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日本は君主制か、共和制か

 言葉は現実をブンベツするために生まれてきた道具であり、ブンベツ行為にともなって用いられる道具である。だが、それは常にかりそめの道具である。というのは現実はそもそも無限であり、また無限に変化していくのに対して、ブンベツ行為は時代の認識限界によって制限されているからだ。
 ところが、言葉はしばしば専制君主となる。それは自ら現実を規定し返そうとする。まだブンベツされていない現実が現れたとき、それを意味する言葉が存在しないことをもって、それそのものの存在を否定しようとし、その現実を認識することを拒否する。これは言葉による越権行為である。ほんとうはそのとき言葉は白旗を揚げて、その現実を意味する言葉がまだないことを告白するべきなのだ。「その現実はまだ名付けられてはいない。だが存在するかもしれない」というべきなのである。
 したがってものごとを認識しようとする際に、辞書の類いを引張り出してくるのは、最も無意味なことである。辞書が現実を創るわけではない。逆である。辞書が現実によって作られるのだ。それは現実の変化に伴い、現実の認識の変化に伴って、日々それを追いかけ、日々書き換えられ、それでも間に合わずにいつも現実から置いてけぼりを食らっている存在なのだ。
 志位和夫が、「日本はいかなる意味でも君主制の国ではない」と言ったということで批判されている。志位氏の発言の当否はここで論じない。したがってそれを批判することの当否も論じない。ただぼくが言いたいのは、志位氏を批判するために辞書の類いを引張り出してくることの無意味さについてである。
「君主制でなければ共和制であり、共和制でなければ君主制である。どちらでもない体制というものはない」と某氏は断言している。この言葉は次のように言い換えることもできる。「君主制と呼ばなければ共和制と呼び、共和制と呼ばなければ君主制と呼ぶ。そのどちらでもないものを呼ぶ呼び方はまだない。だがそれは存在するかもしれない」と。
 実際に存在するかどうかは別の問題だ。だが少なくとも、名前がないことをもってその存在を否定することはできない。
「日本は君主制の国家である」ということにしたいと思っているのが保守勢力である。なかなか君主制の国家であることが明確にならないので、紀元節を復活させ、国旗、国歌もでっちあげ、さらにそれを強制し、こうして天皇元首化をずっと企んでいる。
 これに対抗する側の意見が割れている。現憲法下で日本はたしかに君主制国家なのだから、この憲法を改定すべきであるとする派。それに対して、現憲法の象徴天皇という規定はあいまいな規定で、将来的にはなくすことが望ましいが、いまその点で世論を二分するのは緊急性に欠ける、憲法の曖昧性を利用して、君主制ではないものとして扱うことは可能であるとする派。
 不破哲三「新・日本共産党綱領を読む」(新日本出版社2004年)からの引用。
<私は七中総の提案報告で、現在の日本の政治制度は、君主制ではなく、天皇制が「形を変えて存続」したもとで、「国民主権の原則を日本独特の形で政治制度に具体化した」ものだと特徴づけました。これにたいして、七中総後の討論のなかで、君主制なのか共和制なのか、どちらかはっきりさせてくれという意見や質問がかなり寄せられましたが、君主制でなければ共和制か、と単純に言えないところに、日本の独特の問題があります>(115ページ)
 ぼく自身、いまは、不破氏や志位氏のこの立場を支持するところにいる。いま、ここを争点にすることが賢明だとは思えないからだ。ただ天皇問題というのは日本社会にあって深刻な問題であり、何らかの形でつねに取り上げていくべき問題だとは思っている。したがって、志位発言に対して左からの批判が出てくることもしかるべきことだとは思う。ただ、その批判を為すに、辞書をもってしてほしくはないのだ。少なくとも、辞書には現実を規定する力はないことだけは認識してほしい。現実は辞書よりも豊かである。
 下手な小説を書く人間の一人として、その点にだけはこだわらざるを得なかった。
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コメント
493:中国は資本主義か社会主義か by 植田 与志雄 on 2015/08/21 at 13:45:03 (コメント編集)

石崎さんに触発されてひとこと。
中国は社会主義か資本主義か、も似ていますよね。
「資本主義」も資本論の中でマルクスによって「資本主義的生産様式」と定義されて世界的に広まったもので、当時の社会の分析によって分別され、区分され、切り出された概念と思う。現代社会を特徴づける区分けとして今でも有効か否かは問題だろう。例えば「資本主義の改良を重ねることで社会主義に達する」は伝統的マルクス主義からは否定されているけれど、量的な変化が質的変化に転化することが多いという現実からは一概に否定できないはずである。そもそも生産力の量的増大が資本主義的生産様式そのものを破壊、質的変化をもたらす、が史的唯物論の認識であったことと対比すればなおさら。そしてこのような議論でいつも問題になるのが資本主義とは、社会主義とは、の本質論、資本主義と社会主義の分水嶺はどこか、である。このような議論をしている間にも資本主義は大きな変化を遂げつつあり、社会主義もまさかの根本的大失敗を経験した。マルクスは自分の言葉に現実を規定しつくす力はないことは十分に理解していただろうし、自分の規定の半分が否定され他の半分が後世の役に立つことを望んでいたと思う。マルクスの腑分けに拘りすぎてはいないだろうか。私はマルクス主義の中にもいまだ尊重に値する理念があると思っている一人ですが、この理念を現代社会に生かすためにも資本主義か社会主義かの区分け議論の向こう岸にたどり着きたいと思っています。

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