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「それから」「虞美人草」

 きのう取り上げた、「三四郎」への読者評のなかの美禰子の造形を褒めた文章には前置きがあって、学生時代に教師が、漱石は女性の書き方が下手だと言ったが、美禰子を見れば上手じゃないかというのである。
 これは、美禰子の造形を評価しなかった教師にも賛成できないが、しかし漱石の女性像の中で美禰子が例外的な成功例であるのは事実であろう。美禰子以外に魅力的な女性がいない。
「こころ」のお嬢さん=奥さんなど、まるきり不鮮明である。お嬢さんと奥さんとが一人の人間としてイメージできない。
「それから」の三千代もそうだ。まったくイメージすることのできない、影のような女性だ。

「それから」の再連載が始まる。ぼくに言わせれば失敗作だが、しかし「こころ」よりはずっと興味を引かれる小説である。
 代助は、三四郎とちがって田舎者ではない。資産家の事業家の息子であり、兄は実業の世界で稼いでいる。その兄が援助してくれるので、遊んで暮らせる身分であり、働く気がない。働かずして偉そうなことばかり言っている。父と兄とは趣味を解さぬ現実一本やりの人物だが、兄嫁がセンスの持ち主であり、代助と趣味が合う。
 そこへ旧友が地方から舞い戻ってくる。貧しい男で、いくつもの学校を掛け持ちで教えて生活費を稼いでいる。その妻はかつて代助が恋した相手であり、旧友に譲って身をひいた当の女性である。
 そしてよく分からない経過ののちに二人はよりを戻す。裏切られた旧友が代助の兄に訴えたので、代助は勘当され、援助を打ち切られる。息の合っていた兄嫁も、援助することはできないという。かくて旧友から略奪した女性を抱えて、たちまち生活費のあてのない代助は、仕事を探して東京の街を駈けまわり、そのとき街が赤く染まって見えた。即ち発狂寸前である。
 非常に面白いストーリーなのだ。なのに面白くない。何故か。代助の恋の相手三千代がまったく描けていないのだ。どういう女性なのか分からない。どこに魅力があるのかわからない。従って代助が恋する理由が分からない。人生のすべてを失ってまでもあえて旧友を裏切り略奪した理由が分からない。
 漱石は女性を書くのが下手だと言われてもっともなのだ。美禰子は奇跡的な成功例なのだ。そして漱石は作家としての十年間、ほとんど恋だけを、それも三角関係だけを書いた男なのだから、これは致命的である。女性を書けずして恋が書けるわけがない。
 ただ、「それから」のなかでも、兄嫁は大変魅力的に書けている。「こころ」のお嬢さん=奥さんも、「それから」の三千代も受動的な女性だが、代助の兄嫁はそうではない。自我の強い女性である。美禰子タイプだ。いっそ、彼女と代助とが不倫するのであれば、この作品は際立ったものになったはずだ。
 ぼくの中学生の孫が「こころ」と「三四郎」を読み、いまから「それから」を読むというときに、「これ不倫の話じゃろ?」と言った。一瞬ぴんとこなかった。「それから」を不倫の話だとは思っていなかったのだ。しかし考えてみればその通りである。なのになぜそう思っていなかったのか。小説にそういう雰囲気がないのだ。恋の雰囲気さえない。女性の雰囲気もない。これでは失敗作だろう。
 成功した女性像にはたぶんモデルがある。頭だけで考え出したのではない。頭ではとても考えだせないような現実の人間としてのふくらみがある。失敗した女性は、頭だけで作った女性だ。
 ヘミングウエイが体験を書かねばならないと言った。それも体験からなるべく早く書かねばならない。書くべき体験がなくなると人は創りはじめる。すると作品は駄目になる。そのとき、その作家はもう終わったのだ、と。
 ちなみに「それから」をどう解釈すべきかというと、これはかなり複雑である。漱石自身は代助のような優雅な身分ではなかった。むしろ代助の旧友のように、いくつもの学校を掛け持ちで教える貧乏人だった。この旧友こそ漱石がモデルだといってもよい。読者はそのことを頭に入れておいて読む必要があろう。
 終始一貫偉そうなことを言う代助、それが最後に代助自身好意を寄せていたに違いない兄嫁からけんもほろろに批判され、発狂寸前で仕事を探してあてもなく街を駈けまわる。このラストは何を意味するのか。漱石は何を書きたかったのか、これは複雑な小説なのだ。

 もうひとつ、「虞美人草」がある。藤尾はほとんど成功しかけた女性像である。かなり突飛で特殊な女性だ。
 資産家の娘だが、父親はすでに死んでいる。母親と兄がいる。だがこの兄は母親が違う。彼が遺産相続人なのだが、これが代助のような男であり、自身働いてもいない癖に、遺産は放棄して藤尾とその母親に譲ってもいいようなことを言う。言うけれどいつまで経っても実行せず曖昧なままである。
 藤尾には地方出の貧乏な恋人がいる。貧乏だが、東京帝国大学を最優等で卒業した前途洋々たる青年である。だが、彼には田舎に恩人がいた。この恩人は彼を援助し、教育し、東京へ送り出した人物であり、その一人娘を青年に嫁がせるつもりでいる。貧しく年老いた教育者である。この父娘が上京してきて、話がこんがらがってくる。学業に成功し、資産家の娘のもとに出入りする青年にとって、貧しい父娘はもはや疎ましい存在である。
 これは完全にスタンダールの「赤と黒」の世界なのだ。金持ちの娘に取りいってチャンスをものにしようとしたおり、昔馴染みが出てきて妨害する。貧しく有能な人間が陥る世の仕組みの罠であり、ぶつかる壁なのだ。
 この藤尾という自分勝手で美しくも相当に変わり者の女性が、見事に描き出されているので、この作品には読む価値がある。もっとも冒頭の美文調は読むに堪えない。あそこは飛ばして読めばよい。
 だが、漱石は最後に失敗する。有能青年は恩を忘れたことを悔いて老教師と貧しい娘のもとに帰り、それを知った藤尾は頭に血が昇って死んでしまう。有能青年がそういうふがいない男だったとしてもかまわない。それが当時の日本の現実だ。しかし漱石はそれを批判的に書かねばならないのに、社会の道徳に負けてしまっている。これではこの作品をなんのために書いたのかさっぱりわからない。
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