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「ひきこもり」に関する独り言

 ひきこもりが話題になりはじめて、そう何十年にもならないが、昔からひきこもりはあった。現にぼく自身、生まれた時からずっとひきこもり続けているような人間だから、ぼくのなかでは一貫して切実なテーマだった。書けずにきたのは普遍的なテーマとは思えなかったからだ。でもこのごろ、世の中がぼくに追いついてきた感じで、必ずしも特殊な問題ではなくなってきたので、遅ればせながらやっと書く気になった。それが「失われた夜のために」である。
 だが、ひきこもりの何を書くのか? 動機か? 否、ぼくは動機に関心がない。
 もちろんひきこもりの状況に説得力をもたすためには、動機をほのめかすくらいはせねばならない。でもそれは読者を小説世界に引きずりこむための仕掛けであって、動機自体に意味があるわけではない。なぜなら所詮作りごとだからである。ルポや手記なら、そこに書かれる動機は問題を考える資料となりうるだろう。だが作りごとで作った作りごとの動機に何の意味があるのか。
 それに実際の場合にも動機は単純ではない。複合的である。だから小説世界ではいくつかの要素をあいまいにほのめかすのがせいぜいであって、これを単純化し、固定化してしまうなら、それが社会的動機であれ、あるいは心理的動機であれ、通俗小説となってしまうのを防ぎ得ない。
 推理小説では、殺人動機の説得力如何が作の評価を大きく左右する。「こんなことで殺す人がいるかい?」と思われてしまっては失敗である。説得力のある動機はときに人を感動させさえする。たとえ作りごとであっても、読者はそこに人情の機微を感じるのだ。
 だが現実世界の殺人犯の動機を我々はいったいどの程度に把握できるだろうか。
 日本王裕仁による大量殺人、連合赤軍のリンチ事件、あるいはオーム真理教による殺人にかかわった人々、その社会的背景や、個々人に固有の心理を突き詰めていっても、分かるのはぼんやりとした輪郭だけであろう。
 もちろんこういう現実の事件に関しては、できる限りの資料を駆使して真相に迫るのが望ましい。迫るだけで到達することは不可能だが、それは本人でさえも自らの動機をかくかくしかじかと断定することはできはしないからなのだが、それでもぼんやりとした輪郭はつかめる。そういう作業が必要なのは、そこからなんらかの教訓を引き出し、今後に生かすためだが、その作業が有用なのは、それが現実の事件だからである。
 作りごとの世界にあっては、動機なるものは描かれる状況に読者をいざなうための仕掛けとしての意味しかない。それは特定されればされるほど現実から遠ざかり、通俗化される。
 以上、ぼくが小説において動機を重要視しない理由の要約である。
 では、動機を書かないとすれば、何を書くのか?
 ひきこもりからの立ち上がりか?
 これもまたそれがルポでなくて小説であるなら、全く無意味なことだと思う。
 現実にひきこもりから立ち上がった人々のルポや手記であるなら、それは有用である。その記録がどの程度現実そのものかについて読者は留保条件を付けつつ読まねばならないとしても、それでもそれは課題を考察する資料とはなる。
 しかし作りごとの世界でひきこもりからの立ち上がりを書いてそれがよくできていて人を感動させたとしても、それもまた一つの通俗小説でしかないだろう。要するに感動させるように仕組まれた小説なのだ。
 誤解してほしくないが、ぼくは通俗小説を否定しないし、むしろ小説というものには通俗的要素は必要だと思っているし、ぼくの小説にもそういう要素は取り入れているつもりである。
 ただ、ここで言いたいのは、それが人を感動させるのは物語がうまくできているからで、もちろん、「うまく」というには、社会や人生への洞察があるいは深く、あるいは多少なりとも込められていればこそなのだが、そしてそこから人々はルポや手記と同様の、あるいはそれ以上の教訓を得ることもできようが、それでもそれは作りごとなのだということである。
 それは心理の実験としての意味は持ち得よう。考察にヒントを与えるものとはなりえよう。しかしあくまでも一次資料ではない。一次資料としての価値はルポや手記に劣る。
 言いたいことは、小説がもしノウハウとして書かれるなら、それはそれだけのものであるということだ。
 ではいったいぼくはなにを書こうとするのか?
 ひきこもりの動機でもなく、ひきこもりからの立ち上がりでもないとしたら、ひきこもりについて書くべきほかの何があるというのか。
 それは「ひきこもり」そのものである。
 いかにひきこもり、いかに感じ、いかに考えているか、そのひきこもりの状況そのものをフィクションとして描き出すこと、この作りごとの世界に豊かな現実感を与えること、ひきこもりが決して特殊なことでもなければ、病気でもない、それは普遍的な現象であり、そこには人々が顧みるべき優れたものが多く潜在しているのだということ、ひきこもりは人より劣った生き方なのではなく、それもひとつの正当な人間のありかたなのだということ、ひきこもりのなかには人生のあらゆる問題、あらゆる哲学が含まれているのだ、それは全人類が顧み、省察してみる値打ちのある現象なのだということ、人々はみな自らのうちにそこに書かれた物語との共通項を見出すことができるだろうということ。こういう世界を構築したいというのが、ぼくの野望なのである。
 ぼくが書きたいのはひきこもりの哲学的側面なのだ。ひきこもりを精神病棟から救い出し、それの本来あるべき正当な場所に据え直したいと思っているのだ。
 それがなんの役に立つのかとは訊かないでほしい。ただそうしたいと思うからするのであって、そして人が是非こうしたいと望むことには、だいたいにおいて何らかの普遍性が含まれているものである。だって、人は誰しも時代の子であり、社会の子だから、その望むことや考えることがそんなに大きく時代や社会を離れることはないはずだ。
(ブログに現在掲載中の本作には期待しないでください。あれは失敗作であって、全面的に改稿予定です)
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コメント
18:ありがとう by 石崎 徹 on 2013/03/24 at 22:01:51 (コメント編集)

 ただし、実際に改稿にかかるまでまだ時間がかかりそうだ。今回独り言をあえて書いたのは、自分自身への心覚えだった。最近いろんな文書を読むせいで自分の居場所を見失いそうなので、一度確認しておきたかっただけです。当分模索が続きます。

17:なるほど by 笹本敦史 on 2013/03/24 at 20:19:07

新作に期待が高まります。(プレッシャーになってしまう?)

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