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平井真(2)

 中川原に電話せねばならないことを思い出し、紙切れを手にとってダイヤルをまわした。中川原はすぐにでた。平井はまた、おはよう、といった。
「どこからなの。もう帰ったのか。結構なご身分だなあ。朝帰りだってんだから」多少語尾を伸ばし気味にしゃべる中川原の声だった。
「何をいってやがる。誰かとちがって、おれは一週間まじめに働いたんだからな。土曜日くらいは自分のものだ」
「それをいわれるとつらいね」
「仕事はどうなんだ」
「やっと、おれも働きはじめたよ。ともかく食っていかなきゃならないもんな。ご心配をおかけしました」
「誰が人のことで心配するか。自分のことでせいいっぱいだ」
「いやいや、みんなに心配かけてすまないと思っているよ。友だちってのはいいもんだ。しかし、おれはもうだめなような気がする」
「働いているんだろ」
「昨日からね。でも、おそらく続かないと思うんだ」
「どんな仕事だ」
「それが何というか。昨日は山奥まででかけて、どしゃ降りの雨の中でずぶぬれの泥まみれだ。それでも平気なんだからなあ」
「土方でもはじめたのか」
「いや、土方じゃない。何だって土方だなんていうんだ。でも、土方みたいなものかもしれんな。土方よりもっとひどいや。どしゃ降りのずぶ濡れのどろまみれだからな。ところが全然気にしてないんだね。土さえいじってりゃ幸福だ、てんだから」
「そりゃ、誰の話だ」
「昨日おれと一緒に山奥まででかけたやつなんだけどな。大学出たての技術者なんだ。おれより十以上も若いくせして、いっぱしの専門家なんだね。土に関しては人には負けないというものを持っているんだ。おれは土で食っていくんだというものをね。……その男の運転する車の助手席に座って、ワイパーのこう揺れるのを見ながらだな、つくづく考えちゃったよ……おれに欠けているのはこれだな、てな。おれは三十四にもなるのに、自分の一生の仕事が見つからないんだ。自分が何をやりたいんだか、わからないんだよ」
「粘土屋でもはじめたのか」
「粘土屋だって? いや、地質調査。ボーリングだよ」
「それで、何か。おたくも土いじりの専門家になるわけ?」
「そうなれりゃ、それが一番いいんだけどね。残念ながら、歳をくいすぎているよ。遅いんだよ。何をはじめるにしても。専門家にはもうなれないんだ……うかうかと歳をとったもんじゃないか」
「それで、中川原氏の仕事はいったい何だ」
「おれの仕事は営業だ。お役所相手の仕事なんだ。でも、一度は現場を見とかにゃならんだろ」
「おれ、思うんだけどね、あんた営業にむいてないんじゃない。きまじめすぎるからなあ。営業てのはおれみたいに平気で相手と調子を合わせられるようでなきゃ」
「おれにむいた仕事なんかないんだ。てんでないんだ。何をやったって、おれはだめなんだ。食っていく能力がないんだよ……おれは世間知らずだったんだ。食っていくことが大変なことだなんて思いもよらなかったんだから……いやいや、今度ばかりはつくづく思い知らされたよ。半年失業して、だんだん金がなくなってくる。仕事はない。毎日職安に通って、若い職員に頭ごなしにやられて、面接に行っても行っても、みな断られる。頼りにしていた親戚もそっぽを向く。金がもうない……おれな、この齢になって生れてはじめて質屋へ行ったよ。惨めだなあ。毎日毎日天井をにらみつけて、時間は山ほどあるが何もできない。あんなに欲しがってた時間がいまは無尽蔵にあるってのにだな、何にも手がつかないんだ。おれはどうなるのかなあ。飢え死にするんじゃなかろうか。いったいどこで人生をまちがえたんだろう。次から次へと浮んでくる想念のために、夜っぴて眠れやしない。それで……昼ま、ぐうぐう寝ていたがね」
「ああ、それ、みんな覚えがあるよ」と平井がいった。「十年前には、おれもそうだった。働かないってことは、こう、神経によくないんだな」
「仕事で自分が生かせたらな」
「それは贅沢ってもんさ。おれだって好きでコロッケ屋をやってるわけじゃない」
「コロッケ屋の方がよっぽどいい。おれを雇わないか」
「おことわりだ。経営者の立場としてはだな、勤労意欲のない人は用なしだ」
「冷たいことをいうじゃないか」
「あたりまえのことだろ。世の中そんなに甘くない」
「ああ、当然だろうな。結局おれは駄目なんだ。生きていくってことを食うことに還元できないんだ」
「誤解されちゃ困るが、おれだって還元しているわけじゃないぜ。だが、食うってことは人生の重要な構成要素のひとつだ。そうだろう」
「そう足らざるをえないということだな」
「そりゃ、どういう意味だ」
「いやいやながら、やむをえずってことだ」
「いいや、それじゃだめだ。それは、先生、事実に対して素直じゃない」
「その話はまたにしよう。藤波が来てるんだ」
「ほう。そこにいるわけ?」
「いや、まだ来てないんだがね、出張でこっちへ来てるんだ。徹夜で働いていたらしいよ、一週間ばかりね。昨日と今朝も電話がかかってきて、仕事が終ったから、帰り道によるというんだ。おまえ、体はあいているのか」
「用がないでもないが、半年ぶりだからな……よし、体をあけよう」
「いま何時だ……そろそろでかけにゃならん。十一時には北町の駅に来る。おれはそこまで迎えに行くつもりだが、おまえはどうする」
「おれもそこへ行こう。そうだな、多少遅れても待っていてくれ」
 受話器をおくと、平井は顔を洗いにいき、髪を手でなでつけて、服を着た。髭はどうしようもなかった。昨夜でかける前に、丹念に剃っておいたから、そう伸びてもいない。
 表通りまででて、車を拾った。少し待ったがまもなくつかまえることができた。車の中で煙草をすった。まだ頭痛がして、コーヒーを飲んでいないことを思い出した。道路はすっかり乾いていた。たまに小さな水たまりが残っているだけだ。町は光に包まれていた。平井は自分が陽気な気分でいることに気づいた。長雨のせいでどうかしていたのだ、と彼は思った。くる日もくる日も、雨と、湿った空気と、暑さの中で、朝から晩までコロッケを揚げ続け、油の臭いと熱、母親、アルバイトの女子学生たち、買物にくる主婦たち、まいどありい、いやな天気が続きますな、そんな繰返しの中で、何かが倦みはじめ、自分の位置を見失いかけていたのだろう。……だからといって正体を失うほど飲むほどのことじゃなかったのだが……いままではいくら飲んでも運転できないほど酔払うということはなかったのだ。彼は一度だって自分の運転があぶなっかしいなどと思ったことはなかった。飲めば飲むほど、むしろ勘が冴えた。でも昨夜は別だ。あのとき広美が強引に彼からハンドルを奪いとらねば、あやうく事故を起こしていたかもしれない。彼は運転できないほど酔払っていたのだ。正体を失うほど飲んだのだ。
 おれも、とうとう老いはじめたな。まったく時間というものは残酷なものだ。まったなしだ。子供はどんどん大人になり、大人はどんどん老人になり、老人はじきに死んでしまう。だが、まあいいさ。時間はまだある。おれにもまだいろんなチャンスがあるだろう。
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