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ノロ鍋始末記 第三章

 道みち、直木は例の件か、ときいた。そうだ、と柴田さんは答えた。
「ノロ鍋って、なんですか」
「ノロを受ける鍋や」
「それがよくわからない」
「転炉でも造塊でも連鋳でも、湯の出初めと最後は必ずノロちゅう不純物が出よる。これを受ける鍋や。おとといコキ鍋に落ちた湯を切ったやろ。あれは転炉のノロを受けて鉄道が引っぱっていく。造塊と連鋳と、それに原料はノロ鍋に受けて、物流が専用の運搬車で運ぶのや」
「どんな鍋ですか」
「あとで見せてやる」と柴田さんは答えた。
 製鋼のほかに、製銑や圧延にも職場を持っているタチバナは、大形工場の横に本事務所を構えていた。
「ご安全に」直木はあいさつして入った。
 真ん前に女の子が二人、デスクの方々に十人ほどの男たちがいるが、誰も返事をしない。
「ほっとけ、みな知らんかおや」と柴田さんが聞こえよがしにいった。
「ご安全に」遅ればせに、奥から、所長と課長の声がかかった。ほとんど顔も知らない男たちがちらちらと直木たちを見る。
 会議室に入る。大江と、係長の安部がいる。
「だいたい、うちの事務所はなっとらん。労働者が入ってきても、知らんかおや」
 柴田さんは席に着くなり、ぶちまけた。
「うん。よくないよな。今度、おれから言っとこう」安部係長が、磊落な口調でいった。
 安部は東北の農村から中卒で千葉の製鉄所に集団就職し、この地の製鉄所が立ち上げたころに転勤してきて、転炉の総作業長まで上りつめ、五十代半ばでタチバナに出向して係長になった。柴田さんと同い年で、二年前に退職金をもらったが、柴田さん同様、タチバナの創った派遣会社に残って、係長を続けている。背が高く、がっしりした体つきをしており、冗談好きの陽気な性格だが、反面、自尊心が強く、傷つけられると許さず、報復せずにはおれない頑固な一面がある。面倒なことに関わるのを嫌って、すべて大江にまわしてしまう。大江が癌になったのは安部のせいだと、直木は柴田さんから聞いた。
「けさ説明したように……」と大江がいいかけた。
「大江、課長にも来てもらえ」と安部がいった。
「そうしますか」
「柴田さんに、ちゃんと納得して行ってもらおうじゃないか」
「わしゃ、行かんぞ」柴田さんは澄ましている。
 大江が立って課長を呼びにいった。池山課長が入ってきた。六十近い。製鉄所のどこかよその部署から出向してきて、数年になる。よくわからないが、事務系の仕事をしていたらしい。中背、少々太り気味で、眼鏡をかけている。
「炉下の仕事、ご苦労さまでした」一言いって、すぐ本題に入った。「じつは深刻な事態です。渋井が仕事をしないので、ノロ鍋の修理が全然できておらず、すでに鍋が足らない。鍋を担当している物流から、製鋼課へ訴え出て、タチバナを外してよその業者を入れてくれと言っている。わたしは毎日製鋼課長に呼びつけられて、タチバナと製鋼課の契約をいっさい切るとまで言われた。わが事業所の存亡に関わる事態です」
 一段落したところで、柴田さんが口をはさんだ。
「渋井が仕事しとらんのはみな知っとるが、いつからなんや」
 池山はちょっとためらうふうを見せてから、答えた。
「一年半になる」
 柴田さんは口笛でも吹きたいような顔をした。
「一年半働いとらんてか」
 課長は柴田さんの顔を見てうなずいた。
「そのとおりです」
 柴田さんは首をひねった。
「それで、よう鍋がもったな」
 池山課長が説明し始めた。
「製鋼課長が替わったときに、やり方が変わって、ノロを鍋で受けない、そのまま落としてブルですくうという方法を始めた。同時に新品の鍋を十六基購入したこともあって、修理せずともなんとかなる時期があった。ところがまた課長が交代して方針が変わり、ふたたび鍋を使い始めて、修理品が八基たまり、残りの鍋ではまわらなくなってきた」
「渋井は仕事せんで給料もらってたんかい」
「給料は払ってきた」
「よか会社じゃのう。いまどきそげん会社どこにもないぞ。わしらは、売上が足らん、もっと働けゆうて毎日責めたてられとるのに、働かんで給料もらっとるやつがおる。渋井はなんで働かんと」
「職場で転んで肩を打った、それ以来肩が痛くて腕が上がらない。自分ではできないので、若い者を付けてくれれば自分が指導すると言っている」
「いままでに何人も付けたじゃろうが」
 課長が大きくうなずいた。
「柴田さんもご存知のとおり、何人付けても無駄なのです。気にいらない人間は追い出す、本人が気にいれば、相手のほうで、逃げ出す、誰とも共同作業をできない人間なんです」
「あの職場におることはおるんかい」
「いつも工場の詰所におる」と大江。
「詰所で何しとんか」
「ラジオを持ち込んで聴いとる」
「あほくさ。それを一年半放っといたんかい」
 安部係長が口をはさんだ。
「放っといたわけじゃない。何度も事務所に呼び出したが来ないので、課長と二人でこれも何度も現場に出向いた。ところが詰所に鍵をかけて閉じこもり、どんどん叩いても開けない。今回こんな事態になったので、無理やり鍵を開けさせて、話し合いを持った。ところが相手はこちらの言うことに耳を貸さず、あげくに課長の胸倉に手をやって、すんでのところで殴りかかる勢いだ。おれにむかっては、下請けの言うことなんか聞けんと言いよった。確かに、おれはいま下請けじゃあるがね。まったく話にならない。大江にも何度も仕事をさせるように指示したが……」
 大江がひきとった。
「わたしもたびたび出向いて話しました。わたしの場合、鍵をかけて入れないということはなかったが、肩が痛い、人をよこせ、ろくな人間をくれないと一人で延々としゃべりまくって、そこから話が進まない。課長の言われたとおり、誰をやっても、渋井が追い出すか、本人が逃げ出してしまう。かといって転籍させる職場もない」
「ともかく……」と安部係長が、結論づけるような調子でいいだした。「いま課長が言われたような事態だから、すぐに仕事にかからにゃならん。製鋼から追い出されれば、ここの事業所はもう成り立たん。みな路頭に迷うことになる」
 柴田さんが口をはさんだ。
「渋井はどうするんかい」
「クレーンの運転くらいはすると言うてる」と、これは大江。
 柴田さんは大きく身体をのけぞらせた。
「馬鹿にするんじゃねえ。そげんことなら、わしは行かれん」
 安部が、やや厳しい目つきになった。
「柴田さん、それは職務命令違反になる」
 柴田さんは嘲るように安部を見た。
「ほう。だったら渋井はどうなんじゃ。あれこそ、違反じゃないんか」
 池山課長があくまで低姿勢で割って入った。
「どうすれば、仕事してもらえますか」
「渋井をクビにせえ」
「それはできない」今度は厳しい口調だった。
「何でできんと。懲戒免職ものじゃろう」
「穏便にすませたい」やや、柔らかくいった。
「なんでか。労災じゃゆうて脅かされとるんか」
 池山課長がさっと顔色を変えた。啖呵を切るような調子でいった。
「そんなことはない。労災という事実は把握してない。労基署でも裁判所でも持ち込んでくれればいい。会社のがわに弱みがあるとは思ってない」
 柴田さんはあきらめない。
「だったら、クビにせえや」
 安部が諭すような調子で口をはさんだ。
「柴田さん、あまり大袈裟なことにすると、製鋼課に対するタチバナの立場というものが傷つく」
 柴田さんがふたたび嘲る。
「もう傷ついてるやないか」
 このときまで大江は黙って耳を傾けていたが、眉間に深い縦皺を刻んでいて、直木の見るところ、なにごとかじっと考え、期するところがあるような感じだった。柴田さんの言葉が終わると、思いつめたような表情で発言した。
「すべて、現場の監督者としてのわたしの責任です。わたしが行って、みずから作業します。監督不行き届きで、作業長も解任してください」
 一瞬、座が静まり返ったが、すぐに安部が大きな声を出した。
「大江、なに言っとるか。それは話が違う」
 池山が落ち着いた声でひきとった。
「大江さん、あんたが悪いわけじゃない。管理者みんなに問題があった。わたしにいちばん責任がある。わたしも余裕があれば、現場にもっと関わりたいが、なにぶん事務所の人員を削っているので、膨大な事務量をかけもちでこなさねばならない。どうしても現場は安部係長と大江さんに任せきりにならざるを得ない。そういった事情はわかってもらわねばならないが、最終的な責任はわたしにある。あんたが作業長を辞めるということは認められん。そんなことは何の解決にもならん」
 重苦しい沈黙が落ちた。柴田さんがタバコを取り出した。
「柴田さん、悪いけど、ここ禁煙」と安部がいった。
 柴田さんはタバコをしまった。安部はちょっと出て行き、すぐ戻ってきた。
「いま、コーヒー入れさせてる」
 女の子がコーヒーを持ってきた。
 柴田さんがようやく口を切った。
「わしもタチバナで働いてる以上、会社が困っとるのに何もせんというわけじゃねえ。けんど、けじめはつけてくれや。働かん者がそばにおって、その隣でわしらだけ働けるか? 働かん者はいらんから、ともかくあそこから追い出せや」
「追い出せと言っても、暴力を使うわけにはいかん」池山が考える様子でいった。
「柴田さん」直木がはじめて口を出した。「要するに職務命令を出してもらえばいいんですよ。何月何日付で、配置転換を命ずる、直ちにどこそこへ移動しなさい。それで移動しなかったら、解雇できますよ」
「移動させるとこがないんだよ。どこも嫌がる。それで困っているんだ」と大江。
 直木はみんなの顔を見まわした。
「事務所の管理責任だって言うんだから、事務所で引き受けてもらいましょうや」
「いや、ここは困る」池山があわてて否定した。「ここは製鉄所の人間も出入りする。変な人間を置いとくわけにはいかん」
 柴田さんが吠えた。
「勝手なこと言うな。その変な人間をわしらに押しつけるんか」
しばし沈黙が落ちた。やがて、安部が考える様子を見せながらいった。
「大江、製鋼ハウスで引き受けようや。それしかなかろう」
 大江はためらいを見せた。
「あそこも製鉄所の人間も出入りするし、ほかの職場も使っている」
 だが、池山はこれに飛びついた。 
「大江さん、引き受けてください。あそこで何か雑用をやらせてください」
 大江は眉間を寄せて逡巡した。
「大江、仕方ないぞ」と安部がいった。
 ややあって、大江が小さく何度かうなずいた。
「わかりました。そういうことにしましょう」
 池山は安堵の吐息を漏らし、椅子に深々ともたれた。
 直木はすかさず、もう一度口を出した。
「書面で出してください。口頭じゃ駄目です。書面で命令を出して、そのコピーを柴田さんに下さい」
「書類くらいはすぐ書けるが、渋井が従うかどうかわからんよ」と池山。
「いいです。いいからすぐ出してください。柴田さん、それでどうですか」
「そりゃ、渋井さえ追い出せば、わしも仕事せんわけじゃねえ。けんど、うちの班はどうする気か」
「とりあえず、吉川を班長代行にする」と大江。
「吉川さんの言うことは誰も聞きませんよ」と直木がつい、いった。
 大江が直木をにらんだ。
「おまえがいらん心配をするな。わしが一緒にみる」
 大江はちょっと気分を損ねたようだった。直木は黙った。
 それから仕事の打ち合わせが始まった。
「とりあえず、十日以内に一基、次の十日でもう一基、さらに次の十日でもう一基、一か月につごう三基、これはどうしても完了させねばなりません」と池山。
「クレーンは直木君に覚えてもらうが、すぐには無理だろうから、まず、わたしが行きます」と大江。
「あさっては脱ガスのシュートの取り付けじゃ」と柴田さん。
「吉川を連れて、わしが行く」と大江。
 打ち合わせを終えて、二人はトラックに戻った。エンジンをかける前に、二人とも、まずタバコを取り出した。
「どこもかしこも禁煙にしやがって。くそったれが」
「人権侵害ですよね」
 直木はエンジンをかけた。
「ノロ鍋に寄っていこう。見たいだろ」
 直木は柴田さんの案内で車を進めた。
「ずいぶん気楽な会社ですね」
「儲かっとらんゆうてわしらをさんざんいじめとって、働かんやつに給料払ってどうやって儲かると」
「なんでクビにせんのですか」
「池山はああ言うとったが、労災じゃゆうて騒がれるのがこわいとやろ」
「ほんとに労災なんですか」
「知るか。働いてりゃ、けがくらいするわい。おまえだってあちこち火傷してるやないか。おおげさに騒ぐようなことか? 年とりゃ誰だって、あちこち痛い。わしかて五体満足やないぞ」
 ノロ鍋のヤードに来た。駐車場にトラックをとめて、何本もの線路を横切り、工場内に入っていく。工場はほとんど壁がないので、強い風が吹き込み、寒い。足元はごつごつしたバラスで、歩きにくい。巨大な鍋が数本佇立している。すりばち型した鍋は、高さ二メートル、最大直径三メートルはあるだろう。
「これをおまえが吊るんやぞ」
「こんなでかい物吊ったことありません。何トンあるんですか」
「鍋だけで、三十トン、地金が満杯に入って三十トン、あわせて六十トンや」
「勘弁してください」
「おまえがやろう言うたんやろが」
「こんな仕事とは思いませんでした」
 巨大な構造物で鍋を横倒しに固定しているところへ来た。直径三メートルのすりばちが尻を上げ、縁の上下を垂直にして横向けに立っている感じである。なかにいっぱいに何か詰まっている。
「これはなんですか」
「ノロや、ノロやから地金ほどの重量はない。けんど、地金が混じっとる。その地金が鍋の割れ目に入り込んだりして、抜けんようになる。普通は物流がアトラスでたたいて落とす。落とせんやつがここへ来る。これを酸素ガンで切って落とす。鋼(こう)だけなら切りやすいが、ノロ混じりだから、簡単には切れん。それに銑(せん)が混じってるとよけい切れん。ところが鍋のほうは簡単に切れる。切りやすくなったなと思ったら、鍋に穴があいとる」
「もういいです。断りましょう」
「馬鹿たれが。男が一度引き受けた仕事を投げ出せるか」
 その先は堅い土の床に、鍋を上向けに置いてある。鍋の縁めがけて、移動式の階段が寄せてある。その階段を上がった。上から鍋の中が見える。下まで梯子を垂らしてある。
「鍋の割れ目を溶接でふさぐ。変形してくぼんだところは肉盛ってやる。半自動を使うが、結構溶接量は多いぞ」
「この仕事だけにしましょう」
「そうはいくか」
「この鍋の新品を十六基購入したと課長が言ってたけど、一基いくらくらいするもんですかねえ」
「わしゃ知らんが、大量生産するわけじゃねえ、注文生産やけん、数百万単位じゃなかとか」
「車が買えますね」
「高級車が買えら」
 階段を下りた。よその会社のヘルメットをかぶった男が立っている。五十がらみだ。
「あんたらがやるんかい」と男がいった。
「まあな」と柴田さん。
「ここの社員はもう二年近う働いとらんぞ。ええ会社じゃのう。ほら、いまも詰所におる。一日、あれじゃ。あれでクビにもならん。どういう会社じゃ」
「わしが知るか」と柴田さん。
「あんたらが仕事して、あいつはどうするんか」
「たたき出す」
「それがええ。このヤードに四社入っとるが、あれが働いとらんのはみな知っとるぞ。みんな、あきれとる。いったいどういう労務管理しとんじゃ」
 男は自分にかかわりないことをまだ何かごたごた言って引き上げた。
 渋井が来た。直木は初対面だが、すぐにわかった。背は低めだが、頑丈そうな体つきに、ちょっと、険のある顔つきだ。
「柴田さんがやるんね。それともこっちの若い人ね」
 渋井はにこやかに笑っている。
「おまえに関係ないぞ」
 柴田さんは顔も見ずに言い放って立ち去ろうとした。渋井が呼びとめた。
「まあ、柴田さん、そげん言わんでええやないの。この人ひとりでええわ。おれが仕事教えてやる」
「おまえに渡したら直木をつぶされるわ」
「そんなこと、ないっちゃ。おれは仕事教えるんは丁寧やで」
 柴田さんは渋井のほうに向きなおって、正面から見すえた。
「おまえに何人つぶされたか、自分でわかっとらんのか。有望な若手がここへ来たばっかりに何人もやめていったやないか。直木は大事な人間や。おまえにつぶさせるわけにいかん。おまえはいらんから、どこへでも行ってしまえ」
 渋井が顔色を変えた。
「そんな言い方はなかろう。おれは転んで肩を打って、後遺症で酸素ガンが持てんのや。人をよこしてくれとずっと言うとんのに、くれるのは役にもたたんやつばっかりや。ちょっと役立つかと思ったら、すぐやめていきよる。どうしようもなかろう」
「おまえが人の使い方を知らんだけやないか。ずっと業者を使うてきて、そりゃ業者は親方がおるけん、いやいやでも、おまえの仕事をしてくれる。自分が親方やる能がないだけやないか。肩が痛い? わしかてあちこち痛いわ」
「簡単そうに言うてくれるなあ。業者使うんは楽やないで。けんど、業者はそれなりの人間をそろえとる」
「親方が育ててきたのやないか。おまえは人をよう育てんやつやと言うとるんじゃ」
 渋井はそれでもまだごちゃごちゃと言いつのった。しまいに柴田さんが一喝した。
「やかましいわい。ともかくわしらがここで仕事する以上、おまえはもういらんから、どこなりと行ってくれ。じゃまじゃ」
「どこにも行かんぞ。ここはおれの職場や」
「働いとらんのに何が職場か」
「働けんのやからしょうがないやないか。肩をけがしたときに池山に言うたんや。労災にしてくれ、してくれんかったら、高いものにつくぞ、てな」
「そうやって脅して、いすわっとるんか」
「脅すわけやない、ほんとのことや」
「もう、ええ。わしはずる賢いやつは大きらいじゃ。なお、行くぞ」
 渋井は両手にこぶしを作って、ものすごい目付きで柴田さんの後ろ姿をにらんでいる。いまにもとびかかりそうな剣幕だ。直木はあわてて柴田さんのあとを追った。
 ふたたびトラックに乗る。
「なんであれでクビにならんのですか」
「あいつが悪がしこいけん、なにするか分からん思って、びびっとんや」
「労災を訴えて出るいうことですか」
「そうや」
「でも、ほんまに労災やったら、もみ消した会社も悪いんと違いますか」
「そりゃ、会社のやっとることもめちゃくちゃなのは分かっとる。けんど、労災出したら、保険の掛け金も上がる、親会社からはたたかれる、労基署は入ってくる。徹夜で書類を何枚も書いて、持っていったら、製鋼課長から、こんなもの受取らんといって投げ散らかされる」
「ほんとですか」
「前の所長のときに言うとったわい。事務所中が見とる前で、床を這いずりまわって、書類をかき集めて、こんな情けないことなかったゆうてな」
「そりゃ、きのどくや」
「だけんど、それがあいつらの仕事や。コンプラなんとか言うやないか」
「コンプライアンスですか」
「そや、いま、こんだけやかましい時代に、もうごまかすいうことは通らんばい」
「だったら……」
「けんどなあ、それとこれとは別や。自分が正しい思うたら、堂々とそれを主張したらよかばってん、会社を脅して働かんで給料かすめとる、これは脅迫やないか」
「まじめに働く者が馬鹿をみる」
「じゃろ、会社も悪いし、渋井も悪い。おまえ、納得できるか」
「できません。断りましょう」
「馬鹿たれが。もう遅いわい。期限を切られとるけん、明日からかかるぞ。おまえは頭よかけん、渋井を追い出す算段を考えんかい」
「柴田さんは結局会社にとって都合のいい人ですねえ」
「わしらは馬鹿やけん、働くしか能がない。働かんやつが頭つかって金もうける世の中や。おまえはどっちがいいと」
「頭があったら、働きませんよ」
「勝手にせえ」
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