プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

左翼

「いま」という時代を視るための角度のひとつに、「社会主義への失望」を置くこともできるだろう。
 イスラム社会でイスラム教が急速に政治的復権を果たしてきたのもそのせいだろうし、先進国で右翼が労働者や若者の支持を広範に集めだしているのも、やはりそのせいだろう。人々の選択肢から社会主義が消え、イスラム教や右翼がその席に座ったのだ。
 ソ連の崩壊はやはり大きかった。それがたとえ偽社会主義であっても、社会主義の広告塔の役割は果たしていた。
 だが、たぶんそのせいだけではない。先進国と後進国とを問わず、各国内での社会主義がすでに賞味期限切れを迎えていた。人々が社会主義に飽き飽きし、すっかりそれを頭から消してしまう時期が来ていた。
 そして……その結果世の中は悪くなっていく一方である。
 人々は社会主義というものがあったのだということをもう一回思い出さねばならない。
 社会主義は何故人々を失望させたのか。
 左翼の最大の欠点とは何だろう。
 それは、味方を探すことをしようとせず、敵を見つけることにばかり熱心なことだ。
 これは左翼の宿痾に思える。
 ソ連の成立からしばらくして、帝国主義がその永年のたたかいの矛を収めて団結したのに対して、社会主義の側は、ソ連と中国の対立を皮切りにほとんど四分五裂、というか、どんどん細分化して、まるで一人一党がごときありさまだ。
 人間の考えは一人一人違って当たり前、どこかに共通点を探っていかねば前へ進めないのだという単純なことを左翼は理解しない。相違点ばかりを探そうとする。そうして殺し合いまでやる。いまや左翼全体が社会の中のごく少数者に過ぎないのに、その小さなコップの中でさえ争いをやめない。
 たぶん左翼はまだ文化レベルが低すぎるのだ。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
451:反発力と創造力 by 植田 与志雄 on 2015/04/16 at 15:56:24 (コメント編集)

「左翼の最大の欠点とは何だろう。それは、味方を探すことをしようとせず、敵を見つけることにばかり熱心なことだ。これは左翼の宿痾に思える」
直接は交差しないかもしれませんが、感じているところを2点記します。
★自分自身の場合、出す力には二種類あると感じている。一つはバネのような外力に対する反発力、もう一つは起電力のように外力に依存しないで自分の内部で起きる力。バネの出す力は外力がなければ出ない、外力が大きければ反発力も比例して大きくなる防衛的、受動的な力。一方、起電力は電気がプラスからマイナスに流れて電流として外部に仕事を為すのと似ている。マイナスに流れた電気はこれをプラスに戻さなければ電流は持続できない。電流はプラスからマイナスに流れるのが自然だけれど、これに逆らってマイナスからプラスに電流を流す力、自然に逆らうのが起電力で、電池や発電機の内部で生じていて、ちょうどダムの下部に貯まった水を上部に汲み上げる力と同じ。
私自身、自然の流れに反発し、自然に対して何かを為す小さな電池でありたいと願っています。素性で分ければ、バネは生理、起電力は理性と言えるだろうか。一般的には生理は理性に導かれるのが正しいとされることが多いけれど、社会主義運動の歴史は、理性が長い年月にわたって大きな誤りに気づくことなく過ごすことがあるということを示している。理性の誤りに敏感に気付くのが生理で、理性で押しまくられると生理的に反発するのが重要なのかも。
★以下はすでに何回となく繰り返し指摘されてきたところですが、、。
マルクス主義そのものの欠陥というよりマルクス主義を担うと自他ともに認めていたサヨクの危ない要素として、自分の狭い世界での実感からですが欠けていたものが二つあったと思います。正しさの証明に懸命で誤りの検出に不熱心であったこと、内部での交流が乏しかったことです。私は機器やシステムの開発を仕事としてきました。機器は設計者の設計した通りに動作します。誤りも含めて。設計に誤りがあれば、設計が正しければ生じることのない結果が得られたり、生じる筈の結果が得られなかったりします。誤りを検出して再設計を繰り返します。優れたエンジニアは<優れた設計をすること>と<誤り検出に鋭敏であること>の二つの能力を持っています。社会主義運動と機器の設計と同一にはできませんが、社会主義は正しさの証明に汲々として誤りの検出をサボッてきたとの印象が強いのです。実践によって得られるのは正しさの証明ではなく誤りの検出だとするポパ-の精神に学ぶべきだったと思います。社会主義運動の中にスターリン主義の病根とでも言うべき組織性への崇拝があったと石堂清倫氏が指摘していましたが、自分個人の異論は横に置いて、組織の統一性を優先する習慣的思考パターンを持っていたと思います。類似意見がまとまって探求と検討が深まり、対立意見との類似と相違が整理され、複数意見の間で浸透、競争、淘汰が生じる、この過程で少数意見の成長や多数意見の誤りも発見修正される、このような(弁証法的?)意見の交流が社会主義党内部では失われていた、今に至るも。運動主体は恋のような盲目的(?)情熱、資本主義の否定への強烈な情熱があるのでこれらはやむをえない面があるとも思います。でも次の社会を作る創造主体は過度の統一を目指さず、多様性の尊重が命であると思います。

447:右翼と左翼の好意的解釈   高原利生 by 高原利生 on 2015/04/10 at 06:23:02 (コメント編集)

右翼と左翼の好意的解釈  高原利生

(ホームページ「ポスト資本主義のための哲学 (旧題)マルクス主義とは何か?(要約)Ⅳ」からの引用の年月日を削除する。この引用は2015年4月10日現在のもので、適宜改版している。20150410)

 精一杯好意的にとらえれば、右翼とは、農業革命に対応した自然との一体感を表現した思想、左翼とは産業革命に対応した対象の対象化を表現した思想である。
 この把握の右翼、左翼だけに弁証法的否定の意味がある。これは、対象との一体化と対象化の統一と同じ課題である。つまりポスト資本主義を作る課題である。今の右翼、左翼という相対主義的区別は無効である。20150414追記

 この一部に、もっと単純な右翼、左翼の弁証法的否定がある。ホームページから引用する。20150420追記

「脱国家」    20150420
 人と対象を対象に引きつける疎外=他を排除する帰属をもたらしている態度の最悪、最大のものが自分だけが正しいという傲慢である。良識派は免れているのかもしれないが、右翼も左翼もこの傲慢さから免れていない。
 右翼の、左翼や良識派や「庶民」に対する「平和ボケ」という非難は正当であり正しい。片や、実際に「平和ボケ」か「平和主義」のふりをした左翼や良識派や「庶民」のボケまたは欺瞞がある。
 国家をなくす努力をしないで、憲法9条を守れと言うのは欺瞞である。自分が政権を取ったら軍隊を持つと言いながら、秘密保護法反対や憲法9条を守れという人や政党は欺瞞である。欺瞞であることは態度の最悪のものであり誠実から最も遠いものである。
 全てに共通の自分だけが正しいという傲慢がある。
 この傲慢さから逃れる方法は、この問題に限っては脱国家であるが、一般的には、相対化、対象化の持続である。なぜこれが難しいのだろうか?(引用終わり)20150420

 高原利生のホームページから、「ポスト資本主義のための哲学 (旧題)マルクス主義とは何か?(要約) 」の一部を引用する。

Ⅳ. マルクスが求めて実現できなかったことと新しい課題を解決する

  第一に、マルクスの提起し、彼が解決できなかった、人と対象、人と人との新しい関係、新しい社会を作る問題が残っている。ポスト資本主義を作る課題である。ポスト資本主義は、社会主義、共産主義か?「マルクス主義者」は、社会主義、共産主義像も作れていないので、ポスト資本主義と言っておく。ポスト資本主義が、社会主義、共産主義なら、課題は、社会主義、共産主義を作ることということになる。資本主義の改良ではない。
  ポスト資本主義という課題には、人と対象、人と人との新しい関係を作るという前提がある。この二つは同じことかもしれない。人と対象、人との新しい関係をどう作るかについて、経済学・哲学手稿で若きマルクスは、多くの文章を残した。ここでは、植物と太陽の対等のアニミズム的とも言える関係さえ述べている。マルクスが提起して完成させなかったものに「マルクス主義者」は興味を示さない。

 人と対象、人と人との新しい関係をどう作るかは、対象化と一体化の「一体型」矛盾である。これで、以下に述べる利益第一主義に代わる経済の起動力が可能になり、パースの連続性、サルトルの全体性が得られる。パースの連続性は、日常の判断も人類の未来に関わる問題も同じ論理によること、サルトルの全体性は、一時が万時、一事が万事ということだ。
 マルクスがこの解を得られなかった原因は、かれがヘーゲルの所有概念を対象化、相対化できなかったことである。これも後で触れる。

 人と対象、人と人との新しい関係をどう作るかの問題の一部として、利益第一主義に代わる経済の起動力とは何かという最も重要な課題探求の答えを含む。問題は、「マルクス主義」が、必要な、人と対象との新しい関係を目指し、利益第一に代わる推進力を見付ける検討をしていないことである。それ以前に、これが必要であることにも気づいていない。これは、今の新旧左翼に資本主義を批判する資格があるのかと問われる問題である。
 利益第一主義に代わる経済の起動力を作る最大の課題は、新しい労働像の実現である。労働は、あらゆる対象、自分と他人という人間を変える思考と行為である。賃労働を含む。価値の変革を実現するのは労働である。政治ではない。これが自由と愛という価値を作る。
 「現実的な、創造的で自由な労働が、共産主義のアルファでありオメガとなる。」とは、ダヴィドフ「疎外と自由」(ロシア語原著、原著名「労働と自由」1962、ドイツ語訳1964、ドイツ語訳からの日本語訳1967. p.194 の言葉である。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment142

 「マルクス主義者」の労働像を、前に触れた高原のAMAZON書評「マルクスの思想を今に生かす」で批判した。「個人の能力の全面発展と、社会に寄与し、省資源で対象にもやさしい製品を要求することが、売り上げや利益増大に寄与し、すべて資本が喜ぶ結果となって終わるなら、マルクス主義は間違っていたのである。
 個人の能力の全面発展と、社会に寄与し、省資源で対象にもやさしい製品を作ることは、売り上げや利益に寄与しないので行えないと、資本が言うなら、もう資本主義にお引きとりいただく時が来ているということだ。
 マルクス主義が正しいなら、個人の能力の全面発展は行えず、資本が喜ぶものと、資本主義制度がある限り実現できないものの両方があることが分かるであろう。
 この新しい労働像が、バカな左翼の外で作られる可能性がおおいにある。その時、マルクスの3の「マルクス主義者」の読み方が違っていることが証明され、マルクスの1、2と3を分離したことが正しかったことが証明されるであろう。

 生産手段の社会的管理等というものは、粒度の時間と空間を広げただけで推進力の属性は全く述べられていない。これが推進力になり得ないのは明らかである。労働の問題に比べれば、生産力と生産関係の矛盾などは政治で解決できる小さな問題である。
 言い直そう。政治で解決できるのは、生産力と生産関係の矛盾の解である政策だけで、これを実現するのは人の労働である。そして、推進力は労働の中に具現化されるしかないのだ。

 ロシア革命直後から、旧ソ連、ユーゴスラヴィアなどで行われ、その後1970年以降、日本でも行われた、「所有」に関わる論争は、何れも、「占有使用権」や「占有処分権」である「所有」に関するものであった。所有そのものの論争ではなかった。今の疎外された一体化である、所有と、他を排除する国家や宗教への帰属を廃し、あらゆる対象、自分と他人のための社会は、今は誰も考えない。若きマルクスが構想した世界である。 「発達した産業によって,すなわち私的所有の媒介によってはじめて,人間的情念の存在論的本質がその総体性ならびにその人間性において生成する」[経済学・哲学手稿]国民文庫、p.194という言葉など、「マルクス主義者」は、マルクスの未熟さとして無視する。このマルクスの言葉は、これが新しい社会の第一段階であり、これを否定して第二段階に行くということだ。マルクスが問題提起して解決しなかったことを受け止めず、彼の作った不備な「体系」を「マルクス主義」と思い込み、その解釈に明け暮れたのが「マルクス主義者」だった。
 (http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#commentsのコメント144、143、145など参照)
 これでは、資本主義を発展させ、所得の再配分を行うほうが「まし」である。これは、利益第一主義の資本主義が勝ったということだ。150年間、「マルクス主義者」は何もしなかった。これからも、そんなものに存在価値はない。

 全ての現象、行動の単位は、矛盾として近似される。
 本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組む、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動は、行われておらず、左翼も良識派も、その意識すらない。従って、この矛盾は存在していない。第二に、このため、次の三つの粒度で、馬鹿で怠惰な「マルクス主義者」のこの矛盾についての分析は、ことごとく大きく的外れとなっている。

 1)今の世界の政治、経済に実在する矛盾は、世界と各人同時実行の、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在せず、世界の多極化を志向する集団と、覇権を求める軍産集団の矛盾が優位である。田中宇の言葉では、「資本の論理」と「帝国の論理」の矛盾である。これは、田中宇の仮説である(田中宇の左翼嫌いに全く同感する)。これは、支配するものの内部矛盾で、両者とも利益第一主義による。
 事実を見ないこととマルクスの理念も見ないことが特徴の「マルクス主義者」は、この実在する矛盾を見ず、ポスト資本主義の原理を求める運動にも全く無関心である。

 2)今の「国内の」政治、経済に実在する矛盾も、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在しない。この粒度での左翼の古い固定観念上の矛盾は、労働者と資本家、プロレタリアートとブルジョアジーの対立である。この矛盾は、なくなってはいないがこれが完全に成り立つのは、マルクスが定式化し単純化された観念の世界である。
 資本主義の改良はやればよい。改良、変更も、「革命」ではないにしても矛盾である。しかし、ポスト資本主義への運動の一環になるべきこの改良も、今はそうはなっていない。

 3)一人一人の矛盾も、これらが個人の粒度に具現化した人と対象、人と人との新しい関係についての価値である自由と愛と、その前提の個の生というより大きな価値を実現する行動=労働の内容の矛盾であるべきである。(労働は、ポスト資本主義の世界では、賃労働だけでなく全ての対象、人を変える行動である。)この矛盾が人の生き方である。
 本来はこれが、世界や「国」の政治、経済の内容であり原動力である。
 しかし、これを、馬鹿な「マルクス主義者」は、その外部の、労働条件の矛盾にすり替える。

 これらは事実を見れば明らかである。これらの事実が、150年間の「マルクス主義者」の古い固定観念による傲慢さの間違いの実証となっている。
 1. マルクスの第一の、最大の、価値についての偉大さは、理想像を描いたことにある。
 しかし、彼が、実際に分析したように見えるのは、当時の労働と所有の極端化され単純化された資本主義であり、出した結論は、生産手段の社会化などの、つまらない、何の答えにもなっていないものだった。それを馬鹿な「マルクス主義者」は答えだと思い込む。当時の課題は資本主義が解決しつつある。この点で、「マルクス主義者」の間違いは、マルクスの理想を見ず、彼の仮説の検証と見直しを行わなかったという二点である。残っている課題は、彼が解を出さなかったポスト資本主義を作ることと、マルクス以降の人類の努力で分かってきた地球規模の人類の課題を解決することである。
 「マルクス主義者」はこの二つに関心がない、それだけならまだよい、邪魔さえしているのだ。そんな「マルクス主義」は、いらない。
 2, 粒度を自由に操り、事実と人の観念を相対化できるのが、マルクスの第二の、方法上の最大の長所だった。
 「マルクス主義者」は、第一に、粒度をそもそも意識しないので、現状分析も、原発,秘密保護法,集団的自衛権などの政策の論理が体をなさず、要するに粒度が違うと、順に論理が違い結論も違ってしまい、第二に、マルクスの未完の体系を完全と思い込み固定観念とし、彼の価値と方法の二つの長所をことごとく失った。

 上山春平は、「弁証法の系譜」で、ヨーロッパ起源のマルクス主義、実存主義、分析哲学、アメリカ起源のプラグマティズムは、いずれも産業革命にどう対処するかを課題にした哲学だったと述べている。そして、産業革命は、かつての農業革命に匹敵する大きな意味を持っていたと言う。(農業革命に対応する「哲学」が仏教、キリスト教,イスラム教という宗教だったろうか?仏教、キリスト教,イスラム教とほぼ同時代に生まれた天皇制は、天皇という穀物神を神とする宗教だった。)

 暴論的仮説であるが、農業革命に対応する「哲学」が、対象との一体感を表現した(日本古代が、万物が神に宿る、と自然とに一体感を表現し、キリスト教は、人との一体化を表現し行動しようとした)のに対し、産業革命にどう対処するかを課題にした哲学は、対象の対象化を目指し表現した。注目すべきは、後者を推進したマルクスは、初期の一瞬、前者の対象との一体感をアニミズム的に表現したことがあり(植物と太陽の相互交流という形で)、本質的には、対象との一体化と対象化を統一しようと目指したが、道半ばで死んでしまった。(だから彼の体系は失敗作である)

 産業革命で生まれ、かつそれを推進したのは資本主義だった。
 あと50年で資本主義は全世界に普及する。それまでは、(「マルクス主義者」の固定観念の「分析」と違い)、田中宇(さかい)の言う一国覇権主義と多極主義の矛盾、つまり帝国の論理と資本の論理の矛盾が、政治と経済の主な矛盾である。
(と書いてきて、20150327の「田中宇PLUS:中央銀行がふくらませた巨大バブル」を読むと、「あと50年」をあと100年に訂正したくなる。資本主義内の物理的戦争は50年で終わるかもしれないが、金融戦争は100年続くかも、という気がする。)
 デカルト、カント、ヘーゲル、マルクスのうち一番若いマルクスでも、日本で言えば、江戸時代末期に生きた人である。アメリカのパースも、マルクスより20年ほど若いに過ぎない。カント、ヘーゲル、マルクスら以降、画期的な哲学者は出ず、デカルト、マルクス、パース達が出した問題も、解かれないまま、百年経ち二百年経ってしまう。
 資本主義が全世界に普及するまでのあと50年で、「マルクス主義」は消滅する。知識層をも巻き込んだカルト集団を生んだという点で珍しい思想だった「マルクス主義」は、歴史のなかの一コマになる。原発に反対した「人類の敵」だったという評価を残して。(この点でも資本主義は勝ったのだ。フランス共産党や中国共産党は原発賛成ではあるが。)
 あと50年、「マルクス主義」がほそぼそと生きながらえるのは、資本主義側に、ドル崩壊や第二第三のリ-マンショックが起きるやや構造的なまずさがあって改良が必要であり、また、馬鹿な一国覇権主義や国家主義が残り、それらへの批判が有効なせいで、「マルクス主義」が正しいせいではない。国家主義は、「マルクス主義」にさえ残っている。

 第二に、人類生き残りと地球との共存という新しい課題も150年経って見えてきている。
 人類生き残りと地球との共存というマルクスなどの知らなかった新しい価値を創り続け、これを実現することである。
 マルクス以後、150年の人類の実践の歴史は、数千年、数百万年、数千万年の地球の歴史を明らかにし、大災害をもたらした地球の運動と、それを救うことを可能にする原子力を発見した。人類絶滅の危機をもたらし得る隕石落下、いかなる気候変動、地球変動にも対処できる手段は、核の力、原子力発電以外にない。安全な核、原発は努力しないとできない。安全性を高める努力は続けるしかない。

446:「際限なく語り続けねばならないこと」  高原利生 by 高原利生 on 2015/04/02 at 19:31:22 (コメント編集)

「際限なく語り続けねばならないこと」  高原利生
(追記,修正 20150403, 15時、0409)

444:ポスト資本主義と左翼   高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-619.html#comment444(619のコメント444)
の三版にしようかと思ったが、別稿にする。

 2015年03月25日に626で石崎氏は
「というふうに問題は密接に絡み合っていて、ひとつの問題を語ろうとすれば、他の問題に言及せざるを得ず、際限なく語り続けねばならないことになる。だから、断片的な言い放しにならざるをえない。」と書いた。
 「だから、どうするか?」に対するに、問題に首を突っ込まない人、気がついても語ることをやめる人、欺瞞的に語る人、断片的に語りながら全体像を提示する作家と、それでも客観的に全体を語ろうとする人がいる。
 この文は、「際限なく語り続ける」ことの位置がないことを言っている。よく分からない。際限なく語り続けることができないから、人は苦労しているのではないのか?

 欺瞞的に語ると分かっていてそう語る人はいないので、客観的にそうだということだ。客観的に全体を語ろうとする人というのも、せいぜい、内にそうならない仕掛けを内蔵しているという自己満足だけかもしれない。欺瞞的なマルクス主義者を「マルクス主義者」というのも定義の問題であるだけの恐れもある。

 「マルクス主義者」は、植田氏に紹介していただいた「吉田ゼミナール基本法13条 吉田民人」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-626.html#comment443
のどれにも無関係な態度の人という定義もできるかもしれない。なお、
 444:ポスト資本主義と左翼 (619のコメント444)で高原のホームページからの引用で、情報化社会論が流行した50年前に、「情報化なんとか」という本は何十冊か買ったと書いた。吉田氏の「情報科学の構想」は、その中で最高の良質のものだった。形式論として良質という意味である。同じ本の中に、加藤秀俊さんなどのものを含む本だった。吉田氏以外は読まなかった。

 高原の「生き方」とは、事実に対する態度、事実をとらえる単位である粒度の決定、粒度間関係である論理の三つの統合体である。これが生きることを決める。
 「吉田ゼミナール基本法13条」はこのうち、事実に対する態度に関する。態度として限定すれば、形式上賛成できる項もある。
 ただし、次の3項には、形式的にも反対する。
 第6条 「バランス感覚」には反対である。
 第12条 「机上型・脱机上型」の複合能力には反対である。本に解は書いてないことが分かった。大体、解が語られてない「問題」が多いのだ。
 第13条 「実存」的能力は「?」か、反対である。政治家なら必要だろう。
 第6条、第13条の妥協解は、弁証法論理から否定される。TRIZは、妥協解を排除する弁証法論理を特徴とする。

 気取るようだが、或はできないことに挑んでいるのかもしれないが、この何年か、上の三つからなる生き方を探ってきた。
 373:論理の筋立てをあらかじめ提示することは可能か  高原利生 on 2014/10/06
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment373
は、もちろんまだ答えになってはいないが、その中で答えを出そうとした。
 おこがましいが全体を語る方法を探ってきたというのが言い訳である。問題は理解されないことである。もう一つの方法は、断片的に語りながら全体像を提示するしかない、小説は断片的に語りながら全体像を提示するというのが先の文である20150409。

444:ポスト資本主義と左翼 高原利生 by 高原利生 on 2015/03/27 at 22:48:44 (コメント編集)

ポスト資本主義と左翼 高原利生

三版20150614,16
 最後の高原利生のホームページからの引用「マルクスの欠点、マルクスについての欠点、落差二つ」を改版する。 
 高原利生のホームページからの下記の引用を追加する。

ポスト資本主義のための哲学  要約の抜粋20141226,20150129,0320,0609,14 高原利生

 全ての現象、行動の単位は、矛盾として近似される。
 本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組む、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動は、行われておらず、左翼も良識派も、その意識すらない。従って、この矛盾は存在していない。

 第二に、このため、次の三つの粒度で、「マルクス主義者」のこの矛盾についての分析は、ことごとく大きく的外れとなっている。
 1)今の世界の政治、経済に実在する矛盾は、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在せず、世界の多極化を志向する集団と、覇権を求める軍産集団の矛盾が優位である。田中宇の言葉では、「資本の論理」と「帝国の論理」の矛盾である。これは、田中宇の仮説である(田中宇の左翼嫌いに全く同感する)。これは、支配するものの内部矛盾で、両者とも利益第一主義による。
 事実を見ないこととマルクスの理念も見ないことが特徴の「マルクス主義者」は、この実在する矛盾を見ず、ポスト資本主義の原理を求める運動にも全く無関心である。

 2)今の「国内の」政治、経済に実在する矛盾も、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在しない。この粒度での左翼の古い固定観念上の矛盾は、労働者と資本家、プロレタリアートとブルジョアジーの対立である。この矛盾は、なくなってはいないがこれが完全に成り立つのは、マルクスが定式化し単純化された観念の世界である。
 資本主義の改良はやればよい。改良、変更も「革命」ではないにしても矛盾である。しかし、ポスト資本主義への運動の一環になるべきこの改良も、今はそうはなっていない。

 3)一人一人の矛盾も、これらが個人の粒度に具現化した人と対象、人と人との新しい関係についての価値である自由と愛と、その前提の個の生というより大きな価値を実現する行動=労働の内容の矛盾であるべきである。(労働は、ポスト資本主義の世界では、賃労働だけでなく全ての対象、人を変える行動である。)この矛盾が人の生き方である。本来はこれが、世界や「国」の政治、経済の内容であり原動力である。政治家の行動が原動力である時代は終わっている20150614。

 1. マルクスの第一の、最大の、価値についての偉大さは、理想像を描いたことにある。
 しかし、彼が、実際に分析したように見えるのは、当時の労働と所有の極端化され単純化された資本主義であり、出した結論は、生産手段の社会化などの、つまらない、何の答えにもなっていないものだった。それを馬鹿な「マルクス主義者」は答えだと思い込む。当時の課題は資本主義が解決しつつある。この点で、「マルクス主義者」の間違いは、マルクスの理想を見ず、彼の仮説の検証と見直しを行わなかったという二点である。残っている課題は、彼が解を出さなかったポスト資本主義を作ることと、マルクス以降の人類の努力で分かってきた地球規模の人類の課題を解決することである。
 「マルクス主義者」はこの二つに関心がない、それだけならまだよい、邪魔さえしているのだ。そんな「マルクス主義」は、いらない。
 2. 粒度を自由に操り、事実と人の観念を相対化できるのが、マルクスの第二の、方法上の最大の長所だった。
 「マルクス主義者」は、第一に、粒度をそもそも意識しないので、現状分析も、原発,秘密保護法,集団的自衛権などの政策の論理が体をなさず、要するに粒度が違うと、順に論理が違い結論も違ってしまい、第二に、マルクスの未完の体系を完全と思い込み固定観念とし、彼の価値と方法の二つの長所をことごとく失った。

 農業革命は、太陽エネルギ-の利用によるローカルな技術革命だった。産業革命は、化石燃料の利用により活動が地球規模に広がる技術革命だった。農業革命も産業革命も、エネルギーが主導する第一次と第二次の技術革命だった。
 今後1000年は、枯渇する化石燃料に代わる原子力エネルギーと(地球内では、プレート運動からのエネルギーも可能なら併用し、発電は原子力、備蓄は水素、利用は電気の三段階になり)活動が宇宙に広がる第三次技術革命の時代である。第三次技術革命もエネルギーが主導する技術革命である。

 情報は、ものとエネルギーに従属している。したがって、情報であるオブジェクトも思想も、ものとエネルギーの生活に従属している。思想、哲学は、技術革命に従属的である。
 矛盾と粒度を見直し続ける根源的網羅思考が新しい時代の労働と生活の生き方、思想、哲学である。
 これが、労働と生活の生き方を作り、ポスト資本主義の、利益第一主義に代わる経済の起動力を可能にし、国家をなくし、原子力と宇宙の時代の新しい技術革命を推進する。これらは、同じことである。(引用終わり)

二版20150329
 「マルクス主義者」は、弁証法を理解していないので、論争で相手を単純否定、全面否定し、弁証法が機能せず最後の手段である多数決に頼らざるを得ないことを民主主義と思い込むのがせいぜいである。
 これは、「マルクス主義者」だけではなかろうが、「マルクス主義者」の単純否定、全面否定は、相手の物理的抹殺、殺害に至る悪質さを持っていた。
 僕は「マルクス主義者」の態度について、ほぼ、全面否定である。弁証法的否定でなく全面否定がいい場合はどういう場合かは、まだ分からない。

 FIT2013の論文公開記事http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-636.html#comment448
を書いた。FIT2013でも述べたが、態度、粒度特定、方法の三つからなる生き方が、生きることを決める。粒度は網羅された中から選ばれないと、全体を見逃してしまう。左翼に限らないが、まずい例を挙げて批判したような気がしてしまうのがこの例である。

 なお引用した高原利生のホームページは改版している。これからも改版する。

 左翼と訣別したつもりでいた。訣別はいつだったかと思って高原利生のホームページ(石崎氏にリンクを張っていただいている。作り方を知らないので見づらい)を見てみると、2014年10月だ。
 左翼と「マルクス主義」批判は、そのホームページの「ポスト資本主義のための哲学 (旧題)マルクス主義とは何か?)高原利生」の抜粋と本文で述べているのでご覧いただきたい。これだけでは批判である。
 そこで、左翼という言葉を使わない理由を簡単に述べる。
 対象に対する態度としての「相対化」「対象化」は行うべきである。マルクスは根源的「相対化」「対象化」を行った人だった。「マルクス主義者」は全く「相対化」「対象化」のだめな人々である。
 一方「相対主義」は忌避すべきである。「マルクス主義者」の多くは相対主義である。今の左翼、右翼という区分は相対主義による。右あっての左である。左あっての右である。今、日本では右が支配勢力なので、今の左は右に反対するだけの相対主義になる恐れがあり、今までずっとそうであり、現にそうなっている。右、左というのは無意味であるのでなく、有害と考えた。これが2014年10月以降、左翼という言葉を使わないようにした理由の全てである。(韓国が、日本海を東海と呼ぶことを他国に強制するのも、同様の理由で反対である)

 というのが、建前の理由である。本音は、左翼と良識派の、自分の感情を合理化した(だけではないが)「反原発」や、左翼の「大衆迎合」、政治的欺瞞、論理のなさに愛想が尽きた。

 それと経験上、左翼は一度作った自分の固定観念を相対化できず、頑迷に変えない人が多い。
 事実と合わない固定観念を躊躇なく捨てるのが唯物論の最大の長所なのに。これは、「フォイエルバッハ論」の唯物論の第二の定義として述べてきたところである。考えるとは、思考とは、議論とは、自分の固定観念を変えることである。

 ねとうよ(という言葉は嫌いである。ネット右翼という言い方にしている)が右翼の評価を下げ、公開の場で「業界用語」を頻発する品のない左翼が、左翼の評価を下げるのは、自然現象で、むしろ「よい」ことだと思っている。
 右翼、左翼の態度、考え方を批判しているつもりである。用語の問題ではない。態度、考え方を変えないで、用語法だけ追従されては困る。そういう人はいないと思うが。

 この帰結として、「改良主義」とか「反革命」の区別も「相対主義」ゆえ殆ど無効である。社会主義も多義すぎる。残すべき有効な言葉は共産主義、マルクス主義だろうか。

 かなり昔、古本屋通信さんが、左翼だかマルクス主義だかの文献的定義だと述べておられた。それなりに納得できる内容ではあった。
 しかし、今は、良い意味のマルクス主義、悪い意味の「マルクス主義」について、延々と高原利生のホームページ「ポスト資本主義のための哲学」の抜粋と本文に書いているとおりで、この古本屋通信さんの定義は取らない。

 さて、本題である。今まで、古本屋通信さんと石崎徹さんのブログを利用させていただいてきた。
 お二人は僕よりは誠実だと思っている。とにかく、誠実を前提に、謙虚であること、批判的であることが望ましい態度だと思っている。

 古本屋通信さんのブログへの投稿はかなり前からやめている。石崎徹さんのブログへの投稿も思想や政治に関するテーマのものは、本稿を最後にしたい。

 年のせいかもしれないが、ブログの議論に膨大な時間を取られる。本稿も書き始めて投稿まで3週間を要した。
 矛盾について、中川先生のホームページにA4 20頁のノートを投稿して、二年以上経った。やっと弁証法論理と粒度についての30ページ六万字、20ほどの図のノート投稿の準備ができたところである。一日100字も書けないということだ。頭の働くあと数年は、考え書くことに時間を取りたい。後は6月締切のFIT2015という情報処理学会のフォーラムへの投稿が待っている。

 それで、石崎氏ブログで気にかかっている、デボーリンの墓守氏(古本屋通信さんブログでの、元東大民青氏)と植田氏のコメントが問題である。順に述べる。

 「イスラム」へのコメント デボーリンの墓守 - 2015年02月10日
までは、デボーリンの墓守氏は、古本屋通信さんブログへの投稿を含み、事実把握と論理のすぐれた人だと思っていた。後に転記するホームページの稿を見ていただきたい。

 植田氏に対し、以下も理解されないだろうと思いながら書く。
植田「情報論」批判 高原利生 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-603.html
306:本源、労働、マルクス主義 高原利生 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment306
437:植田氏の反論へのコメントと等価交換について by 高原利生
606.html#comment437
などで、とんでもないとしか思えない間違いを指摘してきた。

1.植田氏の、情報やサービスが全く理解できない(サービスについては、「マルクス主義経済学者」も同じだが)。マルクス後の画期的前進であるノイマンやシャノンの発明は、何らマルクスの情報把握に影響しない。全く分からない。

(高原利生ホームページから転記)
情報革命は必要でない。今後の技術の問題は、ものとエネルギーについてである。   20150324,25,0427  高原利生

 情報自体は生命誕生以来あった。サービスは運用で情報ではないが、サービス労働が労働誕生以来あったのと似ていなくもない 。
 産業革命の初期には水車に頼るしかなかったエネルギーが、化石エネルギー利用の蒸気機関で画期的に増大した。全体として産業革命は化石燃料の利用によるエネルギー革命だった。
 産業革命の開始後、ノイマンにより、1. 情報操作内容と操作される対象が格納されているアドレスをともに、一語に同一形式で表し、2. 情報操作内容を逐次解釈して一語ずつ実行するハードウェア構造が実現できる。
 人の外部との入出力機能、思考(論理判断と数値計算)を対象化し連鎖的に行う機能を代替し、入出力、論理判断,数値計算、これらを逐次実行する技術手段、機械が生まれる。
 ノイマンの「発明」、記号の形式面の符号化、シャノンのサンプリング定理によるアナログ情報のディジタル化の三つは画期的ではあった。言語と印刷の発明以後、誰でも読み書く対象は、大昔から、常に意識された情報だった。情報については、印刷に続き、ノイマン、シャノンで画期的な発見、発明は完了している。余り大きな課題はない。

 人が食べて個体を維持し子を産み子孫を維持するという生活内容が根本である。情報という形式は生きる内容に従属する。
 あらゆるネットのコンテンツも紙の本も、自動車の価格と同様に、情報に関する製作、運用、維持にコストがかかっている。これは、等価交換の 資本主義の制度のもとでは、情報には、原則、所有権があるということである。科学的知識は発明と違い無償で知ることができるはずだが、科学的 知識を説明するには労働が必要で、その結果、説明本は有償で所有権がある。
 マルクス以前から無償の本はなかった。そしてマルクス以前から情報はあった。印刷の発明、ネットワーク・情報技術・PCの普及は、コピーが楽 になるなど情報の存在の仕方を多少、変化させたが、情報の生成、変更に労働が必要であることが変わったわけではない。
 原則、情報自体が有償である。音楽や本をオンラインで買っても紙やCDや配送費が安い分が安いだけである。

 無償のように見える場合は、理由がある。
 1.ネットや民間放送が無償なのは、資本主義企業の宣伝費の企業負担金の中にコンテンツ製作費などを含んでいるからである。NHKにはまとめて 受信料を視聴者が払い、情報コンテンツ製作費を負担している。
 2.もう一つ、無視できないのは、ソフトウエアによくある、企業が、販売戦略上、自分の「製品」を無償で提供し競争相手をつぶしてしまう作戦 である。有名な事例には、インターネットのブラウザソフトの後発だったマイクロソフトが、インターネットエクスプローラを無償提供し、先発の ネットスケープナヴィゲータをつぶした例がある。マイクロソフトとアップルの基本ソフト無償提供の戦略の違いが、その後の両社のPC販売に大き く影響を与えた例も有名である。最近の事例ではグーグルのアンドロイド無償提供がある。馬鹿はこれらをソフトウエアそのものが無償なのだと思 い込む。
 これには「もの」と異なる、無償提供を可能にするソフトウエアの特殊な特性はある。しかし、同時に、ソフトウエアの開発に何億、何十億、何 百億、何千億円の経費、人件費がかかっても、無償提供してさえ独占しておけば、長い目で見れば何億、何十億、何百億、何千億円の元が取れる「 商品」を売ることができるからである。
 3.例外的に、ボランティアが情報提供をしている場合がある。Wikiペディアは無償で利用できるが、費用は発生している。赤字は作成者が負担し ている。
 要するに、本質的に、情報、ソフトウエアは有償なのである。

 そして、半世紀前、「情報化社会論」が流行した。当時言われていたことは殆ど実現してしまった。資本主義の努力による成果である。

 今後の技術の問題は、ものとエネルギーについてである。今の既存原発の設計、製造、運用、保守の面で改良、新方式の原発の推進を同時に行いつつ、最終的により安全な原子力発電の確立を求め続けなければならない。
 安全な核、原発は努力しないとできない。世界の平和と原子力の安全性を高める努力は続けるしかない。
 「反核異論」「反原発異論」を残した吉本隆明は、考え得る最大の思想家だった。(引用終わり)

2.情報のとらえ方の大きな誤解と関連し、もう一つの話がある。
 人が食べて個体を維持し子を産み子孫を維持するという生活内容が根本であるという唯物論の第一のとらえ方が第二のとらえ方と並んで基本である。情報という形式は生きる内容に従属する。
 ピゲティや植田氏が出したクラウドファンディングをはじめて知ったのは、MITメディアラボのTEDについてのNHKテレビだった。毎週テレビでも放送しているTEDのプレゼンテーションの参加費は一人100万円近い。それだけではなかろうがそれらがTEDを支えている。なお、クラウドファンディングは、本質的に個人が株を買うのと違わず、資本主義の制度であることに変わりはない。

 あらゆるネットのコンテンツも紙の本も、自動車の価格と同様に、情報に関する製作、運用、維持にコストがかかっている。これは、等価交換の資本主義の制度のもとでは、情報には、原則、所有権があるということである。科学的知識は発明と違い無償で知ることができるはずだが、科学的知識を説明するには労働が必要で、その結果、説明本は有償で所有権がある。
 マルクス以前から無償の本はなかった。そしてマルクス以前から情報はあった。印刷の発明、ネットワーク・情報技術・PCの普及は、コピーが楽になるなど情報の存在の仕方を多少、変化させたが、情報の生成、変更に労働が必要であることが変わったわけではない。
 原則、情報自体が有償である。音楽や本をオンラインで買っても紙やCDや配送費が安い分が安いだけである。

 無償のように見える場合は、理由がある。
 1.ネットや民間放送が無償なのは、資本主義企業の宣伝費の企業負担金の中にコンテンツ製作費などを含んでいるからである。NHKにはまとめて受信料を視聴者が払い、情報コンテンツ製作費を負担している。
 2.もう一つ、無視できないのは、ソフトウエアによくある、企業が、販売戦略上、自分の「製品」を無償で提供し競争相手をつぶしてしまう作戦である。有名な事例には、インターネットのブラウザソフトの後発だったマイクロソフトが、インターネットエクスプローラを無償提供し、先発のネットスケープナヴィゲータをつぶした例がある。マイクロソフトとアップルの基本ソフト無償提供の戦略の違いが、その後の両社のPC販売に大きく影響を与えた例も有名である。最近の事例ではグーグルのアンドロイド無償提供がある。馬鹿はこれらをソフトウエアそのものが無償なのだと思い込む。
 これには「もの」と異なる、無償提供を可能にするソフトウエアの特殊な特性はある。これだけを植田氏は強調する。しかし、同時に、ソフトウエアの開発に何億、何十億、何百億、何千億円の経費、人件費がかかっても、無償提供してさえ独占しておけば、長い目で見れば何億、何十億、何百億、何千億円の元が取れる「商品」を売ることができるからである。
 3.例外的に、ボランティアが情報提供をしている場合がある。Wikiペディアは無償で利用できるが、費用は発生している。赤字は作成者が負担している。
 要するに、本質的に、情報、ソフトウエアは有償なのである。20150421,24,27追記

 ところが、植田氏は、「情報財」が所有に関係がなくそれゆえ無償であるかのような超幻想論を振りまき、これに基づくらしい情報化ユートピア論が出てきた。
 情報化を推進する会社にいたし(当時は本を読む主義だったので、)「情報化なんとか」という本は何十冊か買った。新しいPCの原理やネットについての、当時のアメリカの企業の資料を読み、根本的に考え直す力のすごさにも、プレゼンテーションなどの資料の作り方にも感動していた。
 一方、これに対し、1970年に三浦つとむの「マルクス主義と情報化社会」が出たし、雑誌「経済」も「『情報化社会論』の批判」特集を出したりした。
 情報化社会論が流行してから、後一、二年で半世紀たつ。その後の四十数年で、PCの爆発的普及や、NTT民営化に始まるネット環境の充実が進んだ。日本のPCとネットは、時間はかかったがアメリカに追いついたように見える。『情報化社会論』も実現に近づいているように見える。

 『情報化社会論』に、植田氏は、当然、批判的なのだろうと思いきや、資本の悪を言うようなふりをして、と言うと言い過ぎだろうが、氏の情報ユートピア論の基本概念と論理は、当時の『情報化社会論』に比べても暴論である。当時の『情報化社会論』は、基本が違っているが論理はそれなりに筋が通っていた。
「ピケティから考える」植田与志雄 - 2015年03月07日 (土)
で、「資本の支配から脱する」ことは生産手段の社会的管理を意味しているらしい。そしてここでの植田氏の全ての引用が、生産手段の社会的管理が完全な善と疑わないものである。
 第一に、書かれている内容で「資本の支配から脱する」ようになることは不可能、第二に、生産手段の社会的管理にはたいした意味はない。
 従って、資本主義の原理を超える原理を求める姿勢と努力なしに、植田氏のように「情報財と物質財の独立性を認識することが有益」で「メディア全体が資本の支配から脱する可能性が見えてきた」という情報ユートピア論、未来論は有害である。
 資本主義の利益第一主義に代わる原理を求める努力のない人や左翼政党のあり様は、マルクス死後150年間変わっていない。左翼、「マルクス主義者」は、ずっと欺瞞的だったので植田氏だけが欺瞞的だったのではない。

(高原利生ホームページから転記)
マルクスの欠点、マルクスについての欠点、落差二つ   20150324,25,26,27,29,30,0420,23,0605,08,13,14,16  高原利生

 マルクスの第一の、最大の、価値についての偉大さは、理想像を描いたことにある。
 理念は、価値に基づく態度、思考、行動の集積である。典型的な理念として、マルクス、エンゲルスの述べた、搾取による人類の前史が間もなく終わり、自由な人類の本史が始まるという未来像が知られる。この要素として、哲学の消滅、国家の消滅や、私的所有の弁証法的否定がある。よく、ここまで考え得たと思う。
 マルクスの第二の、方法上の最大の長所は、粒度を自由に操り、事実と人の観念を相対化できることと、方法としての弁証法だった。労働などの基本概念についても確固たる把握があった。後日、馬鹿な「マルクス主義経済学者」が労働についてのとらえ方の論争をするのは、彼には迷惑なことだろう。

 この二つについての、現実認識と変更の手段は、これより狭い粒度のものになるのは仕方のないことである。
 素晴らしい理念や理想を知らされて、その後、同じ人の語る現実分析と現実の変更手段を、理想実現の手段と勘違いするのは、主に、受け取る方が悪いのだ。この落差を解消すべきはマルクス後の人々である。

 マルクスの二つの長所について、我々は、二つのそれぞれに対応する重大な落差を二つ知っている。なぜ対応して欠点と落差があるのかは不明である。
 一つは、資本主義の分析と資本主義の矛盾の解についてである。二つは弁証法についてである。これが、悪しき多くの「マルクス主義者」を産むことになった。

 後者について、1.弁証法論理の見直しと、2.弁証法論理の前提となる物事を扱う単位、粒度の確定方法が10年がかりで一段落しそうである。これは、弁証法的世界観は、世界が関連し合い変化していると言われて感激し、説明される矛盾でこの世界を扱えると勘違いする問題である。
 弁証法論理と粒度特定は、思考方法である。弁証法に無理解な「マルクス主義者」は、今までの技術論論争や矛盾論争でさえも、弁証法に無理解であることを表す。http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-675.html#comment469の、
「自由民権運動について3つの評価があるようです。
一つは講座派的史観で、これをブルジョア民主主義革命運動とするものです。これは多数説のようです。
 もう一つは労農派的史観で、明治維新をブルジョア革命とみなし、自由民権運動は必ずしも進歩的ではない側面を持った運動とみる史観です。
 最後は、旧来の社会を維持しようとする豪農などが、上からの資本主義化を促進する政府に対して反抗した非近代的反政府運動とする説」
というのもその典型である。20150616
 弁証法と粒度特定は、集団内では議論の方法として民主主義のあり方を作る。左翼政党内では見事に民主主義がない。20150616

 主に、受け取る方が悪いと書いたが、マルクスにも責任がある。1弁証法論理について、マルクスはヘーゲルの影響から抜け出せていない。2適切な粒度の特定という意味は、結論と推論の粒度があっているということだ、これについて、マルクスは天才的だったが、そのことを自身では自覚していない。
 1弁証法の単位については、2013年に矛盾についてのノートを、中川先生のホームページに書いている。今、1,2についての、ほぼ倍の量の第二弾ができた。もうすぐ公開できる。

 ここでは、最初の落差について述べる。
 理念、理想のすごさに対し、彼が、実際に分析したように見えるのは、当時の労働と所有の極端化され単純化された資本主義であり、出した結論は、生産手段の社会化などの、つまらない、何の答えにもなっていないものだった。それを「マルクス主義者」は答えだと思い込むが、当時の課題は資本主義が解決しつつある。
 まず、生産手段の社会的管理は答えでないことは明白である。
 彼の著作は、全体として使えない。彼の意図が実現されなかった失敗作である。失敗作という意味は前に述べたとおりである。今、読むべきマルクスの著作は、経済学・哲学手稿、経済学批判要綱などの当時未公刊の著作だけである。
 マルクスは書いた内容は殆ど正しい。わずかであるが間違いはある、それは石橋徹氏のブログで植田氏が間違いと書いているところにはない。
 問題は、彼の書かなかったところにある。書かなかったところは、未公刊の著作だけに多少は残っているのだ。

 私的生産の矛盾の解が生産手段の社会的管理、と言う有名な結論がある。これが必要であることは正しい。しかしこれは答えではない。
 全く不思議でならないことに「マルクス主義者」は誰一人、生産手段の社会的管理という結論の「正しさ」とその前提のヘーゲル由来の「所有」概念を信じ切って疑わない。
 第一に、生産手段の社会的管理を行えば解決するというのは違っている。生産手段の社会的管理の中身は何かに答えない解は解ではない。
 第二に、社会的管理の必要な生産手段を使う肝心の労働の内容に触れていないものは解ではない。この労働内容が解であり、経済の原動力である。しかし、重要な経済の原動力に「マルクス主義者」は無関心である。マルクスの書いていないことが問題であるので、マルクスの解釈しか行わない「マルクス主義者」がこの問題を見ないことは当然なのである。

 さすがに不破哲三氏はこの問題に気付いたが、御本人に資本主義的労働の経験がなく、労働に無知なために、労働から離れた「自由」な時間が原動力だと述べてしまう。マルクスの解釈では成果を残した人だが、これで成果は帳消しである。
 植田氏は、これを高原と不破氏の、労働をとらえる粒度の差に過ぎないという意味のことを言っていた。(原文に当たっていないので表現は違うかもしれない。)
 「粒度の差」というのは正しい。粒度は出発点で先に決まり、その違いは決定的なので「粒度の差に過ぎない」というのは違っている。

 この第一、第二の問題に関係する弁証法論理の大きな未解決の課題は、私的生産の矛盾のような機能と構造の矛盾より優位な矛盾があるらしいということである。生産力と生産関係の矛盾、つまり生産力が機能、生産関係が構造だが、生産力を増すことを「良い」機能とするとらえ方が、おかしいのかもしれない。これなら機能の階層を述べれば問題は終わる(と言っても、納得する人は少ないだろうが)。矛盾の全体構造はまだ明らかになっていない。 矛盾の全体構造はかなり分かってきた。少なくとも事実を認識し、解決するための矛盾の全体構造は、9月のFIT2015などで発表する。

 第三に、「所有」概念の見直しが必要だ。矛盾の問題と同様、これもマルクスがヘーゲルを抜け出せなかったことによる。二つともヘーゲルが絡む。制度では共同観念という情報を共有する。マルクスに情報概念がなかったから間違えたのでなく、一面的に法という共同観念、情報に単純化したから間違ったのである。「所有」概念についてはうまい答えはまだない。人と対象、人と人の関係の理想を求める問題である。今まで何度か書いている。例えば、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#commentsの高原のコメント144(旧142)、コメント143、コメント145など。
 このコメントで書いたかどうか忘れたが、人と対象、人と人の関係の理想は、私的所有の弁証法的否定だけでなく、もう一面の疎外である他を排除する帰属も弁証法的否定するはずである。人と対象を、人に引きつける疎外が、私的所有で、対象に引きつける疎外が、他を排除する帰属である。それで、この粒度、面からも、国家がなくなり、宗教がなくなる。

 第四に、第二第三と重なるが、人の生き方を変え、対象や人との新しい関係を作らないものは解ではない。
 以下、第二第三第四の説明を補足的に述べる。

 暴論的仮説であるが、農業革命に対応する「哲学」が、対象との一体感を表現した(日本古代が、万物に神が宿る 、と自然との一体感を表現し、キリスト教は、人との一体化を表現し行動しようとした)のに対し、産業革命にどう対処するかを課題にした哲学は 、対象の対象化を目指し表現した。注目すべきは、後者を推進したマルクスは、初期の一瞬、前者の対象との一体感をアニミズム的に表現したこと があり(植物と太陽の相互交流という形で)、本質的には、対象との一体化と対象化を統一しようと目指したが、道半ばで死んでしまった。彼の体系は未完成の失敗作である。

 「石崎徹の小説」ブログに20150410に「精一杯好意的にとらえれば、右翼とは、農業革命に対応した自然との一体感を表現した思想、左翼とは産 業革命に対応した対象の対象化を表現した思想である。」と書いた。今の右翼、左翼という相対主義的区別は有害で無効である。
 精一杯絶対的にとらえた右翼、左翼が上である。この把握の右翼、左翼だけに弁証法的否定の意味がある。これは、対象との一体化と対象化の統 一と同じ課題である。つまりポスト資本主義を作る課題である。これは全ての労働する者の課題で、政治家だけの課題ではない。労働の中に、対象との一体化対象化という困難な課題、ポスト資本主義を作る課題がある。

 人と対象を対象に引きつける疎外=他を排除する帰属をもたらしている態度の最悪、最大のものが自分だけが正しいという傲慢である。良識派は免れているのかもしれないが、右翼も左翼もこの傲慢さから免れていない。
 全てに共通の自分だけが正しいという傲慢がある。
 この傲慢さから逃れる方法は、一般的には、相対化、対象化の持続である。なぜこれが難しいのだろうか?
 右翼の、左翼や良識派や「庶民」に対する「平和ボケ」という非難は正当であり正しい。実際に「平和ボケ」か「平和主義」のふりをした左翼や良識派や「庶民」のボケまたは欺瞞がある。
 国家をなくす努力をしないで、憲法9条を守れと言うのは欺瞞である。自分が政権を取ったら軍隊を持つと言いながら、秘密保護法反対や憲法9条を守れという人や左翼政党(共産党)は欺瞞的である。生産手段の社会的所有や管理が新しい社会を作ると思い込み「綱領」に書く左翼政党は、客観的な欺瞞である20150613。
 傲慢と欺瞞は態度の最悪のものであり誠実から最も遠いものである。

 資本主義は、人の自由と権利を画期的に拡大した。それを批判する資格があるのは、資本主義の、自由と権利と経済発展を推し進める原動力に代わる原動力のための努力をしている人だけである。今まで、そう書いてきて、「マルクス主義者」が、生産手段の社会的所有や管理が解だと思い込んでいるとしたら、彼らは僕に批判されているとは思わないのだと気付く。
 マルクス、エンゲルスの述べた理念の実現を目指す態度を身に付け、彼らがなそうとしてなしえなかったことを実現することが残った課題のはずだが、「マルクス主義者」はそう考えず実行もせず、ただひたすらマルクスの定式化の解釈と、資本主義の改良に明け暮れる。
 本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組む、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、この矛盾は存在していない。
 それで、今の世界の現実の矛盾は、世界の多極化を志向する集団と、覇権を求める軍産集団の矛盾が優位である。田中宇の言葉では、「資本の論理」と「帝国の論理」の矛盾である。これは、田中宇の仮説である(田中宇の左翼嫌いに全く同感する)。これは、支配するものの内部矛盾で、両者とも利益第一主義による。

 僕の乏しい経済理解では、資本主義は発展の余地がある限り生き延びる。高原の勝手な予想では、あと50年で「資本の論理」が勝つ。
(と書いてきて、20150327の「田中宇PLUS:中央銀行がふくらませた巨大バブル」を読むと、「あと50年」をあと100年に訂正したくなる。資本主義内の物理的戦争は50年で終わるかもしれないが、金融戦争は100年続くかも、という気がする。)
 資本主義が全世界に普及するまでのあと50年、100年で、「マルクス主義」は消滅する。知識層をも巻き込んだカルト集団を生んだという点で珍しい思想だった「マルクス主義」は、歴史のなかの一コマになる。原発に反対した「人類の敵」だったという評価を残して。(この点でも資本主義は勝ったのだ。フランス共産党や中国共産党は原発賛成ではあるが。)
 この点で、「マルクス主義者」の間違いは、マルクスの理想を見ず、彼の定式化、仮説の検証と見直しを行わなかったという二点である。

 残っている課題は、彼が解を出さなかったポスト資本主義を作ることと、マルクス以降の人類の努力で分かってきた地球規模の人類の課題を解決することである。大雑把な言い方だが、この二つの重要さは同等で、お互いに条件になり合う。人類の課題にとって宇宙技術と、原子力発電を含む原子力は不可欠である。
 「マルクス主義者」はこの二つに関心がない。それだけならまだよい、邪魔をしている。
(引用終わり)

▼このエントリーにコメントを残す