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高原氏への植田氏の回答

(石崎)しかるべき反論と思われるので、以下にコメントから本文に移す。おそらく両名のテーマに微妙なずれがあり、そこからくる食い違いであろう。いずれのテーマも興味深いものであり、参考にさせていただく。

 高原氏への植田氏の回答

*ご批判有り難うございます。
 批判されている部分は、遺伝子と自我の話の中で自我の説明に必要な範囲で「情報」に触れたところです。情報一般について述べているわけではありませんし、このテキストはとても短いものです。このテキスト部分に関しての議論なら納得ですが、言及していない部分があることを以て「あいまいだ」と思われたり、言及していない部分に対して「誤っている」と指摘されたりしているように感じて少し驚いています。
 例えば、このテキストで言及していない部分に関してはもしかしたら、高原さんや石崎さんと植田は同じ意見であるかもしれませんよね。実際に高原さんのこの批判の中にたくさんの同意点もあるのです。不同意点★と同意点●について簡単に書きます。

★(高原)物質が精神/情報より根源的:ものなしに、情報も事実もない。情報がものから離れるということ自体が妄想。物質なしに観念も関係もない。情報が物質から離れるということ自体が妄想である。

植田:テキストの中に物質が根源的であることを否定するところはありません。しかし自身を生み出した脳細胞から離れて思想や知識や学問は存在し伝搬、拡散します。脳細胞なしに情報は生まれませんが、脳細胞で生まれた思想は文字や音声によって母体から離れて体外に実体化されて存在できます。ただし文字や音声といった物質やエネルギーに担われていなければ存在できません。そういう意味では情報がものやエネルギーから離れることはないのです。ここも否定していないのです。情報を負荷しないモノは存在せず、物質に負荷されない情報は存在しない、ここは植田も同じです。テキストではここまで言及していないだけです。

★(高原)非物質的財にも所有権はある:資本主義において「非物質財」の所有権は確立していて、資本主義下の所有権によって十分「非物質財」は発展してきた。

植田:資本主義では非物質的財は特許権、著作権、といった擬制的所有権(フィクション)によって物理的基盤がないことを補ってきた。分ければ減るものだったら擬制的所有権を発明する必要はなかった。この制度は内容の公開と引き換えに独占的権利(所有権)を時限的に認めるもので、発案者のインセンティブと公共の利益である技術の拡散を同時に満足させる巧みな制度だったので非物質財が発展した。

★(高原)非物質財も使えば減る:「非物質財」も、使うと「減る」。状況が変われば、「物質財」は微小な変更でもそのままでも「非物質財」を維持運用するためには変え続けなければならない、変えないと価値が減るからである。
植田:掛け算のやり方は他人に教えても自分の掛け算のやり方が失われたりはしません。
 リンゴは他人に分ければ確実に自分の持ち分は減ります。非物質財は使っても別けても減らない、これは情報財の財としての定義でもあるのです。しかし効用は少し事情が異なります。一度聞いたらもう知ってしまっているから二度聞く必要はない、二度聞いても効用は増えない、同じ情報を2個もっていても効用は増えない、つまり限界効用は0です。ソフトはバージョンアップを続けないと価値を維持できない、これは元のソフトが減ったりしているわけではないのです。昔の知識が現在の知識によって置き換えられる、昔の知識が間違いだったら、これは負の財であったということ、不十分だったら置き換えはプラスアルファで、いずれも元の財の増減ではない。財の増減と効用の増減は必ずしも一致しない、財が減らなく効用は減る、逆もまたあり、これはよくあることです。高原さんは効用の増減を財そのものの増減と同じとみなしていませんか。

●同意点:「非物質財」は「物質財」に担われてのみ存在する。遺伝子情報がものに担われてのみ存在するのとまったく同じである。
植田:前述の通り、同意します。
●同意点:「非物質財」と「物質財」の関係はますます濃くなりつつあり、「物質財」に埋め込まれた「非物質財」は、すでに「物質財」より圧倒的に大きくなっている。
植田:非物質的財(具体的にはコンピュータプログラム)が物質的モノに組み込まれることによって、形態変化を伴わずに機能、効用が生成される商品化が急発展しつつある。これはプログラムという非物質財がモノから独立に商品化されて存在できているからこそ、多様なモノに埋め込まれることが可能になっているからではないでしょうか。

*「植田は安易なアナロジーで飛ばす」とのご指摘、その通りです。
 ここでの私の姿勢は浅い理解のまま水面をたたきながらジャンプを繰り返し遠くまで飛ぶ石に似ています。遠くまで飛ぶことに意味があると思える事柄には丁寧で慎重な姿勢は薄れます。使えそうな材料はなんでも使いたいのです。石は水面に留まることは出来ずすぐに沈んでしまいます、沈む前にジャンプです。モスクワ大学大学院の入試問題に「水面を沈まないで人が走るには時速何km必要か」というのがあったことを思い出しました。
 演算子法をつくったO.ヘヴィサイド(1850~)は演算子法が数学的な厳密性に欠けるとの批判に対し、「私は消化のプロセスを知らないからといって食事をしないわけではない(“I do not refuse my dinner simply because I do not understand the process of digestion.”)」といったのが有名ですが、気持ちだけは似ているかも。
 高原さんは物事の深い根本を根源にまで沈潜して探求なさるのが得意ですよね。私にはできないのです。私は水平、高原さんは垂直、互いに織り糸のように必要なものと思います。
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コメント
438:お詫びします by 植田 与志雄 on 2015/02/23 at 08:37:33 (コメント編集)

お詫びします。
高原さんの
・・・「あいまいだ」と思ったことはないし、そう書いてもいない。
とありますが
これに一言弁解させてください。

「あいまい」と言われて驚いたというのは
2月21日植田「情報論」批判 高原利生
の冒頭にあった
・・・全体としては、植田氏の論のあいまいな部分への批判として妥当性をもっているように思う。
のことです。
これは石崎さんの書いたもので、高原さんの言葉ではないです。そこのところを曖昧に書いたのがいけなかった。
石崎さんも「あいまい」だと感想をもったそうなので、そこに少し驚いたという
植田の過剰反応でした。

437:植田氏の反論へのコメントと等価交換について by 高原利生 on 2015/02/23 at 03:59:49 (コメント編集)

 今回の植田氏批判は、「物質的代謝からはみ出した営み」(2015年02月07日)に限定して行ったもので、「物質的代謝からはみ出した営み」(2015年02月07日)以外のテキストは関知しない。石崎氏に本文にしていただいたことを感謝しているが、コメントから本文に移された時に、コメントで書いていた批判対象の記述が削除され、何の批判かということが分からなくなったのは残念である。
 石崎氏が省いた部分:
植田氏の「物質・情報」二元論と所有についてー「物質的代謝からはみ出した営み」(2015年02月07日)批判  高原利生 by 高原利生 on 2015/02/20 at 20:38:47 (コメント編集)
植田氏の「物質・情報」二元論と所有についてー「物質的代謝からはみ出した営み」(2015年02月07日)批判  高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-583.html に転載された「物質的代謝からはみ出した営み」- 2015年02月07日)の物質・情報二元論と特にその所有との関係について述べる。
植田氏と議論する方法が分からないので、もうしないつもりだったがやむを得ない。

 植田氏のこの「物質的代謝からはみ出した営み」の全文に対する批判でそれ以上でも以下でもない。
 したがって植田氏の
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-606.html 高原氏への植田氏の回答- 2015年02月22日 における、(すみません、2015年02月23日22時追記)
「批判されている部分は、遺伝子と自我の話の中で自我の説明に必要な範囲で「情報」に触れたところです。情報一般について述べているわけではありませんし、このテキストはとても短いものです。このテキスト部分に関しての議論なら納得ですが、言及していない部分があることを以て「あいまいだ」と思われたり、言及していない部分に対して「誤っている」と指摘されたりしているように感じて少し驚いています。」というのは何のことか分からない。「あいまいだ」と思ったことはないし、そう書いてもいない。

 議論には時間が掛かるし、どうも僕は議論の仕方が分かっていないようである。この議論は中断したい。
 二点だけ誤解を解いておく。

 植田氏「資本主義では非物質的財は特許権、著作権、といった擬制的所有権(フィクション)によって物理的基盤がないことを補ってきた。分ければ減るものだったら擬制的所有権を発明する必要はなかった。この制度は内容の公開と引き換えに独占的権利(所有権)を時限的に認めるもので、発案者のインセンティブと公共の利益である技術の拡散を同時に満足させる巧みな制度だったので非物質財が発展した。」(「高原氏への植田氏の回答」- 2015年02月22日  2015年02月23日22時追記)

 知的財産権が擬制(フィクション)であるのでなく、今の所有がヘーゲルの法的所有で擬制(フィクション)である。それをマルクスは問題提起したが解決しなかった。解決された状態をマルクスは「経済学・哲学手稿」で書いている。解決する方法、手段は書かなかった。これを解決しなければならない。これが植田氏に伝わらない。
 それを解決しようとせず政治的欺瞞だらけの「マルクス主義者」はいない方が良い。
 なお、特許制度を含んだ知的財産権制度そのものは、発足時の「巧みな制度」である意味を失い、今では、発展を阻害する要因になっている。

 植田氏「掛け算のやり方は他人に教えても自分の掛け算のやり方が失われたりはしません。」(「高原氏への植田氏の回答」- 2015年02月22日  2015年02月23日22時追記)

 高原は、第二のところで「、、の新しいものには通常、所有権があり所有や交換の対象である」と書き、「掛け算のやり方」は除外したつもりだった。書き方が良くなかった。「掛け算のやり方」と今、所有権のあるものを一緒に論じることが違っている。情報の特性、「掛け算のやり方」の特性を一般化することが違っている。それが安易なアナロジーである。教育や芸術発表が無償で行われるのでないことだけを言っているのではない。

 この議論はやめ、同じ「物質的代謝からはみ出した営み」の別の話題についてコメント。これもこの稿に書かれていることに限る。

 植田氏「生存と文化の両面とも交換性向によって基礎づけられているだろう、そして交換性向は長い時間かかって利己的遺伝子によってつくられてきたものらしい。交換性向に適合的なメカニズムとしてミームが獲得した工夫が市場で、市場を通して生存に有用な使用価値の交換、伝搬、拡散が得られ、種の強化に役立った。さらに市場で交換されるものは物質的財だが、この物質的財に乗って、物質的財に埋め込まれている非物質的財がミームとして親密圏を超えて広く伝搬して文化を形成していった。
 高原さんの<市場=非暴力的交換の飛躍の駆動力は恋愛>とする独創的なアイディアも遺伝子支配との関係も含めて考えるのは面白いかも。 」(植田氏「物質的代謝からはみ出した営み」(2015年02月07日)2015年02月23日22時追記)
については、ほとんど理解できないので保留しておく。

 一言だけ。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html#comments 413:「不確実な矛盾の生成」への疑問に答える その2  高原利生 by 高原利生 on 2014/12/12
などで述べているように、等価交換は、技術や制度の基礎になっている。
 資本主義も等価交換と法的所有を基礎としている。これは物々交換が普及した時点で決まったことだが、別の道もあり得たことは、植田氏や石崎氏に読んでいただいた矛盾についての論文でも触れている。
 ポスト資本主義は、等価交換と法的所有を基本とした社会ではないかもしれない。
 何かを他人から取ること、取られること、もらうこと、与えることのどれでもない等価交換はぎりぎりの妥協解だった。

 地球でも、家庭内では等価交換は行われない。これを、石崎氏のように時間を延ばして等価交換ととらえるのは一つの見方、態度、粒度だが、そういう態度、粒度は合っていないかもしれない。
 地球は、環境が多様で複雑な変化をする中に小さい個体生命が産まれてしまったので、分業と交換が必要な特殊な世界だった。物々交換が普及したのはそれが個体の生の増加に貢献したからだ。
 それで産まれた社会を「正しい」等価交換にするのが「政治運動」であるのはつまらない。
 一方、「与える」ことが原動力の社会は「余計なお世話」の社会かもしれない。
 要するに、僕は等価交換の普遍性については保留する。ずっと保留のままかもしれない。今、竹内さんの本を読むつもりもない。

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