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叶 紙器「伽羅の橋」(光文社2010年)

「福ミス」第2回受賞作品。作者は1965年、大阪生まれ。作品を書き上げたとき44才か。
 すごい作品である。「福ミス」はレベルが高い。
 もっともかなり読みにくい。その読みにくさは文章の単調さと、何を読まされているのかがなかなか分からないという点にある。島田荘司の解説でも、「この作者は下手くそなボクサーだ」と指摘して、読んでいて居眠りしてしまったと書いている。退屈してしまうのだ。ところが半分あたりから俄然面白くなってくる。読み終えてみるとスケールの大きなすごい作品である。
「福ミス」のよいところは、出版が前提になっているので、受賞が決まると島田荘司の指摘にもとづいて書き直しが始まる。欠陥品を読者に提供するわけにはいかないからだ。だから本になった時点では、島田荘司が指摘したほどにはひどくない。そこそこ読める作品になっている。それでも最初のうち読み進めるのに努力がいった。それも45字×21行×455ページという分厚い本である。単純に400字詰で割ると1千枚を越えてしまう。もちろん行替えの問題があるので、計算通りにはならない。800枚くらいまでという上限が曖昧な応募規定の、ぎりぎりくらいなのだろう。ページを見つめては溜息をつきながら読んでいくことになった。それでもミステリーファンには一読を奨める。読書の努力に報いてくれる本だ。
 1995年が小説の現代である。ぼくの「スプーン」と同じ年だ。ケイタイの出はじめの頃である。「スプーン」はそういう理由で(携帯が普及してしまっては成り立たない)、95年になったが、この小説の場合はこの95年がもっと抜き差しならない意味を持ってくる。
 事件は1945年8月14日に起こる。敗戦の前の日だ。このときの殺人事件を半世紀経っていま解決するのである。したがって証言者たちが、いま生きていて証言できなければ話にならない。事件当時30才として、50年後の1995年に80才、ぎりぎりタイムリミットなのだ。
 その上に95年という年は、1月17日に阪神淡路大震災があった。ぼくの「スプーン」はこれを無視してしまったが、「伽羅の橋」にとってこれが欠くべからざる背景なのだ。45年8月14日は最後の大阪大空襲の日であり、95年1月17日はその再現の日なのだ。50年前に起こったことがその日また起こるのである。
 これだけ聞いても、いったいどんな事件が起こるのかとわくわくしてこないだろうか。
 1945年8月14日、大空襲のさなかの大阪の街を、わが子の生首二つかかえた美しい女が、いかにも幸福そうにほほえんで彷徨っていた。のち、夫の生首も見つかる。だが、この事件は立件されずに終わった。街が破壊され大勢の死者が出たときであり、翌日は敗戦であり、しかも女は発狂状態で精神病院に収容されてしまったからだ。
 そのため女は有罪とも無罪とも証明される機会を失ってしまった。精神病院を出たり入ったりして年老いた女は、生活保護を受けながら、いまは痴呆の症状も出て、介護施設に入院してくる。
 ただ一人生き残った三人目の子供は、母親からは引き離され、父親の実家で成長した。子供殺しの女の息子として、いじめられて育ち、いまは工場経営者だが、母親を許していない。
 介護施設の関係者たちが、殺人狂の女を受け入れたくないといって騒ぎ出したことが問題の発端となる。
 主人公、すなわち探偵役は、20才そこそこの介護士の女性、ノリコである。お寺の生まれで、「典座」というたいへんな漢字をあてられているが、これを無理やり「ノリコ」と読ませる。
 この女の子がほとんど超人的な調査活動をやって老女の無罪を証明することになるのだが、その動機付けが不十分なのだ。何故そんなに一生懸命になるのかが分からない。そこでストーリーについていく気力が生まれてこないのだ。
 しかし我慢してついていくと、やがて読者はたいへんな世界に連れこまれてしまう。これは老女の無罪を証明するというような個人的な物語ではない。この物語の真の主人公は大阪という街なのだ。ノリコが探っていくのは、大阪という街の歴史そのものなのである。
 彼女が訪ね歩くのは、ピースおおさかであり、中之島図書館であり、下水道記念館である。8月14日の大阪大空襲が、あらゆる角度から立体的に語られる。この部分だけでもこの本は読まれる値打ちがある。そして猫間川という実在と思われる不思議な川のこと、その川の来歴と、それにまつわるさまざまな話。源ヶ橋、生野本通り商店街、その他阪神地区のさまざまな土地のさまざまな人々、そしてハーレー・ダビッドソンから陸王を経て改造された陸軍九七式側車付自動二輪にかかわる薀蓄まで、こうして総動員されるすべては、やがてジグソーパズルのように老女の無罪という一点にぴたりと当てはまることになるのだが、もはやそれを度外視してもこれは大阪という街の壮大な物語なのである。
 こうして中盤から終末へむかって、物語はどんどん面白くなっていくのだが、その要因のひとつは探偵役ノリコの個性が明らかになってくるからで、この若い女性は対人恐怖症なのだ。超人的な調査活動を展開するのだが、そのじつ、対する相手がいつも怖くてたまらない。「あ、あの」といつも口ごもり、言ってることはさっぱり要領を得ず、すぐにうつむいてしまう。物語はこの内気な女の自己克服の記録でもある。
 それにしても、ノリコが調査を開始する動機をもっと納得できるように書いてくれてさえいたらとは思うが、中盤にさしかかると、そんなことはもうどうでもよくなってしまう。これが長編小説の強みだなあと思う。少々の欠点など吹きとばしてしまうのだ。
 ただ、この分厚い本を手に取った読者が最初の何ページかで投げ出してしまわないだろうかという不安はある。それは読者にとっても不幸なことだろう。
 その他何点か特徴点。
 女性が大勢出てくるが、何人かを除いて、すべてファミリーネームによる表記である。これがいっそ小気味よい。ノリコより少し年上だがまだ若い相談員(ケースワーカー)の守屋定子は最初に一度だけフルネームで出てくるが、あとはずっと守屋で通す。守屋はノリコとは正反対で、自信満々で物怖じせず、はきはきと語り、てきぱきと物事を処理していく有能な女性である。彼女はいっさい女言葉を使わない。小気味よく啖呵を切る。とても魅力的だ。
 大阪の話なのだが、一部を除いて関西弁は使われない。老女の古い知り合いである三人の老女性だけが関西弁で語る。この使い分けはうまくいっている。ほんとうは大阪人はみな関西弁を使うはずだが、それでは小説として割合うまくいかないのだ。
 阪神大震災が発生してからの場面は迫力満点で手に汗握る。そういう表現力も持つ作者である。
 この本が出版されてちょうど一年後に東北関東大震災が起こった。その震災が原発事故をともなったこともあって、第二の敗戦という言われかたもした。それを思うと、この本が1995年を現代としたことによって大阪大空襲と阪神淡路大震災とを対比させてみせたことにも、もっともな点があると思われるのである。
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