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ブラック企業

 古本屋通信は、この間、韓国人慰安婦問題、都議会ヤジ問題で独自の見解を維持してきたが、いまブラック企業問題に焦点を当ててきている。彼の論はいずれも、注意深く聞くとかなり真面目に考えた内容を含んでいると見ることのできるものだが、発言が常にぶっきらぼうで、断言的で、丁寧な説明に欠けるために、非常にわかりにくく、法外に思えることもしばしばである。
 ブラック企業問題で彼が言いたいのはおよそ次のようなことだろう。
 企業対労働者の問題は、外からの安易な介入を許すほど単純な問題ではない。現場には現場でしか理解できない複雑な労働問題がある。ここでの問題は、基本的に当該労働者自身が、自分たちのきちんとした組織を作り企業側と交渉することで解決していくべきものである。特に中小企業は企業の側も困難な問題を抱えており、労働問題でも大企業と比べて不利な点が多い。一方的に一部労働者の側に立つことが、その企業とそこで働く労働者全体にとって良いことかどうかわからない。
 違っていたら指摘してもらいたいが、およそこういう主張としてぼくは受取っている。そしてうなずける点もあるのだ。
 ある種の労働者が共産党に近付いていくとき、まったく利己的な動機のために共産党を利用しようとしているように見えたことがいくつかあった。それが広く労働者たちの反感を(当該労働者に対しても、共産党に対しても)買っているのを見てきた。担当する党の側が、当人の主張だけを聴いて、周囲の意見を聴取しようとはしていなかった。
 ぼくが「盗難」や「ノロ鍋始末記」で書きたかったのは働く労働者の誇りだが、この誇りはしばしばずるい労働者とぶつかる。労働者は彼らを許すほど紳士ではない。それをそういうものとして描き出さねば労働者を描いたことにはならない。
 そして、これらの小説は案の定、民主文学の批評家たちに大変評判が悪かったのだ。
 ぼくは労働者を貶めている、というわけだ。ぼくは大勢の労働者を書いたのに、彼らはぼくが「貶めた」労働者だけを見て、ほかの労働者を無視してしまったのだ。
 だから、ぼくが古本屋さんをわかるというのは、いわゆるブラック企業追及に、おそらく勇み足もあるだろう、当該労働者だけからの聴き取りで、裏のとれていないこと、周囲の労働者が唖然とするようなこともあるだろう、やり方がおおざっぱすぎるのじゃないか、という批判だろうと思うからだ。そしてそのようなことをしているとたいがいの労働者を敵にまわすことになりますよと言いたいのだと思う。
 そういう危惧があることは理解できる。しかし、それでもやるべきだというのがぼくの意見である。
 ひとつには、いまは60年代、70年代ではない。なにやかやいっても、総評が頑張っていたあの時代は、労働者はいまよりずっと強かった。左翼も強かった。2000年代に入ってこのかた、労働者と左翼にとっての冬の時代である。
 いまの労働者は雇用主とのたたかい方を知らない。労働者の権利を知らない。多くの若者がマインドコントロールされ、与えられる労働をこなせないのは自分が悪いのだと思い込み、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められたりしている。
 彼らは外からしか救えない。
 また、中小企業は法律どおりのことはできない。それでは生きていけない。40年間中小企業にいたぼくにはよく分かる。大企業のようにきれいごとでは生きていけないのだ。それでも外からこれを責める力は必要である。外から責め、社会的に強制力を働かせる。このせめぎあいが社会を前進させる。中小企業主にも、労働者にも解決できない問題なのだ。外部的圧力とのせめぎあいの中で、広く社会的に何らかの方向を見出していくしかないのだ。
 傷のない運動というものはない。運動は欠陥だらけに決まっている。それでもやらねばならない。やってごたごたせねばならない。そのなかから何かを見出していくしかないのだ。
 だって、運動は評論ではないのだ。

 何度か書いたが、労使問題に外から圧力を加えることについて、マルクスは「資本論」の中で肯定的に書いている。
(当ブログ「資本論」9および11月22日の「デボーリンの墓守さんへ」参照)
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