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誠之館(「たんめん老人」より転載)

 10月29日、梅棹忠夫『日本探検』(講談社学術文庫)を読み終える。
 梅棹の秘書であった藤本ますみさんの梅棹研究室での経験をつづった『知的生産者たちの現場』という本の中に、梅棹の『知的生産の技術』を読んだ東京の高校生たちが修学旅行の自由時間に研究室に押しかけてくる場面がある。梅棹は留守で、対応にあたった藤本さんは最初ちょっと迷惑がるが、やがて、彼ら高校生にとってこの研究室がフィールドなのだと得心したという次第が記されていた。この『日本探検』の中で梅棹はさほど特別な場所に出かけているわけではない。むしろどんな場所でも見るべき目をもって観察し、しかるべき方法を踏んで踏査すれば探検になるのだということを言おうとしているように思われる。その意味で、梅棹研究室を訪問した高校生は梅棹の思想と方法論をきちんと理解していたことになる。

 この『日本探検』は1960年から1961年にかけて雑誌『中央公論』に連載され、その後単行本にまとめられたもので(詳しい書誌的なことは巻末に収録された梅棹自身の「『日本探検』始末記」と原武史さんによる「解説」をご覧ください)、「福山誠之館」、「大本教」、「北海道独立論」、「高崎山」、「名神高速道路」、「出雲大社」、「空からの日本探検」の各章からなる。一見して、それぞれが無関係であることが分かる。これらの題材をもとに、梅棹は日本の知的な伝統とその継承について、世界平和・世界連邦の思想について、中央と地方の関係における同質・異質、分離・統合をめぐって、伝統的・土着的な学問としての「サル」研究についてなどなど、縦横に論じている。「縦横に」と書いたが、縦の線としては伝統の連続性を重視するところ、横の線としては民族的・土着的なものを重視するところが梅棹の思想の特徴ではないだろうか。逆にいうとこのような主張が独自性をもつものとして受容されてきた日本の思想界の特徴というのも考えてよいだろうと思う。

 特に興味深かったのは、「福山誠之館」の章である。広島県の東部、旧備後の国の中心都市である福山市は1853年にペリーが浦賀に来航したときの江戸幕府の首席老中であった阿部正弘を藩主として戴いていた城下町であり、往時の藩校が旧制中学校を経て県立高校になり、設置形態は変わっても校名はそのままに存続している。藩校の目的は江戸時代の後期になってくると、極めて実際的なものとなり藩運隆盛のために有為な人材を養成することであった。誠之館で開設されていたのは漢学・和学・洋学および武技の各科目であり、洋学の中には蘭学、医学が含まれ、武技の中には剣術、弓術、槍術、柔術、水練などのほかに、銃術、砲術があったという。このように文だけでなく武も重視する学校として、梅棹は近世ドイツにおけるリッターアカデミーが対応するのではないかと考える。

 「藩校は、階級的身分制の小国家における貴族の教育機関である。おなじように、リッターアカデミーもまた、小領邦国家における貴族の学校である。リッターすなわち中世騎士の伝統をひくドイツ貴族たちは、ここで領邦国家における完全な宮廷人としての訓練を受けた。おなじように、中世武士の伝統をひく日本のさむらいたちは、藩主の城下において、完全なる藩士としての訓練を受けたのである」(41-42ページ)。フランスの歴史学者ジャック・ル・ゴフは西欧の中世は歴史的に他に類例のないものであると論じていて、これは梅棹の議論に待ったをかけるものであるだろう。
 リッターアカデミーは19世紀に入ると、社会の変化とともに解体し、あるものは大学に、他のものは実科学校に改編されてゆく。「この場合、ドイツには中世以来の『大学』というものが存在したことが重要である。自由なる研究機関、教授と放浪する学生の共同体としての大学の観念があった。歴史的にさまざまな変遷をへているとはいえ、とにかくそこには地域と階級を超えた『世界』があった。それに反して、リッターアカデミーには、一領邦国家の貴族の教育という、地域的な閉鎖性と階級的な限定があった。
 地域的閉鎖性と階級的限定は、まさに日本の藩校の特質でもあった。だから、明治になって日本が統一され、身分制のわくがはずれたとき、藩校もまた廃止になるほかなかったのだ。そして日本には『大学』の伝統がなかった」(43-44ページ)。「日本には『大学』の伝統がなかった」と言い切ってよいかどうかは疑問。確かにヨーロッパ中世に起源をもつ「大学」はなかった(以前にこの問題については少し触れた)。しかし、そういうのであれば、ヨーロッパ流の中世も日本にはなかったと言うほうがわかりやすいのではないか。

 さて、梅棹は福山誠之館高校が備後の最高学府でありつつ、さらに上級の学校へと進学するものが多い伝統について述べ、東京における旧福山藩士の子弟のための育英寄宿施設である誠之舎、旧藩邸敷地内にある阿部幼稚園(当時の当主が園長をされていた)、阿部家の邸宅を福山出身者の交流の場にした葦陽倶楽部、阿部家の学校であったものを寄付したという来歴のある文京区立誠之小学校、福山出身の大学生の寄宿施設と各種学校(夜間制)を兼ねた誠之英学院などを訪問・紹介している。それぞれが現在はどうなっているのか、暫く文京区で生活していたので、その時にこの本を読んでいれば実際に足を運んでみたかもしれないと思ったりする。

 伝統と近代化の問題をめぐり、伝統の連続的な側面を強調するのが梅棹の特徴である。「制度というものは、時代とともにいずれかわるものだ。革命だからといって、いちいちご破算にしなくてもよかったのだ」(57ページ)。「いまはもう明治のはじめのように、幕藩体制を否定するために、伝統からの断絶を強調する必要はなくなっている。…意味のない亜流者意識を克服するために、古い伝統との意識的な接続をくわだてた方がよい時代になっているようだ」(58ページ)。「亜流者意識」というのは、日本の近代化は欧米のそれの亜流であるという意識であり、梅棹がその生涯にわたって克服しようとしてきた精神である。そうした梅棹の姿勢には大いに魅力を感じる一方で、彼の議論が強引になっている部分、歴史的な考察が厳密さを欠いている部分については批判的に見ていく必要を改めて感じる。梅棹とは世代も、経歴も、専攻も、研究スタイルも違い、共通しているのは好奇心旺盛なことくらいの思想史学者の原武史さんが「解説」を書いていて、私が触れなかった部分を含めて、この書物と梅棹の取り組みの特徴を彼なりにまとめているのが、多くの読者にとって参考になるだろうと思う。
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