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「不確実な矛盾の生成」への疑問

 まず二つの疑問を提示する。
① 物々交換の解明から見えてくるものは何か

(物々交換が貨幣を生みだしたが、貨幣はやがて物々交換以外の機能を持ち始めた。この機能によって資本が可能となった)
 というところまではマルクスが明らかにした。あるいはマルクス以前の経済学者たちがすでに明らかにしていたのだろうが、ぼくは読んでいないのでわからない。
 高原さんがテーマとされているのは、その前段階、「物々交換はいかにして生まれたか」である。
 それをテーマとする理由について、高原さんはそれがマルクス理論に欠けていると述べられているが、「欠けている結果、マルクス理論にどういう欠陥が生じたのか、物々交換の発生過程を明らかにすることで何がわかってくるのか」ということが必ずしも明示されているようには思えない。
 今回発表された場の性格による限界なのだろうが、「物々交換」をテーマとしたのではなく、「不確定な矛盾の生成」というテーマの一例として「物々交換」をとりあげたという体裁になっている。
 したがってここにはマルクスが出てくる余地はない(短時間しかなかったわけだし)のだが、高原さんの他の著述(実はまだ読めていないものが多いのだけど)のなかでもそのことがどういう意味を持つのかわかりにくい。
 マルクスは貨幣の機能を明らかにすることによって、まず資本の成り立ちをはっきりさせた。これがそれ以後の理論展開を可能にした。
 だが、「物々交換」の解明からどういう理論が展開されるのかは、まだ見えたとは思えない。

② 物々交換の発生過程を解明する上で、TRIZ理論はどういう役割を果たしたのか

 今回の発表の場が、TRIZ関係者の集まりだとしたら、その人たちには分かることなのだろうが、物々交換の発生を解明するにあたって、TRIZ理論がどういう役割を果たしているのかが、この理論に無知なわれわれには分かりにくい。

 以下で文章記述上などの分かりにくい箇所を指摘し、部分的に記述の変更例を示す。

「不確定な矛盾の生成」
 このタイトルの意味がすぐには分からない。
 なぜなのだろうと思って、英文を見て納得した。
 Generation of Indefinite Contradiction
 これなら「不確定な矛盾」の生成なのだということが一目でわかる。ところが日本語では、「不確定な矛盾」の生成なのか、不確定な「矛盾の生成」なのかが分からない。
 こういうところが日本語の不便なところで、タイトルがぴんと来ないので、それだけで読む気力がなえてしまう。
 書いている本人はほかの読み方を考えもしないので、気が付かない。読者はそこでつまずく。それを避けようとしたら、カギ括弧をつけるのがよいだろう。

1、まえがき(記述例)
 世界の大きな問題から、日常生活のこまごました問題にいたるまで、すべての問題を解決しうる道を見つけたい。そのためには新しい価値、新しい事実、新しい方法が必要であり、それを生みだし続ける生き方の問題になってくる。
 矛盾の運動についてすでに解明されていることを、2でおさらいする。本稿の目的はその前の段階、内容不確定なことを他人と始めるに際しての矛盾の生成の検討である。物々交換を例として取り上げる。

2、矛盾とその運動
 矛盾には二種類ある。ひとつは現状と理想との間の矛盾、もうひとつは現存する二つのものの間の矛盾である。
(これを解決する方法として、「粒度」をキーワードとして展開している。おそらくこの場がTRIZ専門家たちの発表の場なので、その人たちには分かるのだろうが、われわれにはそもそもTRIZが分からない)
3、矛盾の解決像を実現するオブジェクト操作
1)当のオブジェクト世界内だけの変更
2)異なったオブジェクト世界からの介入
 これは矛盾の概念を越える。
3)媒介化 間接化 重層化
 1)でも2)でもなくかつ両方である。
 技術と制度を作る過程、利用、運用する過程の総体である。制度とは共同観念である。
4、矛盾の生成
「物々交換」についての検討。
 ところがこれが矛盾の生成なのか、それとも矛盾の解決なのかという点が分かりにくい。
「強奪によって生じるいさかいで死者が増えるのをどうすればいいか」ということが矛盾であると書いてある。即ち矛盾はすでに生成されている。
 矛盾はあるのだが、その解法が見つからない、それは所有の観念が確立されていないからである、というように読める。
 だが、はたして矛盾は矛盾として自覚されていたのか。それを解決したいと思っていたのか。思っていたとすれば、すでに矛盾は生成されており、あとはいかにして解法を見つけるかの問題となるだろう。
 だが、はたして物々交換はそのような自覚によって始まったのだろうか。
 恋に起源を見る以下の記述は、むしろその見解を否定し、偶然に重きをおいているようにも読める。

 ここで展開されているのは、まったく存在しない「共同観念」が、いかなる歴史的条件のもとで生まれてくるのかという非常に面白いテーマである。
 まさしく矛盾のないところにいかにして矛盾が生まれてくるのかということだろう。
 いさかいによる犠牲を悼む心はある。だがそれをはたして矛盾ととらえていたか、それとも自然として受け入れていたか。
 人の心の中で、いつの時点で矛盾が自覚されたのか。自覚されて解決法が模索されたのか、それともそれとはあまり関係なしに、自然発生的に物々交換が始まったのか。

 そういう疑問がいっぱいあって、このテーマに関する理路整然たる解法が提示されたとは言い難いのである。

 ぼく個人の感触を言えば、このテーマに純理論から接近できるとはとても思えない。せいぜいが仮説の提起にとどまる。
 このテーマを追求できる場所は、動物の観察か、原始共同体の観察である。
 これに関しては去年の12月20日に「物々交換、そしてエンゲルス」と題して書いたので繰返さない。
 ここでは、いさかいと犠牲についての動物たちの考え方に触れてみる。
 彼らは縄張りやメスを争ってしばしばたたかうが、たたかう前にお互いの力を見せつける。おれはこのくらい強いぞ、どうだ、たたかう気があるか、ということを事前に確認する。そこで話合いが成立すれば、負けを認めたほうが引き下がる。勝った方はそれを追おうとしない。話合いの成立しないときだけやってみることになる。ここでも力の差が歴然としていれば簡単に決着はつく。長引いて怪我や生命の危険が生じるのは力が拮抗しているときだけだ。
 つまり争いを好む本能というものは動物にはないとみてよいだろう。もちろん人間にもなかっただろう。人間はそういう本能を持っていたわけではなく、学習によってそういうものを習得したのだ。
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421:人と対象,人と人との新しい関係を作るポスト資本主義運動と、仮説と連続性 by 高原利生 on 2014/12/21 at 22:28:19 (コメント編集)

http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-542.html#comment417
417:田中宇氏について by 石崎徹 on 2014/12/13
についてのコメントですが、
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html#comment412
の内容と関係しますのでここでコメントします。

 この石崎さんの417について否定的批判が二つあります。

1.田中宇氏の仮説の位置について
 石崎さんの、417「田中宇氏の内容はすでに方々で言われていることで、有料にするほどの価値があるとは思えません。」という文は、この文だけ読む人には、田中宇氏の「田中宇の国際ニュース解説」全体の批判と読めます。彼に代わって弁解しておきます。
 僕は、彼の国際、国内情勢分析の態度を100%賞賛しています。その内容も仮説として現実分析の最良のものと思っています。ただ、彼の「帝国の論理」と「資本の論理」が入れ子になるところ(「資本の論理」側が「帝国の論理」を過剰に遂行して失敗させるという)は分かりにくい。
 同じく417の「謀略史観は面白いのですが、証拠不十分で何とも言いかねます」について。
 謀略は、 例えば戦争を始めたい側が、大義をでっちあげるか相手の攻撃に反撃したという嘘のどちらかで始まりますが、謀略である限り公開されることはないので(トンキン湾事件のように、アメリカの二党対立のあげく、謀略の証拠の秘密文書が公開されてしまったのは例外です)、状況証拠から仮説を作るしかない。

 高原利生が、ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 「ポスト資本主義のための哲学 (旧題)マルクス主義とは何か?(要約の要約の抜粋) 」の2014年12月21日版で、次のように書きました。田中宇氏の仮説の位置を述べています。

 全ての現象、行動の単位は矛盾である。
 本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組む、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動は、行われておらず、左翼も良識派も、その意識すらない。従って、この矛盾は存在していない。

 第二に、このため、次の三つの粒度で、「マルクス主義者」のこの矛盾についての分析は、ことごとく大きく的外れとなっている。

 1)今の世界の政治、経済に実在する矛盾は、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在せず、世界の多極化を志向する集団と、覇権を求める軍産集団の矛盾が優位である。田中宇の言葉では、「帝国の論理」と「資本の論理」の矛盾である。これは、田中宇の仮説である(田中宇の左翼嫌いに全く同感する)。これは、支配するものの内部矛盾で、両者とも利益第一主義による。
 事実を見ないこととマルクスの理念も見ないことが特徴の「マルクス主義者」は、この実在する矛盾を見ず、ポスト資本主義の原理を求める運動にも全く無関心である。

 2)今の「国内の」政治、経済に実在する矛盾も、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在しない。この粒度での左翼の古い固定観念上の矛盾は、労働者と資本家、プロレタリアートとブルジョアジーの対立である。この矛盾は、なくなってはいないがこれが完全に成り立つのは、マルクスが定式化し単純化された観念の世界である。

 3)一人一人の矛盾も、これらが個人の粒度に具現化した人と対象、人と人との新しい関係についての価値である自由と愛と、その前提の個の生というより大きな価値を実現する行動=労働の内容の矛盾であるべきである。(労働は、ポスト資本主義の世界では、賃労働だけでなく全ての対象、人を変える行動である。)この矛盾が人の生き方である。
 本来はこれが、世界や「国」の政治、経済の内容であり原動力である。
 しかし、これを、「マルクス主義者」は、その外部の、労働条件の矛盾にすり替える。

 これらは事実を見れば明らかである。これらの事実が、150年間の「マルクス主義者」の古い固定観念による傲慢さの間違いの実証となっている。粒度を自由に操り、事実と人の観念を相対化できるのがマルクスの最大の長所だった。「マルクス主義者」は、マルクスの未完の体系を完全と思い込み固定観念とし、それらをことごとく失った。

 農業革命は、太陽エネルギ-の利用によるローカルな技術革命だった。産業革命は、化石燃料の利用により活動が地球規模に広がる技術革命だった。
 今後1000年は、枯渇する化石燃料に代わる原子力エネルギーと(地球内では、プレート運動からのエネルギーも可能なら併用し)活動が宇宙に広がる技術革命の時代である。
 思想、哲学は、技術革命に従属的である。
 矛盾と粒度を見直し続ける根源的網羅思考が新しい時代の思想、哲学である。

 人と対象、人と人との新しい関係をどう作るかが問題である。これは、対象化と一体化の矛盾である。これが解決すると、利益第一主義に代わる経済の起動力が可能になり、パースの連続性、サルトルの全体性が得られる。パースの連続性は、日常の判断も人類の未来に関わる問題も同じ論理によること、サルトルの全体性は、一時が万事、一事が万事ということだ。
 マルクスがこの解を得られなかった原因は、かれがヘーゲルの所有概念を対象化、相対化できなかったことである。(以上が、高原利生ホームページ)

2.仮説一般の重要性について
 石崎さんは、何度か、仮説軽視と取れる表現をされているのが気になります。http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263.html#comment292 などです。
 仮説と理論は相対的なものです。理論は、全て仮説と思った方が良い。
 以下は、417に対する非公開コメントの一部です。
 「これは、仮説で常に検証を必要とします。前にも述べたように、「仮説―検証ー新たな仮説」というサイクルの継続のないことが、「マルクス主義」、左翼の欠点だと思います。」

 次は、石崎さんの292へのコメントです。
 「マルクスも「タイムマシンがなくて貨幣誕生の現場を見ることができない」けど、仮説を作りました。
 仮説を盲信するのも軽視するのも廃すべきと思います。
 仮説なので、検証と見直しを続けないと、思想も方法も堕落する、というのが、150年の歴史の教訓だと思います。
 消去法に過ぎないかもしれませんが、仮説を作りその検証と見直しを持続していくしかないのではないかと思っています。」

 田中氏は、その元情報を必ずつけています。それを見た上で批判することが求められます。自戒ですが。

 それと、田中宇氏の「田中宇の国際ニュース解説」に有料記事はありますが、有料サイトではありません。

3.連続性、全体性について
 次は、この数か月の石崎さんのブログの中で、強く感銘を受けたものを挙げます。これと本稿とどういう関係にあるか整理できずに何日か経ってしまいました。まだ、うまく整理できていませんが、メモを取り敢えず書いておきます。

 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-355.html
 ここで石崎さんは、推理小説は純文学と「差」はないのだと言われている。

 同404 小林昭「人間を描く、ということ」(まがね例会用レジュメ)雑文 - 2014年06月09日 (月)
で「小説は多様なもの」「小説をそのジャンルで上下付けしようとは思わない」と言われている。

 同496
 ここで、小説と随想の関係を述べておられる。
 
 これは、パースのいう連続性なのです。パースは、著作を残しませんでした。岩波文庫の「連続性の哲学」は講演をまとめたものです。
 パースの連続性とサルトルの全体性もおそらく密接な関係があります。ホームページで分かったようなことを断定的に書いていますが、まだよく分かりません。

 次は、強い感銘を受けたというのでなく、考え続け見直し続ける根源的網羅思考と同じ態度だということです。
 同553
 秋元いずみ「真夏の夜」(民主文学15年1月号)批評 - 2014年12月16日 (火)
 石崎氏「そしておそらく答えがないにもかかわらず考え続けるしかないのは、医学の問題だけではない。社会も政治もみんなそうだ。答えがないからこそ、誰も前に進めることができないでいる。答えが分かっているなら問題はとっくに解決しているだろう。だから、考え続けるしかないのだ。」
 
 これと、連続性、全体性の関係もまだよく分かりません。

 以上、まとまってから送ろうと思いつつ数日経ち、まとまりそうになく、文章として落第ですが、このまま送ります。ご容赦ください。

413:「不確実な矛盾の生成」への疑問に答える その2  高原利生 by 高原利生 on 2014/12/12 at 14:16:11 (コメント編集)

「不確実な矛盾の生成」への疑問 雑文 - 2014年12月11日 (木)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html
へのコメント その2 (20141213追記。矛盾の形式の論理的網羅は、高原やRusso他多くの人によって行われている。矛盾の解について、断片は貯まっているのだが、その形式の論理的網羅はまだである。ただし、これらは矛盾の「運動」についてであって、矛盾の「生成」については全くできていない。今回の発表でもうまく説明できなかった。)

① 物々交換の解明から見えてくるものは何かという問いへの答え
 物々交換を例とした、何もない状態からの矛盾の生成の意味は、三つの粒度で考えられる。
 一つは、実用的に何がこれから得られるか?である。これは、考える粒度によっては、二百万年前だか数百万年前に人類最初の道具ができ、数千年前に最初の物々交換ができた以降には、ない。だから実質、無視し得るという粒度、意見もあるかもしれない。今の人間社会では、技術と制度が人間と世界を媒介するただ二つのものだからである。
 しかし、これが、みんなと何かよく分からないがやらなければならないことをはじめる論理を作る(20141214追記)。これが、技術と制度以外の画期的な何かを産むかもしれない。また、人類以外では違うかもしれない。自然や宇宙にもっと我々のまだ知らない別の種類の運動があるかもしれない。(一部はスライドp.4)

 二つ目は、物々交換が、等価交換であり、これが、技術や制度の画期的発展をもたらしたという粒度から、よく分からないが、その発生構造を調べたい。これは、「物々交換の解明から見えてくるものは何かという問い」への批判でもある。

 三つめも、同様な批判かもしれない。ただ運動を論理的に網羅したいのである。応用研究も大事だろうが基礎研究も意味があろう。下記に、矛盾の網羅のいきさつと結果をまとめる。この11年半、オブジェクト、矛盾の網羅(と網羅を論理的根源的に行う、馬鹿に網羅できる思考方法)だけをやってきた。個人的には、これが最も大きい原動力だった。歩みが遅いのは、アルコール依存症で頭が死んでいるせいだと諦めるしかない。粒度と網羅というのも矛盾なので、簡単にはいかないのだ。
 1. 矛盾の歴史
 弁証法は、もともとギリシャの対話の術であり、自己内対話である思考の方法でもある。
 しかし今の弁証法は、ヘーゲルの「正反合」か、マルクスの自律矛盾か、エンゲルスの「三つの法則」か、プラグマティズムの流れの中にある弁証法である。
 上山春平の「弁証法の系譜」は、サブタイトルが、「マルクス主義とプラグマティズム」である[UEYM]。TRIZの弁証法も、旧ソ連で教えられていたマルクス、エンゲルスの弁証法を起源とするが、内容的には、むしろプラグマティズムの流れの中にある。歴史的にも成果を上げてきたのは、プラグマティズムの流れの中にある弁証法であったと言ってよい。
 弁証法の中核をなす要素、単位が、矛盾である。筆者は、ヘーゲルとも、マルクスとも、エンゲルスとも異なり、アルトシュラーともやや異なる矛盾概念の展開を行ってきた。[THPJ2012、(投稿が2012年だった)「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」高原利生
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html]

 2. 矛盾の必要性
 認識の基本単位は、オブジェクトの認識である。
 しかしオブジェクトの変化、変更を扱おうとすると、第一に、関係、作用を扱う必要がある。関係、作用は、何かを両端にした関係、作用である。運動のない存在はあり得る、考え得る、という意味で、存在は運動を前提にしない。事実の最小単位である「何かー関係―何か」または「何かー運動―何か」における「何か」とは、「存在」である。したがって、関係(運動)は二つの存在を前提とする。運動なり関係は、何か外に二つないと考えられない。[ISZK470-375、これはhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment375の意味、以下同じ]
 第二に、何かを変更すると、全ての物事は関連し変化しているから、単純化して言えば、変える必要のない別のものも変わってしまう「副作用」が起きる。
 そのために、オブジェクトだけでなく、相互作用を扱う矛盾という、世界の事象を扱うモデルが要る。
 従って、矛盾が二つのものの相互作用を考える最少のモデルである。つまり、全ての物事は関連し変化しているのに、単純化して「副作用」を別の一オブジェクトに限定する、何かと何かの関係(運動)のモデルであることが、最少のモデルである所以である。[高原利生ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/]
 3. 矛盾概念の修正経過と最新の定義
 以下、矛盾概念修正の経過を述べる。
 マルクス、エンゲルスは、矛盾とオブジェクトを共に、すでにある存在と関係からなるととらえてしまう。これだけでなく彼らの矛盾には、[THPJ2012]で述べたように欠けている点が多い。
 一方TRIZ の創始者旧ソ連のアルトシュラーも、マルクス、エンゲルスを受けて矛盾をとらえていた。
 TRIZは殆どの変化の型を網羅している。
 1. アルトシュラーは、マルクス、エンゲルスと異なり、機能と構造の矛盾のような二属性の矛盾と、今の値とあるべき値のような二値の矛盾を実質的に区別した。そして、驚くべきことに、このそれぞれに、差異解消(属性、値がある状態から別の状態に移る)と両立の二つの運動があることを明らかにした。
 2. 従来、矛盾が自律運動であることは、暗黙裡に前提とされており、自律運動でなく人の介入がある矛盾などあり得ないように思われてきた。従来、目的を実現するのは、因果関係を利用するしかないと思われてきた。
 しかし、アルトシュラーは、人間の意志や行為が起動する個々の矛盾も扱った。この、行為、思考を起動する矛盾は、客観または主観の対立項と意図的相互作用が形成する矛盾である。このような拡張では、観念の上で、相互作用が、矛盾を形成し、観念上で、矛盾解消のための解が得られ、解が実行されて実運動になる。[THPJ2012]
 3. アルトシュラーは、二項と関係の生成も矛盾として扱った。しかし、彼のとらえた世界は、まだ全世界ではなかった。それは、彼が二項と関係の生成と両立を矛盾ととらえたのは、存在が既にあるという前提のもとであったことによる。エンジンの大出力化と軽量化の矛盾は、エンジンがあるという前提で、解決しようとする人の意図で成立する。[THPJ2012]

 この前提も外した新しい矛盾概念を作った。これで、全く何もないところから始まった最初の物々交換も扱うことができる。ここでの矛盾は、アルトシュラーが拡張した矛盾をさらに一般化し、世界の近似単位を目指している。この矛盾は、従来の矛盾を全て含んでいる。
 前提と矛盾の定義を述べる。
 存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提として初めて考えることができる。従って、最小の事実の本質は「項-運動(関係)-項」である。[ISZK470-361] 項は存在でも運動(関係) でもよい。
 矛盾を、次のように事実の最小近似モデルとする。
 事実の最小近似モデルを、外部との関係を持つ「項-運動(関係)-項」の生成と、(この外部との関係を持つ「項-運動(関係)-項」という三つ組みの中の)運動(関係)とし、これを矛盾の定義とする[論文]。これは、[THPJ2012]から少し変わっている。
 これで、はじめて、矛盾が、客観,主観,その複合体のあらゆる事象の運動を扱うことが可能になった。世界は、全てのオブジェクトが関連し合い、常に変化しているという弁証法的世界観を実現する矛盾概念ができた。(20141213追記。矛盾の形式の論理的網羅は、高原やRusso他多くの人によって行われている。矛盾の解について、断片は貯まっているのだが、その形式の論理的網羅はまだである。ただし、これらは矛盾の「運動」についてであって、矛盾の「生成」については全くできていない。今回の発表でもうまく説明できなかった。)

② 物々交換の発生過程を解明する上で、TRIZ理論はどういう役割を果たしたのか
 発表の場がTRIZとは関係ないことはすでに述べた。
 TRIZの創始者、旧ソ連のアルトシュラーや彼の後継者は、旧ソ連で弾圧されながら、実に地道に実際上の矛盾の網羅をやってきた。物々交換開始の検討は、その延長戦にある。しかし物々交換の開始については高原利生以外にやっていないと思う。TRIZ世界の中でも、興味を持っていただいたのは中川徹教授だけではなかろうか。

 以上、長々とダブりも多く恐縮であった。疑問を投げかけていただいた石崎徹氏にあらためて感謝しておく。ありがとうございました。

412:「不確実な矛盾の生成」への疑問に答える その1  高原利生 by 高原利生 on 2014/12/12 at 07:49:33 (コメント編集)

「不確実な矛盾の生成」への疑問 雑文 - 2014年12月11日 (木)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html
へのコメント

1.正式の二ページの発表論文(石崎氏に郵送)
2.発表に際してOHPを使って説明12枚の投射資料(石崎氏に郵送)
3.高原利生「不確定な矛盾の生成」雑文 - 2014年12月11日
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-539.html 1,2を言葉で発表内容を説明するため作ったもの
という三つがある。
 石崎氏は全てを読み、本ブログでは、1と3を引きつつ批判されていて分かりにくい。正式の発表論文である1は、弁証法論理に限定した記述なので、マルクスの批判はテーマにならない。
 3は、1,2を自由に補足した。テーマである弁証法に限ってマルクス批判もしている。

 マルクスに対する高原利生の意見は、高原利生のホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/の「ポスト資本主義のための哲学   (旧題)マルクス主義とは何か?(要約の要約)」(これは、ほとんど毎日変わっている。どうかお読みいただきたい)の中の、
「マルクスが問題提起して解決しなかったことを受け止めず、彼の作った不備な「体系」を「マルクス主義」と思い込み、その解釈に明け暮れたのが「マルクス主義者」だった。
 (http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#commentsのコメント144、143、145など参照)
 これでは、資本主義を発展させ、所得の再配分を行うほうが「まし」である。 これは、利益第一主義の資本主義が勝ったということだ。150年間、「マルクス主義者」は何もしなかった。」
などに要約される。
 この、他のところでもしばしば書いていることだが、マルクスはわずかなことを除き間違ったことの極めて少ない思想家だった。ただ彼の言っていることの有効な範囲、粒度は、150年間でどんどん狭くなった。

 これに対して、行うべきことは三つ。
 一つは、後の方で、石崎氏は、物々交換の開始について
「このテーマに純理論から接近できるとはとても思えない。せいぜいが仮説の提起にとどまる。」
と書かれていることに関する。
 これは、マルクスの全「理論」について当てはめるべきである。マルクスの「理論」は仮説だった。日々、検証し、改善し、理論を常に作って行く態度が「マルクス主義者」に全くなく、解釈だけしてきた態度が、間違いの根源である。物理学、生物学などでさえ、検証し、改善し、理論を常に作って行き、それゆえ発展してきた。ましてや社会科学については、その態度を持たない「マルクス主義者」がマルクス主義をだめにしてき続けた。
 二つ目は、高原利生のホームページの「ポスト資本主義のための哲学 (旧題)マルクス主義とは何か?(要約の要約)」で書いた、数少ないマルクスの間違いを直すことで、1) 所有概念のヘーゲルからの脱却、2) 矛盾概念を見直し、全ての世界が関連し合い変化しているという状態に対応できるようにすることである。
 この2)が今回のテーマである。
 マルクス、エンゲルスの質的変化を起こすものに限定する矛盾を、全ての現象を矛盾ととらえよと書いた寺沢や、アルトシュラーによって、さらにとらえ直したのが、ここの矛盾である。全ての客観と主観の現象が矛盾なので、どういう粒度で矛盾ととらえるかが課題となる。略奪によって死者が出る、どうしようか?という共同体リーダーの悩みは、現実が作らせた彼か彼女の観念内の矛盾である。これが、どのようにして物々交換開始という矛盾生成と関係するのかが今の問題である。
 三つ目は、150年経って分かった新しい課題に応えること。
 いずれも、「マルクス主義者」は全く無関心である。

 タイトル、1.まえがきの記述例は、全くそのとおりである。今書いているものに取り入れさせていただく。
 個々の物々交換、TRIZ、物々交換の矛盾については、別に書かせていただきたい。

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