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浅尾大輔「支部の人びと」(「民主文学」16年2月号)

 冒頭の文章のあまりの下手さに、ちょっと呆気にとられた。小学生の作文だってこんなにひどくない。浅尾大輔はどうしてしまったのか。
 だが、むかし「ロスジェネ」で読んだ彼の作品が興味深いものであったことと、その冒頭がやはりちょっとひどかったことを思い出して、ともかく読んでみた。読み進むにつれて文章は整ってきたが、でもまったく素直な文章というわけではない。ところがやがて馴染んでくる。その文章がなんだか心地よくなってくる。彼の文章には文体感覚がある。ありきたりではない。個性的な文体であるのは確かだ。文学の匂いがする。それでもところどころ意味のとれないところはある。この書き方はおかしい、ここはこう書くべきだろうと思いついたりするが、いちいち立ち止まっていてはきりがないので、分かりにくいところは飛ばして読む。飛ばしてもまあ大意はつかめる。
 一地方の40代の共産党女性町会議員の視点で始まるが、そして最後まで彼女が主人公なのだが、視点はめまぐるしく移動する。ドキュメントタッチなのだ。新聞記者が取材に行って一人一人にインタビューしてまとめあげたという感じ。一人一人の心の中に立ち入って書く。これはこういう形を意識した小説なのである。
 登場人物は膨大である。百枚に満たない短い作品に、何十人も出てきて、それを一人一人書き込むのである。もちろん完全には書けないのだが、なかなか要点をつかんで書いており、一人一人がたいへん魅力的である。
 何を書いたのか。
 共産党という一つの政党の、いちばん先っぽの一支部に、これだけさまざまな個性を持った魅力的な人々がいるぞということを書いたのだ。共産党と一言で言っても、単純じゃないぞ、これだけ複雑なのだぞということを書いたのだ。そして浅尾大輔独特の複合的な文体が、この人々の集合体に現実的なふくらみを与えている。才能を感じさせる作品である。
 ただ疑問を言えば、これは共産党だけの話である。共産党というのは小さな世界だ。その外には広い世界がある。その広い世界に住む人たちが読んだとき、この小さな世界を理解できるだろうか。
 ぼくは党員ではないが、人生の途上で密接にかかわってきたので、公平な判断ができない。党と無関係な読者の感想を聞きたい。
 あと気になった点二つ。
 主人公二ノ宮ハルミの元夫のこと、結婚から離婚に至る経過がまったく書かれていない。それでいて離婚の原因は自分にあったのだと反省してみたりしても、イメージが湧かない。他の人物についてずいぶん詳しく書いているだけに、これはどうしたことだろうと思う。
 最後に最も気になった点。
 後半以後になって作者らしき人物が登場してきて、いきなりストーリー展開上の重要な地位を獲得してしまう。これはまずかった。この人物は登場するべきではなかった。これは最大の失敗である。
 作品から少しだけ離れるが、いま10代から20才そこそこの人たちが政治の舞台に登場してきて注目を浴びている。古い活動家が焼きもちを焼くのではないかと心配していたが、この作品を含めて「民主文学」で目にしたもの以外にはあまり情報もないわけだが、その限りでは、どうやら杞憂だったのではないかとほっとしている。
 思うに、ずっと活動してきた人たちは、活動の成果がなかなか現れないことに苦しんできただろうし、だからいま若い人たちがどっと登場してきたことは、彼らにとって純粋に喜び以外のものではないのだ。
 逆に、若いときに運動から離れてしまった人々のほうが、置いていかれるような焦りを覚えているようにも思える。彼らは活動してきていないので、時代の変化を体で感じとっていないし、ただ頭の中で栄光の過去を思い浮かべるだけなので、現代の動きに全くついていけないのだろう。
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578: by デボーリンの墓守 on 2016/02/03 at 23:00:56 (コメント編集)

古本屋通信記事にまた支離滅裂なことが書いてありますが、それは後回しにして、古本屋通信が「一国社会主義者」だと言っていることについて書きます。

一国社会主義が不可能であるということは『共産党宣言』の時代から自明のことであり、ソ連崩壊もその正しさを立証しています。

しかし、宮顕時代は、宮顕無謬神話を維持するためにあくまで一国社会主義論にしがみつかざるを得ませんでした。しかし宮顕引退後は大きく変わりました。不破は老いてから「無謬神話」にこだわらなくなったのか、宮顕時代には絶対にありえなかったような発言をしています。

その一つが一国社会主義論否定です。『マルクス、エンゲルス 革命論研究 下』(新日本出版社2010)の327ページです。

>マルクスの過渡期論では、…革命に成功した国の内部での資本主義勢力…との闘争(の)課題は指摘されますが、社会主義をめざす体制と資本主義の体制との国際舞台での闘争は、問題にされません。
>同じ地球上に、強力な力を持った資本主義諸国が存在し続けるとしたら、かりに、社会主義革命が勝利した国…内部体制からすべての資本主義的要素を一掃することに成功したとしても、資本主義か社会主義かの闘争に決着がついたとは言えないでしょう。
>社会主義の道にふみだした国ぐににたいしても、資本主義の諸要素が、世界市場と国際政治の経済的・政治的連関を通じて、あらゆる方面から浸透してくるうえ、情勢の推移によっては、資本主義の復活をめざす企ても起こりうる…
>このことを考えると、世界の舞台で、資本主義か社会主義かの闘争に決着がつけられることも、過渡期の終了の必要条件…

これはこれまでの日本共産党であれば絶対に言ってはならなかったことのはずです。しかし不破は言ってしまった。もちろん、一国社会主義論を否定するとこれまでの立場の多くと理論的整合性が取れなくなりますが、それを解決する道筋もだいたい示されています。それは「社会変革をするのは共産党でなくてもいい」ということです。

575: by デボーリンの墓守 on 2016/02/01 at 03:10:20 (コメント編集)

私はその作品を読んでいませんが、「さまざまな個性を持った魅力的な人々がいる」ということは事実だろうと思います。しかし同じことは様々な組織に言えることです。そして上に行けば行くほど腐っているのもいろいろな宗教団体などと同じです。
あなたはブルジョア議会主義者だとおっしゃっていましたが、私が議会主義は必然的に左翼の堕落を招くと確信したのはある新社会党地方議員の選挙を手伝った時でした。その時に議員活動の内容を聞いて、「ああ、これは議員を長くやっていれば確実に堕落するな」と思ったものです。筆坂秀世も同じことを言っています。参議院比例という最も「どぶ板」選挙から遠いところにいた彼ですら「議員を何期もやっていれば確実に革命のことなど忘れてしまう」といっていましたから、地方議員ならなおさらでしょう。
それでも共産党議員や生活と健康を守る会などの組織は役に立つと思う人も多いでしょう。それが悪いとまではいいません。ただ、「共産党」と名乗るのはやめるべきではないか、なぜなら自他ともに欺いているのだから。
私は川上徹『査問』を読んだとき、あんなことをされながら長年党にとどまり口を開かなかった宗教的党崇拝の深さにあぜんとしましたが、党を離れたあなたや古本屋通信のような人々ですらいまだに党を支持していて、党官僚たちを甘やかしているのも堕落が止まらない一因です。創価学会を脱会しても「中間の幹部たちは悪いが、池田先生の教えは正しいから池田先生に従っていく」というような人は多いですが、あなたも古本屋通信も同じようなものです。
それにしても古本屋通信記事には驚がくしました。「第7回党大会以後は細胞単位まで降りて、いっそう徹底的な民主的な討議が行われました。」なんていうことを書いている。これを読んで「党信仰というのは党を離れて何十年もたつ人でもこんなに強いのか」と思いました。「いっそう徹底的な民主的な討議が行われ」たというのなら、どうして第7回大会以後は「団結と前進」が発行されなかったのでしょう。宮顕は第7回大会以後は議論を抑圧し、「党勢倍加運動」で理論水準が低く、宮顕に盲従する党員を大量に増やして第8回大会で反対派駆逐に成功したのです。

>第7回党大会から第8回党大会までは、党史上で初めて集団的指導体制が確立され、個人中心の専横的党運営を廃し、民主主義的中央集権制が確立された時期でした。

これは「本気で書いているのか」と疑わずにいられないものです。第7回党大会から第8回党大会まで宮顕がいかにやりたい放題の専横的指導で反対派を駆逐して宮顕絶対体制を確立していったか、日本共産党史を扱った本ならどれにでも書いてあるはずです。それに古本屋通信は明らかに「民主主義的中央集権制」が何なのかも理解していません。日本共産党の「民主主義的中央集権制」は明らかに創価学会の「池田集中制」とどこが違うのか?

>国際会議に出席するための中央委員会総会開催? 笑わせる(笑)。ならば原水禁世界大会に出席するためにも中央委員会総会を開催するのか? そんな党指導部が何処の世界にあるものか。

これも、驚くほかはないです。原水禁世界大会と81か国共産党・労働者党会議では重要性が段違いです。前者は当時の用語でいう「国際民主運動」の一つであるのに対し、後者は「国際共産主義運動の総路線」を確定する会議なのです。宮顕はこの会議で、「ヨーロッパ以外の発達した資本主義国における民主主義革命」を声明に書き込ませ、帰国後はこれを「宮顕綱領は国際共産主義運動が認めている」と「ご印籠」のように反対派駆逐に利用したではありませんか?中央委員会総会すら開かないで「ご印籠」をもらってきて反対派駆逐に利用するのを「専横的」と呼ばずしてなんと呼ぶでしょうか?

それに古本屋通信記事は日本共産党の選挙候補者の決定について理解していません。国政選挙では日本共産党の候補者(もしくは独自候補を立てない場合の態度)はすべて常任幹部会の決定事項です。常任幹部会がどうしても議員にしたい人を上からおろしてくる場合(志位和夫の初当選のような例)と、都道府県委員会から中央に上がってきて常任幹部会が認める場合もあります。衆議院が中選挙区制だった時代は、中央役員でない国会議員や、国会議員になってしばらくしてから中央役員になったものもいましたが、そういう人は後者になります。

それに古本屋通信は相変わらず部落問題を何ら理解していないようです。2002年の同対法終了以後、部落解放同盟(主流派)が腐敗転落を深め、戦えない組織になっていっている(ただし地域差は大きい)こともあり、差別がますます激化し噴出していることは部落問題を少しでも知っていれば明白なことです。

>つまりこうだ。ますます腐朽する日本資本主義が、その階級支配を継続し強化するために、旧身分制の残滓である部落の存在を利用する階級的必然性があるかどうかという事である。私は否定的である。

ここに根本的な誤りが集中して現れています。「旧身分制の残滓である部落」という認識はとっくに克服されたはずです。現代における部落差別はすぐれて資本主義的な身分差別であり、資本主義が「ますます腐朽する」からこそ部落差別が激化しているのですが。古本屋通信はかつて「史的唯物論」について語っていたように記憶していますが、彼の「史的唯物論」は単なる経済還元論のようです。つまり、黒人公民権運動が盛り上がる以前に「資本主義の発展により人種差別などは消滅する」と言っていた左翼と同じような思想でしかないのです。「岡山の解放同盟は評判が悪い」とかそういう次元の問題ではないのです。ますます激化し噴出する差別と本当にたたかえる運動を作り出していくことが緊急の課題なのです。もちろん、日本共産党が党員資格に日本国籍を必要としている「からこそ支持する」などという古本屋通信には部落差別だけでなく国籍による差別も理解できないのでしょう。

いったん切ります。

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