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三田誠広「道鏡」(河出書房新社2011年)

 数日前、「サマトラケのニケ」さんのブログに、村上春樹の「小説の創り方」みたいな本を、何回かに分けて引用していた。さかのぼって読んでいて次のような文章に出合った。
「作家は人を観察するが、価値判断は控える」
 ちょっとびっくりしたのは、その直前に同じことを考えていたからだ。
「ぼくって何」の三田誠広の名前をあれっきり40年間聞かなかったが、先日図書館で見つけた。奈良、平安時代を中心に歴史小説をたくさん出版している。こういう分野で仕事をしていたのかと初めて知った。「道鏡」があったので借りてきた。数ページ読んで引っかかった。価値判断が出てきて、それが登場人物のものなのか、それとも作者自身のものなのか曖昧に思えたからだ。
 その瞬間にひらめいた。そう言えば司馬遼太郎は歴史人物に独自のイメージを作り上げたが、価値判断はしていなかったぞ、司馬作品を読むときに抵抗を感じなかったのはそのせいだったのではないか、と。
 小説というものに対してはっきりそういう意識をもったことがなかったので、これは自分にとっては新しい発見のような気がした。その直後に「ニケ」さんのブログで村上春樹の言葉に出合うことになった。
 もっとも司馬作品を読んだのは40年以上前のことで、読み直していないので、いま思い出してそんな気がしているだけである。信長、光秀、秀吉、あるいは坂本竜馬、近藤勇、土方歳三、乃木希典、そういう人物に、彼独自の明瞭な個性を与えたのが司馬文学で、それは資料に基づきながらも空想の産物で、もちろん異論は多いし、明確に否定されているものも多い。
 でも、それは少なくとも物語上の説得力は持っていたし、いずれも魅力的だった。そしていま思うと、司馬は人間は描き出したが、彼らを肯定も否定もしなかった。価値判断をしなかった。「この歴史人物はこういう人だったのではないかと私は考える」ということを書いただけで、それがよいとも悪いとも言わなかった。だから素直に読めたのだと思えるのだ。
 もちろん「坂の上の雲」にはぼくは否定的である。日本とロシアが戦争したのは中国人の土地の上であるのに、あの作品はそれをまったく無視していたからだ。だから基本的にあの作品とぼくとは相いれないが、でも乃木の描き方には面白いと思った。それがどれほど史実に適合しているのかは小説だけでは判断のしようがないが、物語としてなるほどと思わせるものは持っていた。
 三田誠広の「道鏡」を開いたとたんにそういう考えが浮かんだのは、最近「読者にとって歴史小説とは何か」ということをずっと考えていたからだ。そして歴史小説のどういう部分にぼくは抵抗を感じるのかという答えがこのとき見つかったような気がしたのだ。
 そのあとで、たまたま「ニケ」さんのブログで村上春樹の文章に出合い、これは歴史小説だけのことではなく、小説一般に普遍的に言えることなのかもしれないと思ったのである。
 ところで、話し変わるが、ぼくは図書館で本を読むという習慣がない。買った本しか読む気が起こらない。単行本を買う金はないので、ずっと文庫本だけを読んできた。だからそのとき流行している本はまず読まない。文庫になるまで待つ。そもそも単行本は見ただけで取っ付き難い気がして手が出ない。
 ところが今回、「福ミス」受賞作が気になり、図書館で借りるようになった。どうせ文庫になるほどには売れてないし、ハードカバーの2千円近くする本だ。借りるしかなかった。福山東図書館には「福ミス」コーナーがある。このコーナーは人気があるようで、揃えているのだろうに、いつも揃っていない。あるものから読んでいって、ほとんど読んだ。あと、受賞作一作と、優秀作二作で終わりというところに来て、その3冊が二回足を運んでたまたま二回ともそろって貸出し中だ。ネットで調べて貸出できますになっているのに、行ってみると、できない。ネットの表示が自動的に変わる仕組みになっていないのだろうか。
 ということの結果、三田誠広の「道鏡」に行き着いたのだ(長々と書いたが、これが言いたかっただけである)。
 日本古代史はぼくの最も関心を持っているところで、40年前に坂口安吾の「道鏡」は読んだ。今東光の「道鏡」ももっと前に読んだと思うのだが、これはもうまったく記憶していない。安吾の「道鏡」もおぼろげな記憶である。
 三田誠広の「道鏡」は、かなりあちこち引っかかったが、読み終わってみるとそれなりに面白かった。遠い記憶で安吾の「道鏡」と比べると、正反対の解釈であるように思う。安吾作品では、専制君主は孝謙で、道鏡はただ彼女に依拠しているだけのかなり情けない人物だったと思う。三田作品では、主体性を持っているのはむしろ道鏡である。孝謙は心を病んだ弱々しい人物だ。
 奈良時代の朝廷権力について、ぼくには半世紀前からぼく独自の考えがあって、それ故この時代について書かれたものには基本的に不満があるのだが、いかんせん、ぼくには知識の裏付けがなく、ただ直感的に自分が正しいと思っているだけなので、そこは無視して作者に従って読んでいく。
 歴史小説というものはやはりその時代の細かなリアリティで読ませるものだ。主義主張が入り込むと面白くない。主義主張の部分は無視して読む。三田作品の場合、仏教知識の豊富さ、膨大な登場人物それぞれの立場や個性の書き分けといった点に特色がある。当時の朝廷の権力機構をかなり立体的に書き出しえていると思う。しかし、道鏡が理想化されているし、孝謙が弱々しすぎるし、それにのちの桓武である山部王に何だかひいきしているようで、そういう意図的なところが気に食わない。
 歴史小説というのは基本的に講談本というか、読み物としての面白さを追求するので、それが欠点になるような気がする。

 いろいろと書いてまとまらないが、まあ、近況報告である。
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