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「ふくやま文学」再論

「ふくやま文学」の読者以外には関係のないことを書く。それに「ふくやま文学」の読者がこのブログを目にすることはまずないので、意味がないのではあるが……。
 佐賀市のK氏(名前を出していいかどうかわからないので秘す)が、瀬崎さんに送ってきた「ふくやま文学」感想文を、きょう読んだ。A4四枚、かなり詳しく書いている。
 異なる感想も多いが、近いものも多くて興味を持った。ちなみにK氏は40代、瀬崎さんと比較的近い年頃か。
 末尾に「全体をとおして」として、「自分自身、読み手を意識した、面白さを求めたエンタメ小説ばかり読むようになっていて、書き手が書きたいと思って書いた小説を読む機会が少なくなっていましたので……とても新鮮な感じがありました」と書いている。
 これを読んではっとした。たしかにプロの書くものは、娯楽作品が多い。そうでなければ職業として成り立たない。もちろん娯楽は大切なものだ。人生に娯楽は不可欠だ。一度きりの短い人生、愉しまずして何ぞや、である。上質の娯楽を提供してくれるプロ作家は大事な存在だ。
 であるのだが、素人の書くもののほうが、技術的にはつたないものであっても、書こうとする動機の切実感において、ずっと訴えてくるものが強いとは言えないか。
 プロの作家でもこの切実感を最も感じるのはたいてい処女作である。プロになってしまうと、本人としては別に書かなくてもよかったんじゃないかと思うような、単に金のために提供しますという作品が増えてくる。
 もちろん、素人作家は全国に何万人もいて、とてもいちいち読んでいられないから、ぼくらが読むのは身近な雑誌に限られる。少ししか読者のいない雑誌だ。でもそういう雑誌の存在意義がここにあるような気がする。
 切実感と、もうひとつは多様な生活環境と生活感覚だ。プロの書くもののように中性化されていない、生で独自な世界がある。
 ということでいくつか具体的に見ていきたい。

「ボクサー」(瀬崎峰永)
 この作品から現代労働事情への批判を読みとったぼくの評文に、作家自身が、「そこはあまり意識しなかった」旨を書いていて、深読みしすぎたかなと思っていたが、今回のK氏の感想を読むと、現代労働事情とまでは書いていないが、やはり労働の問題にポイントを置いて読んでいるように見受ける。
 作家が意識したしないにかかわらず、この作品をそういう角度から読むというのもあながち読み間違いでもなかったのだろう、とほっとした。
 読者は自分の関心から作品を読む。作品はときとして作家が思いもしない角度から読まれる。多様に読まれ得るということは作家が誇っていいことだ。そして似た角度からの読者に出合えたということは、今回一番うれしかった。

 あとの作品について多くいうことはないが、たとえば「走れ 春の馬よ」(糟屋和美)に対する感想はその通りだと思った。つまり、すばらしいことをいっぱい書いているが、いっぱい書きすぎているということである。

「日月堂のアンパン」(もろひろし)
 K氏は「たいへん面白く読んだ」と書かれている。もろ作品にはいつも強く惹かれるのだが、今回作はよく分からなかったというのがぼくの感想なので、これについては一致しない。
 ちょっと話がずれるかもしれないが、この作品を読んでぼくが感じたのは次のようなことである。
 平凡な人間を主人公に作品を作ることの難しさ。
 そもそも小説はお話から始まったし、ストーリーの面白さが出発点であった。つぎにそのストーリーに主人公の性格描写が加わってくる。つまり個性の面白さである。これがシェークスピアだ。ところが、チエホフにいたって、性格劇は否定され、雰囲気劇が始まる。チエホフ作品ははじめそれを理解できる演出家がおらず、ちゃんと劇らしくできなかったので、当初たいへん不評であった。チエホフの登場人物たちは、シェークスピアの人物たちほど個性的ではない。より現実に近付いたのだ。近代演劇はここから始まる。
 そこからさらに状況劇の時代へと進む。安部公房は個性を書くことを拒否して、人間のおかれている状況を描こうとした。個性の書き分けには意味がない。人間だれしもがいやおうなく置かれている状況こそが書かれるべきだというのが彼の作品である。
 だが、結局、ぼくの個人的感想を言うと、個性の書かれていない小説は面白くないのだ。安部公房はいきすぎたとぼくは思う。安部作品ではぼくは作家自身が評価しない作品だが、ごく初期の「終わりし道の標に」がいちばん好きだ。
(話がどんどんそれているだろうが)、チエホフの段階ではまだ個性は全否定はされていない。それはシェークスピア演劇のような誇張から現実化されただけである。そしてたとえば「かわいい女」を読めば、まったく平凡な、いらだたしくなるほど平凡な一人の女を、みごとに魅力的に描いてみせたのがチエホフであることをぼくらは知る。
 ここで平凡な人間をどう魅力的に描くかというテーマに帰ってくる。
 どんな平凡な人間も小説に登場させるなら魅力的でなければならない。でなければ読んでも楽しくないからだ。いや、それは読者の側の事情だが、どんな平凡な人間にも魅力を見つけ出すことが出来なければ作家ではない。何の魅力もない人間というものはこの世に存在しない。それをあえて書かないのは一見識だろうが、それを見つけることができないとしたら作家ではないのだ。
 しかし、それはたぶん最も困難な仕事だ。
 そしてぼくはこの小説の場合、もろ氏は成功しなかったと思ったのだが、K氏は作品の良さを十分読みとることが出来ている。小説の読み方というのはやはり人それぞれだなと思わざるを得ない。

 話がずれてしまった。
「もどれない明日」(花岡順子)と「オニアザミの棘」(河内きみ)についてのぼくの感想は、糟屋作品と一緒で、多くのことを書きすぎているということである。
「熱を抱いて」(江原透)
 文法を守りなさいと皿海さんのお叱りを受けた作品である。一部ぼくの読みとっていなかった部分をK氏が読みとっているので、ここは再読してみたいと思う。明美が焼きもちを焼いたという部分である。
「鬼」(中山茅集子)
 K氏に一個所読み違いと思える箇所がある。紫陽花から出てくる白い大きな頭は主人公が探していた犬の頭で、幻覚ではない。自分が呆けていなかったということを証明する場面であって、鬼に対する完全な勝利を意味する。K氏はそこを読み違えているようだ。そこを読み違えると作品解釈がまったく逆になってしまう。
 全体として楽天的で、まとまりもいい話である。「うずみ」ほどの衝撃力はなかったとしても。

 最後に残念だったのは、K氏が「Gareria」(高橋朋)を理解できないとされていることである。たしかに少し書き込み不足で、余韻がずっと残るかというとそこまでいかない。そういうきらいはあるが、読んだときには強い印象を与えた。だが、これも読者による興味のありようの違いで、やむを得ないことなのだろう。
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