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エッセイと小説

「ふくやま文学」合評会で、エッセイと小説についての発言があった。それもぼくの小文が批評されているときで、ほかならぬ瀬崎氏が口火を切られたのじゃなかったかと思う。そのあと数名から発言があり、いずれも「事実を書けばエッセイ、嘘を書けば小説」という趣旨だったので、異論を述べるつもりで、順序として、まず拙文の由来を語るうち、おかしな方向に話がそれてしまい、(ぼくもいったん話しはじめると止まらなくなるたちなので)糟屋司会に打ち切られて終わりとなり、それきり忘れてしまっていた。
 たまたま昨日の朝日新聞を読むと、大竹昭子という作家がその問題に触れている。
 田中小実昌の「くりかえすけど」という短編集への批評だ。大竹昭子という名前は初めて目にした。
「エッセイと小説の違いはどこだろう。一つは現実からの離陸度ではなかろうか」
 大竹さんはこう書き始める。それは「ふくやま文学」の面々の主張と同じだ。ところが小実昌作品をみていっての結論は、「エッセイと小説の境界はおのずと消えるだろう」となる。
 つまりこれは誰にとっても答えの出しにくい問いなのだ。芸術とは何かとか、芸術の各ジャンルの垣根はどこかとか、こういう問いには答えは出せない。何故なら芸術は日々新しくなる。古い答えは否定され続ける。
 とりあえず、ぼくにとっては、小説に見えるものが小説、エッセイに見えるものがエッセイなのだ。これは書き手がどう言おうが、評論家がどう言おうが、ぼくにとってはそうでしかない。嘘ばかりであってもエッセイに見えればそれはエッセイである。ほんとうのことしか書いてなくても、小説に見えれば小説なのだ。
 いまのところぼくの判断基準になっているのは、それが文章力だけで読ませているのか、それともそこに読者の空想力を刺激するような何らかの空間が作り出されているのか、というようなことである。だが、それもそれでもって判断するための基準ではない。判断したのちに自分の判断理由を推測して見つけ出す後付けの基準にすぎない。新たな作品に出会うたびに基準は変化する。基準を変化させないような作品はたいした作品ではない。それが芸術の世界であろう。
 このテーマではこのブログ上にいままでも何度か書いた。その考えは変わらない。
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