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三四郎からドーキンスへ

 話が多方面に飛ぶことになると思うが、とりあえず「三四郎」から始める。
 半世紀前に読んだ本だが、さわりの部分はすべて鮮明に覚えている。それほど印象の強い本だった。
 三四郎自身はまったく個性のない男だ。主人公だからそれでよいのだ。田舎出の純朴な青年が東京でおろおろしている図を書いたのだから。代わりにあくの強い人物が二人、与次郎と美禰子が物語を支えている。広田、野々宮、よし子、原口らの脇役が背景を膨らませる。
 ただ、今回朝日紙上で毎日読んでいて、ぼくの記憶に残っているさわりの部分以外には、ほとんど何もないのが意外だった。美禰子と三四郎の出会いもわずかしかない。ほとんど言葉も交わしていない。それでいて、誘うような誘わないような微妙な美禰子のふるまいに強く惹かれながら一歩を踏み出せない三四郎の心模様がよく分かる。ぼくの中学生の孫が「せつない話だなあ」と言ったが、そのとおりだ。そのうえ、脇役たちがみな魅力的である。
 そこで「猫」である。「三四郎」は高校へ入ってすぐ読んだが、「猫」はその前に読んでいた。そこには漱石をとりまく人物たちが一通り出てきて、これが「三四郎」の人物とダブる。対比しながら読む面白さがあった。
 今回、「猫」の中から取り上げたいのは、「巨人万有引力」である。「巨人万有引力がその長い腕を伸ばして地球をしっかりとつかまえている」
 これはクシャミ先生(いま漢字を思い出せない)のもとへ出入りする一人の書いた戯文だが、引力を巨人と表現したところに漱石の科学的感覚を感じて、印象に残っている。
「リンゴは何故木から落ちるか」誰も不思議と思わなかったことを不思議と思ったニュートンによって引力の理論が出来た。ところが今度は、「それは引力があるから当たり前だ」と人々は思ってしまい、この引力という見えない力はいったい何なのかと問うことを忘れてしまう。
 はるか離れた太陽から宇宙空間に長い腕を延ばして地球をつかまえている巨人引力、これこそ科学的想像力ではなかろうか。魔法ではないのだから、腕もなしに地球をつかまえることはできない。腕はあるのだ。どのような腕かということが解明されねばならないのだ。
「引力だから不思議ではない」と発言することは、「魔法だから不思議ではない」と発言することと同じである。「引力だから不思議」なのだ。
 科学とは、ひとが当たり前で何の不思議でもないと思っていることを「これは不思議だ」と発見するところから始まるのだろう。
 そこで、ハミルトンとドーキンスである。じつは「三四郎」からここへたどり着きたかったのだ(いささか強引だが)。
「それは本能だから不思議じゃないよ」と言ってしまえば、科学は始まらない。「それは本能だから不思議だ」ということを発見したとき科学が始まる。「本能には科学的合理性があるはずだ。それは数学のように明瞭なものであるはずだ」と考え、それを追及してたどり着いたのが利己的遺伝子だったのだろう。
 ウィキペディアでドーキンスを引くと、彼の履歴がかなり詳しく出てくる。ケニア生まれのイギリス人、我々とあまり年齢は変わらない、現代人である。ぼくは竹内久美子をかなり戦闘的な無神論者と書いたが、ドーキンスこそまさしく文字通りの無神論の戦士である。
 彼の利己的遺伝子に反対して激しい論争を繰り広げたグールドという生物学者がいる。二人は遺伝子に関しては意見を異にしたが、無神論という点では一致していた。そのグールドが「あの連中と討論しても意味がないからやめとけ」と忠告したにもかかわらず、ドーキンスはキリスト教神学者たちとの間でこれも激しい論争を繰り広げた。
「神がいたって別に害がないじゃないか」という意見にもドーキンスは耳を貸さない。「文化や慣習としての宗教は自分も認める。だが、やつらは科学の芝生に踏み込んでくる。これは大きな害がある」
 結論から言えば、ぼくもドーキンスに賛成だ。文化や慣習と、科学とをはっきり区別している点が最も重要なことと思う。信教の自由の尊重が、宗教批判をタブーとしてしまってはならない。信教も思想も同じことだ。何を信じ、何を考えようと自由だ。同時にそれを批判することも自由である。
 信教の自由を侵してはならないと恐れるあまり、宗教批判を自己規制していないだろうか。
 もちろん、宗教がなくなれば非合理非科学的思考がなくなるかというと、これは鶏と卵とどちらが先かという話で、非合理非科学的思考を宗教に還元してしまうことはできない。宗教がすべての悪の元凶であるかのごとく責めたてるのはやりすぎだろう。だが、世間が宗教にあまりにも遠慮しているように見えるので、ドーキンスの姿勢はいっそ潔く見える。
 ただし、宗教とのたたかいは自分たちの社会で影響力を行使している宗教に対してのみ向けられるべきである。他の社会の宗教への乱暴な介入には慎重であるべきだろう。なぜなら、そのとき問題はすでに宗教問題を離れてしまうからである。そこには支配し支配されてきた歴史問題が横たわっている。それはもう宗教問題ではなくなってしまう。「どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」(スーザン・ソンタグ)
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