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「三四郎」から「ママ友は自衛官」まで

 朝日連載の「三四郎」だが、先週三四郎と美禰子の間がかなりきわどいところまでいったあと、一転して、与次郎が企んだ上野精養軒での広田を東大に売り込むためのパーティの場面である。
 この場面で、物理学は自然派か浪漫派かという話になる。ここはぼくの記憶にはなかった。だがこれは我が意を得たりだった。漱石にとってこれは大事なテーマだろうという気がしていたのだ。
 自然主義の代表者ともいわれる正宗白鳥(実は読んだことがない)は、漱石を「文章のうまい通俗小説」と言ったそうだ。純然たる自然主義の立場から見れば、そもそも物語というもの自体が通俗だとみえるのだろう。だが、小説は物語でなければならないというのが漱石だ。もっとも彼自身はほとんど成功しなかった。西洋で生まれた小説という形式と、日本の風土との中で、どう書けばよいのかと苦吟し続けたのが漱石文学であろう。
 きょう、言いたいことは自然主義文学への違和感なのだ。もちろん自然主義と浪漫主義とは文学の両輪なのであろう。この両派は文学史上つねにたたかい続け、勝ち負けを繰り返してきたように見えるが、その実そのたたかいこそが文学なのだ。そのたたかいは一人の作家、ひとつの作品の中でもつねにたたかわれている。
 ただ日本には自然主義の伝統があり、それは同人文学に顕著だし、またいわゆるプロレタリア文学と、その影響下にある民主文学でも非常に根強い。これへの違和感をぼくは持ち続けている。
 宮本百合子の小説は、16,7で書いた「貧しき人々の群れ」には感動し敬服したし、「伸子」も前半はとてもよかった。だが、後半、ニューヨークから東京へ帰ってくると、たちまち小説そのものが日本の風土の中にどっぷりとつかってしまう。そこに書かれたのはもはや小説ではなく、百合子その人の個人的愚痴である。前半と後半とで文体がまるで違う。「伸子」はあそこで完全に破たんしている。
 と思って、それ以後百合子を読んでいない。いま読めば違う感想を持つかもしれないが、それがぼくの若き日の偽らざる百合子評である。
 いま若い人たちは膨大な携帯小説の世界を展開していて、そのあまりにもいい加減な文章にもとても馴染めないが、自然主義にもやはり馴染めない。
 ここから話が飛ぶが、3月号を3作読んで、一つ目と三つ目の評を書いて二つ目の作品をとばした、その理由がこれなのだ。その文体に馴染めなかったのだ。

 松本たき子「ママ友は自衛官」

 取り上げた題材はタイムリーである。自衛隊について真剣に考えるべきときに来ている。もはやあいまいなままでは済まされない。松竹伸幸は自衛隊の存在を認めようと言っている。共産党がどう言っているのか、実のところぼくはよく知らない。ウオッチしきれていない。しかし共産党がどう言っていようと関係ない。これは各個人が自分の意見を持たねばならない。
 その意味で、この作家は大事なテーマを取り上げた。
 だが、残念ながら文学として評価できない。
 もちろん小説をどういう基準で評価するかは人それぞれだろう。ぼくだってつねに文学的観点のみを重視するわけではない。しかし、この作品の場合は、その文学的欠陥によって訴えたい内容が死んでしまっていると思えた。
 内容は、横須賀の保育園に送迎するママ友たちに、自衛官の制服を着た女性が増えている。彼女たちは同性の眼から見てもすばらしい女性たちが多い。だが、自衛隊に批判的な考えを持ってきた主人公の若い女性がそのことをどう考えるべきか悩む、という話である。
 その設定は悪くない。ぼくが気に入らないのは文体なのだ。この作者は、主人公の女性の頭の中がまるですっかりお見通しであるかのごとく、ご丁寧に説明してくれる。この作家にはなぜ主人公の頭の中がそんなに見えるのだろうと、ぼくは思ってしまう。つまりは主人公は作者のロボットなのだ。作者のご都合に合わせて作られた人物だ。
 もちろん、小説の作り手は作家だ。しかしそれが見え見えの作品は失敗作である。小説の登場人物は作家の手を離れて独り歩きしているように見えなければならない。人間の頭の中など誰にもわかるはずがない。作者に分かるという時点でその作品はもうだめなのだ。
 この作品は主人公の頭の中だけで完結している。頭の中だけで葛藤している。現実世界で人と人との間で葛藤せねば劇は始まらない。
 こういう、登場人物の頭のなかだけを描こうとする作品をゴマンと読んできた。漱石の「こころ」もその悪い代表だろう。自然主義にもさまざまな傾向があるが、こういった作品群も、そのいくつかの傾向のひとつに見える。
 主人公は若い女性だが、たぶん作家はその親の世代だ。違っていたらごめんなさいだが、この文体は若い人のものには思えない。成熟した作家が若い人を書こうとすることは大事なことだ。漱石も「三四郎」の青春群像を描いた時すでに40代だった。あの作品では彼は見事に書ききった。誰が試みても困難な仕事なのだが、挑戦する価値はある。
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430:管理人のみ閲覧できます by on 2015/02/10 at 06:41:53

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