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「名探偵石崎義忠翁」

  石崎家

 こんなものまでネットで見つけることができるのかと驚いてしまった。
 曽祖父石崎義忠の名前で検索してみた。するとぼくが親からもらって失くしてしまった本が出てきた。
「名探偵石崎義忠翁」1926年 石崎義忠翁表彰会編集発行 高見活版所(富山市)印刷 小柴直矩著(郷土史研究会員)
 国立国会図書館が保存していて、12年にネットで公開した。全ページ読むことができる。
 国会図書館というところにも驚いた。どの程度のものを保存しているのか全く知らないが、こういう無名の個人の本は普通保存しないのではないか。たまたま役所関係なので残り、まだ出版自体が少なかった昔の本なのでそういう価値を認めたのかもしれない。
 子供のころに一度読んでいるが、今回読み直して、当時興味を持たないままに記憶から抜けていて、近年知りたいと思っていた幾つかのことを知ることができた。
 1852年、金沢城下にて出生。そもそも石崎は能州奥原保石崎村の出である。佐々前田の戦いに石崎半右衛門、手柄があって、出身地に50石をもらった。のち、越中に移り、さらに金沢城下に移っている。
 ちなみに能州石崎村とは現在の七尾市石崎町である。先般七尾に行ったとき、たしか駅前に石崎という看板を目にしたが、石崎は富山であると聞いていたので、偶然の一致だろうと思って気にしなかった。ところが偶然どころか出身地だったわけだ。

  義忠と堀家

 義忠の父は石崎ではない。堀氏である。母親が石崎で、義忠は祖父の跡を継いで石崎を名乗ることになる。家を絶やさぬことが至上命題であった当時として、何の不思議もないと思っていたが、今回本を読んでみると、謎が出てくる。
 堀鐕(オガチ)の嫡男で藩学校読師の堀文之助の長男に生まれながら、「故あって」石崎を継ぐことになった、とあって、何のゆえか書いてない。もちろん石崎に男の子がいなかったからだが、そのような場合普通は堀家の次男三男が石崎に行くのではないか。
 しかも石崎は5石加増されたとはいえ55石にすぎない。堀は前田の近侍を勤めて150石である。家格が違う。何の「故」なのかを知りたくなるところだ。
 その疑問はさらにその先の記述からも大きくなる。義忠が行った先の石崎家では当主(義忠の母の父)が亡くなる。義忠まだかぞえ6才である。11才になったとき、祖母と母と、女ばかりで甘やかしてはならないというので、他家に修行に出されたとある。この母は堀家にいたのか石崎家にいたのか。いったい本当に堀文之助の妻なのか。父文之助はこのあとの記述に一度も顔を見せない。どうもここには「故あって」としか書けない複雑な事情があったように思える。
 もっと先へ行って、義忠は藩主に認められて「割場付平士」に取り立てられ扶持50俵を給せられた。これを機会に自分が継いだ石崎家を母親に返し、新たに同名の石崎家を立ち上げてその創始者になったというのである。
 これなどはまったく意味が分からない。親から継いだのではなく自分の力で家を立てたのだということらしいのだが、母親に返した石崎家はその後どうなったのだろう。消滅したというよりなさそうだが。
 ここにも、単に精神的な問題なのかもしれないが、なんだか複雑な事情を感じてしまう。
 いずれにせよ、義忠には両親との縁の希薄さがある。そして偶然だが、それが次の世代でも繰り返されることになる。
 この本は郷土史研究家の小柴氏が60年から70年も前のことを書いており、義忠の言葉を文章に起こすだけしかなかったのだろうと思われる。だから、できごとはほぼ正しいのだろうが、その事情や評価はまったくあてにならない。

  明治維新

 幕末、義忠はまだティーンエージャーだが、戦に駆り出される。会津軍との関係で越後長岡で戦い、負傷している。のち、藩主が京都警護のため上洛したのに従って京都入りし、さらに明治天皇が東京に遷ることになって、藩主の随行に従った。このとき陸路と海路に分かれ、義忠は海路組だった。船長は西洋人、水夫は中国人だった。
 東京に着いてみると、陸路組がパリッとした揃いの軍服を着ているのに対して、海路組は国を出たときのままの粗末な服である。軍服を支給せよというので在東京藩邸の責任者に掛け合う。その役人の態度が悪いというので「暗殺の議起った」と書いてある。殺そうとしたということなのだろう。これを「加賀藩兵の騒動」と記している。関係者はただちに藩に帰れということになって、山越えを徒歩で金沢まで帰ってきて、一か月間閉じ込められた。やがて嫌疑が晴れて許された。
 こういう箇所を読むと、日本人は決して権威に対して唯々諾々と従ってきたばかりではない、と思わされる。不満があれば藩の責任者に対しても騒動を起こし、しばしば暴力的に反抗する。日本人が極端におとなしくなってしまったのは、軍国主義の時代になってからだろう。多少生活が向上した日本人は「失いたくない」ものができ、おとなしくすることを学んだのだ。第二次大戦後、高度成長を経るとますますおとなしくなった。これは成熟社会の特徴なのであって、非難すべきことではない。社会の変革はこういう世相の変化をも前提として考えていかねばならないだろう。
 このあと藩は解散し、藩士たちは失業する。侍というのは結局サラリーマンなのだとつくづく思う。百姓町人は、政権が代わっても変わらず生活していける。武士はそうではない。会社が倒産したようなものだ。さっそく食うに困る。
 義忠は新政府の軍に応募する。そして江藤新平の佐賀の乱を平定に博多まで行く。そのあと台湾で問題が起こり、熊本に滞陣する。その間は一等兵だったが、それも解決すると再び失業者だ。
 戦争というものはいったん始めるとやめることができないというのは、こういう問題もあるのだ。兵士が失業してしまうのである。
 商売をはじめようとしたらしいが、武士の商法でうまくいかない。石川新聞の記者になった。そうして石川県庁に出入りするうち、もともと旧知の多い警察から声を掛けられ、巡査になることにした。記者よりも生活が安定したのであろう。1879年、27才である。金沢署から始めて、富山県石動(いするぎ)に移る。富山は金沢藩の支藩であり、石川県と富山県とには一体感があったのだろう。県下各署に勤めたのち、1884年、「内勤専ら国事探偵」とあるから、県警の刑事になったということだろう。
 この本の出る前年、1925年に73才で引退するまで46年間勤めながら終生巡査部長から上がらなかったが、勲八等瑞宝章をもらったというのだから、それなりには評価されていたということか。

  一雄から籌夫へ

 子供は二人、一雄と二郎である。二郎は早世した。
 一雄は金沢高等学校から東京帝国大学工科を卒業し、工学士として逓信省に入り、技師、従七位に叙される。国民が位分けされていた時代だ。「一小警吏の身を以て其の子を天晴れ大学まで卒業させた」と書いている。時代はまさに三四郎が東大にいたときと同じくしており、三四郎を見ても分かる通り、当時の大学生というのは地方のそこそこの地主の子だ。一介のサラリーマンの身で子を大学に入れるというのは珍しかったのだろう。
 だが、一雄は結婚まもなく死んでしまう。未亡人の腹から、男子が生まれた。ぼくの父である。義忠はこれを籌夫と名付けた。カズオと読む。亡くした一雄の身代わりだったのだろう。
 母親は、岐阜県神岡鉱山技師工学士大坪一郎の次女ヒデ子である。だが、この母親はやがて佐伯という医師と再婚し、台湾へ行ってしまう。籌夫はヒデ子の兄弟の大坪に育てられる。
 この佐伯家にはたぶん籌夫の異父兄弟がいたのだろうが、その話は一度も耳にしなかった。佐伯家へ行った時点で、母子は他人になってしまったようにみえる。むしろ大坪の兄弟の方とずっと親しくしていた。籌夫の下に、男二人、女三人いた。そういう家庭に育って籌夫一人が石崎だった。
 この家庭がどこにあったのかが分からない。沼津という地名が両親の会話にしばしば出てきたのでそこかもしれない。あるいは関東大震災のときに逃げ惑ったという話があるので、沼津でも影響があったのか、それとももっと東京近くに住んでいたのか、なにもわからない。関東大震災は1923年である。籌夫は16年の生まれだから、7才だ。
 裕福な家庭で、籌夫は幼稚園に行くのをグズって、女中に背負われて行ったと笑い話で語ったことがある。小学校卒業まではこの家庭にいたように思われる。中学校は富山である。義忠はすでになく、義忠の妻(籌夫の祖母)が存命だったようだ。
 しかしこれらは推測で、義忠の本ののちのことだからもちろん記述はないし、両親の生きているうちに話を聞いておかなかったので、ほんとうのことはまったく分からない。中学生になってから大坪に来たという話を昔大坪の叔父から聞いたような気がするのだが、それだと大坪が富山にあったことになり、関東大震災のことなど、いろいろと食い違ってくる。
 いずれにせよ、義忠の経験した両親との縁の薄さが、ここで籌夫の身に再現される。普通の家庭が親から子へと自然に伝えていくなにがしか人生の知恵のようなものが、二度にわたって中断されたようにも思える。
 大坪の父親は、第二次大戦中輸送船に乗っていて撃沈されて亡くなった。籌夫は富山中学卒業後、京都高等工芸(いまの工芸繊維大学)に行き、母と巡り合うことになる。

  探偵物語

 一雄と籌夫の方に話がずれてしまった。さて本題の義忠翁探偵物語である。7つの事件を列挙している。ニセ札ニセ貨幣がそれぞれ1件ずつ、殺人、仇討、赤子殺し、大金強盗、強姦すべて合わせて7件である。
 この最後の強姦事件というのがなんともとぼけた事件で、忍びこんだ先で強姦したあと、ちょっとしたものを失敬して持ち帰るというのだ。それは簪1本とかこうもり傘1本とかいうごくつまらないものである。それも亭主の寝ている横で犯すとかいう大胆なやりかたで、ホンマかいなと思ってしまう。この持ち帰ったものを自分の女にやったことで足がついた。最後までとぼけた事件だ。
 仇討事件が、ちょっとコナン・ドイルの「恐怖の谷」を思い起こさせる。幼いおりに父親が切腹に追い込まれ、その追い込んだ相手を父の仇としてつけねらい、ついにめったやたらと切りつけて大願成就と自首して出る。懲役10年となって心静かに勤めていたが、殺したはずの男が急所が外れて生きていて、しかも羽振りが良いと知った。そこで脱獄し、岐阜から越中に入った仇を追ってくる。しかしすきがない。そこで決死の覚悟で襲おうと決めて、親類にその旨書き送る。その情報が岐阜から富山に届き、義忠が捜索を開始する。宿屋を片端からあたるという根気のいる捜索だが、解決はあっけない。宿帳に京都在某とあり長期滞在しているのを見たその折、二階から様子をうかがう男と目が合い、義忠はとっさに素知らぬ顔でいったん宿を出て、相手を安心させておいて急襲する、というもので、推理も何もない、根気と勘と機転と行動力の勝負である。
 探偵の側に書くべきことがほとんどないので、犯人の事情を長々と書いている。そこが「恐怖の谷」なのだ。それなりに面白く読んだ。
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