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偽善

 偽善と露悪とは「三四郎」の主要なテーマである。それは西洋と日本という漱石の生涯のテーマによりそうものだ。
 遠藤周作が、「沈黙」の中だったか、あるいは他でだったかもわからないが、「キリスト教の本質は偽善である」という意味のことを書いていた。
 橋下徹を見ても分かるが、日本人というのは本音の話をしたがる。きれいごとを言ってみても本心はこうなのだろう? という形にもっていきたがる。
 そのとき米軍の司令官が怒ってみせたように、アメリカ人はそれを嫌う。彼らにはタテマエが大事なのだ。
 偽善を暴きたがる心情はわかる。しかしあれもこれも偽善だと言っていては、身も蓋もない話になるだろう。偽善ととりたくなるようなものにもまたその役割がある。漱石も遠藤周作も、そこに複雑さを見ているのであって単純否定していない。
 ヨーロッパは、あの狭い地域で数千年も戦争し続けて、その結果戦争のルールを作った。殺し合いにルールを作るというのはじつは馬鹿げたことだし、まったくの偽善なのだ。
 トルストイが「戦争と平和」の中でアンドレイ・ボルコンスキー公爵に言わせている。
「戦争捕虜をとるというのは馬鹿げたことだ。ロシアの土地を侵し人民を殺戮した連中を許すべきではない」
 じつはそう言ったボルコンスキー自身フランス軍の捕虜になり、捕虜交換で帰ってくる。だからボルコンスキーのセリフをトルストイの考えと思ってはならないのだが、「戦争のルール」という言葉の矛盾を突いているのだ。
 余談だが、ボルコンスキーが捕虜になるこのアウステルリッツの場面はぼくの最も好きな場面だ。モスクワでのボルコンスキーたち新時代の青年貴族たちにとって、フランス革命がもたらした自由という言葉の響きの輝かしさ、そして、そのシンボルたるナポレオンは待望の英雄そのものだった。
 ボルコンスキーははじめクツーゾフ将軍のもとで参謀として働くが、敗走するロシア軍、それを追ってロシアの地を深く侵しはじめたフランス軍、蹂躙されるロシアの大地と人々という現実を前に、戦争するのは参謀ではない、戦場の兵士だという信念のもとに連隊長として戦場に立つ。実際には連隊を率いて戦場に待機するうちに敵の砲弾に当たって負傷し捕虜になる。
 負傷して野に転がるボルコンスキーのもとに馬上のナポレオンが近寄ってくる。ボルコンスキーはその背後にアウステルリッツの青い空を見る。その高い広い空の前のナポレオンはかつて想像したような英雄ではなくあまりにも卑小な存在に過ぎなかった。
 話がまったく脱線しているが(脱線ついでにもっと脱線するが)、高校時代、福山の、当時住んでいた官舎の裏山の草地に寝転がり、高い広い空を見ながらこの個所を読んだぼくは「アウステルリッツの青い空」と無意味に繰返し、感慨にふけった。それは確か、1805年の話だ(違うかもしれない)。このとき以来、これがぼくのナポレオン像になった。それはつまり高い広い空にはおよそ似合わない卑小な人物だ。
 のちに「赤と黒」を読んで、ぼくはその認識を一面的だったとして改めた。現実は常に複雑で、ひとつのことがあれば必ず別のこともある。
 本題に戻る。
 ルールにもとづいて戦争するのがヨーロッパの戦争だった。少なくとも第一次大戦で航空機が登場するまでは。航空機の登場は戦場と非戦場、戦闘員と非戦闘員との区別をなくしてしまった。
 それでも戦争捕虜について彼らは日本人とはまったくちがう考えを持っていた。
 欧米人にとって捕虜になることは最も誇るべきことであり、捕虜になって帰ってくればたちまち英雄である。(当選はしなかったが)共和党の大統領候補にさえなれる。
 ところが日本では「生きて虜囚の辱めを受けず」である。このために大勢の日本人が無駄死にした。第二次大戦中の日本軍のありようを見ると、まったく腹立たしくなるような馬鹿々々しい無能な軍隊である。
 武器弾薬はおろか食料の補給もなく、数百万の戦死者のうち半数以上が餓死であろうという。そういう状態でも降伏を許さない思想にどっぷり浸からされていた。日本軍はルールなき戦争を戦っていたのだ。

 こういうことを書き始めたのは、いま人道的な人殺しと非人道的な人殺しとが目の前で繰り広げられ、そこに複雑な問題があるように思うからだ。
 アメリカ空軍のパイロットたちは、朝出勤してくるとテレビ画面の前に座って無人機を操り、遠く離れたイラクやパキスタンで人々をあっけなく殺し、時間が来ると服を着替えて子供たちのPTAの会合に出かけ、かれらを健やかに育てることに関し意見を交換したりする。
 まったく人道的だ!
 一方イスラム国は非人道的に殺す。なるほどここには大きな違いがある!
 こういう偽善はぼくにとっても腹立たしい。
 しかし、偽善には複雑な社会の仕組みがある。
 国家と非国家とを彼らは区別したがる。国家が行う殺人は、警察行動や軍事行動であり、すなわち合法である。非国家が行う殺人は単なる人殺しかもしくはテロであり、すなわち非合法である。
 こういう区別ももちろん馬鹿げている。
 ただ、ひとつ考えなければならないのは、イスラム過激派はいま自分たちの同胞に銃を向けているという事実である。それは決して珍しいことではない。すべての権力が自国民を弾圧するのが目的だった。ヨーロッパでもアジアでもアメリカでもそうだった。そしてムバラクもフセインもアサドも自国民を殺した。それは非難されるべきことだが、ある程度の合法性を持って国民を実効支配している政権の場合と、地方の反乱軍との場合とでは、異なる対応が生まれざるをえない。
 中南米のかつての左翼ゲリラたちは、はじめは純粋な目的だっただろうが、時勢に合わなくなって支持を失いはじめると、みな、身代金目当ての誘拐事業に精出す山賊と化してしまった。
 彼らが討伐の対象たることについてコンセンサスが成立する。
 イスラム過激派についても、要はどこまでコンセンサスが成立するかどうかという問題を考慮せねばならないだろう。
 かつてポルポトが自国民を皆殺しにしかねない状態だったとき、国際世論は何も知らなかった。「カンボジア0年」が出版されてさえ、人々は無関心だった。ぼくは当時、「おまえは共産党と本多勝一にだまされている」と言われた。
 イスラム国についての情報がどこまで西側に操作されているかどうか知らない。ナイフで殺すのと空爆で殺すのとどちらがより残虐かという問題も依然としてある。
 基本的には欧米の干渉にすべての原因がある。しかし事態はすでにここまで来てしまった。原因が何かということよりも現実をどうするかということであろう。
 そこには単純に答えを出せない問題がある。ぼくにはそれが偽善という問題の持つ複雑さと響きあって見える。
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コメント
440: by saki on 2015/03/03 at 09:30:51 (コメント編集)

>偽善ととりたくなるようなものにもまたその役割がある。

>現実は常に複雑で、ひとつのことがあれば
必ず別のこともある。

そうですね・・・
石崎様のおっしゃる通りだと私も思います。
複雑で
根の深い
難しい問題です。
けれど
だからこそ私たちは
決して目を逸らさずに
向き合い
考え
行動してゆかねばならないんですね・・。

追伸
ボルコンスキーが
ナポレオンの背後に見た
”アウステルリッツの青い空”その対比
彼の心情を
私たちの胸にありありと思い浮かぶような
情景にして描出してしまう
それがまたトルストイの凄さ
でもありましょうか。




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