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佐田暢子「水天の月」(民主文学15年4月号)

 とんでもない小説である。
 人工呼吸器と胃瘻を着けた回復の見込みのない母親を、自らも老いに差しかかっている娘が一年以上にわたって自宅で介護する。それはいいが、何がとんでもないかというと、器械を二つ着けたからといって器械任せにできるわけではない、この二つの器械はそれぞれ膨大な手作業を要求するのだ。アラームの鳴るつどの痰の吸い取りひとつにしても複雑な作業である。そのほか煩雑な作業がいっぱいある。作者はそれをひとつも漏らさず書きならべていく。その丹念さがとんでもないのだ。
 いくら書かれてもこちらはぼんやりとしかわからない。こんなに詳しく書く必要があるのかと思いつつも文章がうまいのでつい読まされてしまう。読むことは読むがそれで手順が頭に入ったわけではない。わけではないのだが、ところが、それでも、たいへんなことをしているのだということが、頭にではなく、心に入り込んでくる。
 それがとんでもないのだ。
 なるほど、これが小説というものなのか、と改めて思う。「たいへんなことをしています」と言葉で書いても、それで何かが伝わるわけではない。逆に理解しにくい作業経過であっても、それを具体的にいちいち書き連ねることで、たいへんさを読者の心に伝えることはできる。
 ぼくはドストエフスキーの「死者たちの家」を思い浮かべた。あの小説では大勢の囚人たちをこれでもか、これでもかと書き連ねていた。たいへん読みにくく結局なにがなんだかわからなかったが、流刑地の雰囲気は十分伝わってきた。
 この小説では登場人物はお母さんと娘だけだが、その煩雑な作業をいちいち作者が描写していく様子はあの流刑地の描写を髣髴とさせる。しかも読みにくくはない。最初のうち少し読みにくいが、だんだん引き込まれる。
 それで結局話がどこへ向かっていくかというと、お母さんはそんな延命処置をしてほしくはなかったのではないか、いやだったのではないか、と思わせる場面があって、自分のしたことが正しかったのかどうか、答えの出ない問題と向きあわされることになって終わる。
 この問いかけに新しさがあるわけではない。最近とくにごく日常的に眼にし、耳にすることが多い。そして答えが出ないということも同様である。にもかかわらず、この作品に感じ入ったのは、その煩雑な作業の描写の念入りな丁寧さであり、それが訴えかけてくる力の強さである。これがリアリズムの強さなのだろう。
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