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「不確実な矛盾の生成」への疑問

 まず二つの疑問を提示する。
① 物々交換の解明から見えてくるものは何か

(物々交換が貨幣を生みだしたが、貨幣はやがて物々交換以外の機能を持ち始めた。この機能によって資本が可能となった)
 というところまではマルクスが明らかにした。あるいはマルクス以前の経済学者たちがすでに明らかにしていたのだろうが、ぼくは読んでいないのでわからない。
 高原さんがテーマとされているのは、その前段階、「物々交換はいかにして生まれたか」である。
 それをテーマとする理由について、高原さんはそれがマルクス理論に欠けていると述べられているが、「欠けている結果、マルクス理論にどういう欠陥が生じたのか、物々交換の発生過程を明らかにすることで何がわかってくるのか」ということが必ずしも明示されているようには思えない。
 今回発表された場の性格による限界なのだろうが、「物々交換」をテーマとしたのではなく、「不確定な矛盾の生成」というテーマの一例として「物々交換」をとりあげたという体裁になっている。
 したがってここにはマルクスが出てくる余地はない(短時間しかなかったわけだし)のだが、高原さんの他の著述(実はまだ読めていないものが多いのだけど)のなかでもそのことがどういう意味を持つのかわかりにくい。
 マルクスは貨幣の機能を明らかにすることによって、まず資本の成り立ちをはっきりさせた。これがそれ以後の理論展開を可能にした。
 だが、「物々交換」の解明からどういう理論が展開されるのかは、まだ見えたとは思えない。

② 物々交換の発生過程を解明する上で、TRIZ理論はどういう役割を果たしたのか

 今回の発表の場が、TRIZ関係者の集まりだとしたら、その人たちには分かることなのだろうが、物々交換の発生を解明するにあたって、TRIZ理論がどういう役割を果たしているのかが、この理論に無知なわれわれには分かりにくい。

 以下で文章記述上などの分かりにくい箇所を指摘し、部分的に記述の変更例を示す。

「不確定な矛盾の生成」
 このタイトルの意味がすぐには分からない。
 なぜなのだろうと思って、英文を見て納得した。
 Generation of Indefinite Contradiction
 これなら「不確定な矛盾」の生成なのだということが一目でわかる。ところが日本語では、「不確定な矛盾」の生成なのか、不確定な「矛盾の生成」なのかが分からない。
 こういうところが日本語の不便なところで、タイトルがぴんと来ないので、それだけで読む気力がなえてしまう。
 書いている本人はほかの読み方を考えもしないので、気が付かない。読者はそこでつまずく。それを避けようとしたら、カギ括弧をつけるのがよいだろう。

1、まえがき(記述例)
 世界の大きな問題から、日常生活のこまごました問題にいたるまで、すべての問題を解決しうる道を見つけたい。そのためには新しい価値、新しい事実、新しい方法が必要であり、それを生みだし続ける生き方の問題になってくる。
 矛盾の運動についてすでに解明されていることを、2でおさらいする。本稿の目的はその前の段階、内容不確定なことを他人と始めるに際しての矛盾の生成の検討である。物々交換を例として取り上げる。

2、矛盾とその運動
 矛盾には二種類ある。ひとつは現状と理想との間の矛盾、もうひとつは現存する二つのものの間の矛盾である。
(これを解決する方法として、「粒度」をキーワードとして展開している。おそらくこの場がTRIZ専門家たちの発表の場なので、その人たちには分かるのだろうが、われわれにはそもそもTRIZが分からない)
3、矛盾の解決像を実現するオブジェクト操作
1)当のオブジェクト世界内だけの変更
2)異なったオブジェクト世界からの介入
 これは矛盾の概念を越える。
3)媒介化 間接化 重層化
 1)でも2)でもなくかつ両方である。
 技術と制度を作る過程、利用、運用する過程の総体である。制度とは共同観念である。
4、矛盾の生成
「物々交換」についての検討。
 ところがこれが矛盾の生成なのか、それとも矛盾の解決なのかという点が分かりにくい。
「強奪によって生じるいさかいで死者が増えるのをどうすればいいか」ということが矛盾であると書いてある。即ち矛盾はすでに生成されている。
 矛盾はあるのだが、その解法が見つからない、それは所有の観念が確立されていないからである、というように読める。
 だが、はたして矛盾は矛盾として自覚されていたのか。それを解決したいと思っていたのか。思っていたとすれば、すでに矛盾は生成されており、あとはいかにして解法を見つけるかの問題となるだろう。
 だが、はたして物々交換はそのような自覚によって始まったのだろうか。
 恋に起源を見る以下の記述は、むしろその見解を否定し、偶然に重きをおいているようにも読める。

 ここで展開されているのは、まったく存在しない「共同観念」が、いかなる歴史的条件のもとで生まれてくるのかという非常に面白いテーマである。
 まさしく矛盾のないところにいかにして矛盾が生まれてくるのかということだろう。
 いさかいによる犠牲を悼む心はある。だがそれをはたして矛盾ととらえていたか、それとも自然として受け入れていたか。
 人の心の中で、いつの時点で矛盾が自覚されたのか。自覚されて解決法が模索されたのか、それともそれとはあまり関係なしに、自然発生的に物々交換が始まったのか。

 そういう疑問がいっぱいあって、このテーマに関する理路整然たる解法が提示されたとは言い難いのである。

 ぼく個人の感触を言えば、このテーマに純理論から接近できるとはとても思えない。せいぜいが仮説の提起にとどまる。
 このテーマを追求できる場所は、動物の観察か、原始共同体の観察である。
 これに関しては去年の12月20日に「物々交換、そしてエンゲルス」と題して書いたので繰返さない。
 ここでは、いさかいと犠牲についての動物たちの考え方に触れてみる。
 彼らは縄張りやメスを争ってしばしばたたかうが、たたかう前にお互いの力を見せつける。おれはこのくらい強いぞ、どうだ、たたかう気があるか、ということを事前に確認する。そこで話合いが成立すれば、負けを認めたほうが引き下がる。勝った方はそれを追おうとしない。話合いの成立しないときだけやってみることになる。ここでも力の差が歴然としていれば簡単に決着はつく。長引いて怪我や生命の危険が生じるのは力が拮抗しているときだけだ。
 つまり争いを好む本能というものは動物にはないとみてよいだろう。もちろん人間にもなかっただろう。人間はそういう本能を持っていたわけではなく、学習によってそういうものを習得したのだ。
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