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「価値」について

 高原さん、「コスモス」を評価していただいて、ありがとうございます。
「コスモス」と「失われた夜のために」は若干長いので、「まがね」で発表するには金がかかり過ぎ、原稿のままで幾人かに読んでもらいましたが、あまり評価されませんでした。
 ブログはただで公表できるのでアップしましたが、読んでくださったのは、高原さんと木沼さんだけです。(お二人の読まれた作品は若干異なりますが)(ブログでアップしてしまうと新人賞の応募資格が無くなるようで、応募を考えている人は要注意です)
 高原さんは前記両作品とほかにもいくつかブログ上で読んでくださり、いずれもありがたい評価をくださいました。木沼さんからいただいた評価こもごも、たいへん励まされております。
 そこで話が変わりますが、高原さんは豊かな文学的感性をお持ちの方とお見受けし、それ故かえってその理論的お仕事との間に多少ギャップを感じてきました。きょう書きたいのはこのことです。
 きょういただいたコメントの中に以下のようにあります。
 <新しい知覚と新しい価値の発見は科学によって、新しい感情の発見と認識は芸術によって、そして、その実現は制度・技術によってなされる>
(文章を多少さわらせてもらいました。内容を変えずにより理解しやすい文章にしたつもりです)
 半分賛成、半分不納得です。
 芸術の役割を評価されているところに、さてこそ高原さんだと思います。
 でもぼくは相変わらず「価値」の位置づけにこだわります。もう一歩進めて、これも芸術のほうに持って来てほしいのです。
 ここがぼくと植田さんとの違いでもあると思います。
 デカルト主義者バートランド・ラッセルは「如何にするかは頭が判断するが、何をするかは心が決める」と言いました。デカルト主義者ですから二元論です。
 ぼくは二元論者ではありませんが、ラッセルのこの言葉には賛成です。
 人は価値観にもとづいて行動しますが、価値とは何を大切と思うかということであり、それは心の問題です。いかなる科学も価値を生みだすことはできません。人間の心だけが価値を生みだします。
 遺伝工学は、それが遺伝的に決定されていると主張し、脳科学者は、脳の仕組みが決定すると言います。社会学者は社会の歴史がそれを生みだすのだと言います。
 だが、すべて後付けの理屈です。
 ぼくは基本的に実存主義者なので、「まず人が存在する」というところから出発します。人が存在し、なにかを欲望します。これが価値です。科学者たちはそれぞれ自分の得意の分野で、その価値がどう生まれてきたかを解き明かそうとしますが、すべては後付けなのです。
 最初に存在するのは、人間の心の中の価値観です。これが存在しないところには、「価値」に関するいかなる科学的研究もありえません。
 もちろん、人間という存在には共通の部分が非常に多いので、「価値」にも共通の部分が多い。でも異なるところも多く、人間にとってはそれがとても大事なことです。
 だから、科学は価値を生みだしもできないし、まして決定もできない。「人間が存在する」ということが最初です。そして人間は存在したときには価値を持っています。
 だからといって、ぼくはマルクス主義を否定するわけではありません。
 人間は第一に遺伝生物的存在であり、第二に社会環境的存在です。その価値観は当然それによって影響され制約されます。ゲーテの後頭部には貴族的ちょんまげが付いていたと学生時代さんざん聞かされましたが、その育った社会環境が価値観に影響を与えるでしょう。
 後付けの分析だから正しくないと言っているのではありません。その分析はその限りでは正しい。社会がなければ価値も生まれてこない。でも、にもかかわらず、人間がそこにいたとき価値はすでにそこにあるのです。それは科学が生み出したものでも、分析が生み出したものでもありません。
 遺伝と脳の組織構造と社会とが生みだしたのだ、という言い方は基本的に正しいでしょう。でもそういう言い方をしたとき、実在物がそこからすっぽり抜け落ちてしまうのを感じます。だって人間の心はそこにあります。これを分析しつくすことは不可能です。漱石は人間の頭のなかは世界全体より広いと言いましたが、まさしくそのことをぼくは強調したいのです。
 高原さんは新しい価値観をずっと探してこられ、それを理論的に発見できるはずだと考えておられるように思います。あるいは人類の発生史にまでさかのぼって考えられているところを見れば、単に机上論的なものではなく、社会発生学的な実証的な研究として考えておられるのかもしれない。
 ぼくもそういうものにはずっと関心を抱いてきたし、最近もゴリラのいくつかの種についての面白い文献を読みました。
 人間とは何かについてはいろんな方面から考えることができるでしょう。でも、そういういろんな方面について、ぼくらは専門家からその研究の成果を学ぶ以上のことはできません。ぼくら自身がいまさら専門家になれるわけではないのですから。
 そういったことを学ぶこともまたぼくらの価値観を変化させていく。でも、年をとったからといって自己の価値観を完全に自ら把握しつくしているわけでもない。自分の中にいろんな要素がある。
 まとまらなくなってきましたが、人間は混沌です。そしてそこは少なくとも権力には踏み込んできてもらいたくない場所です。
 ぼくが言いたいのは、科学に価値をリードされたくないということです。価値を気安く扱ってほしくないのです。
 考えがまとまらないのでこれでやめます。高原さんのなさろうとしていることをぼくが誤解しているのかもしれません。

 なお、Pity is akin to love.――これは「可哀そうだた、惚れたってことよ」ですね。たしか「三四郎」のなかで、与次郎が迷訳して失笑を買いますね。その問題を提出したのは美禰子だったように覚えています。
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585:石崎徹氏『「価値」について 』2016年2月13日にコメント 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/14 at 00:27:14 (コメント編集)

石崎徹氏『「価値」について 』2016年2月13日
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-858.html

(追記、2016年2月14日
大体賛成なのです。
ただ、
「ぼくは基本的に実存主義者なので、「まず人が存在する」というところから出発します。人が存在し、なにかを欲望します。これが価値です。科学者たちはそれぞれ自分の得意の分野で、その価値がどう生まれてきたかを解き明かそうとしますが、すべては後付けなのです。」
ということに対してだけ一言。

僕の考えていることは、もちろんすべて「後付け」の近似モデルなのです。元気の出ない言い方になりますが、後付けを行い続け、近似モデルを変更し続けなければならない、事実と可能な価値を見直し続けないといけない、というのが僕の「根源的網羅思考」です。
また近似モデルとしては「まず人が存在する」よりは、「まず人が行動する」ないし「まず人が関係する」のほうが良い。同じことをいっているのでしょうけど。
存在は、他と関係せずにあることはできない。現実的であるためには他と「関係」しないといけない。「関係」しない存在は「非存在」だとマルクスは言いました。見ることも聞くことも触ることもできない存在は「非存在」です。
そして、関係し運動するにはエネルギーがいる。
エンゲルス「フォイエルバッハ論」の「世界は、物の集合体でなく運動の集合体」ですね。過程の集合体だったかもしれないけど、これも同じです。
価値を、価値―目的―機能―属性、という系列で考えています。植物の太陽に対する「反応」も属性に依存していますが、植物は太陽が大事だとは思いません。生命の系列のどこからかで「価値」が発生しますが、それを追うことはあまり意味がない。

石崎さんに読んでいただいた物々交換を論じた「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」 [THPJ2012]で、次のように書いています。

属性は、分かりにくい。分かりにくい理由の一つは、属性の粒度特定が、価値、機能、属性の歴史的な関連の連鎖を、大局的根源的に判断して行われるべきもので、かつ、長い目で見れば変化しており、また、無意識のうちの判断で行われるからであろう。
今の私の価値観と属性は、次のような連鎖を経た相互規定の関係にある。
今の行為の目的は、無意識の価値を具体化したものになっており、価値は無意識の行為の規定要因である。何かの意味は価値に規定されている。機能は運動、行為の意味である。属性は、機能に一対一に対応する客観的なものである。つまり、究極の価値から他のより粒度の細かい価値が展開される。
意図する私の機能と意味から、
1) 意図しない私の機能と意味→その可能性の機能と意味、属性、
2) 他人の機能と意味→その可能性の機能と意味、属性
という階層と相互規定があり、機能が属性に次第に展開されていく。
こうして、主観的なものが、次第に客観的な属性にまで長い歴史の末に、展開された。この階層は、
価値→目的→機能→(単なる) 意味→属性
という大きな意味の階層の一部であり、次第に意味が薄れていく。それぞれにも、究極の価値→より小さな価値といった階層、目的の階層、機能の階層がある。
相互規定は、究極の価値も日常の意味の歴史を総括して得られることをも、今の目的が、大きな価値、今の物事の意味の総体に規定されていることもあらわす。上の系列の矢印は逆向きでもある。
価値←目的←機能←(単なる) 意味←属性 ([THPJ2012]引用終わり)

今、身辺の処理と3月の九大での発表のOHP作りに時間を取っています。発表テーマは、宇宙論理学のための準備に関するものです。しばらくそれに専念します。

言うのを忘れていましたが、前から、科学は、対象的体系的認識、芸術は、一体的認識で、どちらも「認識」ととらえていました。価値の認識に両方が関係するのは当然なのでした。いずれホームページも直します。
追記終わり)

今日はもう寝ますので、少しだけ。

論理は、感情に勝てない。無意識の価値観にも勝てないのです。
定年退職後の十二年半の後半は、生き方、価値について考えてきました。
その中で、「マルクス主義」、左翼について考え方が変わりました。左翼が嫌いになりました。大きな理由は原発に対する態度と、左翼は、論理がゼロのように見えることです。バカなネット左翼を読むせいかと思い、最近、ネット左翼は読まないようにしています。

価値については、例えば、『「弁証法論理と生き方」(ノート)(第一部)粒度、矛盾、網羅による弁証法論理』
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.html
のはじめにまとめていますので見ていただければと思います。

科学、技術、制度、芸術の四つに文化を分けて考えています。これもどこかに書いているのですがすぐには出てきません。

とりあえず、高原利生のホームページ「弁証法論理の準備及び概要」6項からの抜粋を少し変えます。ホームページは、常に変わっています。
価値(観)を変えるのは、科学と芸術?と考え直しています。あいまいな文ですみませんが、常に考えは変わるのです。今後も変えます。

(以下引用)
生きるとは、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。

「弁証法論理と生き方」(ノート)(第一部)の「粒度、矛盾、網羅による弁証法論理」http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.htmlの冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。

人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」[THPJ201501]

愛、自由は価値である。価値は、種―個体―個体と外部の関係という系列のそれぞれにあり、愛、自由は、個体と外部の関係についての価値である。個体の属性の価値と言ってもいい。上位の価値に種の存続という価値と個体の健康な生という価値がありそれに従属する価値である。

これは目的の全体を構成している。
もう一つ全体がある。これを伝え実現する手段の全体である。
手段の全体は、仮説だが、
1.知覚と感情、
2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、(価値,事実に対する)態度、
3.粒度と論理、
4.媒介する技術、制度、科学、芸術である。
万能の手段はない。何かが分担しないといけない。多分、それは感覚に作用する手段と論理に作用する手段である。
新しい知覚と新しい価値の発見は、科学によって、新しい感情の発見とその認識、価値と事実の認識は、芸術によって、実現は、制度、技術にって行われると思ってきた。

芸術の機能は、新しい感情の発見とその認識であろう。新しい価値の発見とその認識は、芸術の機能ではないのであろうか?
サルトルは小説を書き思想の書も書かねばならなかった。彼が小説と思想の書で何を書いたか?

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