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ボリス・シリュルニク

「自分と違うものを見いだす喜びを知ることが大事です」ボリス・シリュルニク〈朝日新聞12月1日〉
 この発言から始めたが、まずは関係ない。あとで書く文章と関係してくるはずなので、とりあえず冒頭に掲げた。

 このところブログを更新できていない。自ブログだけでなくネット世界全体とご無沙汰である。かといって、小説の執筆がはかどっているわけでもなく、読書が進んでいるわけでもない。雑用も立て込んではいるのだが、それ以上に時間の使い方が下手なようで、若いころと比べて地球の回転速度が格段に速くなったような気さえしている。
 きのうの同一時間帯に、過去記事に3つの拍手が付いたが、高原さん関連の記事なので高原さんだろうかと思ったりしている。拍手コメントが付いてないので、どういう意図の拍手なのか不明である。

 それとは別に、高原さんと、デボーリンさんからコメントが来た。まず、高原さんに。
 中川徹教授のTRIZホームページに掲載された高原さんの『差異解消の理論 (3) 弁証法論理と生き方』はぱらぱらと拾い読みしましたが、相変らず難解で長いので、いますぐにはとても読めません。いつか気持ちが落ち着いたら読むということでご勘弁願います。
 高原さんはぼくがブログで公表した読みにくくて少し長い小説を最も熱心に読んでくださり、丁寧で的を射た批評をくださいました。当然ぼくの方も高原さんの著述に対してそうすべきなのですが、すぐにはできないことをご容赦ください。

 さて、デボーリン氏です。
 朴裕河(パクユハ)が韓国で刑事告訴され、日本の知識人グループが抗議文を発表した件です。
 デボーリンさんはこの件で古本屋さんの書く記事に不満があるが、古本屋さんがコメントを嫌うので、ぼくのブログを意見発表の場として利用しているようです。
 それは別にかまいません。ぼくのブログの趣旨とまったく無関係だったり、極端に滅茶苦茶な内容だったり、読むに堪えない幼稚な言葉使いだったりしない限り、どなたの見解も尊重します。
 最近古本屋さんのブログも読めていませんが、従来の傾向からどういうことを書いているかは分かります。
 慰安婦問題に関して、ぼくは古本屋さんには異論があり、デボーリンさんとはおおむね一致していると思います。
 ただ、ぼくは朴裕河の「帝国の慰安婦」を読めていないので、この件で発言する権利がありません。
 前田朗の「朴裕河訴追問題を考える」は一応目を通しました。きのう(5)まで出ましたね。なかなか真面目な論考だとは思いましたが、自分が読んでいないものへの論考の当否は判断できません。
 前田朗は自分は韓国の刑法には無知であると告白しつつ、ヨーロッパ諸国やイスラエルの刑法を例にあげて韓国検察には起訴する権利があると結論しています。
 ぼくとしては、法律論が出てくるので、そこには微妙な問題があるような気もします。法律には政治が絡んでくるし、当該国家の要因が絡んでくるからです。ドイツやイスラエルにはユダヤ人問題に敏感にならざるを得ない歴史的必然性があり、それをただちに普遍化できるかは、個別の検討が必要でしょう。
 前田朗が上野千鶴子を口汚く罵っている文章は、そのいきさつは知りませんが、前田氏に対する信頼を損ねさせるものでした。
 一方、松竹伸幸が、朴裕河を肯定的に評価している文章は読んだ記憶があります。高橋源一郎も、朴裕河の「帝国の慰安婦」ではありませんが、彼女の「和解のために」という2006年大仏次郎論壇賞を受賞した著述を読んだ感想として、彼女に肯定的評価を与えています。(「ぼくらの民主主義なんだぜ」104ページ)
 要するにいろんな意見があります。あなたは「帝国の慰安婦」を読まれたようなので、あなたにはあなたの意見があり、それを発表する権利がある。ぼくは読んでいないので、権利がない。だからいろんな意見を、そういういろんな意見があるのだなとして受け取るだけです。すべてのことがらについて自分の意見を持つことなどできません。

 そこで、冒頭に戻ってください。ボリス・シリュルニクです。
「自分と違うものを見いだす喜びを知ることが大事です」
 彼は両親と親族のほとんどを殺され、強制収容所へ移送される途中で脱走して生き延びました。6才のときです。その彼らを捕まえたのは、ビシー政権下のフランス警察です。
 ところが戦後フランス人たちは、自分たちはみんなレジスタンスだったのだという物語のなかに都合よく紛れ込み、自分たちも加害者だったのだということを忘れ去りました。
 シリュルニクは「自分と違うもの」だらけのなかを孤独に、だが賢く生き延び、精神科医、作家となりました。その彼の発言だからこそ、その彼の署名のある発言だからこそ、「自分と違うものを見いだす喜び」という言葉が大変な重みを持っているのだと知れます。
 デボーリンさんが松竹伸幸を批判してもかまいません。意見が違えば批判するのは当然です。だが、「右転落」とはなにですか。右へ行くのは転落なのですか。松竹氏は右へ行くことが正しいと判断して右へ行くのです。それは松竹氏の自由であって、転落と呼ばれねばならないことではないでしょう?
 えてして日本共産党よりも左に属している層のネット住人たちには、自分を絶対視する傾向があります。日本共産党もかつてはそうでしたが、いまはかなり丸くなったようです(それがたぶん右転落なのでしょうが)。
 ぼくは司馬遼太郎の土方歳三評を思い浮かべます。どの作品中だったか、これは彼自身の言葉ではなく、誰かの言葉を引用して、次のように言っています。
「むかし気狂いの植木職人がいて、この枝も気に入らない、あの枝も気に入らないと言って次々切っていって、しまいに何も残らなくなった。土方歳三はそんな男だ」
 実際にそうだったかどうかは不明ですが、ぼくはあなた方にその植木職人を思ってしまうのです。理想を求めて気に入らないものを切り捨てていけば何も残らなくなる。
「自分と違うものを見いだす喜び」を知って下さい。
 なお、慰安婦問題とのかかわりでいえば、シリュルニクはこういうことも言っています。
「社会の意図的な記憶喪失こそが全体主義の再来を招く」
 これはデボーリンさんの主張と重なるでしょう。
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