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仙洞田一彦「久しぶりの話」(民主文学15年7月号)

 この人はぼくと同年配と思うが、ここ何作かは、現代青年を主人公にして書こうとし、たいへん苦労してあまりうまくいってなかった。これは作者を責めるべきではない。やってみたらわかるが、簡単なことではないのだ。むしろその挑戦をよしとすべきだろう。やらねばならないことなのだ。半世紀昔の青年や、現代老人だけを書いていればよいのではない。
 (漱石は40過ぎて書き始め、20才そこそこの三四郎を日露戦争後の時代において書いた。代助だって30才くらいである。もっともこれは成功しなかった。代助には30才の若々しさが欠ける。もっともあの時代の30才はもう人生の後半なのだろうが。「こころ」の先生は何歳で自殺したのだろうと考えてみるがよく分からない)
 話がずれた。仙洞田一彦が「久しぶり」に、昔のことを書いた。つまり自分自身の時代を書いた。やはりこういうことを書く文章のほうが彼の作品としてはフィットする。それは彼にとってあまり作らなくても書ける世界なのだ。
 書いているのは昔の労働運動である。彼の以前の作品から感じていたが、この人はこの40年間の労働運動の歴史にかなり複雑な思いを抱いている。その「整理しきれない」自らの思いを吐きだしたのか、あるいは読者をそういう「整理しきれない」思いに導きたかったのか。彼が試みているのは解答を与えることではなくて、問題点を提出することであるように思える。以前にもいくつかそういう作品があった。要するに結論としてこの40年間に日本の労働運動は壊滅的な敗北を蒙ったのだ。過去の労働運動における自分たちの青春を、単なる思い出話で終わらせまいとすれば、この敗北の上にこそ両足を置かねばならない。仙洞田氏がそうしている点で、ぼくはこの作家に注目してきた。確かな展望を探し出そうとする道は、そこにしかないと信じるからである。
 ただ、今回のかなり長い作品は、過去の作品よりは訴える力が乏しかった。いくつか欠点がある。
 第一。主人公と作者の距離がはっきりしない。三人称で書いているにもかかわらず、主人公の主観で地の文が埋めつくされ、それはかまわない、そういう手法もあるのだが、作者の位置がはっきりしないのだ。主人公と一体化しているように見える。作者の批判的な眼が感じとれない。何故いっそ一人称で書かないのだろうと思う。一人称で書くことによって、かえって作者の位置を舞台の外に置くこともできるはずなのだが。読みながら、いま朝日新聞で毎日読んでいる「それから」の書き方と一緒だと感じた。欧米の小説にはあまり感じることのない、日本の小説に独特の、漱石以来の伝統なのだ。
 民主文学26回大会幹事会報告で、「日本文学の伝統を受け継ぎ」と書いていることがこれだとしたら、問題だなと思う。悪しき伝統は打ち破らねばならない。
 第二。労働運動への攻撃を書いた部分が、説明的で、まるで教科書である。もちろんぼくらにとってとっくに常識であることも現代の若い読者は知らないだろうから、啓蒙的な意味はあるのだろう。だが、ああいう書き方では心をつかめないだろう。具体的に主人公たちに降りかかった攻撃とそれとのたたかいを書くことで表現せねばならない。小説的世界から遊離したこの説明口調は、主人公と作者が一体化するという叙述方法に伴って生まれてきたものである。
 第三。比較的長いとは言ってもそうでもないこの作品の中に、主人公の息子の過労死の話まで入れ込むのは欲張りすぎである。この話は浮いている。
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