016年04月19日追記)
2016年04月18日 (月)に石崎さんが「ムルソーから「ペスト」へ」 を書いている。
「ペスト」は、リウーという医師の、徹底して誠実であり続けることの素晴らしさ、それだけを描き、それがある新しい感情をもたらす物語であり、その他の登場人物、状況はそれを書くために書いたと思う。
Cで、芸術の役割、機能は「1.芸術の第一の役割は、意味のある大きな感情を作り表現すること、2.芸術の第二の役割は、意味のある新しい感情を作り表現することのどちらかまたは両方、という仮説を書いている。
上の第二の「新しい感情を作り表現する」型に当たる。誠実であることは、「客観的に」(というのが人によって異なり、難しいが)欺瞞でないこと、謙虚であること、批判的であることの三つが同時に成立すること、というのが、長い時間がかかったが、この二年ほどの結論の一つだった。いくつかにそれを書いた。最初はFIT2013である。前に石崎さんに翻訳していただいたコメントも、改版を重ねてホームページに載せている。
第一の「大きい感情を作り表現する」型も持っていると思う。ペストの状況の意味のある全体像も描いているからだ。
(僕は、後付けで、網羅的分類をし続け、それを改版し続ける。ホームページのまえがきにくどくど弁解を書いている。読みにくくなるご迷惑はお詫びしておく。)

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