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大仏次郎賞および大仏次郎論壇賞

 読めてもいないし、たぶんずっと読めないだろうが、その紹介記事に興味を持たされた。
 大仏次郎賞のほうは済州島事件の当事者として、心の闇に苦しみながら日本語で詩を書いてきた金時鐘の回想記。事件を内部から書いたという意味でも関心を呼び起こされるし、またそれとは別に、詩人として、民族の言葉と民族の思考方法の関連について示唆しているらしい部分にも興味を引かれる。
 一方、論壇賞は経済学である。72年生まれの井手英策「経済の時代の終焉」。自由競争とグローバル化がもたらす社会の分断と格差を解決する手立てとしての「普遍主義」を提唱している。
 紹介記事を読んでいて、高原さんが追及しているものと似ているなと感じた。というのはつい先日、ぼくは高原さんを論じて、「理念で運動は起こらない。運動の主体を見いだすことが必要だ」と書いた。
 井手英策の考察の向かう先も、改革の主体をどこに見いだすかということではなく、改革のための理念の提起から制度の設計へと向かうものであるように思われる。その内容は高原さんとは異なるが、理念の追求を重んじる点の共通性を見た。
 そしてそれも必要なことなのだと気付いた。
 21世紀の改革は、ブルジョワからプロレタリアに権力が移りさえすればパラダイスが来るなどといった単純なことではもはやありえない。
 人間社会は複雑化している。この複雑化の方程式を解いていく作業は必要だ。
 もちろんマルクスが言ったように、社会の理想モデルを描いても、その実現手段がなければ何にもならない。主体の問題は欠くことができない。だが理念は、この主体を生みだす要因のおのずからなる一部であるとともに、主体が主体たることを保障するものでもあり、その先にはまた、制度設計も必要になってくる。
 不破哲三が「ゴータ綱領批判」を引いて、「社会の形はその時代の社会が決める。必要なのは分配の形態ではなく、生産手段を誰が所有するかということだ」と述べてレーニンを批判し、ソ連を批判した。
 国際共産主義運動史という特殊な世界の内側(つまりソ連においてすでに社会主義が実現したのか否かというところに発するイデオロギー論争)では必要な批判だったのかもしれないが、現代の開かれた世界に持ち出せば、もうまったく無意味な批判である。
 所有という問題は経済学的にも政治学的にも社会学的にも単純な問題ではない。そこには複雑な制度設計が必要で、それがなければ成り立たない。
 そして分配の問題は核心的問題である。現在最も重要な問題なのである。それは所有問題に先だって論じられねばならないし、それを論じることなしには所有問題を提起することすらできはしない。
 運動というものを考える際に、そこにはいろんな要素が加わってくる。もっとも単純な例で言えば、「60年代のカッコ悪いデモなんかしたくない。もっとセンスの良いデモがしたい」ということひとつとっても、それは運動の単なる戦術ではない。運動の本質にかかわる問題なのだ。
 つまり我々のめざす社会が画一化された糞面白くもない社会なのか、それとも個人のセンスが最大限尊重される社会なのかということは死活的な問題である。
 そういった様々な問題がある。
 うすうす気づいていたことではあるが、高原さんの仕事に対するぼくの疑念には、もちろんそれをすべて捨て去るつもりはないけれど、一方的なところがあったかもしれない。そういうことを今回感じた。
 そしてもうひとつ、ピケティも脚光を浴び、今回も同じ問題提起である。現代資本主義に対する批判がさまざまに現れている。
「真正」左翼に言わせればそれは資本主義の延命を図るスパイ御用学者たちの企みだということになるのだろう。どう考えるのも勝手だが、新自由主義経済学の全盛時代は崩れつつある。いまやその構造的欠陥が明らかにされつつある。そしてその周辺で試みられるすべての考察にはそれぞれ耳を傾ける価値があるだろう。
 もうひとつ。何年か前、「人々は空想的社会主義からやり直そうとしているように見える」とぼくは書いた。空想的社会主義、すなわち理念と制度設計である。科学的社会主義が失敗し、色褪せたいま、もう一度ロバート・オーエンやフーリエへ帰ってやり直すことが必要とされているのかもしれない。
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